哲学的考察と備忘録

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ベルナルド・ベルトルッチの映画『 暗殺の森 』 を哲学的に考える

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公開:1970年  監督:ベルナルド・ベルトルッチ

出演:ジャン・ルイ・トランティニャン   ( マルチェロ・クレリチ )   

  :ドミニク・サンダ          ( アンナ・クアドリ )     

  :エンツォ・タラシオ         ( ルカ・クアドリ教授 )    

  :ステファリア・サンドレッリ     ( ジュリア・クレリチ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 暗殺の森 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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1.  〈政治〉と〈性〉

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a. この映画の秘密は、" 政治と性 " を描いている所にあるのですが、『 暗殺の森 』という邦題タイトルは、幾分その事を見えにくくしていると言えますね。確かにイタリアからフランスへの政治的亡命者であったクアドリ教授と、その妻アンナが森でファシストの連中に殺される場面は、ひとつの見所ですが、やはり最大のクライマックスは、ラストでマルチェロ ( ジャン・ルイ・トランティニャン ) が、自分の人生の真実を知り、狂ったように叫びまくる場面でしょう ( シーン 23~28. )。

 

b.  ここにおいてこそ映画の原題である『 Il conformista 』が意味を持つものとなり、"政治と性に関する哲学的考察" ( 1 ) が可能になる訳です。"conformista" には、" 同調者" " 追従者" などの意味がありますが、この場合、マルチェロに影響を与えていたのが、ファシズム ( 第2次大戦中のイタリアの国家イデオロギー ) であった事を考えれば、" 信奉者" だという意味も重ね合わす事も出来るでしょう。

 

c. ここで重要なのは、マルチェロファシズムの信奉者になる前の段階として、"少年時代の性体験のトラウマ" を設定としてベルトルッチが導入している事です。マルチェロの少年時代の罪 ( リーノをピストルで撃ち殺したと信じている、が、実際には死んでいない ) を神父に告白する中での話しなので、私達は何気なく見過ごしてしまうけど、哲学解釈的には、ここは "性的領域" が "政治的領域" に差し込まれていく過程であるという意味で注意すべきところですね。

 

d. 次のシークエンスでは、軍服姿のリノ ( 彼は本当の軍人ではなく、コスプレをしている。帽子を取ったら長髪だしね ) が少年時代のマルチェロを誘うシーン。ここで彼は唐突に "蝶々夫人を知っている?" とマルチェロに聞く。"蝶々夫人" といえば、プッチーニのオペラで有名ですが、長崎での15歳の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンの恋愛劇でしたね。しかし、ここでの "蝶々夫人" は "同性愛の符号" ( ※2 ) に変化しているのです。

 

 " 来いよ。東洋のキモノもある。蝶々夫人を知っている?" by リーノ

 

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e.  しかも驚くべき事に、蝶々さんは15歳だったので、少年のマルチェロにその役割をさせるかと思ったら、リーノ自身が蝶々さん役の "ネコ" で、マルチェロにピンカートン役の "タチ" をさせるように仕向けるという、リーノの年齢差を無視した変態的趣向が露になる ( シーン 6. )。

 

f.   結局、マルチェロは性的関係をためらい、ピストルでリーノを撃ってしまう。この時、マルチェロはリーノを殺してしまったと勘違いし、この現実から逃げるようにファシストになっていく。このような、1人の男の政治的趣向に性的経験が関わっているという短絡 ( ショートカット ) こそが、この映画を面白くしているといえるでしょう。主体の行動化 ( マルチェロファシスト化 ) へと突き動かすものは性的なものという訳なのですが、ここで言う "性的なもの" とは ( 1 ) で記したように、たんなる衝動的なものではなく、"革命的要素としての性" ( 3 ) なのです。

 

 " いいから撃て。蝶々夫人を殺せ " by 自分の事を蝶々夫人と言ってしまうリーノ

 

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2.   マルチェロのトラウマ

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a.  しかし、ファシストらしくない雰囲気を漂わすマルチェロは、クアドリ教授にもその事を指摘されてしまう。実際に、森の暗殺場面でも、マルチェロは、クアドリ教授と、その妻のアンナに自ら直接手を下す事はない。組織の連中が殺すのを眺めているだけです。要は "中途半端" という事ですね。これは決して些細な事ではないでしょう。

 

b.  ファシストに成り切れてないマルチェロの過去のトラウマは、リーノとの性行為でしたが、厳密に言うなら、性行為を始めようとした矢先に、マルチェロはそれを拒否したのです ( 少年だったのだから嫌がっても不思議はないだろって意見もあるでしょうけど )。そうすると、マルチェロのトラウマがリーノとの性行為だったという言い方は、この場合、正確ではない。

 

c.  マルチェロにとって、真にトラウマになったのは、"未知の行為を最後まで成就する事を自ら拒否してしまった" という事です。つまり、"性行為を拒否したのに加えて、ピストルでリーノを撃ってしまったという一連の自分の行為そのものがトラウマになった" という事です。

 

d.   この事が意味するものは何か?自分に何かを強制したり、圧力をかけるものから自分を守るための過度の身振りが、自分にとって衝撃的だったという訳です ( ピストルを撃ったくらいですからね )。そこには "自分を守らなければならないという強迫観念が潜んでいる" と言えるでしょう。

 

 

3.   ファシストになりきれなかったマルチェロの本性

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a.   そして、そのようなマルチェロの姿勢が、自分を中途半端なものにしている、ファシストとしても。注意すべきは、彼は忠誠心からファシズムへ "信奉者 ( conformista )" となったとのではなく、自分を守るためにファシズムへの上辺だけの "同調者 ( conformista )" になったという事です。

 

b.   ファシストの仮面があれば、自分を守るための防護壁という事で、マルチェロは、偽りの自信を持つことが出来た ( クアドリ教授には見透かされていたけど )。しかし、ファシズムの崩壊と共に、ファシストである事が必要なくなった彼に残されたものは、長い間、ファシストの仮面によって抑圧されていた事による内面のヒステリックな解放しかなかった・・・・・。

 

c.   友人である盲目のイタロとファシズム崩壊後の街を歩いていたマルチェロ。そこで浮浪者と彼に声をかけている男娼らしき白いスーツの男の会話を耳にする (シーン11.14.)。

 

" 蝶々夫人みたいなキモノもある。蝶々夫人だぜ " by 白いスーツの男

 

" 蝶々夫人・・・" この言葉はかつて少年時代のマルチェロがリーノから聞いたものでしたね。マルチェロは白いスーツの男がリーノであり、彼が生きていた事を確信する (シーン15.16.)。

 

" リーノ! 拳銃を持ってただろ?" by マルチェロ

 

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d.   しかし、リーノの方は突然、自分を猛烈に追及してくる男に戸惑い、昔の事を思い出すどころじゃないよう (シーン17.22.)。

 

" 何の話だ?" by リーノ

" 生きていたのか " by マルチェロ

" いったい何の用だ? by リーノ

 

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e.   困惑して逃げ出すリーノ。ここからマルチェロは激昂してリーノに罪をなすりつけるがごとく叫び始める ( シーン23.28.)。

 

" 人殺し。政治亡命者を殺した、クアドリ教授を。"

" 妻のアンナも殺した。"

" あいつはホモだ。ファシストだ!" by 全てを他人のせいにするマルチェロ

 

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f.   リーノが生きていた事を知り、自分がファシストになるきっかけだと思っていたトラウマ ( リーノをピストルで撃ち殺した )が、実は自分の思い違いであった事を知ったマルチェロ

 

g.   ここで、注意しなければならないのは、マルチェロが "何に怒ったのか" という事です。これを常識的に、自分の人生が虚構に過ぎなかった事に怒ったと考えては哲学的な拡がりは得られないでしょう。もし、自分の人生が虚構だったとしたら、人は怒るより、取り返す事の出来ない年月の経過に落胆するはずですから。

 

h.   しかし、マルチェロは落胆するのではなく、"怒った" のですね ( シーン26.の表情 )。これを解釈する上で幾つかの考え方がありますが、最も刺激的なのは、マルチェロは、私達が通常考えるのとは違って、"トラウマを自分のアイデンティティーの為の無意識的基盤としていた" という考え方です。

 

i.   こう考えるにはトラウマの両義性を考慮する必要があります。通常、トラウマというと、私達はそれを成長する上での障害なので、乗り越え捨て去るべきものだと考えがちです。ところが、そのトラウマと共に人生を歩むと、人は経過した時間の積み重ねによって、"逆説的な無意識的愛着" を抱くようになる事があるといえます。誰だって自分の人生の時間を無駄だとは考えないでしょうから。

 

j.   そのような無意識的愛着が露わになる瞬間が、他人によって邪魔される時です。すなわち、人は自分がトラウマに苦しんでいる事を告白するけど、いざ他人がそれを取り除いてあげようと助言すると、そうじゃない、分かっていない、と抵抗する事があるのです。

 

k.   これこそ、自分を守ろうとするマルチェロの強迫観念的態度に他ならない。ここでもう一度、ラストシーンについて整理します。通常の理解だと、マルチェロはリーノが生きていた事によって、トラウマを含めて自分の人生が虚構であった事を認めたのだとするでしょう。しかし、マルチェロが "一体何に怒ったのか" を念頭において極度に解釈しなおすならば、マルチェロは自分の大切なトラウマが、その登場人物であるリーノに裏切られ破壊された事 ( 彼が生きていたという事実それ自体に他ならない ) に対して理不尽的に激昂したそれ程、彼は自分への強力な愛着があったという訳ですね。

 

 

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( 1 )

ベルトルッチの映画の中で面白い作品は、"政治と性" の両極を "並列的に" 描いているものです。そこでは "性" の領域における人間関係という出来事を、"政治" の領域に対して、最終的に如何にして拮抗させるかという事がベルトルッチの隠された "映画的欲望" となっていて、そこで起きる事は、ベルトルッチの秘かな "革命" だと言えるのです。

 

彼の映画は、性的なスキャンダラスの側面ばかりが時としてクローズアップされるけれど、それを倫理的なタブーへの侵犯だとしか捉えないのであれば彼の本質を見落としてしまう。

 

しかし、重要なのは彼が "性" をどう考えているかという事です。"性" をそれ自体としてエロス的なものだとする単純な考え方のみに、彼はとり憑かれている訳ではないでしょう ( もちろん、そういう側面は否定出来ないけど。例えば政治的なものを削ぎ落とした『 ラストタンゴ・イン・パリ 』。そこでは、"性" のもう一方の極は "人間性" になってしまっている。"人間性" を越え出る奔放な "性" が、結局、最後にはマーロン・ブランド演じるポールが、マリア・シュナイダー演じるジャンヌによって殺されてしまうというラストによって、常識的な "倫理" を呼び戻してしまう )

 

彼は "" を 衝動が渦巻くという意味での "性それ自体" としてではなく、もう1つの極である "政治" に対する "何物か" だと考えているのです。つまり、どの時代、どの場所、どの状況であっても、"性" は "政治" に取り込まれずに "対抗するもの" である訳です。

 

細かく言うなら、"性" とは、政治的には未だ定義する事の出来ないもの ( "政治" は基本的に "男と女という2つの性" を前提とするが、現実はそれだけではない事は言うまでもない。例えば、LGBT。そしてドゥルーズ=ガタリの "n個の性" ) なのに "政治" の傍らにあるが故に、彼にとっては "政治" を揺さぶる "革命" の要素なのであり、映画を撮る事によって彼は "革命" を孤独に引き継いでいるというといえるでしょう ( 例えば、3人の男女の性的関係と1968年のパリ5月革命を描いた『 ドリーマーズ (2003年) 』)。

 

( 2 )

"蝶々夫人" に "同姓愛的要素" の萌芽を植えつけた映画が、この『 暗殺の森 』であるとすれば、それを極度に拡大化した映画こそ、劇作家デヴィッド・ヘンリー・ホアンの戯曲を経由した、デヴィッド・クローネンバーグの『 エム・バタフライ 』に他ならないでしょう。 

 

ただし、同性愛と言っても、この場合、正確には、"男性" 対 "男性"といった "ゲイ的関係" ではなく、"女性の振りをする男性" と "通常の男性" という "擬似男女関係" である訳ですね。そうすると、ここで何が起きているかというと、"女性的なもの" が実際の女性の肉体を離れて、"男性が所有する幻想" になってしまっているという事です。そうすると、その幻想は、実際の女性だけでなく、実際の男性にも投影される可能性が出てくる訳ですね。

 

その結果が、ジェレミー・アイアンズ演じるルネ・ガリマールがジョン・ローンが演じる舞台女優のソン・リンを本物の女性だと信じ込む『エム・バタフライ』の非現実的なストーリー ( しかし、この話に実話がある事は有名な話 ) なのです。

 

ただし、昔の『 暗殺の森 』の方が、少しひねりがある。というのも、リーノは、相手の男性に女性の幻想を投影するのではなく、"自分を受身にする擬似女性的快楽に耽るという倒錯的欲望" に塗れているからです。

 


( 3 )                                

これには少し説明が必要でしょう。"革命的要素としての性" とは、政治に取り込まれずに対抗する "対性" として言い表す事が出来る。ただし、それは敵対という形式的距離性を取り除いた時に、自らの権力性や欲望に囚われてしまう危険もあると言えるでしょう。例えば (1 ) でも記したように、"性" が単なるエロティックなもの自体としか見られず、それ以外の考察が受けいれられない状態。

 

 

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