哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ベルナルド・ベルトルッチの映画『 暗殺の森 』 ( 1970 )を哲学的に考える

f:id:mythink:20181216153101j:plain

 

  

f:id:mythink:20180530062628j:plain

 

公開:1970 年  

監督:ベルナルド・ベルトルッチ

出演:ジャン・ルイ・トランティニャン   ( マルチェロ・クレリチ )   

  :ドミニク・サンダ          ( アンナ・クアドリ )     

  :エンツォ・タラシオ         ( ルカ・クアドリ教授 )    

  :ステファリア・サンドレッリ     ( ジュリア・クレリチ )

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain


この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 暗殺の森 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain

 

1.   "政治" と "性"

f:id:mythink:20191015133317j:plain



a. この映画の秘密は"政治と性" を描いている所にあるのですが暗殺の森 』という邦題タイトルは幾分その事を見えにくくしていると言えますね確かにイタリアからフランスへの政治的亡命者であったクアドリ教授とその妻アンナが森でファシストの連中に殺される場面はひとつの見所ですがやはり最大のクライマックスはラストでマルチェロ ( ジャン・ルイ・トランティニャン ) が自分の人生の真実を知り狂ったように叫びまくる場面でしょう ( シーン 23 ~ 28. )

 

 

b.  ここにおいてこそ映画の原題である『 Il conformista 』が意味を持つものとなり"政治と性に関する哲学的考察" が可能になる訳です"conformista" には" 同調者" " 追従者" などの意味がありますがこの場合マルチェロに影響を与えていたのがファシズム ( 第2次大戦中のイタリアの国家イデオロギー ) であった事を考えれば"信奉者" だという意味も重ね合わす事も出来るでしょう

 

 

c. ここで重要なのはマルチェロファシズムの信奉者になる前の段階として"少年時代の性体験のトラウマ" を設定としてベルトルッチが導入している事ですマルチェロの少年時代の罪 ( リーノをピストルで撃ち殺したと信じている実際には死んでいない ) を神父に告白する中での話しなので私達は何気なく見過ごしてしまうけど哲学解釈的にはここは "性的領域""政治的領域" に差し込まれていく過程であるという意味で注意すべきところですね

 

 

d. 次のシークエンスでは軍服姿のリノ ( 彼は本当の軍人ではなくコスプレをしている帽子を取ったら長髪 ) が少年時代のマルチェロを誘うシーンここで彼は唐突に "蝶々夫人を知っている?"マルチェロに聞く"蝶々夫人" といえばプッチーニのオペラで有名ですが長崎での15歳の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンの恋愛劇でしたねしかしここでの "蝶々夫人" は "同性愛の符号" に変化しているのです

 

  来いよ。東洋のキモノもある。蝶々夫人を知っている?by リーノ

 

f:id:mythink:20180530062849j:plain

 

 

e.  しかも驚くべき事に蝶々さんは15歳だったので少年のマルチェロにその役割をさせるかと思ったらリーノ自身が蝶々さん役の "ネコ" でマルチェロにピンカートン役の "タチ" をさせるように仕向けるというリーノの年齢差を無視した変態的趣向が露になる (  6. )

 

 

f.   結局マルチェロは性的関係をためらいピストルでリーノを撃ってしまうこの時マルチェロはリーノを殺してしまったと勘違いしこの現実から逃げるようにファシストになっていくこのような1人の男の政治的趣向に性的経験が関わっているという短絡 ( ショートカット ) こそがこの映画を面白くしているといえるでしょう主体の行動化 ( マルチェロファシスト化 ) へと突き動かすものは性的なものという訳なのですがここで言う "性的なもの" とはで記したようにたんなる衝動的なものではなく"革命的要素としての性" なのです

 

 

  いいから撃て。蝶々夫人を殺せ by 自分の事を蝶々夫人と言ってしまうリーノ

 

f:id:mythink:20180530062923j:plain

 

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain

 

 

2.   マルチェロのトラウマ

f:id:mythink:20191015133317j:plain



a.   しかしファシストらしくない雰囲気を漂わすマルチェロクアドリ教授にもその事を指摘されてしまう実際に森の暗殺場面でもマルチェロクアドリ教授とその妻のアンナに自ら直接手を下す事はない組織の連中が殺すのを眺めているだけです要は "中途半端" という事ですねこれは決して些細な事ではないでしょう

 

 

b.   ファシストに成り切れてないマルチェロの過去のトラウマはリーノとの性行為でしたが厳密に言うなら性行為を始めようとした矢先にマルチェロはそれを拒否したのです ( 少年だったのだから嫌がっても不思議はないだろって意見もあるでしょうけど )そうするとマルチェロのトラウマがリーノとの性行為だったという言い方はこの場合正確ではない

 

 

c.  マルチェロにとってトラウマになったのは未知の行為を最後まで成就する事を自ら拒否してしまったという事ですつまり性行為を拒否したのに加えてピストルでリーノを撃ってしまったという一連の自分の行為そのものがトラウマになったと考えられるのです

 

 

d.   この事が意味するものは何か自分に何かを強制したり圧力をかけるものから自分を守るための過度の身振りが自分にとって衝撃的だったという訳です ( ピストルを撃ったくらいですからね )そこには 自分を守らなければならないという強迫観念が潜んでいると言えるでしょう

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain

 



3.   ファシストになりきれなかったマルチェロの本性

f:id:mythink:20191015133317j:plain



a.   そしてそのようなマルチェロの姿勢が自分を中途半端なものにしているファシストとしても注意すべきは彼は忠誠心からファシズム"信奉者 ( conformista )" となったとのではなく自分を守るためにファシズムへの上辺だけの "同調者 ( conformista )" になったという事です

 

 

b.   ファシストの仮面があれば自分を守るための防護壁という事でマルチェロ偽りの自信を持つことが出来た ( クアドリ教授には見透かされていたけど )しかしファシズムの崩壊と共にファシストである事が必要なくなった彼に残されたものは長い間ファシストの仮面によって抑圧されていた事による内面のヒステリックな解放しかなかった・・・・・

 

 

c.   友人である盲目のイタロとファシズム崩壊後の街を歩いていたマルチェロそこで浮浪者と彼に声をかけている男娼らしき白いスーツの男の会話を耳にする ( シーン1114. )

 

 

蝶々夫人みたいなキモノもある。蝶々夫人だぜ by 白いスーツの男

 

 

" 蝶々夫人・・・" この言葉はかつて少年時代のマルチェロがリーノから聞いたものでしたね。マルチェロは白いスーツの男がリーノであり、彼が生きていた事を確信する ( シーン 1516. )

 

 

リーノ! 拳銃を持ってただろ? by マルチェロ

 

f:id:mythink:20180530063023j:plain

 

 

d.   しかしリーノの方は突然自分を猛烈に追及してくる男に戸惑い昔の事を思い出すどころじゃないよう ( 1722. )

 

" 何の話だ?" by リーノ

" 生きていたのか " by マルチェロ

" いったい何の用だ? by リーノ

  

f:id:mythink:20180530063046j:plain

 

 

e.   困惑して逃げ出すリーノここからマルチェロは激昂してリーノに罪をなすりつけるがごとく叫び始める ( 2328. )

 

" 人殺し。政治亡命者を殺した、クアドリ教授を。"

" 妻のアンナも殺した。"

" あいつはホモだ。ファシストだ!" by 全てを他人のせいにするマルチェロ

 

f:id:mythink:20180530063107j:plain

 

 

f.   リーノが生きていた事を知り自分がファシストになるきっかけだと思っていたトラウマ ( リーノをピストルで撃ち殺した ) が実は自分の思い違いであった事を知ったマルチェロ

 

 

g.   ここで注意しなければならないのはマルチェロ"何に怒ったのか" という事ですこれを常識的に自分の人生が虚構に過ぎなかった事に怒ったと考えては哲学的な拡がりは得られないでしょうもし自分の人生が虚構だったとしたら人は怒るより取り返す事の出来ない年月の経過に落胆するはずですから

 

 

h.   しかしマルチェロは落胆するのではなく"怒った" のですね ( 26. の表情 )これを解釈する上で幾つかの考え方がありますが最も刺激的なのはマルチェロ私達が通常考えるのとは違ってトラウマを自分のアイデンティティーの為の無意識的基盤としていたという考え方です

 

 

i.   こう考えるにはトラウマの両義性を考慮する必要があります通常トラウマというと私達はそれを成長する上での障害なので乗り越え捨て去るべきものだと考えがちですところがそのトラウマと共に人生を歩むと人は経過した時間の積み重ねによって"逆説的な無意識的愛着" を抱くようになる事があるといえます誰だって自分の人生の時間を無駄だとは考えないでしょうから

 

 

j.   そのような無意識的愛着が露わになる瞬間が他人によって邪魔される時ですすなわち人は自分がトラウマに苦しんでいる事を告白するけどいざ他人がそれを取り除いてあげようと助言するとそうじゃない分かっていないと抵抗する事があるのです

 

 

k.   これこそ自分を守ろうとするマルチェロの強迫観念的態度に他ならないここでもう一度ラストシーンについて整理します通常の理解だとマルチェロはリーノが生きていた事によってトラウマを含めて自分の人生が虚構であった事を認めたのだとするでしょうしかしマルチェロが "一体何に怒ったのか" を念頭において極度に解釈しなおすならばマルチェロは自分の大切なトラウマが、その登場人物であるリーノに裏切られ破壊された事 ( 彼が生きていたという事実それ自体に他ならない ) に対して理不尽的に激昂したそれ程彼は自分への強力な愛着があったという訳ですね

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain



 

   ベルトルッチの映画の中で面白い作品は"政治と性" の両極を "並列的に" 描いているものですそこでは "性" の領域における人間関係という出来事を"政治" の領域に対して最終的に如何にして拮抗させるかという事がベルトルッチの隠された "映画的欲望" となっていてそこで起きる事はベルトルッチの秘かな "革命" だと言えるのです

 

   彼の映画は性的なスキャンダラスの側面ばかりが時としてクローズアップされるけれどそれを倫理的なタブーへの侵犯だとしか捉えないのであれば彼の本質を見落としてしまう

 

   重要なのは彼が "性" をどう考えているかという事です"性" をそれ自体としてエロス的なものだとする単純な考え方のみに彼はとり憑かれている訳ではないでしょう ( もちろんそういう側面は否定出来ないけど例えば政治的なものを削ぎ落としたラストタンゴ・イン・パリ そこでは"性" のもう一方の極は "人間性" になってしまっている"人間性を越え出る奔放な性" 結局最後にはマーロン・ブランド演じるポールがマリア・シュナイダー演じるジャンヌによって殺されてしまうというラストによって常識的な "倫理" として呼び戻されてしまう )

 

   彼は "性" を 衝動が渦巻くという意味での "性それ自体" としてではなくもう1つの極である "政治" に対する "何物か" だと考えているのですつまりどの時代どの場所どの状況であっても"性" は "政治" に取り込まれずに "対抗するもの" である訳です

 

   細かく言うなら"性" とは政治的には未だ定義する事の出来ないもの ( "政治" は基本的に "男と女という2つの性" を前提とするが現実はそれだけではない事は言うまでもない例えばLGBTそしてドゥルーズ=ガタリ "n個の性" ) なのに "政治" の傍らにあるが故に彼にとっては "政治を揺さぶる革命の要素" なのであり映画を撮る事によって彼は "革命" を孤独に引き継いでいるというといえるでしょう ( 例えば3人の男女の性的関係と1968年のパリ5月革命を描いた『 ドリーマーズ ( 2003年 ) 』

 

 

 

   蝶々夫人"同姓愛的要素" の萌芽を植えつけた映画がこの『 暗殺の森 』であるとすればそれを極度に拡大化した映画こそ劇作家デヴィッド・ヘンリー・ホアンの戯曲を経由したデヴィッド・クローネンバーグの『 エム・バタフライ 』に他ならないでしょう。 

 

   同性愛と言ってもこの場合正確には"男性" 対 "男性"といった "ゲイ的関係" ではなく"女性の振りをする男性" と "通常の男性" という "擬似男女関係" である訳ですねそうするとここで何が起きているかというと"女性的なもの" が実際の女性の肉体を離れて"男性が所有する幻想" になってしまっているという事ですそうするとその幻想は実際の女性だけでなく実際の男性にも投影される可能性が出てくる訳ですね

 

   その結果がジェレミー・アイアンズ演じるルネ・ガリマールがジョン・ローンが演じる舞台女優のソン・リンを本物の女性だと信じ込む『エム・バタフライ』の非現実的なストーリー ( しかしこの話に実話がある事は有名な話 ) なのです

 

   ただし暗殺の森 』の方が少しひねりがあるというのもリーノは相手の男性に女性の幻想を投影するのではなく"自分を受身にする擬似女性的快楽に耽るという倒錯的欲望" に塗れているからです

 


                               

 

   これには少し説明が必要でしょう"革命的要素としての性" とは政治に取り込まれずに対抗する "敵対性" として言い表す事が出来るただしそれは敵対という形式的距離性を取り除いた時に自らの権力性や欲望に囚われてしまう危険もあると言えるでしょう例えばでも記したように"性" が単なるエロティックなもの自体としか見られずそれ以外の考察が受けいれられない状態を示した『 ラストタンゴ・イン・パリ

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain



関連記事

 

 

 

 

f:id:mythink:20190507191300j:plain