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Life Without " Thinking " ・・・ Is Boring!

〈 思考する事 〉の無い人生なんて・・・退屈。〈思考する事〉・・・自分自身への教育。

◆ 僕を哲学的に考えさせる映画〈ヤコペッティの大残酷〉 ・・・ そしてヴォルテールの〈カンディード〉

■ CINEMA【カルト】 ◆思想

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監督:グァルティエロ・ヤコペッティ       

公開:1975年

出演:クリストファー・ブラウン ・・・ カンディード

  :ミシェル・ミラー     ・・・ クネゴンダ

  :ジャック・エルラン    ・・・ バングロス

  :リチャード・ドンフィー  ・・・ カカンボ

  :ホセ・クアリオ      ・・・ アッティラ

 

 

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かつて人気を博したモンド=残酷映画といわれる擬似ドキュメンタリーのジャンルを切り開いたヤコペッティの傑作。ただし、この〈大残酷〉を観た人なら、それまでの彼の映画とは少し違う印象を受けるでしょう。

というのも、以前の映画は野蛮的なものの擬似ドキュメンタリーという形式で、"現実っぽくみせる" 事に力点が置かれていたのに対して、この作品は、それ自体の内在的な力量を示す事(擬似ドキュメンタリーではなく、作品のストーリー性や思想性)に力点が移動しているからです。つまり映画それ自体への昇華が見られるという事ですね。

 

モンド映画の第一人者として、エログロ的要素から語られる事がほとんどであった彼の作品ですが、最後の監督作品において彼は"映画的なもの"にようやく辿りついたといえるでしょう。

                 

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         グァルティエロ・ヤコペッティ(1919~2011)

                                          

 

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1. 残念な邦題タイトル〈大残酷〉・・・

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f:id:mythink:20170122214855j:plain 大残酷〉・・・、このタイトルだけで、この作品は敬遠されるのではないかと残念に思う人は結構いるのではないでしょうか。つまり邦題タイトルが作品の受容の可能性を狭め、その結果、この作品の面白さが見過ごされてしまうという訳です。確かに彼のそれまでのエログロ要素溢れる擬似ドキュメンタリー映画の積み重ねによって、ヤコペッティ=残酷・キワモノという紋切型に映画の配給会社が宣伝上頼らざるを得なかったという事情はあったでしょう。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain しかし、国内における本作品の初DVD化(株式会社スティングレイの尽力による)の機会にタイトルを原題(Mondo candido)に倣って、〈カンディードの世界〉、あるいは直訳に難があるのなら〈カンディードの彷徨〉などとしておけば一部のマニア以外にも訴求出来たのに・・・と思う次第です。

 

 

2.〈大残酷〉と〈カンディード

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f:id:mythink:20170122214855j:plain 〈大残酷〉の原題、〈Mondo candido〉とは、フランスの啓蒙主義時代の思想家であるヴォルテールの小説〈カンディード あるいは最善説〉(1759年)を基にしている事は言うまでもありませんね。

            

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           ヴォルテール (1694~1778年)

                                       

f:id:mythink:20170122214855j:plain モンド映画ヤコペッティ啓蒙思想家のヴォルテールの組み合わせは奇妙に思えますが、ヴォルテールの〈カンディード〉は、彼の事を敷居の高そうな思想家だと思い込んでいる人達の見方を覆す程の娯楽作品なのです。しかし〈大残酷〉の下敷きが〈カンディード〉である事を知っている人でも、〈カンディード〉を実際に読んでいる人は少ないでしょう(※1)カンディード〉には、〈大残酷〉の萌芽であるエログロ的要素、哲学的要素、旅行紀(※2)という要素が散りばめられていて、ヤコペッティが自分好みとして飛びついたのは容易に想像できるのです。下手すると、〈大残酷〉よりも〈カンディード〉の方が面白いと感じる人もいるかもしれません。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain ヤコペッティは原作の要素を上手く利用し、自分の色に染め上げる事に成功しています。この点は大切です。というのも、原作の映画化とは、原作に忠実である事が目的ではなく、原作にいかに手を入れ、監督の色に染める事が目的だからです。そうする事によって原作の内包する隠れた可能性について様々な解釈をする自由が生まれるのです。ヴォルテール原作の〈カンディード〉においては、それだけではどうしても当時のイデオロギー的状況(最善説やカトリックに対する反発など)が作品の成立条件の地平となってしまっているという無意識的地層が、現在の読者の受容を限られたものにしてしまう。そんな時に、映画化によって新たな命を吹き込まれた原作は、イデオロギー的状況に還元されるだけではない、作品に閉じ込められていた娯楽的要素の開放を可能にするといえるでしょう。

 

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(※1)

逆に言うと、この反対の事も言える、つまり、〈カンディード〉を読んでいても〈大残酷〉を観た事がない、と。もう少し、細かく言うなら〈大残酷〉が〈カンディード〉を原作にしている事を知っていても、そんな "B級" を観るつもりはない。言うまでもなく、このような態度は、ヴォルテールを高尚な思想家としてしか扱わない知識人に多いでしょう。ここには"思想" と "カルチャー" との 間の"無意識的な溝" があるのであり、だからこそ、ヴォルテールヤコペッティの短絡(ショートカット)はそんな"溝"に囚われないように大いに楽しむべき出来事なのです

 

(※2)

ヴォルテールアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによるイギリス社会を批判した〈ガリバー旅行紀〉に影響を受けている。

 

 

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3. 〈大残酷〉のストーリー

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f:id:mythink:20170122214855j:plain ドイツのウエストファリア地方(※3)にあるツンダー・テン・トロンク男爵の城にカンディード(※4)という心のやさしい青年がいた。彼は哲学の家庭教師パングロスに "この世のすべては最善である" という教えを受けながら、男爵の娘である美しいクネゴンダに会える毎日に幸せを感じていました。

 

〔 シークエンス 1. 〕

クネゴンダから、ある日、食事中に誘いを受けるカンディード

 

"後で庭で会える?" by クネゴンダ

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(※3) 

現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州。州都はデュッセルドルフ。ケルンやドルトムントなどの大都市があり、東西冷戦時代の西ドイツの首都であったボンもある。

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ノルトライン=ヴェストファーレン州は、第2次世界大戦までは西部のライン地方、東部のヴェストファーレン地方(英語で言うとウエストファリアカトリックプロテスタントによる30年戦争終結時のウエストファリア条約の締結地。高校の世界史で出てきますね。)、リッペ候国に分かれていた。

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              画像はWikipedia から

 

(※4) 

カンディード=CANDIDE(仏語)とは、無邪気純真無垢という意味だが、これはクネゴンダを追って世界を巡るなかで様々な災厄を被る主人公に対して、ライプニッツ最善説(すべては善である)に反駁する意図で以って、皮肉的につけられた名前だというのが一般的解釈でしょう。

しかし、さらに解釈を進めてみます。CANDIDE純真無垢とは、ラテン語candidus(白く輝く)に由来するといわれるが、さらにそれの元の語であるcandela(牛などの獣脂で作った蝋燭)を考慮するなら、蝋が何らかの型を取るのに適した性質を持つことから、"何らかの経験を刻む、あるいは刻まれるもの"という哲学的解釈を導く事も出来るでしょう。その解釈を表す言葉こそ、経験論哲学を唱えたイギリスの思想家ジョン・ロック"タブラ・ラサ(何かが刻まれる事が可能な白紙状態)" ですね。

そうすると、ジョン・ロックなどのイギリスの哲学に影響を受けたヴォルテールが描き挙げた主人公、カンディードとは、最善説への皮肉の象徴というつまらない者ではなく、世界各地を巡る中で被る様々な経験をその身に刻みながら、自分を "主体" として確立するというという意味で、経験論哲学の帰結を象徴しているとさえいえるでしょう。このポイントを取り逃がすとラストの場面(原作,そして映画も)の解釈はつまらないものになってしまいます。ラストの解釈については、本記事で考えていきますね。

 

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〔 シークエンス 2. 〕

カンディードクネゴンダがいる同じ庭でリンゴを採る侍女のお尻をさわりまくるパングロス。変態っぽさ丸出しです。

 

"この球ほど丸いものはない" by パングロス

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〔 シークエンス 3. 〕 

パングロスの変態行為はさらにエスカレートして木の穴を利用しての性行為へ。余りの激しさにリンゴがどんどん落ちてくる。パングロスの変態っぽい表情がスゴイ。これが哲学教師なのか(笑)!しかもその様子をクネゴンダが微笑みながら眺めている(驚)!

 

"パングロスは木を使うために作られた"

"何より果実をもぎ取るために作られた" by パングロス

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〔 シークエンス 4. 〕

パングロスと侍女の行為を眺めていたクネゴンダは、バランスを崩してブランコから落ちてしまう。なんとカンディードの顔に股を押し付けて倒れるという有り得ない展開へ。カンディードクネゴンダの股に顔を埋めたまま離れようとしない。恍惚の表情を浮かべるクネゴンダ。

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〔 シークエンス 5. 〕

その様子を城の望遠鏡から見て驚く男爵。表情の演技がいちいち大袈裟で面白い、これはパングロスにもいえる事ですが、とにかく、キャラクターが際立っている。 

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〔 シークエンス 6. 〕

興奮して家来を引き連れる男爵と巨漢の妻。妻の体重は、原作では170kgになっている。原作に近づけようとするキャスティング

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〔 シークエンス 7. 〕

ユーモアのセンスがあるヤコペッティ。ショートコントを差し込んでいます。

 

"血の海を見せろ!押さえてくれ"  by 興奮する男爵

"はい 男爵"  by 男爵を押さえる家来

 

これは "違う! 俺じゃない" という男爵の家来へのツッコミがないから分かりにくいですが、わざわざコントをさせていますね。だってカンディードは既に逆さにされ、Vの字の形で家来に押さえつけられていて今さら押さえる必要がないのだから(苦笑)。しかもカンディードの逆さVの字の形、犬神家の一族です(笑)。

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〔 シークエンス 8. 〕

男爵に棍棒でブッたたかれ、地面を転げまわるカンディードカンディードが悲惨なこの場面でも、ヤコペッティはユーモアの精神を発揮する事を忘れない!

 

"お許し下さい" by 男爵に許しを請うカンディード

 

で、ここで犬のアップ。この後のカンディードに対する男爵の言葉!

 

"犬は黙れ!" 

 

まさか、このセリフのためだけに犬を用意したのか!そうだとすると芸が細かすぎる(笑)。一応原作では猟犬がいる事になってますが・・・それでもわざわざね。そしてカンディードの締めの言葉。

 

"そんな お許し下さい"

 

"そんな"という言葉が悲しすぎる(笑)。僕を犬扱いしないで下さいよという感じが伝わってきます。

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〔 シークエンス 9. 〕

男爵によって追放を宣告されるカンディード。それまでの城の庭から一転してカンディードがただ1人で何も無い広大な土地にたたずむ姿の場面への切替が印象的です。

 

"お前を追放する" by 男爵

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〔 シークエンス 10. 〕

1人寂しく旅に出るカンディード。自分への仕打ちに対して最善説への疑念を抱くカンディード。これに対して"世の中は甘くないのだから最善ではないのは当然だ"と反対の命題を唱えるのは単純すぎるでしょう。

見過ごされがちですが、最善説への反駁の舞台裏では、"経験論の哲学"が潜んでいます。つまり、最善ではないと思わせる主体の "経験" が働いているのであり、何が最善であり、何が最善ではないのか、という事には "主体の経験という出来事" が大きく関わっているのです。

この "経験という出来事" とは、経験の主体が、我が身が消滅する程の経験(戦争、災害、事故、殺人などの死)すら自らに刻み込んでしまうという意味で、最悪のものでありながら、その能力がなければ喜びや楽しみなど多様なものを味わう事が出来ない最善のものでもあるという意味で、矛盾に満ちたものであり、ある意味で人間的なものを越えているとさえ言えます。

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〔 シークエンス 11. 〕

ブルガリア(※4)で軍隊に無理矢理入れさせられたカンディードだが、彼が本格的に参加する前に、ブルガリア軍は国籍不明の敵国(※5)に大敗してしまう。そんな事よりも昔風のブルガリア兵と現代的な軍隊とのコントラストが凄すぎる!しかもブルガリア兵は敵国との戦力の違いからか全員固まってしまいイラストのボードになってしまうというシュールな展開に。かなり手の込んだ事をしているが、敵国の火炎放射器に対して生身の人間では危険すぎるという撮影時の配慮も織込み済みのウケ狙いなのか(笑)。

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 (※4)

原作が書かれた当時(1759年)には、ブルガリアは国としては存在していない。以前に存在していた第2次ブルガリア帝国(1185~1396)は十字軍として参加した1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世率いるオスマン帝国に敗れ、オスマン帝国露土戦争(1877~1878年)で敗れるまで、その支配下にあった。

 

(※5)

原作では敵国はアバリアとなっているが、これは架空のもの。 (※4)で触れたブルガリアも当時、国として存在しない事と合わせて考えると、ブルガリアヴォルテールが滞在した事のあるプロイセン(ヴォルテールプロイセン国王のフリードリヒ2世と交流があった)であり、戦争はイギリスの支援を受けたプロイセン対オーストリア・ロシア・フランスなどとの7年戦争をモデルにしているという見方が出来る。

 

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〔 シークエンス 12. 〕

戦死者が横たわる廃墟で再会するカンディードとパングロス 。彼はクネゴンダは犯され殺されたという残念な報告をする。これに対してカンディードは、それらの原因が "憎しみ" ではないかと言う。

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〔 シークエンス 13. 〕

しかし最善説の信奉者パングロスは、最善説を否定しかねないその意見を否定し、原因を "恋" というトンデモ説を展開する。

 

"梅毒がなければ私達はアメリカを手に入れておらん"

"アメリカ(※6)なしにポテトもトマトも口紅もなかった" by パングロス

 

これだけではよく意味が分からないのですが、要は自分に梅毒をもたらした経路(パングロス自身に梅毒を移したのは、冒頭で性行為をした侍女のパケット。リンゴを採っていた女性)の元は、コロンブスの船の水夫であり、彼らがアメリカを発見してくれた恩恵にくらべれば今の状況はなんて事はない、という事でしょうか・・・何という無茶苦茶な理屈!仮にアメリカ発見が最善な事だとしても、その恩恵に与るために不幸があるのだというパングロス的理屈に納得する人は変わり者でしょう。

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(※6)

ちなみに原作ではアメリカは国という概念では出てこない(南米大陸の都市の記述はあるので、南北という括りではアメリカという大陸は登場する)。トマス・ジェファーソンによって"アメリカ合衆国"の言葉が加えられたアメリカ独立宣言1776年ヴォルテールの死の約2年前だから当然といえば当然。ヨーロッパ諸国からするとアメリカは植民地でしかなかった。

アメリカという言葉自体は、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーフィレンツェの探検家アメリゴ・ヴェスプッチに因んで、世界地図(1507年)でコロンブスの発見した新大陸にアメリカという言葉を用いた事による。ただし、これは南米大陸に書き込まれたものであり、大陸全体は一般的にインディアスと呼ばれていた。そのような漠然とした南北大陸について、北アメリカと南アメリカという別々の記載を行った(1538年)のが社会科の授業で習う有名なメルカトル図法ゲラルドゥス・メルカトルですね、あくまでも地理学的な視点から見た場合ですが。このような経緯の中、南北大陸をアメリカ大陸とする一般的な見方が徐々に定着していきます。

 

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〔 シークエンス 14. 〕

 その廃墟に突然現れた異端審問官が問う。

 

"すべてが最善であると信じるのであれば、罪も罰もない事になろう" by パングロスを問い質す異端審問官

 

それに対してパングロスは罪と罰は、この世が最善であるための必然だと言う。異端審問官は必然であれば、自由を信じていないのか(※7)とさらに問い質す。パングロスは自由は必然と両立すると言うが、さえぎられ罰を宣告される。

ちなみに原作では、この場面は大地震発生直後のリスボン。現実に1755年にはリスボンの大地震が起きており、津波・火災を含めて死者が4~6万人といわれ、リスボンの町は廃墟と化したという。これに強く影響を受けたのが、ここで取り上げている〈カンディード〉の作者である啓蒙思想家のヴォルテール。この後、ヴォルテールリスボン大震災に寄せる詩〉を書き(1756年)、最善説の無力を示している(※8)

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 (※7)

この質問から、異端審問官がカトリックである事が分かる。これは"自由意志"の教義問答だともいえる。周知の通り、カトリックは自由意志を認めているが、自由意志を認めないカルヴァン派などを異端としている。

一見すると自由意志を認めないカルヴァン派は救いがなく身も蓋もないように思えるが、そうとはいえない。というのも世界史の授業で習うように、マルティン・ルターが免罪符を大量販売する教会を批判したように、当時は教会の腐敗が問題となっていました。このような腐敗の原因のひとつとして自由意志を認める教義があるからだと解釈出来る余地はあるでしょう。

つまり、贖罪に向かおうとする人々の自由意志を、罪の軽減によって教会の腐敗的権力が利用するのであれば、本来、人間がコントロール出来ない罪を教義的に正す必要があるカルヴァンが考えたのは当然の事だと言えます。自由意志の否定、予定説、全的堕落などのカルヴァン主義の特徴が、人間的なものの介入を許さないように見えるのは、教会権力への政治的対抗措置の理論的帰結としての側面も備えている事を見逃すべきではないでしょう。

 

(※8) 

リスボン大震災に寄せる詩〉の副題は"あるいは「すべては善である」という公理の検討" となっている。悲惨な現実を語ったその詩の中で、彼はライプニッツに言及する。

ライプニッツは、私にまったく何も教えてくれない

存在しうる世界のうち、最高に整っているこの世界で

底なしの無秩序、不幸の混沌が、多くの苦とわずかな快を

つなげている、その見えざる結び目について教えてくれない

罪のない者がどうして罪人と並んで、いやおうなしに

苦しまなければならないのか、かれは教えてくれない

どうしてすべてうまくいく、というのか、私にはわからない

 

とはいえヴォルテールの言葉で以って、現実を省みないライプニッツの哲学が価値の無いものだと感情論的に判断するべきではない、と付け加えておかなければ公平ではないでしょう。ヴォルテール自身も上記の詩の後に次のように付け加えている。

 

いやはや、私もそこらの学者と並んで、まったくの無知なのだ

 

 

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〔 シークエンス 15. 〕 

異端審問により罰を受けるカンディード。尻叩きの刑(笑)。パングロスは絞首刑だったが、死に切れずに生きていた事が後で分かる。その他にも処刑を受ける白塗りの魔女たちなどが登場し、黒服の男たちによつて音楽が演奏される状況は、非日常的で奇妙な世界となっている。そして尻叩きの刑を受けるカンディードを見つけてクネゴンダは驚く。彼女は生きていた、4人の男たちと関係を持ちながら。

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〔 シークエンス 16. 〕 

カンディードが追放された後、城で襲われた時の真相を語るクネゴンダ。

 

"悪魔に殺されたって・・・"

"犯されただけよ" by クネゴンダ

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〔 シークエンス 17. 〕

説明を続けるクネゴンダ。

 

"裁縫をしながらあなたを思っていた"

"乱暴な男が部屋に来たの" by クネゴンダ

 

レコードやギターが無造作に散らばっている様子(彼女にそんな趣味があったとは予想外・・・ヤコペッティの趣味なのか?)は、とても裁縫していたように思えないのですが・・・。しかも乱暴な男が来たと言うわりには、顔が見えないはずの甲冑姿の男がギターを持っているだけで好きなミュージシャンのアッティラ(※9)だと決め付けて興奮するクネゴンダ。自分から飛びつくとは能天気すぎる。尻軽なキャラになってます(笑)。

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 (※9)

ミュージシャンのアッティラ・・・誰かに由来しているのかなと思いましたが、おそらくはソロデビュー(1972年)以前のビリー・ジョエルが、前のバンド The Hussles でドラマーだったジョン・スモールと作ったバンド Attila からインスピレーションを得ているのかも。1970年にアルバムアッティラ「邦題:フン族の大王アッティラを1枚リリースしたのみで活動を終えましたが(売れなかったようなので)、そのサイケデリックなへヴィサウンドでビリーがシャウトする楽曲(特に1970年代のハードロックバンドで多用されたオルガンの歪みが特徴的)は、今の彼からは遥か彼方の宇宙ほどにかけ離れ過ぎている(笑)ので戸惑うファンも多いでしょう。でも現在のへヴィロック好きのファンからしたら、お気に入りの作品になるくらい魅力的だといえます。

この時は、ソロデビュー前で名義もウィリアム・マーティン・ジョエルのようなので、ヤコペッティもビリーについては知らなくて、その攻撃的なサウンドとバンド名が頭の片隅に残っていたという所ではないでしょうか。

    

 

 

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〔 シークエンス 18. 〕

クネゴンダと再会したのも束の間、連れ去られたクネゴンダを追って、カンディードは元黒人奴隷のカカンボ(原作ではスペイン系の従僕)と共に、アメリカにやって来る。アメリカといっても現在のアメリカになっていて、そこにカンディードやカカンボが、コロンブスリンカーンなどの過去の人物達と共に現れます。

このアメリカ編から、ヤコペッティの脚色が強くなります。原作には無い、この過去から現在への時間の変化はこの映画を考える上で大切なポイントでしょう。というのもヤコペッティは最初に原作のカンディードありきで構想を練り始めるような文芸愛好家ではなく、彼の出自であるモンド映画の監督である事を考慮するなら、始めにありきなのは、彼の出自であるモンド映画の撮影記録の無意識的地層だといえるからです。

世界各地を対象とした撮影は、たとえ擬似ドキュメントだったとはいえ、"事物の記録の積重ね"が、彼の中に"事物の記録の経験者"としての自分をひとつの"主体"として、つまり"何事かを経験する者という経験論的視点"を獲得させたと言う事は出来るでしょう。

 

その彼が、"世界各地での経験"という視点をヴォルテールの原作の中に見出し、原作の主人公であるカンディード"経験する主体"である事を理解したとき、静かな哲学的興奮を覚えたに違いありません。つまり、〈大残酷〉とは、ヴォルテールの〈カンディード〉を自らの事物の記録という経験に接続する試みであり、過去から未来への時間移動は予め考え込まれたSF的設定ではなく、ヴォルテールを自らに方に接続しようとする試みの軌跡のひとつとして現れた時間軸である、というのが〈大残酷〉の哲学的真理だといえるでしょう。

 

"これこそ あり得べき最善の世界です" by なぜかパングロスがディレクターを務めるTV中継

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〔 シークエンス 19. 〕

 再会して互いに喜ぶカンディードとパングロス

 

"でも 絞首台で・・・" by 生きているパングロスを不思議に思うカンディード

"私を吊り損ねたんだ" by 説明するディレクターのパングロス

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〔 シークエンス 20. 〕

カンディードからクネゴンダを探していると聞いたパングロスはTVを使ってアピールするように言う。さすがディレクター、力を持っています。が、その直後、あり得べき最高の絶頂と紹介されているクネゴンダのショーの宣伝カーを見つけて、カンディードは激怒する。

 

"何しに来たんだ" by カンディードに聞くパングロス

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〔 シークエンス 21. 〕

ポスターにクネゴンダと一緒に描かれた男(アッティラですけど、彼の仲間がクネゴンダが連れ去る時に、彼はカンディードと戦って失神させられて置き去りになったはずなのですが・・・まあ、いっか)が彼女をたぶらかしたとして怒っているカンディードに対してパングロスは言う。

 

"彼に怒ってもムダだぞ" "彼はギターの弦で首を吊った"

"クネゴンダはどこです?" by カンディード

"アイルランドさ"

"プロテスタントと戦う彼女はカトリックの坊主と行った" by パングロス

 

おいおい、クネゴンダの行き先を知っているのなら、なぜカンディードにTVでアピールさせたんだ!ってツッコミたくなるが、それは野暮というもの。気にしないようにしましょう。

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〔 シークエンス 22. 〕

舞台はアイルランドアイルランド北部6州が北アイルランドとしてイギリスの一部である事に不満を抱くIRA(アイルランド共和軍) が、アイルランド統一のためイギリス勢力に対する武装闘争を掲げてテロを繰り返していた。1970~1990年代はIRA内部でも、一般的支持を得られないテロに代わる政治的交渉の声も起きたが、より純粋な武装闘争を唱えるIRA暫定派が台頭し、イギリス本土への爆弾テロなども仕掛け、テロリズムを強めていた(※10)

アイルランドになぜか現れたパングロス率いるTVクルー。

 

"キリスト教の平和な理想が起こす現実(※11)"

"小さな不幸は多数の善を生みます" by パングロス

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 (※10)

現在の状況に関して言うなら、1998年に労働党トニー・ブレア政権下でIRAとの和平合意(ベルファスト合意)が成立した。この後、アイルランド国民投票によって北部6州の領有権主張を放棄した。2005年にはIRAは武装闘争終結を宣言している。

 

(※11)

アイルランドにおける宗教闘争は、北アイルランド及びイギリスのプロテスタントアイルランドカトリックという形で現れていた。クネゴンダはカトリックのために率先して来たというよりは、カトリックである異端審問官に連れて来られたと言った方がいいかも。訳も分からずについて行ったという感じですか。

それにしても、宗教闘争それ自体は全く宗教的ではないといえる。どのような宗教であれ、その第一原理が、誰かとの争いを勧めるものではないのだから。では、外部の誰かとの闘争という原理は、どこから発生するのか?それが宗教それ自体からではないのなら?

答えは、宗教の内実それ自体からではないが、宗教という名のイデオロギーからといえる。宗教に従属する内部の人にとっては、それは恩寵や信仰といった内実のあるものだが、そこに従属しない外部の人に対してはイデオロギー的なものになる。言い換えると、宗教に従属する人に対しては教義であるものが、従属しない外部の人に対しては闘争を仕掛けるイデオロギーに変質するという事ですね。もちろん、この事は宗教だけでなく、科学や経済、政治、哲学などについてもいえます。

このようにイデオロギーとは闘争的なものなのですが、そのような用語を聞くと、古くさいマルクス主義を思い浮かべるかもしれませんが、マルクス以前に宗教にイデオロギー闘争を持ち込む事に成功した人こそ、少し前に触れたカルヴァンに他なりませんカルヴァン主義がヨーロッパで勢力を持ちえたのも、その教義のみだけではなく、イデオロギー闘争の側面があった事は否定出来ないでしょう。

 

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〔 シークエンス 23. 〕

アイルランドの内戦で廃墟と化した教会に足を踏み入れるカンディードとカカンボ。そこにはアメリカからクネゴンダを連れて来た異端審問官がいた、いや、今さら、異端審問官っていうのもどうしたものか、ただのおじさんにしか見えない(笑)。

クネゴンダは既にそこにはいなかった。裏切られたと感じている異端審問官は怒りのあまり、カンディードたちに機関銃を撃ちまくる。

 

"彼女はユダヤ人と聖地へ逃げた!" by 異端審問官

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〔 シークエンス 24. 〕

エルサレムに来てクネゴンダを探すカンディードとカカンボ。壁に貼られた兵士募集のポスターのモデルがクネゴンダなのに、誰も彼女の事を知らないという。何人にも聞いて回り、愚直にクネゴンダを探すカンディードに対して、カカンボはシャワーを浴びる女性兵士に色仕掛けで迫るという驚きの行為(そんなキャラだっけ?)で彼女が敵側であるアラブゲリラの所にいる事を聞きだす。アラブゲリラという事は、イスラエルと対立するアラブ諸国側の兵士なのでしょうが、エルサレムという場所を考慮するなら、パレスチナゲリラというのが正確な所でしょう。

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〔 シークエンス 25. 〕

おそらく撮影当時は、第4次中東戦争(1973年)前後ですが(さすがに撮影場所は違うと思うけど)、タイムリーで緊張感のある戦争を映画の素材の一部(先に述べたアイルランド紛争を含めて)として自分の色に染め上げてしまうヤコペッティは、世界各地における紛争・戦争が、人間にとっての "最悪の出来事" であるがゆえ、映画の中で描く必要のある "経験" だと直感的に理解していたといえますね。

以下の、赤い花が咲き誇る中でのイスラエル女性兵士とパレスチナゲリラの戦闘は、争いの中でも静かに佇むしかない花との対比において、人間存在が "最後に行き着く経験"、つまり "死" (赤い花畑の中に横たわるイスラエル兵とゲリラ兵の死体)を刹那的に描いている

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〔 シークエンス 26. 〕

クネゴンダを再び探すために老人たちばかりが集まる村に来たカンディードとカカンボ。ここにいる老人たちは"フラワーチルドレンという平和と愛と非暴力の集団" だと説明されていますが、もちろんこれは1960代後半から1970年代にかけてアメリカでのフラワームーブメントを担ったヒッピーたちの事。ここでは、社会的束縛に抵抗する事に熱中した若者であったヒッピー達の成れの果ての姿を描いている。

ただし、これはヒッピー達への批判というよりは、社会的抵抗を求め自由を謳歌する若者でさえも、"いずれ老いていくという誰にも共通する人間の経験" を表していると考えるべきでしょう。

村人はクネゴンダの居場所ならダルヴィーシュに聞けとカンディードに言う。ダルヴィーシュ(※12)とはイスラム神秘主義(スーフィー)の修道僧の事。原作でもダルヴィーシュは出てくるのですが、映画ではヒッピー達の村にイスラム神秘主義の修道僧がいるという奇妙な状況になってます(笑)。

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(※12) ダルヴィーシュと聞くと、アメリカのメジャーリーグで現役投手(2016年現在)であるダルビッシュ有(テキサスレンジャーズ。元日本ハム)を思い浮かべるでしょう。彼の父親がイラン出身なので、ペルシア語のダルビッシュが名付けられている訳ですね。

 

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〔 シークエンス 27. 〕

■ なぜかヒッピーの村にいるクネゴンダを見つけるカカンボ。ダルヴィーシュに聞けと言った村人のアドバイスをまるっきり無視する流れ。一体何だったんだ!

クネゴンダの姿を確認したカンディードは一瞬目を潤ませるのですが、すぐに彼女が老けてしまっている事に気付きます。

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〔 シークエンス 28. 〕

そこに突然現れるかつての知り合い達。TVディレクターだったパングロスも元の姿に戻っている。男爵、奥方もいる。

そしてカンディードは、ダルヴィーシュを訪ね、哲学問答を始める。

 

"人間と言う妙な動物はなぜ存在するんです?" 

"この世は邪悪すぎます" by カンディード

"善悪を気にするなどお前のやるべき事か" by ダルヴィーシュ

 

カンディードの問いに対してダルヴィーシュは明確な答えを与えられず期待はずれなのですが、彼の発言は映画の結末(原作も含めて)に対する哲学的解釈を行う上での基本的な伏線となっているといえるでしょう。それについては後で考えていきますね。

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〔 シークエンス 29. 〕

老け込んだクネゴンダを見て考え込むカンディード

 

"なぜ若さは すぐ消える?" by カンディード

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〔 シークエンス 30. 〕

目の前の川を見ながら、最善説を反芻するカンディード。だがここで彼は最善説から、ある種の運命論へ移行しつつある事が分かる。

 

"流れがなければシンボルは反対の岸に流れ着くが 結局 若者たちが またそれを川に投げる"

"運命だよ 逃れようがない" by カンディード

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4. 結末の解釈

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f:id:mythink:20170122214855j:plain さて映画の結末について考える前に、原作の結末に触れておく必要があるでしょう、映画との差異を浮かび上がらせるためにも。

 

世界各地を放浪した末にパングロスは仲間達と共に、小さな畑を耕すという日常に没頭していきます。

"ぼくにわかっていることは ひとは自分の畑を耕さなければならない、ということ" by カンディード

"人間がエデンの園においてもらったのは、聖書にもあるとおり、そこを耕すため、つまり、労働をするためなのです" by パングロス

"議論とかするひまがあったら働きましょう。それのみが人生を我慢できるものにする唯一の方法なのです" by マルチン

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain このように、原作における結末である第30章は、最善説的な哲学議論から"労働"への移行が描かれています。この部分は、カンディード"ひとは自分の畑を耕さなければならない"というセリフと共に、ヴォルテールに関心のある人達にとって、常に解釈の対象となっていました、まるでカンディードの言葉に何らかの哲学が含まれているかのように。たとえば、抽象的に解釈するならば、答えの出ない哲学議論のような他の領野の中で迷走するよりは、自分の手が届く日々の生活の営みに集中する事の方が有意義な人生の過ごし方なのではないか、という具合に。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain しかし、カンディードダルヴィーシュとの哲学問答で示されていたのが哲学的思考の停止に他ならないとするならば、カンディードのセリフに含まれていたのは、哲学的なものものではなく、それどころか、哲学理論からの撤退以外の何物でもないのは明らかでしょう。つまり、カンディードのセリフは人生論的には有効でも、理論的には後退している(※8)で記したように、それはヴォルテール自身が認める所でしょう。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain そんな原作に対して、ヤコペッティの映画のラストは理論的なものについて考える可能性を残しているという意味で、ヴォルテールの原作以上に興味深いものになっています。

 

〔 シークエンス 31. 〕

"ダメだ 行くな 痛い目に遭うだけだ" by 川の対岸に自分の姿を見つけたカンディード

"痛い目に遭いたいのさ"

"最初から全部また経験するんだろ" by 去り際に冷静なセリフを残すカカンボ

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f:id:mythink:20170122214855j:plain このラストによって、ヤコペッティヴォルテールの原作の中では最善説の裏で漠然とした形でしか現れてなかった経験論を主体に帰す形で浮かび上がらせ、さらにその帰結を提示したのでした。つまり、最善説に反対するにせよ、賛成するにせよ、それ以前に、そこにはまず"何かを経験する主体"が先立つのであり、その"経験という在り方"は当然ではなく、主体にとっての特別な出来事であるという哲学理論が現れるのです。

このことはヴォルテールが放棄した理論的に考えるという知識の仕事は、もはや止められない事を意味します。パングロスはエデンの園に言及しましたが、アダムはそこで知恵の樹の実を食べたが故に、イヴと共に追放されたのでした。つまり、それ以後は私達は知る事が出来るのに、知らない振りをするという嘘をつく事こそ、さらなる罪である事を哲学的に理解する必要があるでしょう。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain ヤコペッティ経験する主体にさらに捻りを加えています、主体が経験した事を再び経験するという永劫回帰的モチーフを導入しているのです。この時、主体には何が起き、哲学的にどう考えなければならないかは大きなテーマとなるので機会があれば、その時に論じましょう。いずれにせよ、ヤコペッティの大残酷は、ヴォルテールカンディードが放棄した哲学理論的に考え続ける事の可能性と、映画それ自体を娯楽として楽しむ可能性を内包しているといえるでしょう。

 

 

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