哲学的抽象機械

映画・哲学・音楽について考える

アンドレイ・タルコフスキーの映画『 サクリファイス 』( 1986 ) を哲学的に考える

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監督 : アンドレイ・タルコフスキー  

公開 : 1986

 

出演 : エルランド・ヨセフソン   ( アレクサンデル

   : スーザン・フリートウッド  ( アデライデ / アレクサンデルの妻

   : グドルン・ギスラドッティル ( 召使マリア

   : スヴェン・ヴォルテル    ( 医師ヴィクトル

   : トミー・チェルクヴィスト  ( アレクサンデルの息子

   : オットーアラン・エドヴァル ( 郵便配達員

   : フィリッパ・フランセーン  ( マルタ / アレクサンデルの娘

   : ヴァレリー・メレッス    ( 小間使いユリア

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 サクリファイス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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 1.   イデオロギーによって誤解されるタルコフスキー

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a.   アンドレイ・タルコフスキーほど、その作品の過激さが見落とされている監督はいないのではないでしょうか。皆、口を開けば "詩的映像の素晴らしさ" と言うし、この『 サクリファイス 』に限っても、核戦争の描写や、公開直後のチェルノブイリ原発事故などを含めて "核時代への反メッセージ" と "救済" が示されているなどのイデオロギー的解釈がもはや定番だといえるくらいになっていますね。

 

 

b.   もちろん、そういう解釈から環境的視点で人間の生存について考えていくのは大切なことだとは思いますけど、それはもうタルコフスキーの作品からは離れている事を意識すべきでしょう。つまり、そこで語られているのは、平和的イデオロギーなのであって、タルコフスキー作品の内在性は全く語られていないという事なのですね。違う言い方をすれば、なぜタルコフスキー "作品" を解釈しようとしないのか という事です。その点を踏まえて『 サクリファイス 』について考えていきましょう。

 

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  2.   いくつかの場面・・・

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 a.   やり取りをした郵便局員が自転車で帰っていくのを背景に、言葉を発せない息子が呻きながらこちらに歩いてきて、アレクサンデルが言葉を投げかけるシーン。

 

" おや 何を呻いているんだ? "

" 初めにことばがあったと言うがお前は黙っているしかない。魚のように "

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   " 初めにことばがあった " というのは言うまでもなく 新約聖書ヨハネ福音書 のもの。次に " 魚のように " というのは、魚が初期のキリスト教徒のシンボルであり、エス を意味した事を踏まえている ( ヨハネ福音書の中にもイエスの魚にまつわるエピソードがある )。つまり、アレクサンデルが息子をキリストに見立てているのを示唆しているのですね。このことはラストの場面において大きな意味を持つのでそこで述べましょう。ちなみに、しゃべる事の出来ない息子が最後で言葉を発するのを "奇跡" として解釈する人がいますが、残念なことにそれは間違いです。以下のシーン10. の後でヴィクトルは口の中の手術で一時的にしゃべれなくなっている息子の術後経過を見て "あと1週間もすればしゃべれる" と言ってるので。

 

 

b.   アレクサンデルが息子に語りかけているところに彼の妻と医師のヴィクトルが来るシーン。

 

 " あの独白は好きじゃない "  by  ヴィクトル

 

   シーン9. のヴィクトルのセリフからアレクサンデルは独り言が多いことが分かりますね。

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" 私の坊やよ "  by  アデライデ

" 〈 私たちの 〉だろ "  by  アレクサンデル

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c.   このシーン11~12. のセリフを意味があるものとして受け止めるか、何となくスルーするかで以降の解釈は変わってくるので注意が必要な所です。おそらく妻は息子のことをアレクサンデルとのものではない事を無意識的に示しているのです。それに対してアレクサンデルは息子とは血縁関係がない ( ということは別人が父親という事になるのですが・・・) 事を分かった上で、育ての親という意味で "私たちの" といっている可能性が高いのです。この解釈は後でアレクサンデルがマリアと性交する事の意味に関わってきます。

 

 

d.   独白を延々と続けるアレクサンデル。でもこれらのシーンにもこの映画を解釈するヒントが隠されているので無駄に長くて退屈だなんて思わないようにしましょう。

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   シーン16 ~ 23. によってアレクサンデル自身も自分が話をするだけで何も出来ない男だと自覚している事が分かりますね。別の言い方をすれば、精神的に彼にとっては話し続ける事が何かを為し得ない事の代替行為になっている。つまり、話し続ける事で、何らかの行為から目を逸らす事が出来ている という訳です。

 

 

e.   では、その行為とは一体何でしょう。舞台俳優を辞めた今も、評論家などの仕事があるので何もすることがないという意味ではありませんね。何か、を行為する事が出来ない ( こう話すと、何が出来ないのか薄々気付く人もいるでしょう ) のです。話す事ではない本当の意味 ( 彼にとっての ) での行為へ一歩踏み出そうとして彼は悩んでいるという状態なのですね。このポイントを見失ってしまうとこの映画は全く理解出来ないものになるので注意しましょう。

 

 

f.   独白を続けていたアレクサンデルに、息子がじゃれ合おうと後ろから近づいてくるシーン。勢いが付きすぎて、息子はアレクサンデルの後頭部に顔をぶつけ鼻血を出してしまう。アレクサンデルは鼻血を流す息子の顔を見ながら、ぶつかった時の衝撃で気を失い倒れる ( シーン30. )。

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  シーン29.30. 、そして以降に続くシーン31 ~ 34. には注意しましょう。なぜなら、ここからこの映画の核心が動き出すからです。その核心とは、アレクサンデルの "妄想" に他なりません。多くの人はこの辺りのシーンを軽く見過ごしてしまう為、以降の話の展開を解釈する事が出来なくなってしまうのです。

 

 

g.   アレクサンデルが失神して妄想の世界に入っていくこれらのシーンで押さえておくポイントがあります。ひとつは、シーン29. つまり、アレクサンデルが鼻血を流す息子を見るショット ( これはアレクサンデル自身の視線を表す ) が、彼の妄想が、少年時代への回帰 を伴うのを仄めかしているという事。もうひとつは、モノクロシーン31 ~ 34. が彼の少年時代に、戦争か、テロか、災害か、は分かりませんが幼い彼にとっては 破滅的な出来事があった のを示しているという事。そして大切なのは、彼の妄想が、少なくともマリアとの性交シーンの後、ソファの上で目が覚めるまで続くという事です。 

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h.   さて以下のアレクサンデルがマリアとセックスする ( おそらく最後までは出来ていない ) 問題のシーン。何が問題かというと、セックスのシーンが倫理的にどうなのかという事ではなく ( なぜなら物議を醸すような直接的描写はないので ) 、核戦争が起きた世界を救うためにマリアとセックスしなければならないという理屈 ( 郵便配達員の話 ) が荒唐無稽だとして私達に真面目に受け止められていないという事です。でも、残念ながらそれが荒唐無稽に思えるのはこの映画の解釈が出来ていないからなのです。

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  よく見るとアレクサンデルの様子が様子がおかしい事に気付きます。それは皆を救うためにセックスして欲しいというお願いの荒唐無稽さ故に、自己卑下的になっている ( ほとんどの人はそう解釈している ) からではなく、僕を抱いて下さいという受身のセックス願望、別の言い方をすると、自分からは積極的にはセックス出来ない "不能" を匂わせてしまっている からです。これこそ、行為する事が出来ずに彼が悩んでいた "何か" だったのです。とはいえ、これを単なる不能男の妄想話だと矮小化して片付けてしまう訳にはいかないでしょう。そうさせないだけの理屈付けをタルコフスキーは成し遂げているのですから。それについては後で述べるとして、セックスのシーンを続けて見ていきましょう。

  

 

" うまくいきますわ。うまくいきますわ "  by  マリア

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i.   度々繰り返されるマリアのセリフ "うまくいきますわ、うまくいきますわ" を始めとして、シーン41 ~ 46. がアレクサンデルのセックスに対する恐れ ( セックスする事が出来ないという ) を示しているのは明らかです。このマリア主導のセックスシーンの異様さをどう解釈すべきなのか。これについては以下の場面も含めて考えていきましょう。

 

 

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j.   このセックスシーン直後のモノクロのフラッシュバックは、アレクサンデルの失神後の妄想の世界を示すシーン31 ~ 34. の続きです。これによって彼の妄想の世界が如何なるものなのか推測する事が出来ますね。

 

 

k.   彼の妄想の世界は、少年時代への回帰とそこでの破滅的な出来事の体験というポイントがあると先に指摘しました ( シーン31 34. について )。それらは 少年時代の体験 という事に集約されるのですが、このシーン47 ~ 52. によって、そこにもうひとつの体験・・・すなわち 母からの性行為の強要 ( その結果、セックスが出来なくなった )、が加わり文字通り "複合的なもの ( コンプレックスという語の元来の意味 )" になっているのです。

 

 

l.   そして重要なのは、彼の妄想の世界では、少年時の何らかの破滅的出来事 ( 戦争、災害、テロ、などの ) と母からの性行為の強要が "短絡 ( ショートカット )" によって結びつきコンプレックス ( 複合的なもの ) の源泉となっている、という事です。

 

 

m.   そして、その短絡こそがマリアとセックスする事が世界を平和にするという一見荒唐無稽な理屈を可能にするのです。細かく説明するならば、短絡によって結びついたふたつの事柄を行為化 ( アクティングアウト ) によって乗り越えるという事です。この場合、行為化とはセックスするという事に他なりませんね。フラッシュバックシーン52. を見れば母親がマリアとそっくりで、アレクサンデルがマリアに母親の面影を見ていた事がわかります。だからこそ、マリアとセックスする事で母からセックスを強要されたという忌まわしいトラウマ  ( 不能の原因 ) を払拭しようとした のであり、世界を救うとはそれに成功した事を意味する という訳なのです。

 

 

n.   しかし・・・アレクサンデルにセックスを強要する母の呪縛は彼の妄想の世界では乗り越える事が出来なかった ( つまりセックスする事が結局出来なかった ) 。彼の " 私には・・・できない・・・ " というセリフからそれが分かりますね。彼がソファで目を覚ます直前に響く母の声には不気味なものが漂ってます。しかし、母の声に背景にレオナルド・ダ・ヴィンチの『 東方三博士の礼拝 』が映るシーン53 54. では、別の解釈が現れようとしているのが示唆されています。

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o.   さて、ここでアレクサンデルの妄想の中で、娘マルタが馴染みの医師ヴィクトルを誘惑するシーンについて触れておく必要があるでしょう。下着姿のマルタがヴィクトルを誘惑するけど、ヴィクトルは慌てて逃げ出すという短いシーンです。そこで実際にセックスが行われたどうかは判断出来ませんが、娘のマルタであっても母親のような魔女性を備えているのではないかというアレクサンデルの恐れが投影されている事と、ヴィクトルがアレクサンデルの家族 ( 妻と娘、そして息子です・・・) に深く関わっている事が推測出来ますね。アレクサンデルが不能である事を考えれば、彼の家族とヴィクトルの口に出せない関係性が自ずと分かってくるでしょう。その関係性がシーン11 ~ 12. で仄めかされているのです、アレクサンデルと妻の間にヴィクトルが立つという構図によって。それと妻のセリフとそれに対するアレクサンデルの返答ですね。

 

 

p.   そこら辺は、はっきりと描写されている訳ではないので、推測の域を出ないのですが、少なくともアレクサンデルは自分を家族関係から弾き出している ヴィクトルー妻ー娘 の三人組とは別に、息子と象徴的な意味 ( 血縁的な意味ではなく ) での繋がりを築こうとしているのです。つまり、彼は血の繋がりはなくとも象徴としての父親になろうとしていた。そのために彼が取った行動が 息子に語りかけ、話続け、息子の中に "言葉" を残す事 だったのです。

 

 

q.   そして、その 言葉こそが、アレクサンデルから息子への贈物に他ならなかった。ただし、その贈物には "犠牲 ( サクリファイス )" が欠けていた。贈物には犠牲が伴うと言ったのは、アレクサンデルに高価な地図をプレゼントした郵便配達人のセリフですが、アレクサンデルは少年時代のトラウマを清算する、つまり肉欲に囚われている自分を乗り越える、事によって犠牲を払おうとした。そうする事によって初めて "言葉" を贈物として息子に与えようとしたと解釈する事が出来るのです。決して世界を救うために自分を犠牲にしたなどと誤解すべきではないでしょう。ましてや、マリアとのセックスで世界に平和が訪れたので神との約束を果たすべく、犠牲として家を燃やしたなどというよくある解釈 ( 多くの評論家はそう解釈している、残念な事に ) は全く筋が通っていないと言うべきです。

 

 

r.   彼が家を燃やしたのは、妄想の中で母にセックスを強要されるというトラウマを乗り越える事が出来ず、そのために目が覚めた 現実世界での行為化 ( アクティングアウト ) として選択された最悪なものだった という事です。行為化のために彼が選択した家への放火は、取り返しがつかないという意味で少年時代に体験した惨事を繰り返したに過ぎず、結局はトラウマを乗り越える事ができなかったのです。

 

 

s.   それどころか、彼は狂気に至っていると家族から思われ、追い掛け回された挙句、捕まえられ救急車で運ばれてしまうという事態は余りにも救いがないのかもしれません。

 

 

t.   家族に隠れて、彼らがいなくなった隙に自宅に火を点けるアレクサンデル。家族と世界を救うために犠牲を払ったとはとても解釈出来ないでしょう。それこそ家族はいい迷惑です。

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u.   狂気的な行動をする父親を救急車に乗せようとする家族達。つかまるまいとして逃げ回るアレクサンデルと追いかける家族達。タルコフスキーが意図したかは分かりませんが、このシーンは喜劇的な調子を帯びていて思わず笑った人もいるでしょう。

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 3.   タルコフスキーの恐るべき力業

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a.   この話は基本的にはアレクサンデルのトラウマを解消しようとする妄想世界での試みなのですが、それが結局失敗してしまい、現実世界で自宅への放火という最悪のアクティングアウトを選択してしまうというものです。こう書くと、物語の重心は、トラウマとその乗り越えというよくある精神分析テーマへと傾きがちになりそうなのですが、驚くべきことに、タルコフスキーはそこに "息子" を媒介にした聖書のテーマを接続する事によって、違う話に書き換える という荒業を見せてくれるのです。

 

 

b.   ここでいう聖書とは新約聖書ヨハネ福音書 に他なりません。映画の冒頭でアレクサンデルが言った "初めに言葉があった" が記されているものですね。しかし、なぜヨハネ福音書なのかと思う人もいるでしょう。それには新約聖書におけるヨハネ福音書の特殊な位置付けについて考える必要があります。

 

 

c.   ヨハネ福音書の特殊性は、しばしば問題とされた神の子であるはずのイエスの謎めいた出生を、書き換えてしまった所にあります。それまではイエスの神性は、聖霊によるマリアの 処女懐胎 というおよそありえない苦し紛れの出生話によって保障されてました ( マタイ福音書とルカ福音書 )。この点を踏まえると、アレクサンデルのマリアとのセックスの失敗は、最初から不可能なものとして失敗する運命にあった と解釈する事も出来るのです。

 

 

d.   しかし、アレクサンデルについての話を、処女懐胎の補助線で理解しようとすると、"現実の息子" をどう理解すればいいのかという問題にぶつかりますね。まさか息子が処女懐胎で生まれたという事はありえないので。

 

 

e.   ここで必要になるのがヨハネ福音書の特殊性です。端的に言うと、ヨハネ福音書は、肉体的なものによる神性の保障 ( 処女懐胎 ) という考え方とは手を切っている のです。そこで代わりに現れているのが、言葉という象徴的なもの ( ヨハネ福音書の前半 ) と非現実的なもの ( ヨハネ福音書の後半 ) です。この内、非現実的なものとは、死んだイエスが復活して弟子の前に姿を現すというものであり、信じられるものではないでしょう。それよりも、注意したいのは前半の、言葉という象徴的なものによって世界の始まりを書き直してしまっている ( 創世記とは違うやり方で ) という事です。

 

 

f.   ヨハネ福音書の最初を引用してみます。

 

" 初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった "

 

ここから理解すべきは、イエスの神性は、その出生由来によって保障されるのではなく、言葉によって保障される という事です。なぜなら言葉は特定の誰かの所有物ではなく、言葉自体が神であるからだという理屈なのです。そこでは、イエスは神から遣わされた者であり、神の言葉を伝える者だという訳です。

 

 

g.   そうすると、そこでは出生や血筋はもはや問題とはならない。いや、出生や血筋に問題があったとしても、"言葉" に耳を傾ける者は誰であれ神の "息子" になる事が出来る のです。それこそが言葉の重みを知っていたアレクサンデルが息子に語り続けた事の意味なのですね。息子が血の繋がりのある者でなくとも、アレクサンデルは言葉を彼に贈る事によって、神に祝福される "息子" に育てようとした。そのために彼は犠牲を払ったのです。そして息子は父の言葉をしっかり聞いていた " 初めに言葉があった。でもなぜ、父さん・・・ "

 

 

h.   アレクサンデルの妄想世界から始まった自宅への放火という最悪のアクティングアウトが、息子の神性へと繋がっていくこの驚くべき展開 は、 まさにタルコフスキーならではの力業というしかありませんね。詩的な映像表現、卑猥な妄想世界、そしてキリスト教的モチーフが絡み合った世界観は、聖性と暴力性が分かち難く結びついたタルコフスキーの哲学を示しているという事が出来るでしょう。これこそが多くの人が気付かずに見落とす所なのです。ちなみに、デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアータルコフスキーにオマージュを捧げているのはよく知られる所ですが、それは暴力性のある映画でしばしば非難される彼がタルコフスキーの隠れた本質を見抜き、それに共感しているからなのですね。

 

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