哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』( 1995 ) を哲学的に考える

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監督 アーネ・グリムシャー

公開 1995年

 

原作 ジョン・カッツェンバック

出演 ショーン・コネリー      ( ポール・アームストロング )

   スカーレット・ヨハンソン   ( ケイティ・アームストロング )

   ブレア・アンダーウッド    ( ボビー・アール )

   エド・ハリス         ( ブレア・サリバン )

   ローレンス・フィッシュバーン ( タニー・ブラウン )

   ケイト・キャプショー     ( ローリー・アームストロング )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 理由 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事をしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】 殺人の "理由"

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a.   タイトルの『 理由 』、もちろんこれは殺人事件の犯人ボビー・アールのケイティ・アームストロングへの復讐のことだけを指しているのではないと考えるべきでしょう。もし、そう考えてしまったら、この映画は、陰部を去勢されてしまった男の復讐劇に過ぎないという単一的な物語になり、解釈の余地は大幅に狭められてしまいます。

 

b.   この場合、"理由" とは "殺人の理由" であるのですが、それはボビー・アールだけでなく、ボビーと同じに刑務所に死刑囚として服役している連続殺人犯ブレア・サリバン、そしてボビーを無実だと信じて彼の無罪を立証するポール・アームストロング、3人の殺人の "理由" であると考えるべきなのです。

 

c.   まず、この3人の殺人の中で、ストーリーの表向きの主軸となるのはボビー・アールの場合です。彼は服役の原因である少女ジョーニーの殺人事件 ( ポールはこの事件でボビーの無罪を立証しようと奮闘している ) 以前にも、女性の誘拐事件でされていた。その事件の検事がポールの妻であるケイティ ( ポールと結婚する前の独身時代 ) だったのですが、彼女はボビーの弁護人側による無罪の主張を覆すことが出来ず、ボビーは無罪となった。

 

c1.   ところが、この件でボビーは町の人々 ( おそらく警官も含む ) に暴行されて陰部を失う結果になり、それでケイティに復讐するためにブレア・サリバンと口裏を合わせてポールに無罪を訴え上手く騙すのです ( ボビーは実際は少女を殺していた )。そして釈放されたボビーがケイティと娘のローリーを殺しに行くという話が結末に繋がっていくものとなっています。

 

c2.   この過程で、連続殺人犯ブレア・サリバンはボビー・アールを無罪とするために少女殺しは自分がやったと告白する ( ブレアは既に死刑が確定していたからボビーに協力した ) のですが、このやり取りで彼は自分の "殺人の理由" も告白するのです、"殺したいから殺すのだ" と。おそらくこの "理由" こそ、ボビーの理由以上に、この映画の真実に近づいているといえるのです。シンプルな理由であるからこそ、もはや正すことの出来ない凶悪性が示されている・・・。

 

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 c3.   そしてサリバンの "理由" の延長上にあるのが、ポールの "理由" なのです。シーン 1~6. の少し前で、興味深い2人の会話のシーンがあります ( 7~12. )。こともあろうかサリバンはポールに向かって言います "人殺しの目だぜ" 。このシーンを『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクタークラリススターリングのシーンを真似ているなどと冷めた目で見るべきではないでしょう。ここにはそれ以上のことが示されているのですから。

 

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  c4.   一見すると、何の "殺人の理由" もないポール・アームストロングが殺人者であるかのように扱われているのです。このことは何を意味するのでしょうか。おそらくは何の理由もないからこそ、より根源的な人間性が問われる事態が描かれている、つまり、"殺す理由" ではなく "殺す欲望" が示されているのです。

 

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【 2 】 殺す "理由" から 殺す "欲望" へ

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a.   この映画でもっとも不気味なのは、まさにポールにおいて "殺す理由" が "殺す欲望" へと移行してしまっている所です。ボビーにおいては "殺す理由" は復讐という分かりやすいものです。サリバンにおいては、ほぼ "殺す欲望" が現れているのですが、復讐をしたいというボビーの欲望に共感するという意味で、"殺す理由" から "殺す欲望" への移行期が示されている。そしてポールにおいては一見すると人殺しから最も程遠いからこそ、もはや何の "理由" も必要ない代わりに、"殺人の欲望" を容易に抱いてしまう事が可能な根源的な位置に移行してしまっているという逆説的転倒が示されているのです。

 

b.   この帰結が恐ろしいのは、殺す欲望がたんに殺すべきではないという倫理的規範では押さえつける事が出来ないという所です。殺す欲望とは、出来ないことを欲望しているのではなく、それが可能だからだと理解しているからこそ欲望しているのです。つまり、何らかの行為が現実化されるのが可能だと理解した時、殺人行為を選択することによって欲望を維持するのが "殺す欲望" の正体なのです。別の言い方をするならば、ある種の "現実化" に欲望を刺激される人間がいるという事なのです。

 

c.  その意味で、映画冒頭でポールは死刑廃止論者として討論しているのですが、それは反転したメッセージとしてポール自身の隠れた欲望、つまり、"殺人の欲望" を表しているのです。映画のラストでは彼は妻と娘を危険に陥れたボビー・アールを殺してしまう訳ですから。いや、正確に言うならポールはボビーにトドメを刺したのではなく、ボビーは沼地を舞台にしたラストでそこに潜むワニに喰われて亡くなってしまう。

 

d.   このことの意味に注意すべきです。つまり、ポールはボビーを殺すつもりでいたのに、最後にワニがボビーの命を奪ってしまう事によってポールの "殺す欲望" が私たち観客には隠されてしまう。このラストシーンによってこの映画は人間の根源的欲望を描きながらも、それが観客自身のものである事を気付かせないように蓋をしているように見えます。しかし、まさにその観客である私たちは、自分の欲望に気付かないポールと同じであることに気付くべきでしょう。

 

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