哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

フランシス・フォード・コッポラの映画『 地獄の黙示録 』( 1979 )を哲学的に考える

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監督 : フランシス・フォード・コッポラ  

公開 : 1979

脚本 : ジョン・ミリアス  フランシス・フォード・コッポラ

 

出演 : マーロン・ブランド      カーツ大佐

   : マーティン・シーン      ウィラード大尉

   : ロバート・デュバル      キルゴア中佐

   : フレデリック・フォレスト   ジェイ・“シェフ”・ヒックス

   : サム・ボトムズ        ランス・B・ジョンソン

   : ローレンス・フィッシュバーン タイロン・“クリーン”・ミラー

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 地獄の黙示録 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

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 1. ジョン・ミリアス と フランシス・F・コッポラ

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a.   地獄の黙示録この製作過程における幾つものアイディアの挿入と脚本の改変によって繋ぎ合わされた作品が注目されたのは奇妙な感じだった監督のコッポラをして何を主題にして撮っているのか途中で分からなくなったと言わしめた作品がカンヌ映画祭パルムドールを受賞 ( 1979年 ) してしまったのですからそれは争いの絶えない国家でどこかの政権が樹立されるまで主導権の在処が不安定な様にコッポラがこの映画をコントロールするのにどれ程の苦労を味わされたかを察する事が出来る事態だったといえるでしょう

 

 

b.   コッポラが映画化の権利を得る前からジョセフ・コンラッドの小説 闇の奥 』( 1902年 ) を基にしてアイデアを練っていた ( 映画用の脚本を書き始めたのはコッポラが権利を得てから ) ジョン・ミリアスを発端としてこの映画は始まったなので基本的にはこの作品はジョン・ミリアスの脚本を骨子としつつコッポラの芸の細かい改変によって出来上がったのですね

 

 

c.   実際にこの映画は『 闇の奥 』を基本モチーフにしているだけでなく、 原題のApocalypse NowBGMのドアーズ The End爆撃シーンでのワーグナーワルキューレの騎行そしてキルゴア中佐のサーフィンシーンなどの多くの映画ファンの関心を惹いたアイデアが実はコッポラではなくジョン・ミリアスによるのは今日では知られている所ですしかしもし彼がこの映画の監督だったとしたらコッポラほどの重厚さを産み出す事は出来なかったのは間違いないでしょうジョン・ミリアスが自分で監督するよりコッポラの方がジョンのアイデアを生かす演出が出来た事はジョンが監督した映画を観た人であれば納得するはずです

 

 

d.   ジョン・ミリアスの力量では特にジョセフ・コンラッドの『 闇の奥 』でも見せ場のひとつでもあるカーツが死ぬ場面の緊張感を再現出来たかどうかは怪しい観客にとっても分かりやすい戦争シーンが満載の前半よりもいまいちピンとこなくて人気の無い後半のシーンはコッポラでさえ苦労した跡が伺えますからね

 

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 2. 原作を必要とする映画、そしてその逆も・・・

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a.   この記事ではそのカーツの死をクライマックスとするシーンを中心に考えていきます正直コッポラの演出は上手くいっているというよりは説明足らずで分かりにくいでしょうそれは映画と原作の小説との形式的違いがその一因でもあるのですつまり映画は "客観的視線によって支えられるイマージュ" であるのに対してコンラッドの『 闇の奥 』が最も面白くなるのはマーロウの "1人称による圧倒的独白" が続く所でありそれは 主体の中の内的時間とでもいうべきものであって可視化されたイマージュには還元されない何か であるのです仮にそれを可視化しようとすれば"闇" の中でマーロウの声だけが延々と続くという観客には耐え難い結果になるでしょう

 

 

b.   という事でクライマックスのシーンについてコッポラは明確な解釈を提示する事が出来ていないので原作を解釈する事によって補完する必要がありますそれは映画が原作を必要とするという一方的な関係性ではなく原作も映画によって新たな生命を得るという双方性でもあり極めてベンヤミン的な哲学テーマなのです

 

 

c.   なぜこんな事を書くかと言うと現在ではポストコロニアル批評による植民地批判の観点でのみコンラッドの『 闇の奥 』が語られてしまう傾向 ( 原住民への植民地的主義的描写がいくつかあるのは確かですが ) がありそこでは "小説的なもの" が政治的なものが支配する空間に閉じ込められているからですそのような空間では小説はそれ自体を楽しむ事が出来ないつまりベンヤミン的視点では『 闇の奥 』は新たな生命を得る事が出来ないという事でありやがては消え行く傾向に呑まれていく

 

 

d.   そういうベンヤミン的視点に立った時地獄の黙示録 』は製作者達の意図を超えてコンラッドの『 闇の奥 』を現代に甦らせる映画として興味深いものなのですここに原作によって映画の解釈を補完する事の意義があるのですね

 

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 3. 原作から微妙にずれるコッポラの解釈

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a.   カーツが地獄の恐怖について語りながら死ぬシーンこそこの映画のクライマックスと言えるでしょう以下 ( 1 ~ 5. ) は原作にはないカーツのセリフ地獄の恐怖と向き合いそれをどうにかしたいという思いが吐露されている

 

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b.   そして死の直前の有名な "地獄だ。地獄の恐怖だ"  のセリフ原作では "The horror! The horror! "

 

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c.   さてここで原作を知らずに映画を観た人はカーツは死ぬ事を恐れているのだろうかと思うでしょうウィラード大尉が軍の命令によってカーツを殺しに来た事を考え合わせれば原作を読んだ人ならばそうではない事が分かるのですが実はカーツが死を恐れているという解釈は間違っていないのです少なくとも映画に関してはなぜならそれはコッポラ自身が原作から "微妙に" 逸れた解釈を提示した結果だからです

 

 

d.   端的に言うとコッポラは "死""地獄" を同一視しているのです恐れるべきものは "死" なのでありそれはジャングルの奥地で増幅されカーツを狂わせたとコッポラは考えているだから "王殺しという神話的概念" を持込む事によってジャングルの王であるカーツと王を殺しに来たウィラードとを "死" で結びつける三角関係によって話を進めるという脚色を行った訳です

 

 

e.   そしてこのコッポラの脚色はかなり凝ったものになっていますね彼はコンラッドの『 闇の奥 』を骨子とするというジョン・ミリアスのアイデア同じくコンラッド繋がりで T.S. エリオットを接続する事によって表面上は話の流れに一貫性を持たせようとしているのです

 

 

f.   20世紀モダニズムの詩人である T.S. エリオットは詩作においてコンラッドを参照していた事で有名なのですがコッポラはその事を上手く利用しているエリオットを導入する事によって彼が参照していたコンラッドジェームズ・フレイザーの『 金枝篇ジェシー・L・ウェストンの『 祭祀からロマンスへ 』を画面中に一気に登場させ王殺しの脚色を確定させるという教養的荒技を出すのです

 

 

g.   カーツが死に至るシークエンスにおいては皆コッポラの教養に惑わされて引用物に注目する事に留まりそれ以上解釈する事を忘れてしまう ( どれほど多くの批評がそうである事か ) のですが王殺しの脚色はウィラードがカーツの王国に留まらずに外部に戻るという話によって破綻しているという事に注意すべきでしょうなぜなら王殺しの神話は王国の再建・復活というモチーフが必須なのですがウィラードはそういう事に興味を示さないしそもそもカーツは "爆弾を投下してすべてをせん滅せよ" と言っているのです

 

 

h.   そうするとここから読み取るべきは王殺しの脚色はカーツの死にアクセントを付けるためのアリバイに過ぎずコッポラは カーツに忍び寄る死の実存主義的恐怖 を描いたというのが本当の所でしょう王国を築いたカーツは"死" というものが自分の肉体のみならず王国を含めた自分の世界そのものの滅亡である事を望んでいたそれを実現するのが眼前のアメリカ軍の爆撃なのであればコッポラは無慈悲な戦争の中で省みられない個人の世界を死の実存主義に取り憑かれたカーツを通して浮かび上がらせた と言えるでしょう

 

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 4. 映画から原作へ・・・クルツの真実

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a.   さて先程コッポラの解釈はカーツは死を恐れていて "死""地獄" を同一視するものだが原作は違うと言いましたそこではクルツ ( ここでは映画ではカーツ原作ではクルツというように既存の呼び方に倣っている ) は死の間際において絶望こそするものの明晰さを保ちつつ決して死を恐れてはいないのですこの意味でで述べるようにクルツの最後のセリフ "The horror! The horror! " "恐怖だ! 恐怖だ!" とする方が適切でしょう

 

 

b.   クルツが死の間際の深淵の中で覗き見た "恐怖" とは自分が死んで還っていく無の世界などではなくそれどころか人間の存在がそこから産まれる "闇の胎動" だったのです人間の形象などはまだあるはずもなくそこから何かが産まれるであろう予兆としての鼓動が闇に響き渡る幻想をクルツは明晰に "恐怖" と呼んだ のですね

 

 

   以下はクルツの事を語るマーロウ ( 映画ではウィラード役に当る ) の独白

 

" 俺も深淵を覗き込んだことがある人間だからクルツのあの眼差しの意味はよくわかる彼には蝋燭の炎が見えなかったがその眼は宇宙全体が見えるほど大きく見開かれ闇の中で鼓動するすべての心臓を見通せるほど鋭かった彼はいっさいをまとめあげ ー 審判をくだした『恐ろしい!』と" 光文社古典新訳版  p173 ~ 174.

 

" 俺が一番よく憶えているのは俺自身が死にそうになった時のことじゃない眼の前が何も形をなさない灰色一色になって肉体的痛みがみなぎりもうこの痛みを含めてどうせ何かも儚いものだと生きる努力を無造作に投げてしまう境地じゃない違う俺はどうやらクルツが死に際に達した境地を経験してしまったようなんだ" 光文社古典新訳版  p174.

 

" 俺としては自分がもう少しで口にするところだった人生最後の言葉は生きる努力を無造作に投げてしまう言葉ではなかったはずだと考えたいところだそんなものよりはクルツの囁きのほうがいいずっといいあれは一つのことをちゃんと述べていた数知れない敗北と恐ろしい行為の数々と忌まわしい欲望充足という代償によって得られた精神的勝利ではあったがともかく一つの勝利だった" 光文社古典新訳版  p174 ~ 175.

 

 

c.   コンゴの奥地のジャングルは人間存在の源泉の闇と共鳴してクルツの中に正体不明の無意識的衝動として彼を刺激していたおそらくこれこそがクルツの真実であり彼に魅了されたマーロウの真実でもあるのです最後まで闇の正体を見定めようとしていたクルツの言動を見るとこのコンラッドHEART OF DARKNESS 』の邦題は『 闇の心臓"逐語的に" 訳す方が相応しいと言えるでしょう

 

" それからクルツは『ああしかし私はまだこれからお前の心臓を絞りあげてやるからな』と見えない魔境に向かって声をあげた。" 光文社古典新訳版  p169.

 

 

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   ジョン・ミリアスによるB級戦争映画についてはこちらもっとも彼の中ではB

級などではなく戦争大作を作ったつもりなのでしょうが・・・。

 

 

 

 

 

   この "客観的視線によるイマージュ" "主体の内的時間としての独白" こそが映画と小説との形式的差異を表す対立テーゼだと言えるでしょう小説の1人称による独白を映像化しようとする試みはほとんど失敗してしまうこの形式的差異を考慮する事のない観客にとっては全く面白みを感じないという訳ですね

 

 

  その失敗例のひとつがジム・トンプスンによるノワール小説『 おれの中の殺し屋 』を映画化したマイケル・ウインターボトムのキラー・インサイド・ミーです主人公の内的独白の "声" がほぼ失われているもののサウンドトラックの "音楽性" がそれを補っているこの奇妙な映画については以下の記事を参照

 

 

 

 

  哲学者ヴァルター・ベンヤミン ( 1892 ~ 1940 )  は複製技術時代の芸術 』で "オリジナル" の視点から "複製品" について語り ( これをテーゼ A とします )翻訳者の使命 』では "翻訳 ( 複製品 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について語っている ( これをテーゼ B とします )興味深いことにA B では視点が逆になっているのです

 

 

  テーゼ A ではオリジナルが大量工業化社会における複製化に抗う事が出来ないもののオリジナルは複製品によってこそその中に新しい生命を得る ( より多くの人の目に触れる ) とされる

 

 

  テーゼ B では翻訳が原作に忠実である事が翻訳者に課せられた使命とされるただしこの忠実性さというのが問題でベンヤミンは決して読者に読みやすく翻訳する事が原作への忠実さであるなどという常識的な主張をしている訳ではないのですむしろ彼は逐語的な翻訳を望んでいて読みやすさという視点は最初から廃棄されているそれについて解釈するにはジャック・デリダバベルの塔 』を参考にしつつ多くの言語が存在する事自体が言語間の根本的な翻訳不可能性を示しているのを考慮に入れる必要があるのですつまり逐語的翻訳で明らかになる読みづらさこそが根本的に翻訳不可能な言語間の隔たりを乗り越えて原作が新しい生命を得ようとする際の唯物的振舞いであると解釈しなければならないのです

 

 

  以上の A B を踏まえてここで避けるべき過ちはテーゼ B に依拠して映画は原作に忠実であるべきだという結論ですそうではなく少なくとも1人称形式が多用される小説と映画ではその存在形式が違うのだから ( "視線によって支えられるイマージュ""主体の内的時間としての独白" との違い )根本的に原作に忠実である事が出来ないいやそこでは忠実さという考え方自体に意味が無い

 

 

  むしろ映画の場合は翻訳と違って原作を自由に解釈すべきなのですその結果生じる原作との隔たり軋轢裏切りなどが根本的に移行が不可能な映画と小説との媒体的差異を明らかにしそれを乗り越えて出来た映画にこそ小説の新しい命が宿ると考えられるのです

 

 

   つまり原作  ( 小説 ) の映像化という紋切り型 ( 商業的意味での ) は複製的な範疇に収まるものなの ( テーゼ A ) ですが異なる媒体への移行作業である映画化においては解釈の自由性が必要となるのですねこれこそ映画におけるテーゼ B の変形ヴァージョンとしての新しいテーゼ C "移行物 ( 映画 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について考えるというものなのです

 

 

 

  この "The horrorThe horror " は現在日本語訳の最新版である光文社古典新訳の『 闇の奥 』( 2009 ) では "恐ろしい! 恐ろしい!" となっている ( p171 )この形容詞的翻訳ではクルツ自身の恐怖の心情を表していると受け止められかねないのでこの部分に関しては中野好夫による訳 "地獄だ! 地獄だ!" ( 岩波文庫 1958年 ) の方が適切でしょう

 

 

  なぜならクルツは死の間際で死ぬ事の恐怖を "感じた" のではなく彼が生前から生活してきたジャングルの中で漠然と感じた闇を今まさに "見た" という事を訴えているからです彼は "地獄を目撃した" と言っているのですねそうすると "The horror! The horror!" は素直に名詞的に "恐怖だ! 恐怖だ!" と訳した方がいい訳ですとはいえ光文社古典新訳版の黒原敏行の訳はこれまでの先人の業績も踏まえたものになっているので現状では一番お勧めです

 

 

 

   コッポラはカーツにコンラッドの詩『 うつろな人々 』を朗読させているのですがその『 うつろな人々 』では『 闇の奥 』の一節 "クルツの旦那 死んだよ ( 光文社古典新訳版 p172 ) " が引用されているここでコッポラは "入れ子構造" を導入するというちょっとした遊びを披露しているのですねそれはつまり『 闇の奥 』の後年に書かれた『 うつろな人々 』を『 闇の奥 』を原作とする『 地獄の黙示録 』というさらに後年の映画において導き入れる事によって『 闇の奥 』と『 うつろな人々 』を同時代で遭遇させている訳です

 

 

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