哲学的抽象機械

映画・哲学・音楽について考える

ラース・フォン・トリアーの映画『 アンチクライスト 』( 2009 )を哲学的に考える

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監督 ラース・フォン・トリアー  

公開 2009

出演 シャルロット・ゲンズブール 

   ウィレム・デフォー

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 アンチクライスト 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、 という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. 崩壊する男女関係

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a.   ラース・フォン・トリアーがこの映画で描き出そうとしているのは、崩壊する男女関係、しかも女性の側に比重を置いた崩壊過程だと言う事が出来るでしょう 。セックスに夢中になっていたシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦の近くで息子が転落死してしまうスローモーション映像 ( それは観る者に美しさを感じさせる倒錯的な映像でもある ) で話が始まるのですが、そこでは最初から夫婦の繋がりの象徴である子供の存在は排除されている。

 

 

b.   つまり、彼らは夫婦ではなく、夫婦以前の男女として描かれる。それは結婚し夫婦となり子供が出来ても、安定とは程遠い不確実で破裂しかねない緊張が奥底に潜んでいる事を明らかにしようとするものであり、男と女という異なる人間同士が結びつく時に起こる問題を示すものでもあるのです。

 

 

c  その事はシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦自身が、お互いの関係性を精神的な意味での夫婦に昇華する事が出来ず、未だ問題を抱えた "男女" である ことを露呈させます。特に妻の方がその事に対して根強い気持ちがあるといえるのです、この映画においては。

 

 

d  なぜなら、見逃している人もいるかもしれませんが、後の回想シーンでセックスの最中に、実は妻の方が、息子が窓際によじ登っていくのを見ているのが明らかになるからです。という事は、息子が転落する予兆にも関わらず、見て見ぬ振りをしてセックスに没頭していたのですね。

 

 

e.  ならば妻は何に対して罪悪感を覚えたのでしょう。答えは、偶然にでも子供を死なせてしまったという後悔ではなく、子供が死んでも構わないと瞬間的にでも思い、セックスに没頭した自分の肉欲に対してだといえるでしょう。

 

 

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 2. 自分がコントロール出来なくなるという女の本質

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a.   ということは、よくいわれるように妻は子供の転落死をきっかけに精神を病んでいったというよりは、自分の中の、いや 自分を超えたエデンの森という自然 ( ネイチャー ) で言い表されるように、制御出来ない 女性的なるものの本質 ( ネイチャー )  に支配されていった と言うべきでしょう。もちろん、ここから女性が、男性にはない自然とつながっている生理現象の哲学的意味を考える事も出来ますね。自分の中に自分を超え出る本質を抱え込んでいるという事こそ女性の "魔女性" というべきものなのですね。

 

 

   人間を超えた自然 ( ネイチャー ) = 主体を超えた女性の本質 ( ネイチャー )。

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   セックスの最中に殴ってと無茶なお願いをする妻。自分を制御出来ずに暴走が止まらない。

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  さらに暴走は止まらず、野外に出ての激しい自慰行為。もうここまで出来る女優は世界中でもいないのではないかと思わせる凄さを見せるシャルロット・ゲンズブール

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   自分の本性を知った夫が逃げ出すのではないかという思いから、罵倒しつつ上から夫を攻める妻のSっぷりが炸裂する。ここまで来たら夫は逃げ出すしか対応策がなくなってしまうでしょう。

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 3. トリアーの真実

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a.   妻の束縛はエスカレートしていき、砥石器で夫の足を貫き固定するという束縛にまでいたるのですが、最終的に夫は妻を殺す事によって妻との関係に終止符を打ちます。ここに至るまでの過程には、過激な描写が行われていて、観客の道徳観念を挑発するものであるのは間違いないのですが、それだけしか見なければ、この映画からいかなる解釈も引き出す事は出来ないでしょう。

 

 

b.   というのも、トリアーが男女関係の崩壊を描いているのは確かだとしても、それが女性的なるものの恐ろしさ、女性が自分ではどうにもする事が出来ない獰猛さ、によるものだとする視点にトリアーが無意識的に囚われているかもしれないからです。

 

 

c.   何が言いたいかというと、トリアーが女性差別主義者だという事ではなく、女性 ( ビョーク、二コール・キッドマン、シャルロット・ゲンズブールなど ) こそがトリアーの作品の中心的役割を果たしている事を考えれば、トリアー自身が女性的なものの獰猛な本質の中に、自分の映画作りの真実を無意識的に求めているかもしれない という事なのです。世間体や道徳観念などの枠組みを無視した、あるいは挑発した映画作りは、既存の形式性によって自分の衝動を表すというより、形式性に囚われない衝動をどうにかして表そうという極めて "女性的な" 振舞いであるかもしれないのです

 

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   トリアーの映画の本質としての崩壊作用については、以下の記事を参照。

 

 

 

   それを追求した結果が、既存の物事の崩壊を描くというトリアーの方法なのですね。

 

 

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