〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヒッチコックの映画『 サイコ 』( 1960 ) を哲学的に考える

 

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監督  アルフレッド・ヒッチコック  

公開  1960 年

脚本  ジョセフ・ステファノ

原作  ロバート・ブロック

出演  アンソニー・パーキンス   ( ノーマン・ベイツ )

    ジャネット・リー      ( マリオン・クレイン )

    ジョン・ギャビン      ( サム・ルーミス / マリオンの恋人 )

    ヴェラ・マイルズ      ( ライラ・クレイン / マリオンの妹 )

    マーティン・バルサム    ( アーボガスト / 私立探偵 )

 



 1章  母を自分の中に取り込むノーマン・ベイツ

 

『 サイコ 』においては、マリオン ( ジャネット・リー ) が殺害されるシャワーシーンこそ最も有名なのですが、ここではノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) が殺人行為に至った背景にある "母親との同一化" について焦点を絞って考えていきましょう。とはいえ映画の中で、既に事件についての精神分析が細かく披露されるシーンがあるので、それ以上必要あるのかと思う方もいるかもしれません。しかし、それを下敷きにして別の視点から考える事も可能なので話を進めていきます。

 

警察はノーマン・ベイツ逮捕後、分析医の話を聞いて以下のように説明します。ノーマン・ベイツが母と同一化するきっかけとして、彼が10年前に母とその愛人を殺した事件を挙げている。愛人が出来た母に捨てられると彼が考えたからという。

 

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さて、ここから以下のシーンでの説明には注意する必要があります。

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ノーマンが母の役を振舞うようになった、という説明で抜け落ちているが重要なのは、彼が母の声色を使ってその役に成り切る という事です。もちろん姿を見せない母の声色が私達に聞こえるというのは、ノーマンと母親の組合せに何か怪しい所があると予期させるのに十分な効果があるものなのです。そして私達は母の声に不安を引き立てられる …… つまり、その母の声は普通のものではない、という事に薄々気付くのです。

 

実際は母は既に死んでいてノーマンは1人2役で母の声色を演じていた事にああそういうことかと最終的に思うかもしれませんが、哲学的に考えるにはそこで母の声の不気味さを捨て去るべきではありません。その母の声は私達が聞く以前に、ノーマンが聞いていたものです。それはノーマン自身が話しているにも関わらず、声色を変える事によって他人 ( この場合は母親 ) が話しているかのように錯覚して聞く "1人称の主体の崩壊作用" が含まれているものです ( *1 )。だからこそ私達はその声に不気味さを感じるのです。

 

もちろん母の声の不気味さは精神分析的に母なる超自我のものとして、エディプスコンプレックスに囚われたノーマンを強く規定するというように解釈する事も出来るのですが、その解釈ではシーン11~26.で説明する警察のように無意識的にノーマンを擁護しかねない危険性 ( 母という別人格が犯罪を起こしたという情状酌量 ) に陥る可能性があるでしょう。

 

それの何が危険かというと、ノーマンはエディプスコンプレックスから、別の欲望の回路が作動する "殺人の領域" へと一線を飛び越えてしまっているからです。つまり、母親と愛人、そしてマリオン、アーボガストを殺害したノーマンは "連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としての主体" を秘かに打ち立ててしまっているのです。そこでは エディプスコンプレックスという精神分析解釈が、殺人行為の快楽を隠す "アリバイ" になってしまっている危険性があります。もちろんエディプスコンプレックスが無駄な解釈という事ではなく、当初はそれが妥当なものであっても、ノーマンはそこから殺人の欲望が働く領域へと既に移行してしまっている という訳です。

 

( *1

"1人称の主体の崩壊作用" は、エディプスコンプレックスなどの精神分析的解釈とは違う側面からのアプローチです。一見すると、主体は分裂しているかのように思えるのですが、行為の遂行 ( ここでは殺人行為 ) の点からすると、極めて明晰な意志が基になっており、それは自らのアリバイを常に探している とさえ言えます ( 例えば、複数の人格を有する事によって責任を負う主体である事を放棄し残酷な行為を可能にすること )。

 

この1人称の主体の崩壊作用については、以下の記事でも参照。哲学者ジャック・デリダ"差延" の概念を借りて説明を展開。

 

 



 2章  連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としてのノーマン・ベイツ 

 

精神分析的解釈を逃れて、そのような連続殺人鬼の快楽がほとんど見過ごされている ( *2 ) ところに『 サイコ 』の真の恐ろしさがあると言えますね。それは見えないものであるからこそ『 サイコ 』を 裏から強く規定していた のですが、『 サイコ2 』、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』と続編が出来るにつれ、連続殺人鬼としての本性が露骨に表れ作品の神秘性が失われていった ( *3 ) のは事実でしょう。しかし、それは『 サイコ 』の中にその要素が内包されていた事の証明とも言えますね。

 

母親を隠れ蓑にしたノーマンの殺人鬼振りが仄めかされているシーン32. のノーマンの薄ら笑いは隠れた本性を示す以外の何物でもない。おそらくヒッチコックはノーマンがエディプスコンプレックスから抜け出せない事を示したかったのですが、アンソニー・パーキンスという俳優の "狂気性" がヒッチコックの意図を超えてノーマン・ベイツに快楽殺人者としての資質を備えさせた と解釈出来るでしょう〈 終 〉。

 

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( *2 )

そのような殺人鬼の快楽が上手く隠された映画の例としてクリストファー・ノーランの『 メメント 』を挙げておきましょう。この映画を観たほとんどの人が、自らの記憶障害を利用する主人公レナードの "悪意" に気付かないままでいる。以下の記事を参照。 

 

ノーマンや レナードとは対照的に、殺人鬼の快楽をストレートに告白しているのが、アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』に登場する連続殺人犯のブレア・サリバン。

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 アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

( *3 )

それでも『 サイコ2 』までは一般的な観客への訴求力があると思いますが、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』に至っては完全にマニアックなものになっていますね。