〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アッバス・キアロスタミの映画『 桜桃の味 』( 1997 )を哲学的に考える

 

 

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監督  アッバス・キアロスタミ

公開  1997年

出演  ホルマン・エルバディ   ( バディ 役 )

    アブドルホセイン・バゲリ ( バゲリ 役 )

  



   1章 桜桃を味わうこと

 

この映画の主人公バディは、車に乗って自殺を手伝ってくれる人を探しに出かけます ( 自殺の理由は示されない )。自殺を手伝ってくれる代わりにお金を支払うと言うのですが、ことごとく断られてしまう。最後に出会うのが自然史博物館で働くバゲリという老人との車中での会話 ( というかほとんどバゲリが一人で話しているのですが ) によって、自殺しようと決めていたバディの中で何かが変わっていきます。

 

バゲリの話は映画の中で20分近くにも及ぶものですが、彼の話の特徴は、彼以前の登場人物達が自殺に対して否定的な態度や思いを示したのとは違って、今、生きている世界についてもう一度よく考えてみろというものなのです。

 

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バゲリはバディにこの世界について見直させるために、自然の四季について話します。各々の季節毎に自然は果物を恵んでくれる、と。そんな豊かな世界を神は与えてくれたのにそれを拒むのか、と。そんな恵みの一例としてバゲリはここで "桜桃" を挙げているのですね、"桜桃の味を忘れてしまうのか" と言って ( 1~12. )。

 

しかし、これを単純に神学的解釈に方に近づけるべきではないでしょう。もしそうであるならば、バゲリの立場はその前に登場した若き神学生 ( 彼の意見にバディは心を動かされる事はなかった ) とそれ程変わらないものになってしまう。だから、さらに細かく解釈する必要があるのです。

 

バゲリの話で大切なのは、自然には四季の "移り変わり" があるという事なのですね。もちろん、ここで自然 ( 四季の移り変わり ) の話を人生の比喩としてバゲリが持ち出している事を理解すれば、人生にも様々な局面があるが四季と同じく移り変わっていくものだ、つまり、ただひとつの自殺したくなるようなつらい事にこだわって、別の事柄 ( 桜桃 ) を味わう事を諦めてしまうのか・・・ 自殺にこだわらなくとも死はいつか訪れる ( このような人生の道程をバゲリは "旅" の比喩でも表しているし、そもそも車で移動するロングショットの多用が "旅" と重なっている )、それまでにこの世界の果実を味わうべきだ・・・幾つもの果実が世界には ( 人生には ) あるんだ・・・苦いものもあれば ( 自殺したくなるような事 ) 、甘いもの ( 桜桃 ) もあるという具合に・・・、そういう "味わい""旅の終わり ( いつか訪れる死 )" までに自分から捨てるような真似をしては駄目だ、とバゲリはバディに訴えているのですね。

 

そしてさらに大切なのは、バゲリがバディに俺たちは友達だと言っている事です、"行っても友達、行かなくても友達だよ" と ( 13~16. )。つまり、"あんたが死んでも友達だし、死ななくても友達だよ" 、という事なのですが、これは文字通りに受取るのではなく、"自殺すると言った手前、引くに引けなくなっているとしても自殺を思い止まるのは恥ずかしい事じゃない・・・自殺を止めたからといって俺はお前を笑いものにしたりしない・・・だから自殺を止めていいんだ" というように解釈すべきでしょう。

 

ここまで言われたバディの心境には明らかな変化が起こる ( 自殺を思い止まる ) のですが、次のシーンではその心境の変化がクスッと笑えるような形で描かれています。

 

バゲリが勤務する自然史博物館に引き返したバディはそこでバゲリが生徒たちに、ウズラの解剖の授業をしているのを目の当たりにする。バディはそこで軽くショックを受けるのですね。さっきまで俺を生かすように説得してたのに平気でウズラを殺すのか、と。バディあんた、生きる気満々じゃないのってツッコミたくなりますけど ( 笑 )。

 

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もはやバディは死ぬつもりはないのに、自殺する際の方法に細かい注文をつける。地面に掘った穴で睡眠薬 ( おそらく致死量の ) を飲んで一晩過ごし、翌日目を覚まさなければ、そのまま埋めてくれというのが当初の注文だったのですが、バディはもう意地でも俺を起こしてくれって言ってますね ( 笑 )。バゲリも分かった、分かった、という感じで。

 

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 2章 ストーリーの中断、あるいは映画からの距離

 

バディの自殺の話は、彼が夜中に穴倉の中で横たわり夜空を見つめるという所で終わります ( 29. )。その後は唐突に、ストーリーとは関係がないようなシーン、撮影が終わり、監督を含めたスタッフ、演者たちの姿が映し出されるという自己言及的なシーンが続いて映画は終わる ( 30~35. )。ちなみにシーン 32. の中央で帽子とサングラスを着けてトランシーバーで話しているのが監督のアッバス・キアロスタミ

 

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この唐突な終わり方になぜ?と思った人も多いでしょう。バディが自殺を思い止まった事をはっきりと示すような終わり方でよかったのじゃないの、と考えるでしょう。それでもアッバス・キアロスタミはこのラストを選択したのだから、それについて解釈を進めていきますね。

 

このストーリーを最後まで描く事を放棄したように見える振舞いは、果たして私たち観客に対して不誠実なものなのでしょうか、ストーリーを完結させて観客の欲望を満たさなかったという意味で。しかし、それは違います。むしろ観客に対して誠実であるとさえ言えるのです。

 

なぜなら登場人物の感情を追うような鑑賞の仕方は、観客に無意識的に登場人物と同一化しかねない、一歩間違えば危険なものになりかねない、とアッバス・キアロスタミはおそらく考えているからです。映画が作りものである以上、その中の登場人物は、間違いなく誰か ( 監督であり脚本家であり・・・) の主観によってキャラクター付けされる。それがどういう意味かというと、観客は登場人物という客観的なものに感情移入しているつもりでも、実際は登場人物とは全く違う "誰かの主観" に従っているに過ぎない のです ( *A )。

 

特にそれが "自殺" などの繊細な主題であれば、誰かの主観に導かれた登場人物に同一化する事は一層危険な訳です、観客が自分が誰かの意図に従っている事に気付いていない という意味で。アッバス・キアロスタミはそういったものから意識的に距離を置いているのです。彼はあるインタビューで、観客の登場人物への感情移入を否定していて、自分の作品に出てくるのは登場人物ではなく、"形象 ( 人の形をした )" である と言い切っています。そして、だからこそクローズアップではなくロングショットの構図にこだわるとまで言っているのです。

 

以上の事から、間違っても彼が反ヒューマニスムの持ち主などという結論を引き出すべきでないのは言うまでもありません。むしろ彼は観客に自由に考え、自由に解釈する空間を残してくれているのです。いつも映画をなんとなく見ていて、自分から考えずに映画から何かを与えてもらおうと思っている人にとってはアッバス・キアロスタミの映画は退屈に思えるはずです。しかし、もしこの映画が退屈に感じないのであれば、その人は自分から考えて解釈し、この作品に意味を与えようとしているといえるでしょう。そして、その時、その人はアッバス・キアロスタミが人生や世界を再び見直せるように自分の作品をそのための入口として、その入口から見える "風景" として提示している事に気付くはずです ( *B )。

 

 

 

( *A )

驚くべきことに、ここからキアロスタミは、さらに進んで 映画の "物語性" を否定さえする。フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーとの対談で彼は次のように言うのです。  

 

" 私は物語を語る映画に耐えられません。私は映画館から出ていきます。映画が、物語を語るだけ、よりうまく語れば語るだけ、私の抵抗は大きくなります "

 

『 映画の明らかさ -アッバス・キアロスタミジャン=リュック・ナンシー・著 上田和彦・訳 松籟社 p.107

 

彼の映画をたんなる牧歌的な物語だと勘違いしている人には驚きでしょう。では彼の映画が物語ではなければ、それは一体何なのか。キアロスタミはここで観客の役割、それも映画をたんに眺めるだけの受動的なものではない、"能動的役割" を強調するのです。 

 

" 新たな映画を企てる唯一の手段は、観客の役割をもっと考慮することです。観客が介入することができ、空白や欠落を埋めるためには、未完成で不完全な映画を企てる必要があります。堅固で非の打ち所のない構造を備えた映画を作るかわりに、そうした構造を弱めねばなりません ー 他方で、観客を逃げ出させてはならないとの意識を持っていなければなりませんが !  解決法はおそらく、積極的で建設的なかかわりを持つように、観客をまさしく駆り立てることです "

 

" 各自が自分自身の映画を組み立てる。彼が私の映画を受け入れるにせよ、擁護するにせよ、反対するにせよです。観客たちは自分たちの視点を擁護することができるように、いくつかのものを付け加える。そしてこの行為が映画の明らかさの一部をなす。ある種の弱さ、欠落でもってこそ、諸々の権力に抗する戦争に赴かねばならないのです ”

 

前掲書 p.107

 

" 権力は観客のほうに移ります。アンドレ・ジッドは言っていました。大切なものは視線のなかにあるのであって、主題のなかにではない、と。またゴダールはこう言っています。スクリーンのうえにあるものは既に死んでいて、それに生命を吹き込むのは観客の視線だ、と ”

 

前掲書 p. 99~100

 

 

( *B ) 

キアロスタミは、そのような "風景" を "写真的イメージ" として考えている。

 

" そうしたイメージが持つ呼びかける力、観客がそのなかに深く入り込み、そしてそこから独自の解釈を為すことをイメージが許してくれる可能性を、私はますます確信してきました "

 

前掲書 p.101