哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

メアリー・ハロンの映画『アメリカン・サイコ 』( 2000 ) を哲学的に考える

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公開 2000

監督 メアリー・ハロン

脚本 メアリー・ハロン グィネヴィア・ターナー

原作 ブレット・イーストン・エリス

 

出演 クリスチャン・ベール   ( パトリック・ベイトマン)

   ジャレッド・レト     ( ポール・アレン / パトリックのライバル )

   クロエ・セヴィニー    ( ジーン / パトリックの秘書 )

   ウィレム・デフォー    ( ドナルド・キンボール / 探偵 )

   リース・ウィザースプーン ( イヴリン / パトリックの婚約者 )

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 アメリカン・サイコ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

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  1. 抽象的主体としての悪

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a.   この映画の主人公であるパトリック・ベイトマンは実際に殺人行為を犯したのか、それとも殺人の妄想を抱いただけなのか、というのが映画ファンの間で話題になったことがありました。というのも映画のラストでベイトマンの職場の机の中から、殺人の様子が落書きのように描かれた手帖を秘書のジーンが見つけたからです。このシーンはそれまでの話で行われたベイトマンのよる数々の殺人が妄想に過ぎなかったのではと観客に思わせるものになっているという訳です。

 

b.   しかし、そのような議論に意味がない事は映画の冒頭から明らかなのを思い起こす必要があるでしょう。つまり、パトリック・ベイトマンは内実のある具体的登場人物ではなく "抽象的な主体" である事が既に明言されているからです ( 1~6. )。

 

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c.   この "抽象的人物" という言葉の意味を全く考えようとしていない人ほど、ベイトマンが実際に殺したのか、そうでないのか ( 妄想なのか )、という議論に囚われてしまう。彼が実際に殺人を殺したかのかどうかという以前に、まず彼は具体的人間としては存在していないのです。そこから考えていく必要があります。

 

d.   しかし、こう言うと、彼が抽象的存在ならば殺人行為は出来ないはず・・・よって殺人は妄想に過ぎないなどと結論を急ぐ人がいるかもしれません。そのような結論が凡庸なのは、ベイトマン "悪の抽象的主体" である、すなわち、殺人という形式的行為をひたすら実行するためだけに映画の中に導入された具体的属性を持たない "空虚な主体" であることを見逃しているからです。

 

e.   なぜ、空虚な主体をわざわざ導入する必要があるの? と思う人もいるでしょう。実在の人物として描けばいいのに、と。しかし、それではせいぜいのところベイトマンの裏のダークサイドがスキャンダラスなものであるという事しか明らかにならない。つまり、ベイトマンという凶悪殺人犯を生み出した1980年代のアメリカの消費文化の退廃的側面が描かれているというありふれた意見しか出てこないのです。それはブレット・イーストン・エリスの原作の視点でしかありません。

 

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  2. 社会と悪

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a.   この映画の監督メアリー・ハロン、そしておそらく脚本のグィネヴィア・ターナーは原作を超えて、さらに急進的な方へ踏み出していると解釈出来るのです。彼女らは、資本主義の退廃性に照準を絞っているのではありません。"社会と悪の関係性" において悪の出現が社会の副産物などではなく、それどころか、"悪それ自体" も社会を構成する要素のひとつであるというより過激で隠れたメッセージを無意識的に打ち出していると解釈出来るのです。

 

b.   社会のメカニズムは、そこに携わる多くの人々の心理的側面を無視出来ないものであるとすれば、社会にとって不都合な欲望もそこに流れ込む可能性が十分にある訳です。この映画に即して言うなら、ベイトマンはサラリーマンとして社会的成功を得た裏で殺人への欲望を抱いていたのではなく、殺人への欲望を昇華して社会的成功を得ていたという真にスキャンダルな内面が明らかになるのです。そして昇華しきれなくなった殺人の欲望が抽象化された人物像こそパトリック・ベイツマンに他ならない。

 

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3. ベイツマンの正体としてのポール・アレン、あるいはポール・アレンの真実としてのベイツマン

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a.   そうすると、ここで起きる疑問は、ベイツマンが抽象的人物であるならば、その源泉となった殺人の欲望を抱いた実際の人物がいるはずだがそれは誰かという事です。その答えはポール・アレンであり、映画の中でさりげなく示されています ( 7~14. )。

 

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b.   7~14. のシーンはベイトマンの視点から構成されているため分かりにくいのですが、7~10. を見ればポール・アレンとパトリック・ベイトマンが同じ格好 ( 眼鏡と髪型 ) で彼らが同一人物である事が示されていますね。なのでアレンのビジネス上のライバルはベイトマンであるはずもなくハルパーストラムである事も分かります。

 

c.   以下の15~26. のシーンは、実在するベイトマンがアレンを殺すのではなく、アレンが抱く殺人への欲望が抽象化されたベイトマンが、アレンの属性である事から離れて暴走していく契機となっていると "象徴的に" 解釈しなければそこで何が起こっているのか理解出来ないでしょう。

 

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d.   映画のラストでは結局、ベイトマンの殺人行為はなかったかのようになっていますね。ベイトマンが社会の中の悪を描くために仮想化された空虚な主体である事を理解すれば、それは驚くことではないのですが、それよりも不気味なのはベイトマンがアレン個人から離れて、不特定多数が抱く殺人の欲望それ自体へと移行している事です。つまり、ベイトマンはアレンの真実の姿である事に留まらずに、多くの誰かの真実の姿になりえる。分かりやすく言うならば、誰であれ何かのきっかけで殺人の欲望を抱く事が有り得るのであり、イトマンとはその欲望を表す名前となっているという事です。その名前ががヒッチコックの『 サイコ 』における殺人鬼ノーマン・ベイツに由来するのは明らかですね【 】。誰であれ殺人の欲望を抱く可能性があるという意味で、イトマンという抽象的主体はノーマン・ベイツが普遍化された姿である ( ベイツ + 人間〈 man 〉 ) と言う事が出来るでしょう。

 

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   ヒッチコックの『 サイコ 』については以下の記事を参照。

 

 

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