欅坂46のナチス軍服衣装問題から〈 無知 〉を哲学的に考えてみる

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   アイドルグループ欅坂46ナチス風軍服衣装が世界中のマスコミから問題視され、2016年11月1日には、アメリカのユダヤ人組織のサイモン・ヴィーゼンタール・センターがソニーミュージック秋元康に対して謝罪を要求するという出来事がありましたね。この出来事から既に1ヶ月以上経ちますが、当初の加熱過ぎるマスコミ報道が嘘であったかのようにおとなしくなってます (苦笑)。

 

■   それはさておき、ここでは、この問題について巷にあふれる倫理的に如何なものかという非難、つまりこの問題はホロコーストについての〈 無知 〉が招いた結果だというようなありふれた批判を行うつもりはありません。そうではなく、この問題において 無知が、どのような無知が、いかに機能しているかという事について哲学的に考えてみようという訳です。

 

 

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1.   ホロコーストに対する〈 無知 〉・・・

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a.   欅坂46ナチス風軍服衣装の着用は、ホロコースト ( ユダヤ人大虐殺 ) に対する無知から生じたユダヤ人への配慮を欠いた不適切なものだ、という非難が巷に溢れましたね。これは、無知それ自体を倫理的に問題とする態度であると言い換える事が出来るでしょう。"ホロコーストという事実" に対する "無知" が、ユダヤ人の感情を不快にさせる行為 ( 軍服衣装の着用 ) の原因になっているという訳ですね。そして、もし知っていれば、そのような行為はなかったはずだ・・・というのが一般的見方になるのでしょう。

 

b.   ただし現場的には、欅坂46のデビュー時からの軍服衣装は、デザイナーの尾内貴美香によるもの ( 欅坂46の衣装は軍服風にという注文は運営サイドからあったよう ) であり、彼女の案は、今野義雄などの一部の管理者によって目を通されただけで、おそらく、ほぼ了承されていたであろう事を考えるならば、そこに倫理的視点が欠けていたとはいえ、"政治的意図" がなかったのは明らか。尾内氏のTwitterを見る限り、今回の件で削除された内容があるとはいえ、何らかの "政治的意図" を読み取る方のは無理がある。一方、今野義雄の方 ( 秋元康も含んで ) も、乃木坂46の管理も兼任している事から察すると、欅坂46の軍服風衣装も乃木坂46のお嬢様的雰囲気との対比で考え出されたという以上の事を読み取るのは難しい。

 

c.   この件に関してイスラエル大使館側はホロコーストの歴史についての対話を求めながらも、欅坂46に悪意がなかった事は理解している、と言う、つまり、"政治的意図" によるものではないと判断している訳ですね。しかし、"政治的意図" の有無に関わらず無差別的に商業的文化にもナチスの要素を見つけ出そうとする姿勢 ( メディアやサイモン・ヴィーゼンタール・サンターなど ) は、もはや "無知" それ自体を倫理的に問題とするものであるといえるでしょう。

 

 

2.   〈無知〉は〈罪〉である?

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a.   そのような無知が罪であるという考え方は、倫理的にはもちろん、哲学的にも正しいように思えますが、詳細に考える必要があります。ここで参照したいのが、フランスの精神分析家であるジャック・ラカンの思考です。とはいえ、ここでは臨床治療の方法論としての彼の思考を忠実に再現するのではなく、このブログにおける哲学的分析のために、哲学的教養に富む彼の思考から哲学的帰結を引き出すことが重要だと考えます。

 

       

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b.   彼の思考から無知についての哲学的帰結のひとつを引き出すとすれば、主体は自分の〈無知〉について責任を持たなければならない、別の言い方をするなら、主体は自分の〈無知〉についての責任に直面する事になる、というものでしょう。

ここで注意しなければならないのは、この "無知" を何の思考もなしに "原罪" であるのだから責任を持たなければならないと性急に倫理的に解釈するのは間違いであり、それこそ思考停止という事態に陥いる事になりかねないという事です。

 

c.   なぜなら、主体は自分の "無知" について常に〈事後的〉にしか、つまり、何らかの〈行為〉の後でしか向き合う事が出来ないからです。何らかの過ちの行為を犯した後でしか、過ちの原因としての "無知" を認識出来ないのです。

つまり最初から "無知" をそれとして認識出来るのであれば、それはもはや "無知" ではないというパラドックスが起こるのです。

 

d.   なので欅坂46サイドがホロコーストについて知っていたならナチス風軍服を着せなかったはずだという " 言い方 ( あくまで個人的感想のレベルならという限定付きの )" は、事後的だからこそ成立しているだけで、軍服衣装を着用させる以前においては成立しない ( 未来において何が起きるかは、"その時点" では容易に推測出来ないが故 ) "遡及的幻想" であるとさえいえるのです。

 

 

3.   〈 無知 〉と〈 行為 〉

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a.   そして実は、このような 〈無知〉 は、個人が行為する上で、重要な要素である事を理解する必要があります。"行為" は、"無知" であるからこそ可能になる。

 

b.   では、"行為" を可能にする "無知" とは厳密には何か?それこそ "無意識" であるといっていいでしょう。だから "行為" は "無意識" から生まれると言い換える事が出来るのです。ただし、この場合、心理学や精神分析における常識に囚われて "無意識" を "意識" に対立するもの、あるいは変形的なものと考えていては、深く考える事は出来ません。

 

c.   "無意識" を根本的に考え直す事、それにはドイツの哲学者シェリングが "自己意識" を "無意識" とみなしたように、"無意識" はそれ自体で単独で在るものではなく、何らかの物 ( 意識 ) が在るという超越的出来事の裏面であると理解する必要があります。

そのように根本的に理解すると、"意識" という仕組みそれ自体が、永続的な安定したシステムではなく、それどころか、その "意識という仕組み" 自体が当然だと思い込ませる程、"意識という出来事" の "無意識性" が浸透してしまっているのだという事に気付くでしょう

 

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d.   ただし、この考え方は、"意識というもの" の "真理" に近づくのと引き換えに、感覚的にはある種の危険性に陥る可能性も考慮する必要がありますね。"意味" や "日常性" を剥ぎ取られた "意識" は、外部から到来した "何か" であるように感じられ神秘主義に向かう人もいれば、ラカンが言う所の "現実界" への侵入のように感じられ、底無しの穴に落ち込んでいくかのように精神のバランスを崩す人もいるでしょう。

 

e.   そして、誤解がないように急いで付け加える必要があるのですが、以上の哲学的説明はホロコーストについて知る必要がないという事を主張している訳ではありません ( ホロコーストの記憶は受け継がれるべきなのは言うまでも無い )。以上の所では全く別の事柄が起きている事を言いたいのです。

 

f.   何が言いたいかと言うと、無知 故に 行為 は可能になるのですが、行為 はその後、"現実" に直面する事になります。そして、その "行為" が "過ち" であると分かったならば、人はこう考えるでしょう、なぜ、こんな事をしたんだろう?と。この時、人は "無知による行為" に意味を与えて "意識化" しようとしているのです。それをしたのは自分だ、と考え "行為の主体" としての "責任" に直面するという訳ですね。

 

g.   この主体の態度は、"行為" 以前の未分化の "無知" を実は "こうなる事は知っていたはずだ" と主体が解釈し直す事によって、物理的には関わる事の出来ない "無知という過去" を、今では分かる・・・というように現在における "知" へと変化させるものなのです。このような主体の自分への関わりこそ、自分の 無知 について責任を持つという事の意味だといえるでしょう。

 

 

4.   政治的要請としての倫理

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a.   さて以上の事は、個人的主体レベルでの "行為" の話でしたが、次のような反論が考えられるでしょう。"ホロコースト" について無知な個人がいるのなら、その無知が引き起こしうる事件を想定できる訳だし、ひとつの "教育 " としての必要性が考えられて当然なのではないか、というものですね。

 

b.   しかし、そのような態度は何を意味するのでしょう。仮にホロコーストの教育の必要有り無しに関わらず、そこに "無知" を "知" へと変換する "個人的反省 ( 先に述べた哲学的な意味での )" が無いのであれば、それは個人に強制される "倫理という形式の政治的要請" である以外にはないでしょう。

 

c.   イスラエル大使館が欅坂46サイドをホロコーストのセミナーに招待しようとする動きがあった時、反発する声もありましたね。おそらくその声は直感的なものなのでしょうが、哲学的に考えるならば、それは "政治的同一化の要請" への反発であり、間違っていないといえるでしょう。ユダヤ人であろうが、ドイツ人であろうが、人種に関わり無く、ある立場からの強力な政治的要請 ( それが倫理的なものであれ ) に対しては、同一化されまいとして用心深くある事は、個人レベルにおいては必要なことだといえるでしょう。そのような政治的同一化に対して "無知" である事程、危険な事はないでしょうから。

 

 

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