哲学的考察と備忘録

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)からの続き。

 

 

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a.   先に述べましたが、手紙の受取りが上手くいかない場合がありえるように象徴空間が十分に構造化されていないのであれば、事態はどうなるのでしょう。言語を媒介にした対人関係としての象徴空間においては、手紙という記号表現とその行程は人間関係という結びつきを保障するはずだと精神分析的には考えれられるはずです。しかし、同時にその記号表現は 並行しているが故に上手く交わらない二つの事態、つまり〈 差出す事 〉〈 受取る事 〉をも奇妙に結び付けている奇妙な記号表現だとも考えれられるのです。なぜ上手く交わらないのでしょう。〈 差出 〉から〈 受取 〉への行程とは見通しの良い舗装された純粋な交通路ではないのでしょうか。それともそこは気付かれずに通過されてしまうものがあるのでしょうか。

 

b.   まさしくそこで分岐点となるのは 文字としての〈 手紙 lettre 〉の概念をどう考えるのかという事です。これをラカンが言うところのシニフィアンの物質性、つまり分割不可能なものとしての〈 手紙=文字 〉の理念的同一性( lettre文字という意味も持つことから手紙はバラバラになっても、つまり単なる文字の集まりになっても手紙であるというラカン的解釈 )として受け止めるのではなく、手紙の理念性から逃れていく文字それ自体の( シニフィアンの、ではない )物質性として受け止めようと僕は考えます。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉とは、主体へと円環状に向かい再自己固有化する記号表現の理念的物質性により普遍的なものにまで高められた精神分析の公理ですが、もし文字としての〈 手紙 lettre 〉が記号表現という普遍性の中においてその理念を保障する特殊なものではなく、〈 手紙 - lettre 〉から〈 文字 - lettre 〉へと自らの属性を分割・分離して普遍性から遠ざかっていく特殊なものであるとしたら、どうでしょうか。

 

d.   記号表現の換喩的な横滑りの行程には乗らずに、〈 手紙 - lettre 〉という理念を構成する他性的( "手紙" から見て )なものとしての物質である〈 文字 - lettre 〉へと転移させる事で、自らを保留し何者からも離れて宙吊りにする。それは切り離され何者も手を出せないひとつの "物質性" となって "書き込まれた事実" を示し、そのような書き込むという行為があった事、そしてそのような行為を成した者を浮かび上がらせる。私であれ、あなたであれ、〈 書く 〉という行為はひとつの事実を産み出す事であり、〈 文 - lettre 〉とはたとえそれを書き込んだ者が消えてしまおうとも、自らの痕跡を刻むものなのです。そしてそこからその事実に関わるものを生起させるのです。

 

e.   その意味でそこには〈 死 〉がある。〈 書かれたもの 〉という事実とともに、あるいはその傍らに、書き込む者の〈 死 〉だけではなく、書き込まれた者( つまり宛名 )の〈死〉もある・・・。

 

f.   これはジジェクが言うような〈 死 〉が私達すべてに訪れるという意味で〈 手紙=死 〉は必ず〈 宛先=私達 〉に届くという事ではありません。洗練されているように見える考え方ですが、〈 象徴的負債=死 〉清算とは誰にでも共通して平等に訪れるという意味で不安を煽りながらも予定調和的な〈 死 〉でしかありません。しかし〈 宛名 〉における〈 死 〉はもっとラディカルな事態を示しているのです。

 

 

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)へ続く。

 

 

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