哲学的考察と備忘録

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アンドレイ・タルコフスキーの映画『 ストーカー 』( 1979年 )を哲学的に考える

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監督:アンドレイ・タルコフスキー  公開:1979

脚本:アルカジイ・ストルガツキーボリス・ストルガツキー

 

出演:アレクサンドル・カイダノフスキー ( ストーカー )

  :アリーサ・フレインドリフ     ( ストーカーの妻 )

  :アナトリー・ソリニーツィン    ( 作家 )

  :ニコライ・グリニコ        ( 教授 )

  :ナターシャ・アヴラモヴァ     ( ストーカーの娘:通称 "猿" )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 ストーカー 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1.   人間の象徴としてのストーカー

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a.   突如現れた "ゾーン" への案内を仕事とする "ストーカー" ( この映画では案内人の意【 ※1 ) が連れて来た "作家" と "教授" の2人によってゾーンの部屋 ( 願いが叶うといわれる ) の手前で非難されるシーンがあります。今回はこのシーンから考えてみましょう。

 

誰かに悪用される事を恐れ、部屋を爆破しようとする教授と作家に対して憤るストーカー。

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 そんなストーカーを非難する作家。

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そして部屋に入ろうとしないストーカーをさらに非難する作家。

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それに対して自分を卑下しながら自己弁護に終始するストーカー。

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ストーカーに対して願いが叶うという部屋の本質を説く作家。

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b.   ストーカーのセリフ ( 1.~4.、13.~24. ) を見ると、彼に宗教色が濃く現れているのが分かりますね。これは意図的なものなのでしょうが、注意しなければならないのが、タルコフスキーはここで宗教批判をしようとしている訳ではないという事です。

 

c.   彼は "宗教的人間" を非難しようとしているのではなく、宗教というイデオロギーを通じて "余りにも人間的なもの" を批判しようとしているのですね。これこそタルコフスキー隠れた哲学的テーマだといえるでしょう。タルコフスキーへの言及のほとんどが "映像表現の凄さ" などに留まっている現状では、その哲学的深みを味わう事は出来ないので、せめてここでは哲学的アプローチによってこの作品を理解しようという訳です。

 

d.   この作品においてストーカーは "余りにも人間的なもの" の象徴になっています。通常の考えだと、ゾーンの部屋に興味を持つ教授と作家こそ人間的なものの象徴であり、部屋に入る事を拒否するストーカーは違うんじゃないのと思うかもしれません。しかしタルコフスキーは部屋への案内だけに固執して、その中に入ろうとしないストーカーにこそ人間の本質 ( 否定的な意味で ) が現れていると考えるのですね。シーン 9.~12. の作家のセリフにそれが現れています。

 

e.   願いが叶うといっても、それが本人の無意識的な願望であるという事になれば、ゾーンの部屋とは制御の効かない機械 ( 本人の表面的な願いを裏切るので ) のようなものでしかない。教授と作家はその事を理解したのですが、最悪な事にストーカーはその事に薄々気付いているにも関わらず、宗教的情熱でもって自らを正当化しようとする ( 13.~24.)。ここには "余りにも人間的なもの" の盲目性が現れているといえるでしょう。

 

ゾーンから帰ってきたストーカー。相変わらずというか、さらに頑なになった気がする。

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2.   " ゾーン" から "家族" へ

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a.   ゾーンからの帰還後は、ストーカーはそれまでの教授と作家との3人組から抜け出て、妻と娘との3人組へと帰っていきます。つまり、ゾーンを巡る舞台は、ストーカー、教授、作家、の "人間関係" を描いたものから、ストーカー、妻、娘、の "家族関係" へと移行しているのですね。そう、お気付きのように、ここではゾーンそれ自体は "人間関係と家族関係" を描くのに必要な "要素" に過ぎず、ゾーンの秘密など何の問題にはならない。ゾーンに何らかの秘密があるかのようなSF的詮索にはタルコフスキーは何の興味もないのです ( まあストルガツキー兄弟の原作にもその秘密はないのですけど )。このようなSF的設定を媒介にしたタルコフスキーの人間関係の描写については『 惑星ソラリス ( 1972 ) 』も同様です【 ※2

 

b.   ストーカーの妻が夫について語る場面。注意が必要な所です。

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c.   もし、これを妻による夫の擁護として家族関係の中でのストーカーの救済だと "誤解" してしまうと、タルコフスキーの隠れた狂気性を見落とす事になる ( 実際、タルコフスキーを魂の救済者のように誤解する人は多いかも【 ※3 )。彼はあくまで "余りにも人間的なもの" の批判的描写を冷徹に行っているのであり、そのために家族関係というものを切り捨てるどころか、そこで何が起こっているのかを見極めようとしているのです。

 

d.   その結末として彼は、ストーカーの娘の超能力開花の場面 ( テーブル上のグラスを念力で動かす ) を描く事によって、家族関係を含む "余りにも人間的なもの" の不気味さを強調しているのです ( そういう解釈でなければ最後の場面は理解出来ない程の異質性を放っている )。詩的映像表現とそれを裏切るかのような暴力的な哲学性との二律背反的な同居こそ、タルコフスキーの恐るべき作家性を示しているといえるでしょう。

 

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【 ※1

stalk の元々の意味は、敵や獲物にそっと忍び寄るという事。なので stalker とは獲物に忍び寄る人の意。ストルガツキー兄弟の原作では、ゾーンに存在する様々な物を違法に漁って売り飛ばす者達の事を指すので意味は合うが、タルコフスキーの映画ではゾーンへの案内人になっているので意味に違和感が生じる。もちろんこれは彼が原作を好きなように脚色している事の結果。

 

【 ※2

惑星ソラリス 』( 1972年 ) について書いた当ブログの記事を参照。タルコフスキーの映画における哲学的手法は以前から変わりないことが分かります。 

 

【 ※3

そのような見方は、宗教色が顕著になる1980年代のタルコフスキー作品『 ノスタルジア 』『 サクリファイス 』から現れたもの。つまりソ連からの亡命後ですね。それまでの作品には、宗教的要素はありながらも、それに取り込まれない哲学性が際立っていた。そういう意味でストーカーはその分岐点にある作品だったといえます。1980年代のタルコフスキー的視点からすると、『 ストーカー 』は魂の救済的作品ということになるのでしょうが、前作の『 惑星ソラリス 』から続く視点では、宗教色に抗う哲学的狂気性が描かれているという事になるでしょう。

 

僕個人的な考えでは後者の哲学性によって『 ストーカー 』を考えるべきだと思いますね。いや、『 ストーカー 』だけでなく、『 ノスタルジア 』や『 サクリファイス 』でさえそう考えるべきでしょう。魂の救済的視点では、『 ストーカー 』のラスト ( どう見ても異様な娘の超能力が開花するシーン ) を神的なものの降臨などとというとんでもない解釈が出現する危険性があるのです ( 実際、よく分からずにそう解釈する人もいる )。

 

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