【 僕を哲学的に考えさせる映画 ギレルモ・デル・トロの『 パンズ・ラビリンス 』 】

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公開:2006年

監督:ギレルモ・デル・トロ

出演:イバナ・バケーロ ・・・・ オフェリア

  アリアドナ・ヒル ・・・・ カルメン ( オフェリアの母 )

  セルジ・ロペス ・・・・・ ビダル ( フランコ軍の大尉。カルメンの再婚相手)

  ダグ・ジョーンズ ・・・・ パン ( 牧神 )

  マリベル・ベルドゥ ・・・ メルセデス ( 小間使い )

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説の記事ではなく、『 パンズ・ラビリンス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。細かく言うなら、"映画という教材" にいかに哲学的解釈を施すか、という試みになりますね。なのでストーリー解説を求める方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1. 〈 幻想 〉と〈 現実 〉

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a. この映画、通常、思われている以上に、哲学的な深みがある。少なくとも、僕はそう感じましたね。大学などのアカデミックな哲学界では、哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですが、この映画は、その素人的な身振りは間違っていない事を示しています。

 

b. 人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り、人生をどう考えて、どう生きるのかという問題が、その人にとって第一義的な哲学であるのは当然です。それ無くして、自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし、逆に言うと、この世界をどう理解するかは、自分の人生をどう考え、どう生きているか、という事によって左右される

 

c. なぜ、こんな話をするのかというと、〈 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には、一定の〈 距離 〉があるからです。人間誰しも、成長していく過程で、社会という〈 現実 〉に参加するようになる、生きていくために・・・。

 

d. その際、人はその〈 現実 〉に適応するために、水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )。ではどう作り変えるのか。それは僕が思うに、それまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね。自分の〈 世界 〉とは、端的に言って〈 幻想 〉なのですが、その 〈 幻想 〉の改変 ( 哲学的、精神分析的にいうなら〈 幻想の横断 〉) を実行するという事になります。

 

e. そういう言い方をすると、すごく崇高な印象を持つかもしれませんが、実際には各人の体験度合いによっては、それは横断というよりは、切り刻む、切り裂く、という耐え難い経験である場合もあるはずです。この時、各人において興味深い事が起きます。自分の〈 幻想 〉を横断して、〈 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば、〈 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )。

 

f. 以上の事を、アカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると、〈 幻想 〉とは、主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素 ( 細かく言えば、ラカン精神分析での "対象a" ) 〉としての価値しかない。もちろん、ここには最初に述べたように、人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈孤独〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない。御自分の人生哲学については、どうぞ御勝手に、という訳です。

 

g.この映画が興味深いのは、そんな〈 幻想 〉を〈 要素 〉ではなく、ひとつの〈 世界 として提示している所です。外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど、〈 幻想 〉も〈 世界 〉なのです。つまり、〈 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには、〈 現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないし、ましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない。〈 幻想 〉と〈 現実 〉は、並列的に、人が生きるに足る〈 世界 〉なのであり、もし同時に生きにくいのであれば、それは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです。

 

h. これを哲学的に非難しようとするのなら、その人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですね。それが出来ないから、アカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです( ※1 )自分の人生を背負うならば、人生を生き抜くために、幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域 〉、あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だと言えるでしょう。

 

 

2. 〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉

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a. ギレルモはこの映画を、魔法の王国が地底にあり、そこに住んでいるお姫様が、地上の人間界を夢見て、抜け出すという形で始める。魔法の王国は太陽がなく、わずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1.~ 8. )。

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b. そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら、現在の話を始めていく ( シーン 9.14. )。一応、ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末が、それとなく仄めかされている。

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c. 魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われて、オフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り、地下へと降りていく。

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d. ここでオフェリアは迷宮の守護神パン ( ※2 ) に出会う。オフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる( シーン 21.26. )。

 

e. ここから、オフェリアは、日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になるのですが、ギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します。〈 現実 〉においては、フランコ政権下におけるスペイン内戦を、オフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き、〈 幻想 〉の〈 世界 〉においては、オフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです。

 

f. それにしても、このパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね。

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g. 途中の過程は省略しますが、最終的にオフェリアは、魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されます。しかし、連れて来たのはいいもの、弟の血が必要だと言われ、拒否した結果、王国への帰還の話は無かった事になる。そして、子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。

 

h. でもギレルモはこれだけで話を終わらせません。ここからが大切なのですが、オフェリアの死は、揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらず、ギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとするのです。

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i. 死に行く意識の中で、オフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます。弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によって、それが可能になったという訳です。さて、この場面をどう解釈すべきでしょう?

 

j. 現実逃避という事でしょうか?いや、それでは十分な説明にならない。なぜなら、〈 死 〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからです。それにオフェリアは死の直前まで、弟を守るという現実的な行動を採っていた。ならば、この場面は、オフェリアは現実的な死の際にも、自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で、彼女の主体的な振舞いで満ちていると解釈すべきでしょう。

 

k. これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって、大きな教訓ではないでしょうか。厳しい現実を前にして、〈 幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのか、それとも、〈 死 〉にも関わらず、自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのか、という訳です。もちろん、それは他の誰でもなく、自分にしか分からないのですが・・・・・。

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l. この後、ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します。

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m. ラストの一輪の花は、〈 幻想 〉の象徴 だというべきでしょう。

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( ※1 )

人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の哲学者は、ニーチェですね。ニーチェは、それまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり、読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残した。

 それはマルクス主義的な革命のメッセージではなく、読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 )べきだという人生論的メッセージ だった( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )。彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが、他人の人生を背負う代わりに、自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『この人を見よ』)。

 

( ※2 )

パンとは、ギリシャ神話における森や山、牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神。ローマ神話ではファウヌス。文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある。

 最も有名な所で、フランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 』。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシーの『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 』。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) 』は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名。

 

 

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