〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

TV【 相棒13 最終回 】を哲学的に考える【2】

f:id:mythink:20201127183623j:plain



   TV 【 相棒13 最終回 】を哲学意的に考える【1】 の続き

 

f:id:mythink:20201125193525j:plain




 6.   杉下右京と甲斐亨という組合せ

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   杉下右京と甲斐亨という組合せは、それぞれ人間関係における不安定的要素(それが魅力でもありますが)を体現したもの同士の組合せであり、それは危険な者同士の組合せであるとさえ言えます。時に自制出来ない程の【 知的正義 】を持つ杉下右京と父親などの権威に対する【 反抗的正義 】を持つ甲斐亨の組合せは【 正義 】を掲げる者同士でありながら【 対抗的関係 】にあり常に緊張を伴うものでした。

 

■   この点、過去の相棒と比較してみると面白いでしょう。一代目の亀山薫寺脇康文は甲斐亨と血気盛んな所が似通っていて一見、杉下右京と対抗関係にあるように思えます。二代目の神戸尊(及川光博亀山薫とは対照的にクールで知的な所が杉下右京とかぶっているようで、その意味でこれも対抗的関係にあるように思えます。

 

■   しかし両者とも甲斐亨と違うのは、事件の解決に当たって自らの信念を貫き通せないという現実(事件の捜査方法であり解決方法であり、あるいは杉下右京の信念との違い)に耐えうるという意味で大人であり、そうした大人として杉下右京と相棒関係を結んでいるのです

f:id:mythink:20201125193020j:plain


 

  7.   甲斐亨の信念

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   それに対して甲斐亨は自らの信念にこだわり、悪への制裁という形でそれを実行に移した。しかしその信念がいかに正義であると本人が思い込んでいても、信念にこだわり貫く為に採られる方法は信念の中身とは別の問題です。

 

■   つまり信念が正義であるように思えても、それを実行する方法が悪魔的であるならば、その信念は歪んだ正義である他はない。この場合、歪んだ正義とは甲斐亨が自分の欲望を満たす為のものであり、大河内監察官の取り調べにおいて世間からのダークナイトに対する賞賛に心地よさを覚えたのではないかと指摘された通りです。

f:id:mythink:20201125193020j:plain


 

 8.   甲斐亨にとっての強大な存在としての杉下右京

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   さらに問題なのは、何が甲斐亨にそこまで自らの信念にこだわらせたのかという事ですね。自らの刑事という立場を考えれば信念を放棄する事も出来たはずなのに、そうしなかった。いやそうする事が出来なかったと解釈すべきでしょう、自分の隣に常にいる杉下右京という存在によって。

 

   甲斐亨にとって杉下右京とは自分の中に入り込んでくる強大な存在でした、その知性、正義感において、そして一人の男として・・・。父である警察庁次長の甲斐峯秋にも強気の虚勢でもって自分への敷居を跨がせなかったのに、その一線を越えて来るほどの存在であったという事です。甲斐峯秋自身が右京に対して杉下右京という存在が倅をダークナイトに駆り立てたと言ったように。

f:id:mythink:20201125193020j:plain


 

  9.   甲斐峯秋による息子と杉下右京の関係についての分析

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   これは言われる程、単なる陳腐な台詞の遣り取りではないでしょう。倅の犯罪の原因を右京に求めているのではなく、杉下右京と倅である甲斐亨の特殊な関係性について述べていると解釈する方が興味深く(甲斐峯秋は後悔や落胆の表情をしているというよりは淡々と論じているように見える)思えます。

 

   甲斐峯秋は父親である自分が変えられなかった倅を変えた ( 結果として悪い方ですが  ) 杉下右京に実の親子以上の特殊な関係性を見たのでしょう。これをもって杉下右京を甲斐亨の父親的存在とする見方もあるでしょうがが、それは微妙な所です。

 

■   なぜなら杉下右京も甲斐亨と同様に大人になり切れていない存在である事は、そのキャラクター性から明らかだからです。つまり杉下右京と甲斐亨は未だ人間形成の過程にあるもの同士が拮抗する状態、いわゆる【 対抗的関係 】にある【 相棒 】という事ですね。

f:id:mythink:20201125193020j:plain

 

 

 10.   杉下右京の内面

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   甲斐亨は杉下右京に多くを学びながらも、同じくらい多く内面的に抵抗したはずです、自分の存在を守る為に。杉下右京によって感化され自分が変わっていくのを感じながらも、自らの存在に固執し防衛した。甲斐亨の恋人の笛吹悦子の妊娠と病気の話が脚本的に回収出来ていないのは甲斐亨の自らの内面への深い耽溺性とそれが上手く処理出来ていないからではないかと思えるくらいです。

 

■   この内面への耽溺性 こそ杉下右京に欠けているもの、どこかに置いてきたものなのです。もちろん推理力を行使して捜査を展開するプレーヤーとしての杉下右京にそれは必要はないはずのものです、実際自らの事を語らないのだから。

f:id:mythink:20201125193020j:plain

 

 

   11.   刑事ではなく人間同士としての【 相棒 】

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   しかしこの最終回に限ってはそれまでの刑事物語ではなく、主役である杉下右京と甲斐亨というキャラクターの成立に関わる存在問題としての物語に書き換えられています。そこでは杉下右京と甲斐亨は事件を解決する者同士としての【 相棒 】ではなく、互いに自らの【 存在 】に立ち向かう者同士としての【 相棒 】になっているのです。

■   香港のバスの中で出会った二人は刑事として幾つもの事件を解決してきた末に、最後の空港の場面において無期限の停職になった刑事(杉下右京)と犯罪を犯した元刑事(甲斐亨)として互いが【 相棒 】であるのを再確認する時、それは普遍的な意味での【 相棒 】に近づいた瞬間でした。

f:id:mythink:20201125193020j:plain

 

 

 12.   二人の組合せの奇跡

f:id:mythink:20201125192800j:plain

■   出発点で偶然に出会った二人(哲学的には【 偶然の必然 】とでもいうべき所でしょう)は最後の場面において互いの結びつきの必然性を確認するという回帰的ストーリーは二人の象徴的地位の剥奪という高い代償を支払うという失敗であるかもしれませんが、そこには二人にとって今までとは違う何か別のものが到来し、動き出している。

 

■   おそらくその可能性を展開していく事は次のシリーズがあるとしても、そこでは無理であろうし(相棒が違うのだから)、その意味でこの最終回は相棒史上、最もファンを不快にさせる異質なものでありながらも同時にほとんど気付かれる事のない二人の組合せの奇蹟性を備えた回であったといえるでしょう。
 f:id:mythink:20201125193020j:plain