〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 存在の耐えられない軽さ 』( 1988 : directed by フィリップ・カウフマン )を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

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映画  『 存在の耐えられない軽さ ( The Unbearable Lightness of Being ) 』
監督  フィリップ・カウフマン ( Philip Kaufman : 1936~ )
公開  1988 年
脚本  フィリップ・カウフマン
    ジャン・クロード・カリエール ( Jean-Claude Carrière : 1931~2021 )
原作  ミラン・クンデラ ( Milan Kundera : 1929~ )
出演  ダニエル・デイ・ルイス ( Daniel Day-Lewis : 1957~ )    トマシュ
    ジュリエット・ビノシュ ( Juliette Binoche : 1964~ )    テレーザ
    レナ・オリン ( Lena Olin : 1955~ )              サビーナ

 



 

 この映画の原作、ミラン・クンデラの 小説『 存在の耐えられない軽さ 』を読んだことのある人なら分かると思いますが、それは小説というよりは、哲学エッセイの要素が強いスタイルを採っていますね。しかも、小説の途中に哲学エッセイが挟まれているとうよりは、哲学エッセイと小説が併記されている作品といっていいくらいです。

 

■ それはそれで小説として面白いのですが、フィリップ・カウフマンはそこから物語の要素を上手く抽出して男と女の関係性をよりクローズアップした興味深い映画に仕立て上げています。それは原作の小説が哲学叙述をしているといっても深く分析する事のなかったトマシュとテレーザの関係性を先鋭化して、哲学的に解釈する自由を拡げてくれているという事でもあるのです。そこでは男女の関係が映像化される事によって、より生々しいものになって小説という虚構 ( フィクション ) を超えた現実感さえ漂わせている と言ってもいいでしょう。

 

■ 他の女と平気で寝るトマシュに対して一途に好きであるが故に苦悩するテレーザ。彼女のこの真剣さが、倫理観の希薄なトマシュを戸惑わせながらも魅了していく ( 1~6 )。

 

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■ 彼女の一途さはやがて夢から妄想へと移行していく ( 7~12 )。

 

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■ 水泳教室での女性指導者と生徒たちが、トマシュと全裸の女性たちに見えてしまうテレーザ。自分の妄想に驚いてしまう ( 13~18 )。

 

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■ そんなテレーザはついに、トマシュが他の女と寝るのを手伝うという自虐的発言に至る。あなたはどうしようもない男だけど、そんなあなたについていこうという私の気持ちが分からないの? という訳です。このように映画では、テレーザの狂気性を淡々とですがクローズアップする事で、男女の関係性を強調しているのです ( 19~24 )。

 

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■ ここで重要なのは、『 存在の耐えられない軽さ 』が1968年前後のチェコスロバキア ( 1993年からはチェコ共和国スロバキア共和国に分離している ) を舞台にしている事です。1968年に社会主義国チェコスロバキアでは、プラハの春と呼ばれる改革が進められる中、それを封じ込めようとするソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に占領される ( チェコスロバキア事件 ) という状況が発生していました。

 

■ クンデラはそんなチェコスロバキア出身で、共産主義に抵抗する作家として有名になったのですが、『 存在の耐えられない軽さ 』では彼は共産主義体制下における男女の赤裸々な関係を描くことで、体制への抵抗を示していた訳です。具体的には、トマシュを反体制の象徴として描き出しているのですが、それについては以下で考えていきましょう。

 



 

■ 共産主義への抵抗の象徴的作家であるクンデラですが、この映画においてトマシュとテレーザの振舞いを細かく見るならば、抵抗といっても、彼が 創作の上で共産主義体制 ( あるいは過去の故郷 ) に無意識的に依存している ことが明らかになる。

 

■ これについて考えるには、まずトマシュの役割について考える必要があります。彼は女癖の悪い軽薄な人物として描かれるのですが、軽薄ではあるものの、共産主義を批判する論文を発表するなど共産主義体制に抵抗する側面もある事が徐々に明らかになります。

 

■ そうするとトマシュの軽薄さは、単に倫理的に問題があるという事ではなく、共産主義体制への過激な抵抗の象徴機能を示している と解釈出来ますね ( クンデラが意識的にそのように設定していないとしても )。

 

■ ではトマシュが抵抗の象徴であるならば、彼への愛情を示すテレーザの役割とは何でしょう。トマシュの過剰な振舞いを改めようとする彼女の姿勢とは、体制への順応主義者 のそれ以外の何物でもないでしょう。ただ付け加えなければならないのは、それが共産主義などの特定の政治体制ではなく、自分の生活基盤がある "故郷" としての政治体制、つまりそれ以外は知らないし、それ以外は馴染めないという意味での "故郷" への順応 という事です。

 

■ その証拠に、ソ連軍のチェコスロバキア侵攻によって一端はスイスに脱出したトマシュとテレーザですが、テレーザは結局、トマシュに見切りをつけてチェコスロバキアに戻る事を選択してしまうのです。ここでの遣り取りは、映画のタイトルにもつながる場面 ( 31. ) となっています。テレーザは体制を否定するトマシュ ( ) ではなく、チェコスロバキアの政治体制 ( 故郷 ) を選んだ という事なのですが、この時点で2人の関係は実質的に終わっているのですね。それを示すかのように、この後、トマシュはテレーザを追いかけてチェコスロバキアに戻るのですが、彼らはには死が待ち受ける。

 

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■ 2人が交通事故で死んでしまうというラスト。トマシュを捨てきれずに故郷で暮らすテレーザとテレーザを追いかけるために軽薄さを捨てたトマシュ。主体として中途半端な2人はチェコスロバキアの田舎で仲睦まじく暮らすものの、自分の生き方を捨てた代償として死を受容れてしまう。これはロマンスの終焉としての人間的な死というよりは、自分の生き方や信念に関わる政治的主体としての死 だと解釈すべきでしょう。

 

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■ この映画 ( 原作も含めて ) が見た目よりも残酷なのは、恋愛関係にあろうとも政治的信念を捨てた者に対して ( ) を "巧妙に" 与えているという事です。共産主義体制が反乱分子に罰を与えるのに不思議はないとしても、共産主義に抵抗する側のクンデラ自身も "自由" を捨てる者に対して罰 ( 死 ) を与えるという反転した共産主義者的欲望を秘かに持っていた のです。この意味で、一般的な印象 ( 反体制作家 ) と違ってクンデラは創作の上で共産主義体制に無意識的に依存している ( 2章 ) という訳であり、それこそが彼の作家的特質を秘かに規定しているといえるのです。