〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 1 〉

 

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 1. 精神とは幽霊ではないのか?

 

a.   ヘー ゲルにおいて〈 精神 〉とは〈 幽霊 〉の意味を含んではいないのでしょうか。なぜ、そう考えるかというと、ヘーゲルが強力に練り上げた概念である精神、そのドイツ語が持つ意味のひとつとしてあるはずの幽霊が文字通り幽霊的に彷徨っているからです。それはドイツ語だけではなく、英語やフランス語のヘー ゲル翻訳においてもそれは自らの居場所を消して〈 幽霊 〉として彷徨っている。しかし、それはヘーゲルが精神の語から〈 幽霊 〉を意図的に排除したからではなく、自らの哲学のために精神を純粋概念として抽象化した結果としての事だといえます。それは哲学的概念の練上げ作業の過程において、創造された概念としての〈 精神 〉に別の意味( この場合は幽霊 )がまさに幽霊的に付き纏っているという事にもなるのです。

 

b.   ヘー ゲルは間違いなく〈 精神 〉という哲学概念を創り出した。ヘーゲル自らの哲学的意図で精神の持つ幾つかの意味から〈 知 〉を抽出して概念として抽象化した、彼の主観的思考によってという条件付きで。

 

c.   というのも〈 精神 〉という言葉の特殊な使用法( 哲学的な意味での ) が意味の主観的選択によるものでなければ、主観以前に先験的にプログラム化されている事はありえないからです。言葉を一定の方向=意味で使用するには、個人の主観的思考抜きにはありえないし、 主観的思考でもって言葉に一定の方向=意味の負荷を与えなければ言葉を使用して哲学的作業を行っていく事は出来ない、どのような哲学者であれ。もし精神という言葉がヘーゲルの哲学的叙述において、主観的使用法とそれ以外の意味が彼の意図に関わらず常に拮抗する事態になってしまうとすれば、精神がある時は知であり、別の時には幽霊であるというようになり、その恣意的な意味の交代は哲学作業の構築を不可能にするでしょう。なのでヘーゲルの〈 幽霊 〉という意味を消した〈 精神 〉という語の主観的使用は哲学的戦略上、当然の事だといえますね。

 

d.   それでは精神の傍らにある〈 幽霊 〉という意味的参照項は、〈 精神 〉という概念の方へより接近していく事は出来ないのでしょうか。先程述べたように〈 精神 〉という語の哲学的使用が主観的なものに支えられているのである限り、それは語の一般的意味性を土台にしている事からは逃れられない。

 

e.   まず、出発点においてヘーゲルによる精神という語の哲学的使用は一般的意味性に対する特殊なものであり、ヘーゲルはその特殊を最終的に哲学的個物という普遍的次元にまで高めた。その時、問題であるのが元の普遍性である一般的意味性の中に含まれる〈 幽霊 〉がそれにどう関係するのかという事です。いや、もっと正確に言うならば、〈 精神 〉という哲学概念 としての新たなる個物の普遍性は、一般的意味性という元の普遍性との関係が曖昧でなのであり、その曖昧な関係性こそが幽霊的だといえるのです。なぜ曖昧なのかというと、それこそまさに〈 精神 〉という概念の本質、つまりその哲学的運動の特性に関わるからです〈 続く 〉。

 



 次回 ( 以下 ) の記事に続く。