哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

アッバス・キアロスタミの映画『 桜桃の味 』( 1997 )を哲学的に考える

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監督 : アッバス・キアロスタミ

公開 : 1997

出演 : ホルマン・エルバディ   ( バディ )

   : アブドルホセイン・バゲリ ( バゲリ )

  

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 桜桃の味 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事をしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 【 1 】 桜桃を味わうこと

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a.   この映画の主人公バディは、車に乗って自殺を手伝ってくれる人を探しに出かけます ( 自殺の理由は示されない )。自殺を手伝ってくれる代わりにお金を支払うと言うのですが、ことごとく断られてしまう。最後に出会うのが自然史博物館で働くバゲリという老人との車中での会話 ( というかほとんどバゲリが一人で話しているのですが ) によって、自殺しようと決めていたバディの中で何かが変わっていきます。

 

b.   バゲリの話は映画の中で20分近くにも及ぶものですが、彼の話の特徴は、彼以前の登場人物達が自殺に対して否定的な態度や思いを示したのとは違って、今、生きている世界についてもう一度よく考えてみろというものなのです。

 

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 c.   バゲリはバディにこの世界について見直させるために、自然の四季について話します。各々の季節毎に自然は果物を恵んでくれる、と。そんな豊かな世界を神は与えてくれたのにそれを拒むのか、と。そんな恵みの一例としてバゲリはここで "桜桃" を挙げているのですね、"桜桃の味を忘れてしまうのか" と言って ( 1~12. )。

 

d.   しかし、これを単純に神学的解釈に方に近づけるべきではないでしょう。もしそうであるならば、バゲリの立場はその前に登場した若き神学生 ( 彼の意見にバディは心を動かされる事はなかった ) とそれ程変わらないものになってしまう。だから、さらに細かく解釈する必要があるのです。

 

e.   バゲリの話で大切なのは、自然には四季の "移り変わり" があるという事なのですね。もちろん、ここで自然 ( 四季の移り変わり ) の話を人生の比喩としてバゲリが持ち出している事を理解すれば、人生にも様々な局面があるが四季と同じく移り変わっていくものだ、つまり、ただひとつの自殺したくなるようなつらい事にこだわって、別の事柄 ( 桜桃 ) を味わう事を諦めてしまうのか・・・自殺にこだわらなくとも死はいつか訪れる ( このような人生の道程をバゲリは "旅" の比喩でも表しているし、そもそも車で移動するロングショットの多用が "旅" と重なっている )、それまでにこの世界の果実を味わうべきだ・・・幾つもの果実が世界には ( 人生には ) あるんだ・・・苦いものもあれば ( 自殺したくなるような事 ) 、甘いもの ( 桜桃 ) もあるという具合に・・・、そういう "味わい" を "旅の終わり ( いつか訪れる死 )" までに自分から捨てるような真似をしては駄目だ、とバゲリはバディに訴えているのですね。

 

f.   そしてさらに大切なのは、バゲリがバディに俺たちは友達だと言っている事です、"行っても友達、行かなくても友達だよ" と ( 13~16. )。つまり、"あんたが死んでも友達だし、死ななくても友達だよ" 、という事なのですが、これは文字通りに受取るのではなく、"自殺すると言った手前、引くに引けなくなっているとしても自殺を思い止まるのは恥ずかしい事じゃない・・・自殺を止めたからといって俺はお前を笑いものにしたりしない・・・だから自殺を止めていいんだよ" というように解釈すべきでしょう。

 

g.   ここまで言われたバディの心境には明らかな変化が起こる ( 自殺を思い止まる ) のですが、次のシーンではその心境の変化がクスッと笑えるような形で描かれています。

 

   バゲリが勤務する自然史博物館に引き返したバディはそこでバゲリが生徒たちに、ウズラの解剖の授業をしているのを目の当たりにする。バディはそこで軽くショックを受けるのですね。さっきまで俺を生かすように説得してたのに平気でウズラを殺すのか、と。バディあんた、生きる気満々じゃないのってツッコミたくなりますけど ( 笑 )。

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   もはやバディは死ぬつもりはないのに、自殺する際の方法に細かい注文をつける。地面に掘った穴で睡眠薬 ( おそらく致死量の ) を飲んで一晩過ごし、翌日目を覚まさなければ、そのまま埋めてくれというのが当初の注文だったのですが、バディはもう意地でも俺を起こしてくれって言ってますね ( 笑 )。バゲリも分かった、分かった、という感じで。

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【 2 】 ストーリーの中断、あるいは映画からの距離

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a.   バディの自殺の話は、彼が夜中に穴倉の中で横たわり夜空を見つめるという所で終わります ( 29. )。その後は唐突に、ストーリーとは関係がないようなシーン、撮影が終わり、監督を含めたスタッフ、演者たちの姿が映し出されるという自己言及的なシーンが続いて映画は終わります ( 30~35. )。ちなみにシーン32. の中央で帽子とサングラスを着けてトランシーバーで話しているのが監督のアッバス・キアロスタミ

 

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b.   この唐突な終わり方になぜ?と思った人も多いでしょう。バディが自殺を思い止まった事をはっきりと示すような終わり方でよかったのじゃないの、と考えるでしょう。それでもアッバス・キアロスタミはこのラストを選択したのだから、それについて解釈を進めていきますね。

 

c.   このストーリーを最後まで描く事を放棄したように見える振舞いは、果たして私たち観客に対して不誠実なものなのでしょうか、ストーリーを完結させて観客の欲望を満たさなかったという意味で。しかし、それは違います。むしろ観客に対して誠実であるとさえ言えるのです。

 

d.   なぜなら登場人物の感情を追うような鑑賞の仕方は、観客に無意識的に登場人物と同一化しかねない、一歩間違えば危険なものになりかねない、とアッバス・キアロスタミはおそらく考えているからです。映画が作りものである以上、その中の登場人物は、間違いなく誰か ( 監督であり脚本家であり・・・) の主観によってキャラクター付けされる。それがどういう意味かというと、観客は登場人物という客観的なものに感情移入しているつもりでも、実際は登場人物とは全く違う誰かの主観に従っているに過ぎないのです。

 

e.   特にそれが "自殺" などの繊細な主題であれば、誰かの主観に導かれた登場人物に同一化する事は一層危険な訳です、観客が自分が誰かの意図に従っている事に気付いていないという意味で。アッバス・キアロスタミはそういったものから意識的に距離を置いているのです。彼はあるインタビューで、観客の登場人物への感情移入を否定していて、自分の作品に出てくるのは登場人物ではなく、形象 ( 人の形をした ) であると言い切っています。そして、だからこそクローズアップではなくロングショットの構図にこだわるとまで言っているのです。

 

f.   以上の事から、間違っても彼が反ヒューマニスムの持ち主などという結論を引き出すべきでないのは言うまでもない。むしろ彼は観客に自由に考え、自由に解釈する空間を残してくれているのです。いつも映画をなんとなく見ていて、自分から考えずに映画から何かを与えてもらおうと思っている人にとってはアッバス・キアロスタミの映画は退屈に思えるはずです。しかし、もしこの映画が退屈に感じないのであれば、その人は自分から考えて解釈し、この作品に意味を与えようとしているといえるでしょう。そして、その時、その人はアッバス・キアロスタミが人生や世界を再び見直せるように自分の作品をそのための入口として、その入口から見える "風景" として提示している事に気付くでしょう。

 

 

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