哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

フィリップ・カウフマンの映画『 存在の耐えられない軽さ 』( 1988 )を哲学的に考える

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監督 : フィリップ・カウフマン  

公開 : 1988

脚本 : フィリップ・カウフマンジャン・クロード・カリエール

原作 : ミラン・クンデラ

 

出演 : ダニエル・デイ・ルイス   トマシュ

   : ジュリエット・ビノシュ   テレーザ

   : レナ・オリン        サビーナ

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 存在の耐えられない軽さ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さを求める、という方はこの場所は適当ではないかもしれません。しかし、物事を深く考えることに意義を見出す人にとっては、十分に刺激的な記事であるのは間違いないでしょう。

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1. 男女関係を先鋭化させる映画  

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a.   この映画の原作ミラン・クンデラの 小説『 存在の耐えられない軽さ 』を読んだことのある人なら分かると思いますがそれは小説というよりは哲学エッセイの要素が強いスタイルを採っていますねしかも小説の途中に哲学エッセイが挟まれているとうよりは哲学エッセイと小説が併記されている作品といっていいくらいです

 

 

b.   それはそれで小説として面白いのですがフィリップ・カウフマンはそこから物語の要素を上手く抽出して男と女の関係性をよりクローズアップした興味深い映画に仕立て上げていますそれは原作の小説が哲学叙述をしているといっても深く分析する事のなかったトマシュとテレーザの関係性を先鋭化して哲学的に解釈する自由を拡げてくれているという事でもあるのですそこでは男女の関係が映像化される事によってより生々しいものになって小説という虚構 ( フィクション ) を超えた現実感さえ漂わせている と言ってもいいでしょう

 

 

   他の女と平気で寝るトマシュに対して一途に好きであるが故に苦悩するテレーザ彼女のこの真剣さが倫理観の希薄なトマシュを戸惑わせながらも魅了していく

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   彼女の一途さはやがて夢から妄想へと移行していく

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   水泳教室での女性指導者と生徒たちがトマシュと全裸の女性たちに見えてしまうテレーザ自分の妄想に驚いてしまう

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   そんなテレーザはついにトマシュが他の女と寝るのを手伝うという自虐的発言に至るあなたはどうしようもない男だけどそんなあなたについていこうという私の気持ちが分からないのという訳ですこのように映画ではテレーザの狂気性を淡々とですがクローズアップする事で男女の関係性を強調しているのです

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c.   ここで重要なのは『 存在の耐えられない軽さ 』が1968年前後のチェコスロバキア ( 1993年からはチェコ共和国スロバキア共和国に分離している ) を舞台にしている事です1968年に社会主義国チェコスロバキアではプラハの春と呼ばれる改革が進められる中それを封じ込めようとするソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に占領される ( チェコスロバキア事件 ) という状況が発生していました

 

 

d.   クンデラはそんなチェコスロバキア出身で共産主義に抵抗する作家として有名になったのですが『 存在の耐えられない軽さ 』では彼は共産主義体制下における男女の赤裸々な関係を描くことで体制への抵抗を示していた訳です具体的にはトマシュを反体制の象徴として描き出しているのですがそれについては以下で考えていきましょう

 

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2. 原作の哲学的真実を露にする映画 

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a.   共産主義への抵抗の象徴的作家であるクンデラですがこの映画においてトマシュとテレーザの振舞いを細かく見るならば抵抗といっても彼が創作の上で共産主義体制に無意識的に依存していることが明らかになるのです

 

 

b.   これについて考えるにはまずトマシュの役割について考える必要があります彼は女癖の悪い軽薄な人物として描かれるのですが軽薄ではあるものの共産主義を批判する論文を発表するなど共産主義体制に抵抗する側面もある事が徐々に明らかになります

 

 

c.   そうするとトマシュの軽薄さは単に倫理的に問題があるという事ではなく共産主義体制への過激な抵抗の象徴機能を示している と解釈出来ますね ( クンデラが意識的にそのように設定していないとしても )

 

 

d.   ではトマシュが抵抗の象徴であるならば彼への愛情を示すテレーザの役割とは何でしょうトマシュの過剰な振舞いを改めようとする彼女の姿勢とは体制への順応主義者 のそれ以外の何物でもないでしょうただ付け加えなければならないのはそれが共産主義などの特定の政治体制ではなく自分の生活基盤がある "故郷" としての政治体制つまりそれ以外は知らないしそれ以外は馴染めないという意味での "故郷" への順応 という事です

 

 

e.   その証拠にソ連軍のチェコスロバキア侵攻によって一端はスイスに脱出したトマシュとテレーザですがテレーザは結局トマシュに見切りをつけてチェコスロバキアに戻る事を選択してしまうのですここでの遣り取りは映画のタイトルにもつながる場面 ( 31. ) となっていますテレーザは体制を否定するトマシュ ( 男 ) ではなくチェコスロバキアの政治体制 ( 故郷 ) を選んだという事なのですがこの時点で2人の関係は実質的に終わっているのですねそれを示すかのようにこの後トマシュはテレーザを追いかけてチェコスロバキアに戻るのですが彼らはには死が待ち受ける

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   2人が交通事故で死んでしまうというラストトマシュを捨てきれずに故郷で暮らすテレーザとテレーザを追いかけるために軽薄さを捨てたトマシュ主体として中途半端な2人はチェコスロバキアの田舎で仲睦まじく暮らすものの自分の生き方を捨てた代償として死を受容れてしまうこれはロマンスの終焉としての人間的な死というよりは自分の生き方や信念に関わる政治的主体としての死だと解釈すべきでしょう

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f.   この映画 ( 原作も含めて ) が見た目よりも残酷なのは恋愛関係にあろうとも政治的信念を捨てた者に対して罰 ( 死 ) を "巧妙に" 与えているという事です共産主義体制が反乱分子に罰を与えるのに不思議はないとしても共産主義に抵抗する側のクンデラ自身も "自由" を捨てる者に対して罰 ( 死 ) を与えるという反転した共産主義者的欲望を秘かに持っていたのですこの意味で、一般的な印象 ( 反体制作家 ) と違ってクンデラは創作の上で共産主義体制に無意識的に依存している ( a. ) という訳ですね

 

 

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