哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 2 〉

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 ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 1 〉

からの続き

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【 3 】 世界観を構築するシュレーバーの意志

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a.   回想録における世界観の展開を読む上で見過ごすべきではないのは、シュレーバーの中で妄想が妄想として記憶されているとしても、回想録において彼は妄想の記憶以上の事を詳細に語りすぎているのです。回想録を読んだことのない人でも、最初に記した目次を眺めるだけでそれが直感出来るでしょう。そう、そこには言葉が過剰に溢れているし、それはもはや妄想の記憶を越えて、妄想を説明しようとする執拗な意志が反映されているとしかいいようがないのです。

 

b.   しかも、その妄想の記録は、時系列的に読めるように上手く構成され過ぎています。精神にダメージを与えた妄想のひどい時期に、シュレーバーはそれを記録するどころではなかったはずなのに。つまり、回想録における各章のように上手く追っていける程、実際の妄想は秩序だって展開されてはいないという事です。それどころか妄想は時系列の意識を無視して分裂的に出現したのであり、妄想が特定のパターンで彼の中で反復されたという心的事実のみが彼の記憶を保障しているはずなのです。

 

c.   しかし、それは彼が話を膨らませ過ぎている、あるいは捏造しているという事ではありません。妄想が時系列と紐付けられて一冊の書物として成立しているのは、何よりもそこに妄想を書き残そうとする彼の意志があるという事であり、彼はその妄想を生き永らえさせるために世界秩序について語るのです。妄想を時系列に落とし込み、世界観を構築するというシュレーバーの手法は、可能な限り理解してもらおうとする彼の強力な意志が反映されている訳です、たとえその内容がどれ程奇妙なものであったとしても・・・。

 

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【 4 】 原体験としての妄想 + 世界観を構築する意志

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a.   先に記した説明は、従来のシュレーバー『 回想録 』の読解ではあまり重視されなかったものだといえるでしょう。というのも殆どの人は『 回想録 』に記されている妄想をあまりにも素直に受容れ過ぎているからです。文字通りに受け止めて、神経言語・・・魂の殺害・・・脱男性化、という表現が "妄想それ自体" であるかのような錯覚に陥っているのです。注意しなければならないのは、回想録の妄想はシュレーバーが構築した世界観の中で後付の意味を既に付与されたものだという事です。つまり、回想録の妄想はシュレーバーがそれを書く以前に経験した原体験としての妄想とは違うものなのです。

 

b.   しかし、その原体験はそれがあったとしか推測出来ないものなのであって、どのようなものなかは分からない、回想録の妄想は後付の意味で枠型を施されたものなのだから。ラカンはこのことについて次にように指摘しています。

 

つまり、豊富な症状を産出した精神病の初期のあの体験、言葉にならない、伝えようのない、例の体験のことです。このことに気を奪われ、最も良いものを逃しているのだと考えるのは勝ってですが、最も良いものを逃していると嘆くのは、手の内に持っていながら、考えてみる価値のあるものを見逃す常套手段です。最終像は初期像に比べ教えるところが少ないなどとどうして言えましょう。無意識に関しては、主体と象徴的なものとの関係が基本的なものである、という原則を置いた以上、最終像がより価値の劣るものであるということはできません。ジャック・ラカン『 精神病【上】』p195. 

 

ラカンシュレーバーが書いた "言葉" から妄想について考察するしかない ( 彼を実際に診察した者はいないので ) という当り前の事を言っているのではなく、妄想は "言葉" として構造化されている、と言っているのですね。つまり言葉はたんに人間の表現手段としての道具であるだけなのではなく、人間主体とは別のそれ自体が活動し人間の欲望が刻まれた世界であるという訳です。そのような言葉の世界 ( ラカン的にいうなら象徴界 ) は原体験に劣るどころか、人間関係の無意識的基盤として十分に考察に値するのですね。

 

 

c.   しかし、妄想が言葉として構造化されているとしても、その言葉が幾つも織り重なり1冊の書物として成立しているという事は、その妄想を用いて自分の世界観を構築する意志が加わらなければ、それ ( 書物の成立 ) は不可能だったと言わなければならない。つまり、私達が目の当たりにしているのは、たんなるシュレーバーの症例なのではなく、シュレーバー "妄想 + 世界を構築する意志" という複合体 ( コンプレックス ) であり、それらを切り離して考えるのはまず不可能だという事です。

 

d.   このような複合体の奇妙さは、自分の人生の一部からひとつの世界観を出現させようとする意志によって書かれたテクストと、そのテクストには書き込めれなかった彼の人生の残りの部分が背中合わせになっているという事から来ています。端的に言うなら、それは "テクストとその余白" なのです。

 

e.   "余白" とは、たんに文字が書き込まれていないスペースだという事以上に、テクストはそこに書き込まれることのない外部がなければ成立しない、そのような外部こそがテクストを規定する隠れた力になっている、という事を示していると考えるべきなのです。ではシュレーバーにとってのテクストの外部とは何でしょう。言うまでもなく、それは "父" です。ラカンは "父であることのシニフィアンの回帰" について語り、モートン・シャッツマンが『 魂の殺害者 』の中でシュレーバーの父であったモーリッツ・シュレーバーの迫害的な教育ぶりについて語って以降、厳格な父との関係性がシュレーバーの狂気を生じさせたという見方が一般的になっていますね。しかし、書き込まれることのない他の外部が今なお現在に至るまで残っているとしたらどうでしょう。それについて考える事はシュレーバーの女性化妄想を別の角度から考察する事を可能にするといえるかもしれません。続きは次回にしましょう。

 

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以下の記事に続く

ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

 

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