監督 ベルナルド・ベルトルッチ
公開 2003 年
原作・脚本 ギルバート・アデア
出演 マイケル・ピット ( マシュー )
エヴァ・グリーン ( イザベル )
ルイ・ガレル ( テオ )
ジャン・ピエール・レオ ( ジャン・ピエール・レオ / 本人役 )
1章 "映画" と "革命"
ベルナルド・ベルトルッチはこの映画を、フランスで起きた1968年の5月革命と映画界の関わりについて語る事によって始めます。シネマテーク・フランセーズの創立者だったアンリ・ラングロワが当時の文化相アンドレ・マルローによって更迭されたのが、3ヶ月前の2月。結局、これは数々の映画監督・俳優によって結成されたシネマテーク擁護委員会のデモで覆され、4月にラングロワは復職するのですが、ベルトルッチはそこに5月革命へと流れ込んでいく革命的欲望の一端があった と考えているのですね。
革命の先端に映画があったというのはフランスならではの偶然に過ぎないのですが、ラングロワ事件は映画界に社会的なもの力 ( 権力も革命も含めた ) が流れ込んできたことを示すひとつの "出来事" だった。映画はたんに観客の幻想を満たす娯楽的要素であるだけではなく、社会に影響を及ぼす革命的要素をも備えている 事をベルトルッチはここから学んだと言えるでしょう。
ラングロワ事件当時のモノクロのフィルムも差し込まれている。トリュフォーの映画で有名なジャン・ピエール・レオは聴衆の前で熱弁をする当時の本人役 ( 11. ) をこの作品でも演じている ( 8. )。モノクロのシーンには他に、俳優のジャン・ポール・ベルモンド、フランソワ・トリュフォー、映画監督のマルセル・カルネ、の姿もある。
シネマテークとヌーヴェル・ヴァーグの作家たちとの関係が語られる ( 17~22. )。
ラングロワ追放への反対運動をベルトルッチは "文化革命" だと位置付ける ( *A )。
イザベル ( エヴァ・グリーン ) とテオ ( ルイ・ガレル ) の双子と行動を共にするマシュー ( マイケル・ピット )。3人は映画愛好者として仲を深めていく。ゴダールの『 はなればなれに 』でのルーブル美術館を走り抜けるシーンを再現して疾走タイムを更新するという、まさにマニアとしか言いようがないベルトルッチのこの演出は有名ですね。
( *A )
もちろん、これは自分達の為した事を毛沢東の文化大革命 ( 1966~1967 ) に擬えている訳なのですが、その前提としてフランス国内における左翼の思想潮流としてマルクス・レーニン主義の中から当時の世界を席巻した マオイスム ( 毛沢東主義 ) が出現していた状況があります。そのマオイスムを強調した映画がジャン・リュック・ゴダールの『 中国女 ( 1967 ) 』。
2章 "映画" と "性"
しかし、3人を結びつけるものが "映画" から "性的なもの" に変質していくあたりから、この映画の核心が少しづつ露になっていく。イザベルとテオは双子でありながら、互いに "性的なもの" の虜になっていたが一線は越えていない関係だった ( "最後" までには至っていない )。3人の性的場面に惑わされずに仔細に観察すると、実は2人は僅かに残っている "モラル" のために、近親相姦の関係になる事が出来なかったのが分かりますね ( 41~46. でイザベルが処女だった事が明らかになる )。
だからこそ、イザベルとテオの2人は行き詰まりから逃れるべく "外部" の象徴であるマシューを必要としていたと精神分析的に解釈出来るのです。
実は処女なのに、嫌がるマシューと無理矢理セックスしようとするイザベル。
イザベルに誘惑されて彼女とセックスするマシュー。自分とイザベルが越えられなかった最後の一線を越えるイザベルとマシューの行為を、フライパンで卵を焼きながら苦々しい表情で見るテオ。行為の後、イザベルが処女だった事が分かる。
この後、テオはマシュー、イザベルと共にデモに参加するのですが、火炎瓶を手に取るなどの過激な革命家的な気質を見せてしまいます。このような "性的なもの" において "モラル" を打ち破る事が出来ずに挫折や屈折を経験した主体が革命に走るというモチーフは、ベルトルッチの『 暗殺の森 』の主人公マルチェロにも見出せます ( *B )。
( *B )
『 暗殺の森 』についてはこちらを参照。ベルトルッチにおいて "性" と "革命" がいかにして結びついているのかを考えています。
3章 "性" と "革命"
それは偶然の一致ではありません。ベルトルッチにおいては、"性的なもの" における不均衡や不安定性が、世界に一時的な混沌をもたらす "革命" と並列的に描かれます。この事がベルトルッチの中でも面白い作品の原動力となっているといっても過言ではないでしょう。極端に言うならば、ベルトルッチにとっては、"性的なもの" ( 性行為自体の事ではない ) こそ "革命的" なのであり、それは主体と社会を十分に揺るがすひとつの "力" になっているのですね。
ここで肝心なのは、"性的なもの" がベルトルッチにおいては快楽の次元で捉えられるものではなく、それどころか、それが引き起こす不安定性が主体にとっての "トラウマ" になるという事です。そのトラウマが主体を出口のない内的世界から外部に向かっての "革命" というアクティングアウトへと至らせる訳です。
しかし、そんなベルトルッチ作品にも例外と言うか、失敗作もあります。マーロン・ブランド ( ポール役 ) とマリア・シュナイダー ( ジャンヌ役 ) のセックスのみに焦点を合わせた『 ラストタンゴ・イン・パリ 』は "性的なもの" が主体を揺さぶらない ( 主体は性行為に成功しひたすら繰り返す ) という意味で、セックス以外は何も起こらないという致命的な失敗を犯してしまう。つまり、逆説的な事にベルトルッチにおいて、快楽的性行為 ( 哲学的な意味での "性的なもの" は消滅している ) は主体の死を招く ( 最後にポールはジャンヌに射殺されてしまう ) 以外にはない という事を証明してしまうのです。
4章 革命の失敗 ……
デモなどの実際の行動に関わらないテオを皮肉るマシュー。ここでも彼はテオとイザベルの閉塞的な関係を壊そうとする "外部" の象徴的役割を果たしている。そもそも彼の役自体がアメリカからの留学生ですからね。
3人の淫らな生活を知った両親が彼らを見捨て出て行ってしまうという状況に絶望したイザベルはガス管自殺をしようとするが、窓から投げ込まれた石をきっかけに外で起こっているデモに、マシュー、テオと共に参加する。
さて、普通の監督なら3人がデモに参加した時点で、閉塞的な内部から外部へ脱出する事が出来たとして、そこでエンディングを迎えるようにするでしょう。しかし、ベルトルッチは "その続き" を描いてひねりを加えます。
デモの中で革命的主体の方へと向うテオは、火炎瓶を手にして過激な姿勢を露にしようとする。そんなテオの振舞いをマシューは止めるのです。テオとイザベルをデモという外部に連れ出したのはマシュー自身なのに止めるのかと思われる人もいるかもしれません。
おそらく、ここでのベルトルッチの意図は、革命における暴力性を否定して平和的革命を目指すなどという日和見的なものではなく ( *C )、いずれ失敗に終わる革命の一過性を示す という事です。ここには革命の失敗の後を見るベルトルッチの視線があります。それは彼が成熟して奔放な若さから脱したという事ではなく、それどころか彼は若い時から革命に付きまとう失敗の運命を十分に承知していたのです ( 例えば1964年の『 革命前夜 』は20代前半で撮られている )。
この革命に付随する失敗までをも含んだものとしての映画を彼は撮っているのであり、熱狂から失敗という終息に向かう状況の中での主体を描く事こそが、彼の "映画的欲望" だと言えるでしょう。最後の場面において、マシューはテオを諭すためにキスをするのですが、これはマシュー、イザベル、テオ、の三角関係の中で敢えて触れられずに残されていたマシューとテオの "同性愛的関係" を示すものとなっています。しかし、ここでもテオはモラルの壁を乗り越える事が出来ず ( テオはマシューのキスを拒否する ) に、おそらくは失敗する運命にある革命的主体の姿を予兆する役割を果たしているのです〈 終 〉。
( *C )
というのも "マオイスム ( 毛沢東主義 )" を経験したものならば、革命にある種の "暴力性" が付随するのは必然的だと理解するからです。そうでなければ革命は到底成し遂げられるものではないという事ですね。この過激な一過性とは、革命が次の時代へと変化する移行期の混乱のなかで 消滅する媒介的役割 を果たしている事を示す指標でもあるという事です。
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