〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 累 かさね 』( 2018 : directed by 佐藤祐市 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

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 上記の記事からの続き。


 



 5章    "サロメ" の誕生

 

この映画のラストで使われている戯曲『 サロメ 』がオスカー・ワイルドによるものだということは既に述べました。そして前回では、ワイルドの『 サロメ 』の源流として、新約聖書の『 マタイ伝  』、『 マルコ伝 』の中のエピソードから始まったサロメが西洋美術の対象であることを経て、19世紀末のフローベールによって、妖艶なダンスを披露する女性として小説の対象となったのを確認しましたね。

 

しかし、フローベールの『 ヘロディアス 』においても、サロメはヘロディアスの娘であるという "従属的主体" の地位に留まっています。つまり、未だ聖書のモチーフに縛られているという事なのです。ここに "創造的切断" を導入したのがオスカー・ワイルドです。ここで言う、創造的切断とは哲学的概念として理解される必要があるので説明していきましょう。

 

オスカー・ワイルドによる創造的切断が何を意味するかというと、聖書のモチーフにおける、サロメの母親ヘロディアスへの従属的地位を切断すること なのです。これによってサロメは母親の意思でヘロデ王を惑わすダンスをした ( フローベールの『 ヘロディアス 』でも、サロメは踊ることを母親に予め仕込まれている ) のではなく、自分の意思で大人のヘロデ王を官能的に興奮させる処女として "独立的主体" となるのです。自分の娘サロメに、少女ではない大人の女の香りを察したのか、ワイルドの『 サロメ 』では、ヘロディアスは踊ろうとするサロメを何度も引き止めます。

 

実は、ここは興味深いところなのです。そもそも、ヘロディアスは、ヨカナーン ( ヨハネ ) を自分とヘロデ王が近親相姦婚だった ( ヘロディアスの前夫はヘロデ王の兄 ) ことを非難したが故に恨んでいたのですが、自分の娘サロメが夫であるヘロデを誘惑した挙句に、ヨカナーンの首を恋しさの余り欲するという近親相姦関係 ( 学術的にはサロメヘロデ王の実子ではなく、ヘロディアスの連れ子だと推測されていますが ) の転移はギリシャ神話的であるとさえいえるでしょう。

 

ここには、さらに細かく解釈する余地があります。サロメヘロデ王の向こう側に、ヨカナーンを見ていたように、ヘロディアスもまた夫であるヘロデ王の向うに側にヨハネを見ていた、実は愛の対象として見ていたのではないか、という解釈が可能になるのです。憎悪の裏に隠された愛、愛するが故に憎む、という愛憎の対象としてのヨカナーンがいる訳ですが、ここでは、お気付きのように カナーンは、ヘロディアス、サロメにとっての愛の "同一の対象" になっている のですね。

 

これを1人の男を母と娘で奪い合う悲劇だと考えてはそれ以上進むことは出来ません。ここで参照すべきは、切断されたヨカナーンの首の行方 です。もし、ヨカナーンがヘロディアス、サロメ、の愛の対象であれば、斬首されたヨカナーンの首に対して何らかの反応があるはずですね。ところが、フローベールの『 ヘロディアス 』では、あれほど欲したヨカナーンの首に対してサロメ、ヘロディアスの反応はほとんど描写されません。彼女らの欲望を宙吊りにしたまま、フローベールはヨカナーンの首を3人の男たちに運ばせて、キリストの元に向かわせるというラストで物語を閉じてしまうのです。つまり、フローベールはヨカナーンの首を愛の対象ではなく、来るべきキリスト教の時代に向かっての象徴として考えたという訳です。

 

そうすると、ワイルドが師と仰いだフローベールの『 ヘロディアス 』からは、『 サロメ 』におけるサロメの欲望や、ヨカナーンの首に口づけするサロメの身振りは導き出せないことになりますね。それは同時に、サロメがヘロディアスから独立する機会が消滅することを意味します。だからこそ、ワイルドの独創性が際立つのだと考えることも出来るのですが、ここで『 ヘロディアス 』以外に彼に影響を与えた ハイネの『 アッタ・トロル 』を参照してみましょう。

 

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フローベールの『 ヘロディアス 』( 1877 ) に先立つ1843年、ドイツ・ロマン派の作家 ハインリヒ・ハイネ ( Heinrich Heine : 1797~1856 ) は、熊のアッタ・トロルを人間のように見立て、私 ( おそらくハイネ自身 ) の視点から語る政治風刺詩の アッタ・トロル  ー夏の夜の夢ー ( Atta Troll ) 』 を発表しています。この『 アッタ・トロル 』の第19章でヨハネの首に口づけするヘロディアと彼女の情念が描かれ、20章においては語り人 ( ハイネ ) のヘロディアの愛が語られるという具合に、愛の次元が発現するのです。もちろん、『 アッタ・トロル 』が風刺詩であることを考えれば、唐突に現れたヘロディアユダヤ人の象徴であり、そのユダヤ人を擁護している ( ハイネ自身もユダヤ人であり、『 アッタ・トロル 』の他の箇所でユダヤ人の市民権に触れている ) と政治的解釈も出来るのですが、ここでは 主体間の関係において "愛という欲望の次元" が導入されている ことを重視しましょう。

  

 

  両手には、いつまでも

  ヨハネの首を載せた皿を持ち

  そして、それに接吻する。

  まったく熱情的にその首に接吻する。

 

  むかしヨハネに恋をしていたからだ ー

  聖書にそのことは書かれていない、

  が、民間にはヘロデアの

  血なまぐさい恋の伝説は生きている ー

 

  そうでなければ、この女王の

  情欲は説明されえない ー

  恋してもいない男の首なんぞ

  所望する女があるだろうか?

 

  ふとしたことで恋しい男を憤り

  その首をはねさせたにちがいない。

  だが皿に載る

  恋人の首を見るや、

 

  ヘロデアは泣いて気がふれ

  そして恋に狂って死んだのだ。

  ( 恋に狂う! とは言葉の重複!

  恋とはすでに狂気なのだ! )

 

  夜になると生きかえって

  血のしたたる首を手にして

  猟に出かけるという噂 ー

  しかも狂った女の気まぐれから

 

  子供のように笑いながら

  ときどき、その首を空中に投げあげ

  すばやくそれを受けとめて

  まり投げでもやっているよう。

 

 

  『 アッタ・トロル -夏の夜の夢ー 』 第19章 p.362  井上正蔵 訳 筑摩書房 筑摩世界文学大系『 ドイツ・ロマン派集 』所収 

 

ここで注目すべきは、"情欲" それ自体です。ただし、ヘロデア ( ヘロディアス ) という特定の主体の情欲に限定されるものではありません。というのも、ここには様々な神話や説話において見られる主体の混同や移動がヘロデアにおいて示されているからです。例えば、" 夜になると生きかえって 血のしたたる首を手にして 猟に出かけるという噂 " という箇所は、源流の "ロディアサロメ説話" とは、もはや違う要素であるのが分かりますね。ここで想起されるのは、旧約聖書外典『 ユディト紀 』に由来するユディト神話で見られる "魔女的ユディト" です。敵将ホロフェルネスの首を切り落とし持ち帰ってきたユディトが残虐でありながらも好奇の対象となっていたという歴史経過を踏まえると、『 アッタ・トロル 』ではヘロデアとユディトの混同、さらにサロメが重ねあわされているのです ( *A )。ということは、そこでは特定の主体が問題になるのではなく、幾つもの主体を呼び寄せる欲動の次元が、精神分析的意味で活発になっていた 事が重要なのです。

 

このような幾つもの主体間で激しく揺れ動く "欲動" に対して、特定の主体へ向かう道筋を与えて "官能的な欲望" を明確にしたのが、オスカー・ワイルドです。そこで、彼がサロメを選び、彼女を中心とした戯曲を書き上げたことが、"創造的切断" だった、精神分析的にも、哲学的にも。サロメによる母ヘロディアスへの従属からの切断を象徴するものこそ、切断されたヨカナーンの首であり、それを手に入れる事が母からの独立に成功した証であると精神分析的に解釈出来るのです。

 

そして、この "切断" は、聖書に内在する哲学的概念 でもあるのです。ここでフランスの女性哲学者 ジュリア・クリステヴァ ( Julia Kristeva : 1941~ ) を参照しましょう。彼女は西洋における頭部、頭蓋、顔、のイメージ、そして、それに伴う切断、について、美術のデッサンの歴史を通して論じた『 斬首の光景 』で次のように言います。 

 

 

汝殺すなかれ、と聖書の神は言う。しかし、この道徳法則が可能となるのは、切断が構造的なものであることを認めるという条件においてのみである。切断は神の行為だと好んで言う人々もいる。はじめに神は、まさしく分離以外の何ものもおこなわなかった ー「 ベレーシース 」。「 はじめに神は天と地を創造された。」 天と地の分離、男と女、肉体と魂、無意識 / 前意識 / 意識の分離・・・・・。

 

 

『 斬首の光景 』ジュリア・クリステヴァ  p.148 星埜守之・塚本昌則 訳 みすず書房

 

この目に見えない哲学概念としての 切断が人間と世界を横断していることが聖書の『 創世記 』には書かれている という事です。切断線こそが、世界を、天と地を、切り開いたという出来事が、 "はじめに" 書かれたことの哲学的重要性を見逃すべきではないでしょう。そして、この系譜にワイルドによる切断も位置付けることが出来ると哲学的に解釈出来ます。それはヨハネの首という西洋美術史における畏怖される対象を伴うだけに、サロメの欲望の生々しさを表していると言えるのです。さて遠回りになりましたが、次回から映画『 累 ーかさねー 』の解釈に戻ることにしましょう〈 続く 〉。

 

 

 

( *A )

サロメとユディトの混同の有名な例が、グスタフ・クリムト ( Gustav Klimt : 1862~1918 ) の『 ユディト Ⅰ 』、『 ユディト Ⅱ 』。もちろん、この混同はクリムトの無知ゆえのものではなく、両者を重ね合わせて、ファム・ファタール ( 宿命の女 ) の系譜に連なるものとしての姿を浮かび上がらせた結果だと解釈すべきでしょう。

 

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このように、昔からサロメとユディトが非常に近い隣接物である事を示しているのが、ドイツ・ルネサンスの画家 ルーカス・クラナッハ ( Lucas Cranach : 1472~1553 の作品。

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 以下の記事に続く。

 

 

▶ 映画『 累 かさね 』( 2018 : directed by 佐藤祐市 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

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 上記の記事からの続き。

 



 4章    サロメの系譜

 

『 累 ーかさねー 』の中で上演される『 サロメ ( 1893 ) 』はアイルランドの作家、オスカー・ワイルド ( Oscar Wilde : 1854 ~ 1900 ) の戯曲なのですが、これは新約聖書におけるマタイ伝、マルコ伝、の話を基本的モチーフにしています ( *A )。しかし、両福音書の記述には、サロメの名前は出てきません ( サロメは母親であるヘロディアの娘としか記述されていない ) ( *B ) 。そこではサロメは未だ主要人物とはなっておらず、福音書の中では、ヘロデ王、その妻ヘロディア、洗礼者ヨハネ、の3人の枠組みで話が進んでいくのです。

 

その3人の中で、サロメがどのような役割を果たしているかというと、ヘロデ王の誕生日祝いの饗宴の座で踊りを披露してヘロデ王を喜ばせます。気を良くしたヘロデ王は、娘に褒美として望みのものを聞くのですが、ここでヘロディアはそれを利用し、娘に「 ヨハネの首 」と言わせるのです。ヘロディアヘロデ王との結婚が近親相姦だとして非難したヨハネを恨んでいたので。お分かりのように、ここでは娘は "サロメという主体" ではなく母親ヘロディアの従順な道具でしかない のです。ヨハネの首を載せた盆を母親の所に持っていくという具合に。

 

その後、サロメ西洋美術史において、対象として様々な変遷を経ながら、痕跡を残していきます。面白いことに、最初は "サロメの踊り" は、その対象になっていなかったという。これについて井村君江は次のように言っています。

  

 

11世紀頃までは、「 聖ヨハネの斬首 」→ 「 サロメが首の載った皿を運び 」→ 「 それを王妃に渡す 」ー これら以外の場面のサロメ像として、「 サロメの踊り 」はなかった。

 サロメの踊りが描かれた古いものは、ドイツのヒルデスハイム大聖堂のものであろう。円柱の周りを巡るように彫られたレリーフがあるのだが、サロメは両手を広げ、それを空中に漂わせるように踊っている。

 これ以後13~4世紀までに多く見られるのが、「 逆立ちで踊るサロメ 」であるのは興味深い。まずイタリアのヴェローナにあるサン・ゼノ・マジョーレ聖堂。門扉にはニコッロとギグリエルモ作 ( 11世紀 ) といわれるブロンズのレリーフ〈 聖ヨハネの生涯 〉がある。このヘロデの宴会の場面に、踊るサロメが彫られているが、サロメは頭と足を床につかんばかりに二つに折り、身体を弓なりに曲げ、体を丸く曲げて芋虫のように見える。

 一方、14世紀のフランス、ルーアン大聖堂の入り口の門扉の上、半月のタンパンのレリーフには、〈 ヘロデの宴会 〉が彫られている。これには通称〈 逆立ちで踊るサロメ 〉として知られるサロメ像が描かれている。両手を床につき、両足を上げ、足首を曲げるポーズである 

 

 

 『 サロメ図像学p.110~112 井村君江 あんず堂  2003年 

 

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ルーアン大聖堂 聖ヨハネ門の破風 ( タンパン )

 

 

ここに彫られたサロメの踊りこそ、19世紀のフランスの作家、ギュスターヴ・フローベール ( Gustave Flaubert : 1821~1880 ) の小説『 ロディア 』でサロメのダンスシーンを書かせるきっかけになったものです。4章で述べたように、サロメは美術の世界では様々な形象となってきたのですが、文学の世界で "具体的対象 ( 主体 )" となるにはフローベールを待たなければならなかった。そして、19世紀末のフランスにおいて、サロメという対象によって、作家のフローベールと共鳴したのがもう1人のギュスターヴ、画家の ギュスターヴ・モロー ( Gustave Moreau : 1836~1898 ) なのです。踊るサロメとそこに現れたヨハネの首を描いた〈 出現 〉は余りにも有名ですね。彼のサロメフローベール以上に影響力があったといえるでしょう、サロメを "ファム・ファタール ( 宿命の女 )" の系譜に位置付けるのに成功しているという意味で。そして2019年の現在、『 ギュスターヴ・モロー展 -サロメと宿命の女たち- 』が日本の各地 ( 東京・大阪・福岡 ) で巡回している。

 

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ギュスターヴ・モロー 〈 出現 〉1876

 

 

フローベールの『 ヘロディアス 』において初めて、サロメのダンスは具体的に記述されるのであり、ここにサロメの主体化の萌芽がある のです。サロメの官能的ダンスは、その場にいる男達を性的に刺激し、興奮させる様子は物語のクライマックスにふさわしいフローベール的筆致の極みとなる、つまり、官能性ですら客観的文体で描写するというフローベール的抑制が逆説的にも却って興奮を高めている、と言えるのです。少々長くなりますが引用しておきましょう。

  

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 物腰のひとつひとつがこぼれるため息となり、全身これ悩ましさといった風情で、神を思って泣いているのか、神の御手にいだかれて息も絶えんとしているのか、わからないほどである。瞼は半ば閉じ、腰をくねらせ、波打たせるように腹をゆすり、両の乳房をふるわせる。顔はじっと動かぬまま、足先はなおも拍を踏む。

 〈 中略 〉

 それは、幻ではなかった。ヘロディアスは、マカエラスから遥か遠いかの地で、我が娘、このサロメを、しかるべく仕込んでおいたのだった。アンティパスはこの娘に夢中になることだろう。その考えは的中した。もはや、間違いない。

 それから、思いを遂げんとする愛の狂乱の場が始まった。インドの巫女のように、大瀑布のほとりに住むヌビアの女のように、酒神に仕えるリディアの巫女のように、舞は続けられた。嵐になぶられる一輪の花もかくやと思うほど、前に後ろに、右に左に、その身はしなり、のけぞった。耳にきらめく石は跳ね、背中の絹は五色に光る。腕から、足から、衣装から、目には映らぬ火花があふれ、男たちを燃えあがらせる。竪琴が一鳴りすると、満場に歓声が沸き起こった。娘は膝を伸ばしたまま、両足を開き、顎が床に触れそうなほど、深々と身をかがめた。節制を旨とする遊牧民も、放蕩に慣れたローマ兵も、吝嗇な税務官も、論争で気を荒立てていた祭司たちも、皆が鼻孔をふくらませ、あの娘をわがものにできればと胸を高鳴らせた。

 〈 中略 〉

 娘は逆立ちになり、踵を宙に躍らせると、巨大なスカラベのように、演壇を渡っていった。そしてぴたり、と止まった。

 うなじから背骨にかけての線が直角をなしていた。脚をつつむ色あざやかな袴は、肩の上に虹のように落ちかかり、その下に浮かぶ顔は、床から一キュビトほどの高さにあった。唇には虹が差され、眉はくっきりと黒く、目はほとんど恐怖すら感じさせた。額にきらめく汗の雫は、大理石に結ばれた露のようであった。

 娘は口をきかなかった。ふたりは見つめ合った。

 歩廊で指を鳴らす音がした。娘は上へと上がってゆき、再び広間に姿を現した。そして、わずかに舌足らずな発音で、子供のようにあどけなく、こう口にしたのだった。

 「 では、ここへ持ってきてくださいな。お皿にのせて、首を・・・・・・」

 一瞬その名が出てこなかったが、やがてにっこりとして言った。

 「 ヨカナーンの首を 」

 アンティパスは愕然として、その場にくずれおちた。 ( *C )

 

 

「 ヘロディアス 」 谷口亜沙子 訳 光文社古典新訳文庫 p.205~208 フローベール『 三つの物語 』所収

 

このように、フローベールは聖書の逸話に肉付けを施し、文学にまで見事に昇華させました。しかし、サロメのダンス描写は『 ヘロディアス 』の全てを象徴しているのではありません。よく知られるように、フローベールは自分の創作スタイルとして、実証的資料を精査するという前準備を行っていました。このスタイルは『 ヘロディアス 』にも表れていて、そこでは、資料に基づいて、古代ユダヤ史を文学的に構成し直す、つまり、実証的エクリチュールを用いて事実に近い所でテクストを織り直しているのです。それが『 ヘロディアス 』という訳です。

 

ここで大切なのは、実証的エクリチュールといっても、それは科学的なものではないという事です。もし、そうであるのなら、それはフローベールが熱読したジュール・ミシュレのような歴史学と何ら変わりないものになってしまう。ここで言う実証的エクリチュールとは、限りなく事実であるかのような文学的表現であるという事です。これに伴って、フローベールの文体を説明する際によく使われる客観的描写という言い方は次のように理解される必要があるでしょう。

 

フローベールは、物事をたんに客観的に記述するためだけの客観的描写を用いているのではなく、ある事実 ( 例えば『 ヘロディアス 』におけるユダヤ古代史、ルーアン大聖堂のサロメ像 )、ある事物 ( 『 聖ジュリアン伝 』におけるルーアン大聖堂のステンドグラス ) などの 現実的契機に創造的物語の糸を紡ぎ足すために客観的描写を用いている と考えるべきです。詰まるところ、そのような創作的手法は、文学的テクストという虚構物に現実性を纏わせるという、文学創作における作家の欲望の源泉のひとつになっているといえるでしょう。

 

フローベールの『 ヘロディアス 』において、サロメは主体の萌芽として描かれたのですが、物語の重心は、依然として、キリスト教が生まれ出ようとする古代ユダヤの政治宗教的動向を描く事にあったのは間違いないでしょう。つまり、実証的エクリチュールによる古代ユダヤ史の文学的編集です。しかし、フローベールのこのような創作的方法の傍らで、サロメという1つの主体が誕生する契機が生まれました。そして、この契機を拾い上げて サロメ"主体" として誕生させた のが オスカー・ワイルド なのです。それについては次回で考えていきましょう〈 続く 〉。

 

 

( *A )

ただし、マタイ伝とマルコ伝には若干の相違があります。井村君江が『 サロメ図像学 』でまとめてくれているので参照しましょう。

 

 

 まず「 マタイ伝 」によれば、ヘロデがヨハネ処刑を決するのは、王は誓ったことを実行するという威光を示すためであり、( 「 その誓と席に在る者とに対して、之を与ふることを命じ・・・」) 、また斬首を執行することを王が躊躇するのは、ヨハネ預言者だと信じている群衆の反感を恐れてのことである。

 しかし、「 マルコ伝 」では、ヘロデ王ヨハネを畏怖しており、その言の真なることを認めていたので、処刑を実施することは、王の心に反することだとなっている。

 〈 中略 〉

 また「 マタイ伝 」では、ヘロディアスの娘は、前もって母にヨハネの首を要求するよう命じられているが、「 マルコ伝 」ではこの考えは王の褒美の約束ののち、母と娘との問答を経て現れてきている。前者ではヘロディアスがこの事件を初めから仕組んでおり、後者ではその場の成行きから、彼女の意図がはからずも実現し、思っていた結末を招くことになる。

 

 

サロメ図像学p.19~20 井村君江 あんず堂  2003年 

 

( *B )

サロメの名前が出てくるのは、先史時代のユダヤを記録したフラウィウス・ヨセフスの『 ユダヤ古代誌 』。古代の記録として貴重な書物ですが、そこにはヨハネの処刑については書かれていても、サロメの踊りについての記述はありません。いや、そもそも、サロメの踊りが特権化されるのは後の時代の事であって、福音書でも僅かに述べられているだけなのを考えると、記述がないのは当然といえば当然。

 

( *C )

サロメのダンスについての詳細な学術的分析に興味がある方は、『 サロメのダンスの起源 』 大鐘敦子  慶応義塾大学出版会 2008年 p.81~112 を参照。

 

 

 以下の記事に続く。

 

▶ 映画『 累 かさね 』( 2018 : directed by 佐藤祐市)を哲学的に考える〈 1 〉

 

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監督  佐藤祐市 ( 1962~ )

公開  2018年

脚本  黒岩 勉 ( 1973~ )

原作  かさねー 』      松浦だるま ( 1984~ )

出演  土屋太鳳 ( 1995~ )   丹沢ニナ /  たんざわにな

    芳根京子 ( 1997~ )   淵 累 / ふち かさね 

    浅野忠信 ( 1973~ )   羽生田 釿互 / はぶた きんご

    横山裕 ( 1981~ )    烏合零太 /  うごうれいた

    檀れい ( 1971~ )    淵 透世 / ふち すけよ 

 



 1章    ひとつの仮面とふたつの主体

 

この映画の主人公は一体誰なのでしょう。もちろん、醜悪な相貌ではあるものの高い演技力を誇る淵累 ( ふち かさね ) であるのは間違いなのですが、映画の中で彼女は淵累として輝くことはありません。彼女は特別な口紅の力で、美貌を持ちながら大根役者に過ぎなかった丹沢ニナの顔を借りる ( 演劇の舞台においてのみ ) ことで表舞台に踊りだし脚光を浴びる事が出来るのです。

 

実際、この映画の外面的主人公は 舞台上での丹沢二ナ なのであり、演技が下手な丹沢二ナと淵累が変身した丹沢二ナを演じ分ける土屋太鳳が事実上のヒロインということになるでしょう。そうすると、ありがちなのは、芳根京子が演じる淵累は 舞台上の丹沢二ナ の隠れた真実として、人間の闇の情念を表しているというありふれた解釈に陥ってしまう事です。それでは余りにも観たままの平凡な解釈でしかありません。

 

ここで、この映画における丹沢二ナと淵累は 舞台女優 を媒介にした関係である事を思い起こしましょう。例えば、2人の女優が同一的存在になっていくという話としてバーベット・シュローダー監督の『 ルームメイト ( 1992 ) 』があります。恋人のサムと別れたアリソン ( ブリジット・フォンダ ) の元に、新しい同居人のヘドラ ( ジェニファー・ジェイソン・リー ) がやって来ます。最初は野暮ったかったヘドラが徐々に洗練されて服装や髪型まで美しいアリソンそっくりになっていくのです。

 

しかし、恋人のサムとよりを戻そうとするアリソンにヘドラは嫉妬し、殺意を抱くようになります。この背景には、ヘドラには幼い頃に亡くした双子の片割れがいたという事実があるのです。つまり、ヘドラがアリソンと同一的存在になっていくのは、一卵性双生児だったという過去への執着 が媒介にされていたという訳です。2人でひとつであった事の記憶が、ヘドラの存在の核心において "擬似真理" として作用している と解釈出来るのです。

 

バーベット・シュローダー ( Barbet Schroeder : 1941~ ) の 『 ルームメイト ( Single White Female : 1992 ) 』。幼い日の姉妹が互いに口紅を塗ってキスをする冒頭場面。この振舞いは、『 累 ーかさねー 』において口紅の奇妙な力によって顔を交換することが出来るというアイデアを彷彿とさせますね。

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たしかに『 ルームメイト 』における一卵性双生児という事実への固執というような、過去に囚われた人間が別の人間を巻き込み自らの欲望を現実化するという設定 は累と丹沢二ナの関係性の雛型として考えることが出来るかもしれません。あたかも、醜い淵累と美しい丹沢二ナも『 ルームメイト 』と同じく 擬似姉妹 であるかのように ( *A )。ただし、この雛形は『 累 』においてはもっと複雑化されています。

 

というのも、『 ルームメイト 』ではアリソンがヘドラの欲望の中に巻き込まれ、ヘドラは自分の妄想を現実化するという欲望のためにアリソンを利用する、というように両者のバランスの均衡が固定化されていたのに対して、『 累 』では、まず丹沢二ナが自分の演技力の無さを乗り越えるために淵累を利用し、淵累も表舞台に出るために丹沢二ナの美貌を利用するという具合に、両者が互いを利用し合うのです。

 

2人のバランスは、時には丹沢二ナの方に偏り、時には淵累の方に偏るというように、その均衡の支点が目まぐるしく移動を繰り返され、常に不安定性に晒されています。この不安定性の原因は何でしょう。2人はライバルとして主演女優の座を争っている訳ではありません。なぜなら彼女らは2人で1人の丹沢二ナを演じているからです。外見は丹沢二ナ、演技力は淵累として。

 

ここで、彼女らの関係性を媒介するものが 舞台女優 である事を考慮しましょう。彼女らの不安定性の原因は、その舞台女優の象徴である丹沢二ナの "顔" が丹沢二ナという主体から切り離され ( 事実、丹沢二ナは上演中は自分の顔を淵累に譲っている )、丹沢二ナと淵累の欲望が流れ込む "仮面" として、どちらにも属さない "抽象的顔貌" として彼女らを翻弄するからに他なりません。

 

この女優の顔を "仮面" として主題化した映画こそ イングマール・ベルイマン の『 仮面 / ペルソナ ( 1967 ) 』です。ベルイマンは、女優の演技の象徴である 顔それ自体を、自分自身をある固定観念 ( 母としての振舞い、女優としての振舞い ) に自ら縛りつけ苦しめるものとしてではなく、身体から分離した "イマージュ" として対抗的に描き出しているのです ( *B )。ここでは 仮面は誰にもどの主体にも属さない。それを示すかのように、『 仮面 / ペルソナ 』においてはエリザベート ( リヴ・ウルマン ) の仮面の元で、エリザベートとアルマ ( ビビ・アンデション ) らの2人の主体が融合し、『 累 』においては丹沢二ナの仮面の元で、丹沢二ナと淵累ら2人の主体が融合するのです。

 

 

( *A )

原作の漫画を読んだ方なら御存知かと思いますが、実は、姉妹の設定は原作で出ています。それは物語の前半の主要人物である丹沢二ナとの関係ではなく、後半に登場する野菊が淵累の異母妹であるという関係性です。しかし、野菊は丹沢二ナにように女優ではなく、淵累に復讐を企てる娼婦という役柄であり、物語を "舞台" から "血縁的なもの" へと舵を切らせる存在になっています。つまり、物語がより情念的なものに進みすぎるきっかけとなっているのです。

 

 ( *B )

体から分離したイマージュ …… 例えば『 仮面 / ペルソナ 』における以下の場面。子供は、もはや母親の顔を母親としては認識していない。そこには、母親という具体的存在からは切り離されたイマージュとしての抽象的顔貌と、それが一体何なのか手探りをする子供の姿しかない。

 

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 イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉

 



 2章    仮面とその裏

 

しかし、ここで急いで付け加えなければならないのは、ベルイマンは "仮面" を単純に否定するような愚かなまねをしている訳ではないという事です。問題なのは、仮面の裏に抑圧された自己があるという擬似解放的心理学とでも呼べる神話 です。このような、一般の人々をはじめとして一部の心理学者の間にも流布している神話の危険性は、抑圧された自己が、仮面というアリバイの元で、その都度、秘かに再生産されているのに気付かずに、固定化されてしまう事です。

 

例えば、淵累の、自分の醜い相貌に抵抗しようとして、丹沢二ナの美しい顔を借りてでも世に出ようとする欲望は、仮面の裏に隠された本当の自己の欲望などではありません。それは、淵累と丹沢二ナの顔が重なり合った仮面が引き起こす欲望なのであって、もし本当の自己の欲望であるように思えるとしたら、その時、主体の内面は仮面によって既に侵食されていると言えるでしょう。

 

つまり、抑圧された自己の正体とは、"仮面に同一化した主体" に他ならない のであって、その結果、自分の身振りを "仮面" に従属させてしまっている事に気付かないという無意識的状況を生み出してしまうのです。これに対して、ベルイマンは仮面を、人間の理想が投影されたものであるどころか、最も人間的なものとはかけ離れた "イマージュ" である事を無意識的に打ち出しています。いや、それどころか、過激な事に彼は、人間的なものを構成するものが、およそ人間的でない切り離されたイマージュの諸々の寄せ集めである という哲学的真理を明らかにするのです。

 

ここでベルマンから学び取る教訓は、仮面との同一化を脱するためには、仮面の裏に隠されたありもしない自己にこだわる事などではなく、仮面の裏には何も無い、つまり、"" しかない のを知る事なのです。一見すると、これは残酷で絶望的な真実なのですが、同時に、この "無" こそが、主体が自由に動き回る自由な空間がある事を保障してくれます。この自由な空間があるからこそ、主体は絶望して無の深淵に落ち込む事もあれば、仮面などが生成される表層地帯で自由に活動する事も出来る のです。絶望的な無こそが主体の自由な活動のためのスペースの基盤である事を理解すれば、本当の自己などという擬似真実がいかに主体の活動を制限したり、時として妨げるものであることが自ずと分かるでしょう。そして、ベルイマンも『 仮面 / ペルソナ 』の最後においてエリザベートに "無" を悟らせているのです。

  

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  3章    淵累の欲望

 

ここから問題となるのが、もし淵累が、丹沢二ナという仮面との同一化を止めてしまったなら、どうなるのだろうかという事です。映画のラストでは、丹沢二ナの顔で舞台に立っている淵累の顔が、醜悪な素顔 ( といっても淵累を演じる芳根京子がきれいな顔立ちなのでメイクをしても醜悪に見えないのですが ) に切り替わって観客の前でその姿が突如晒されるという突発的な "事実の露呈" が幻想的な調子で表現されています。

 

これに対して、原作の漫画においては、淵累が素顔で舞台に臨むというラストまでの過程が徐々に描かれています。最初は素顔での出演に難色を示していた淵累ですが、羽生田釿互に説得されて、苦悩しながらも本番へ臨むのです ( この辺の経緯については原作、特に第14巻を読んでいただくのがよいでしょう )。そこにおいて、淵累からは当初の舞台で主演を演じるという欲望はまるで消え失せ、母親の淵透世から続く血族的宿命を乗り越えるためだけに舞台に立つかのように自分を奮い立たせます。

 

この変化を一体どう考えるべきなのでしょう。一見すると、自らの生い立ちや宿命に向き合う淵累の姿勢は、悲劇的ヒロインとしてドラマティックなラストに相応しいものだと思われるかもしれません。しかし、そのような感傷的解釈では、結局、彼女は仮面の裏の本当の自己に拘ったのだという擬似心理学以上のものを引き出す事は出来ません。ここからは哲学的思考によって、それ以上の解釈を推し進める事が必要になります。

 

彼女はラストのクライマックス ( ここは原作を念頭においています ) に向かっていく中で、華やかな表舞台に立つという夢想的な欲望から、自分の醜悪な相貌を大勢の眼前で晒すという恐ろしい現実に打ち勝とうとしたのだ、と解釈してしまっては失われるものがあるのです。それは淵累の当初の欲望、表舞台で輝きたいという欲望が、一体何だったのか という事について考察しなければならないものです。

 

淵累の欲望が醜悪な相貌の裏側において形成されたものだとするなら、彼女の演技力は、まさに 自分の相貌がどうにもならないという絶望的事実に抵抗するため に、表舞台に立つという不可能な妄想が昇華されたものだ と解釈出来るでしょう。とするならば、丹沢二ナの美貌を借りて舞台に立つ事は、たとえそれが圧倒的演技力に基づいていても、自分の欲望の根源を未だ隠しているという意味で、自分自身に向き合っているとはいえないのです。

 

なので羽生田釿互に後押しされ本来の顔で舞台に立つ事は、自分に向き合おうとする彼女の誠実さの現れだという解釈で済ますべきものではないのです。なぜなら、彼女の欲望は、自分の相貌との対極化として形成された、つまり 絶望こそが彼女の根源であるという事実が突きつける "不可能性" を背景にしているからです。ここで不可能性というのは、醜悪な相貌を持ち続けながらも、演技力で以って表舞台で輝くという同時性が不可能なものであるという事です。それは醜悪な相貌の "" でしか磨かれなかった、表に立つことが出来ないからこそ磨かれた、演技力だった。表に立つというのは、この演技力の根源・故郷を破壊してしまう事に他ならない訳です。それは演技を不可能にする事でしかない …… 。

 

この不可能性こそ、物語のラストの舞台で淵累が成し遂げようとしたものに他なりません。既に3章で述べたように、これをドラマティックなものとして感傷的に受け止めては失われるものこそ、不可能性についての考察なのです。実際には、淵累は舞台で演技する事には成功する ( 1回限りでしたが )、つまり、"女優という主体" としては成功するのですが、その代償として、淵累という人間としては、この後、その命を失うことになります。彼女は命と引き換えに不可能性を一時的にであれ可能にした訳ですが、この不可能性は、演技のために自らの命を差し出さなければならないという、およそ釣り合いの取れない残酷な選択 を淵累に要求した訳です。

 

以上のような説明をしても、いや、以上の説明で余計に淵累のラストを感傷的に解釈してしまう方はいるでしょう。しかし、その不可能な設定は、感傷的な解釈ではなく、より哲学的な解釈に移行する事を促しているのに気が付かなければなりません。つまり、この物語は淵累とその血族の因縁、周囲の人間との生々しい関係性など、についてのありふれた情念的物語ではなく、"女優的主体" が経験する通過儀礼についての象徴的物語なのだ、女優について語られた物語なのだ、と気付くべきなのです。

 

面白いことに、それを明らかにしてくれるのは、原作の漫画ではなく、映画の『 累 ーかさねー 』です。原作と違い ( 原作においても『 サロメ 』は出てくるのですが、それは幾つもある演目の中のひとつでしかない )、映画はラストに『 サロメ 』の舞台を持ってくるのですが、その『 サロメ 』という演目がそこで特権化されていることこそが、女優という存在が特殊な主体である事 を明らかにしてくれるのです。それについては次回から考えていきましょう〈 続く 〉。

 

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佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 に続く

 

 

 

▶ ルイス・ブニュエルの映画『 皆殺しの天使 』( 1962 )を哲学的に考える

 

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監督  ルイス・ブニュエル
公開  1962年
出演  シルヴィア・ピナル    ( レティシア / ワルキューレ )
    エンリケ・ランバル    ( ノビレ )
    ルシー・ガヤルド     ( ルチア / ノビレの妻 )
    アウグスト・べネディコ  ( コンデ / 医師 )
    パトリシア・デ・モレロス ( ブランカ / ピアニスト )
    クラウディオ・ブルック  ( フリオ / 執事 )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章    ブニュエルの作品に対する沈黙・・・

 

1962年に公開されたルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品『 皆殺しの天使 』を彼の最高傑作とする人は未だ多い。しかし、そのような賛辞とは裏腹に『 皆殺しの天使 』に対する考察がなされることはほとんどありません。不条理映画、シュルレアリズム映画、ブルジョワ批判、心理的閉塞、停滞、反復・・・、そのような言葉が解釈不能性と共に繰り返されるばかりです ( 映画評論家をはじめとする多くの観客において )。もっとも、それはブニュエルの映画一般について言える事であり、ブニュエル自身も自分の映画に不条理の要素がある事を語っているのですけどね。

 

おそらく多くの人はルイス・ブニュエルという偉大な監督の作品を前にして、考える事を無意識的に放棄しているのかもしれない、あたかも『 皆殺しの天使 』の中でノビレ邸に集まったブルジョワたちが帰ろうとすれば帰れるのにそれを諦めてしまったかのように。ブニュエルの作品は、観る人の考える力を奪ってしまう・・・いや、結局の所、人間が 自分の意志では何も考える自由のない生き物である 事を露呈させるブラックユーモアに満ちたものであるのでしょう。

 



 2章    ブニュエルの映画における反復強迫

 

この映画の奇妙さを決定付けているのは、ブルジョワたちのノビル邸から "帰らない" という振舞いにある事は言うまでもないでしょう。"帰らない" といっても、物理的に帰れないのでありません ( ノビレ邸の出入口はもちろん、邸宅へ至る敷地の門扉も開かれている ) 。注意すべきは、帰ってはいけないし、それを口に出してもいけないという暗黙のルールがあるかのように、帰らない言い訳や振舞いをして、帰りたいのに帰れない不満を募らせていく。このような振舞いこそが不条理性を示す形式として突出的に注目され、この映画に対する不条理性、停滞、反復、という評価を導いている現状があります。

 

たしかに、登場人物たちの不条理的身振りはブニュエルの狙いのひとつである事は間違いないでしょう。登場人物がある特定の行動を目指そうとすると、それを実現する過程が直線的かつ素直に描き出されるのではなく、それどころか 特定の行動とは真逆の振舞いを繰り返してしまう "反復脅迫あるいは強迫性障害とでも呼ぶべき精神的混乱" が描かれる。それこそが『 皆殺しの天使 』における帰りたくても帰らないブルジョワであり、『 欲望のあいまいな対象 ( 1977 ) 』におけるコンチータと別れたくても別れる事の出来ないマチューの身振りになっているのです。

 

以上はブニュエルの作品を決定付けている特徴についての基本的考察であり、観客のほとんどが無意識的に読み取っているものです。しかし、ブニュエルはそれだけでは終わらない。彼は "反復強迫に回帰せざるをえない袋小路"、つまり、そのためには一端外部に出ようとする動きが必要になってくるのですが、それを含めたものを最後に描き出しています。彼自身はそれについて言葉で上手く説明する訳ではないのですが、だからこそ解釈する余地が残されていると言えるので以下で考えていきましょう。

 



 3章    レティシアについて

 

ノビル邸から帰ることの出来ないブルジョワたちの間に溜まった不満は、やがてノビルに対する殺意へと変化していく ( 1 ~ 8 )。自分たちを邸宅内での閉塞状況に陥らせたのは、他でもない邸宅に招待した主人のノビルなので、彼を殺せば状況を打開出来るかもしれないという空気がブルジョワたちを支配したのです。

 

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医師のコンデが皆に落ち着くように説得するが聞き入れられない。それどころか襲われてしまう ( 5 ~ 8 )。 

 

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皆の不満を鎮めるためにピストルで自殺しようとするノビル ( 9 ~ 12 )。 

 

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その時、ワルキューレとも呼ばれるレティシアが現在の皆の収まっている位置が邸宅に来た最初の夜と全く同じであるという発見を驚きをもって皆に知らせる。彼女は改めて、ここで "帰る" という行動原理を皆に再確認させるのですね ( 13 ~ 16 )。 

 

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 レティシアは自ら率先して皆を外に連れ出す ( 17 ~ 20 )。 

 

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ブルジョワたちを外に連れ出す事に成功したレティシアですが、彼女の役割について注意して考える必要があるでしょう。というのも、この作品を観たほとんどの人が彼女を、ブルジョワを救い出したという振舞いによって "解放の女神" であるかのように 解釈しているからです。しかし、これは決定的に間違っています。その解釈では、これ以降のストーリーは全く解釈出来なくなってしまう。不条理であるのを明確に解釈する事と、ストーリーが理解出来ないからとりあえず不条理としておこうというのでは天と地ほどの違いがあることを念頭に置かなければなりません。

 

四方田犬彦でさえ、そのような誤解に陥っています。彼はブニュエル論『 ルイス・ブニュエル 』において、レティシアの役割が "皆殺しの天使" から処女の純真無垢な "自己犠牲の天使" へと変化したと考えます ( A )。その自己犠牲の天使によってノビレ邸のブルジョワたちが解放されるというのですが、そもそもレティシアは何一つ犠牲を払っていないので、彼の考えは成立しない。

 

彼は処女による自己犠牲の天使という考え方の論拠として、アナがユダヤ神秘思想のカバラによる運命解読を行った結果、無垢なる血が必要だと言った発言を引き合いに出します。アナの言葉 "無垢なる血" 、そしてレティシアが処女であること ( しかし、それはアナが噂話をしているだけで本当にそうかは分からない ) を結び付けて、自己犠牲の天使といういささか苦しい考えを打ち出した訳です。

 

ここで、場面 1 ~ 4 に戻るならば、アナの言う、無垢なる血が必ずしもレティシアを意味するわけではないのが分かります。4 で ( ノビルを ) 殺せ! と叫んでいるのはアナに他ならないのですから。つまり、必要な "犠牲の血" とは監禁状態の現場である邸宅の主人、ノビルに責任を負わせるものだったという事です。仮に、そこでレティシアはノビルを傍らで助ける自己犠牲の天使の役割を果たそうとしていると好意的に解釈しようにも、これ以降の話の流れを考慮すると、依然として "皆殺しの天使" のままであり、ブルジョワたちを本当の意味で助けたのかどうかさえ疑わしくなる のです。それについては以下で考えていきますが、まずは皆殺しの天使という言葉の意味について触れてからにしましょう。

 

 

( A ) 四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.372

 



 4章    ワルキューレ、そして皆殺しの天使・・・

 

『 皆殺しの天使 』というタイトルについて四方田は言っています。  

ブニュエル研究家たちは、この題名をめぐって、さまざまな出自の説を唱えている。たとえばビダルはそれが『 出エジプト記 』に由来するものであると説き、『 ヨハネの黙示録 』に登場する死の天使が出典であると主張する者もいる。 

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.352~353

 

おそらくこれが現在、一般的に流布している説であり、ブニュエル自身もこう言っています。 

この『 皆殺しの天使 』という語は、聖書の黙示録に出てくるもので、スペインの教団、『 1828年使徒団 』の教徒たちもこの名称を用いていた。確かモルモン教のグループだったと思う。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.248

 

それらに加えて四方田は自分の見解として、レティシアの渾名である ワルキューレワーグナーの舞台祝祭劇『 ニーベルングの指環 』によって解釈します。ここにおいて彼の言う "自己犠牲の天使" という考え方は、実は『 ニーベルングの指環 』の4作目『 神々の黄昏 』の第3幕における ブリュンヒルデ ( ワルキューレの1人 ) の自己犠牲 に過ぎなかったことが分かるでしょう。しかし、『 ニーベルングの指環 』は北欧神話をベースにしているもののギリシア悲劇的な演出 ( 近親相姦や反抗に対する処罰、自己犠牲など ) がクローズアップされており、『 皆殺しの天使 』というタイトルを解釈するにはやや冗長なものであるのは否めませんね。

 

ここでは『 皆殺しの天使 』を解釈する上で、 ワルキューレ北欧神話的なものとしてシンプルに考えてみます。ワルキューレとは、戦場で勇敢に戦って死んだ戦士を選んで北欧神話の主神オーディンのいるヴァルハラへと運ぶ女性たちの事です。運ばれた戦士たちはそこで死せる戦士 ( エインヘリヤル ) として復活し終末の日である ラグナロク ( この語については、神々の黄昏 Götterdämmerung というワーグナーのドイツ語訳 の方が有名でしょう ) に備えるのです。

 

ここで注意すべきはワルキューレが勇敢に死んだ戦士を選別する者だという事です。死者の中から勇者を復活させるという意味でワルキューレは生と死の領域を司る女性なのであり、決して人を殺す者ではありません。そして、ワルキューレはもともと天使なのではないのです。そうすると、レティシアワルキューレという渾名を与えたこと、映画のタイトルを『 皆殺しの天使 』にしたこと、とは北欧神話に聖書の天使概念を接木したブニュエルの混成イメージによるものだと分かりますね。

 

しかし問題はまだ残ります。ブニュエルの混成イメージによって、レティシアが死の天使であるとしても、既に述べたようにワルキューレが本来、人を殺す者ではない事を考慮するならば、レティシア "生と死を選別する天使" だというべきものです。細かく言うと、勇敢に死んだものを復活させる者です。しかし、これによってタイトルにおいて天使の前に付けられた "皆殺し" という誰も気にかけることのない言葉の意味に重みが出てくるのです。

 

レティシアは、ワルキューレが死んだ者を復活させるのと同じく、ノビル邸に自ら監禁された客人たちを脱出させ外の世界に復活させるのだとしたら、確かに、そこには解放の女神的な雰囲気を感じ取る人がいても無理はないかもしれません。しかし、ここでワルキューレの神話に戻ってみると、ワルキューレが死からの解放を司る者であるかは、かなり怪しいといえるでしょう。というのも、ワルキューレが勇者を復活させるのは、ラグナロクにおける戦いに従事させる為 であるからです。そうすると、勇者達は復活しても、戦いの場における必然的な死の運命からは逃れられないし、それ以外の選択肢は消されている という意味で、"死への従属者" であるしかないのです。

 

死から復活しても、戦いにおいて死ぬしかないのであれば、この場合、生とは再び死ぬための "擬似的な生 ( それは常に復活という概念につきまとう )" でしかない。とするならば、ワルキューレの真の姿とは死への従属者を引き連れる恐るべき何者かであると言えるのです。この真の姿こそが、この映画で描かれるレティシアなのであり、以下の 5章で述べるように、客人たちをより強力な監禁状態に追い込むために、束の間の 擬似的解放 を与える姿こそ、皆殺しの天使の名称が相応しい と解釈出来るのです。

 

死の領域の中から生を選び出すはずのワルキューレすべてのものを死の領域に閉じ込める ( これはブルジョワたちがノビル邸に監禁されている事の比喩になる ) 恐るべき天使である ことを『 皆殺しの天使 』というタイトルは示していると解釈出来るでしょう。もちろん、これらはブニュエルが明確に意識した結果なのではなく、彼の中で無意識的な機知が働いたという精神分析的解釈である事は言うまでもありませんね。

 



 5章    監禁という反復強迫の回帰

 

ノビル邸から脱出したブルジョワたちが教会で礼拝を行う ( 21 ~ 22 )。しかし礼拝が終わっても誰も帰ろうとしない。ブルジョワたちだけでなく、その場にいた誰もがです。正確に言うなら、帰ろうとはしても、教会の外に出ることが出来ないのです。誰かが出たら自分も出ようという言葉が発せられるだけです ( 25 ~ 26 )。

 

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この状況はノビル邸での反復だとしか言いようがないものですね。しかし、それではレティシアブルジョワたちを解放したのは一体何だったのでしょう。いや、果たしてあれは解放だったのでしょうか。その答えは言うまでもなく、解放ではありません。それは自由になるための解放ではなく、ワルキューレが勇者たちを死に従属させるのと同様の、"さらなる監禁のための解放" というべきものなのです。つまり、ただでさえ何の理由もなく反復される監禁が、さらに強力なものとして回帰してくる ( そのために監禁内部の人間は一端は外部に出れたという擬似脱出に惑わされる ) という絶望的な状況 が待ち構えている訳です。

 

場面 27 はデモの人々が警察に鎮圧されるというものですが、これはもとから教会の外にいる人々なのか、それとも教会の外に出た人々なのかは分かりません。というかブニュエルはストーリーの時系列の一部としてというよりは、時系列に構造的効果を波及させる "異質要素" として差し込んでいる のですね。ブニュエルは言います。 

 

おそらく『 皆殺しの天使 』では、警察の襲撃と教会の監禁とは何も関係がないだろう。たまたま時を同じくして二つの事が生じたのだ。しかし私には、例えば教会の正面、発砲、喚声、教会に入っていく子羊そんなふうにしかイメージが湧いてこないのだだ。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.262 

 

とはいえもうそれだけで十分に解釈を拡げていく事が出来ます。警察の襲撃というブニュエルの言い方から分かるように、それはまさに監禁の外部に存在するものが、いかにひどい世界であるかを予感させるイメージなのです。端的に言うなら、それはブニュエルにとってのスペイン内戦の経験という事になりますね。

 

ここにおいて監禁という反復脅迫に隣接するものが政治的危機的状況であることが分かります。ブルジョワたちは意味もなく監禁状況を繰り返していた訳ではなかったのです。彼らは監禁の外の危機的世界を漠然と予感していたという意味で間違った選択をしてはいなかった。ただし、それは 動物的反射として ( それこそ子羊として ) 外部の危機的世界から内部の監禁という別の危機的状況に逃げ込んだに過ぎない という絶望的なものです ( B )。そこは外部と同じく生が保障されていない死の領域であるのですから。この意味で、ブルジョワたちを袋小路に追い込むレティシアには "皆殺しの天使" という渾名こそが最もふさわしいといえるでしょう〈 終 〉。

 

 

( B ) ブニュエルはこのような政治的・社会的絶望を、様々な着想を用いて映画に昇華させようとしていたといえますね。

 

わたしは自分を抑圧し、堕落させようとする社会に抗して闘う人間というテーマへ、何度となく戻ってきた。ひとりひとりの人間は興味に値するように見えるが、かれらが集団になるとその攻撃性は束縛をなくして、攻撃または逃亡へと変貌し、暴力を行使するかそれに耐えるかになる。

 

ルイス・ブニュエルルイス・ブニュエル著作集 』思潮社 p.352

 



〈 関連記事 〉

 

 

▶ ピーター・グリーナウェイの映画『 ベイビー・オブ・マコン 』( 1993 )を哲学的に考える

 

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監督  ピーター・グリーナウェイ

公開  1993年

脚本  ピーター・グリーナウェイ

出演  ジュリア・オーモンド   ( 娘 )

    レイフ・ファインズ    ( 司教の息子 )

    フィリップ・ストーン   ( 司教 )

    ジョナサン・レイジー   ( コジモ・デ・メディチ )

 



  1章  演劇の中の現実的なもの

 

この映画は、17世紀のイタリアの町で上演される『 ベイビー・オブ・マコン 』という演劇を舞台にしています。興味深いのは、映画の中では、その演劇が純粋な虚構としてのみ導入されているのではなく、現実的な要素 を孕んだものとして描写されているという事です。いや、それどころかその現実的な要素が、演劇の虚構性を撹乱して舞台上の演者、それを見る観客、の区別を無くし双方を混合させる過程を絢爛とグロテスクさよって描き出しているのです。

 

ではその現実的な要素とは何でしょう。それは劇の冒頭で醜悪な老女が産んだ 赤子、そしてその赤子に関わった結果生じる に他なりません。赤子と死、この2つの要素こそが演劇の虚構性の中における唯一の 現実的なもの なのです。

 

観客は老女がまさか本当にその場で赤子を産んでるとは思いません。その真実に気付いているのは舞台上の演者たちと、そこに観客席から勝手に上がってきたコジモ・デ・メディチだけです。赤子の誕生という 現実なもの を間近で知ったコジモのセリフ「 キリストも聖母からこのように産まれたのか?」によって、この映画の重心が聖書の 処女懐胎 の方へと傾いていく事が示されています。ただし、それはスキャンダラスな、いかにもグリーナウェイ的な手法によってですが。

  

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赤子を産んだ老女の傍らで娘は、飢餓に苦しむ社会において赤子が 奇跡の子 として自分を幸せにしてくれることを夢見て母親 ( 老女 ) から赤子を奪い取る、つまり、赤子を自分の娘であるように周囲にアピールする。しかし、娘に相手はいないので、処女懐胎 を唱える羽目になります ( 11~24. )。

  

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注意すべきなのは、処女懐胎 は娘にとって赤子の母親の振りをするためのアリバイでしかない という事です。彼女は実際には子供の出産を望んでいたではありません。彼女が望んでいたのは 社会的な成功であって、赤子はそのために必要なものでしかなかった のですね ( 飢餓が蔓延して妊娠しにくい女性たちが増えているという社会不安が背景にある )。舞台の冒頭で赤子を産んだのは醜悪な老女でしたが、それはあくまで演劇上の見せかけに過ぎないと観客に思わせて自分こそが実の母親である事 ( もちろんそうではない ) を周囲にアピールするのが彼女の欲望なのです。

  

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その彼女の欲望が明らかになる場所は舞台上ではなく、舞台の地下です ( 25~38. )。言うまでもなく、この地下は娘の隠された欲望の象徴である と解釈出来るでしょう。ここで娘は司教の息子に赤子を産んだのは自分の母であると事実を打ち明けます。司教の息子へ隠しておきたかった事実 ( 自分が赤子の母親でなかったという ) を告白するによって、それまで社会的成功の欲望を抱くのみ ( 11~16. ) だった彼女の中に男を求める欲望が芽生えた事が露になる。つまり、彼女は司教の息子と肉体関係を持ちたいという欲望を膨らませていた のです。醜悪な老女が赤子を産んだ事実を信じようとしない司教の息子に対して、娘は自分と寝ればその事実が分かる ( 娘は処女なので赤子は産んでいない ) というように話を持っていくのです。

  

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  2章  〈 処女懐胎の欲望 〉と 〈 性行為の欲望 〉

 

家畜小屋 ( もちろんこれはマリアがイエスを家畜小屋で産んだとする聖書に則っている ) で娘が司教の息子と肉体関係を持とうとすると、幼子 ( 赤子が自分の意思を持った結果であることの象徴 ) が突然現れる。幼子は言うまでもなくキリストとして描かれています。

  

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娘と関係を持とうとする司教の息子に対して、幼子は家畜によって彼を残酷に殺します、処女懐胎という幻想の守護者 として。このシークエンスはグリーナウェイ的残酷さが顕著な見せ場のひとつであり、司教の息子役のレイフ・ファインズも一糸纏わぬ姿で熱演しています。この幼子の残虐さに娘は怒り、それを見た幼子は自分の命を家畜の中に預け、家畜を殺すことによって自分を殺すように娘を仕向けます。精神分析的に考えるならば、司教を殺された娘は 自分の性的欲望の対象を失った事に怒りを爆発させた のです。それ程までに性的対象に執着していた娘はこの時、自分の中にあった処女懐胎の欲望を完全に捨て去ってしまいます。そして、それまで彼女の中にあった処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) と性行為の欲望の均衡が崩れたこれ以降、彼女は性行為の欲望の中で溺れていく 事になるのです。

  

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    3章  性的なものによって滅ぼされる娘

 

幼子を殺した娘は町の法律によって処刑されようとします。ところがここで面白いのは、町の法律では 処女は処刑出来ない というひねりをグリーナウェイは加えている事です。これによって司教は娘を処刑する為に、彼女の処女を奪う事を許可するという倒錯性 を示します。娘を処刑する為ならば、彼女を多くの人間が襲っても構わない、つまり、処刑という大義の為ならば、道徳を破壊しても構わないという歪んだ論理が現れる のです。

 

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娘の処女を奪ってよいという司教の指示は、演者たちの性的欲望を掻き立ててしまう。性的欲望が〈 演劇の虚構性 〉 を破壊して、演劇を〈 単なる猥褻な現実 〉へと変貌させる のです。司教の息子が殺されて性的欲望の対象を失った娘でしたが、今度は 娘自身が不特定多数の男たちの性的欲望の対象となってしまった 訳です。ここにおいて娘は、倒錯的に回帰してきた自分の性的欲望に直面したのですが、やがて 性的なものの根源にある へと追いやられてしまいます ( 73~78. )。実は、処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) こそが恐るべき性的欲望の奔流を防いでいたのに、処女懐胎の欲望を放棄した代償は予想以上に大きかったのです。

  

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   4章  宗教的共同体とカニバリズム

 

グリーナウェイは娘の死によって映画を終わらせません。幼子の死が残っているからです。奇跡の子、あるいは神の子としての幼子の死をたんなる現実的な死として終わらせるのではなく、その死を皆で共有させる のです。どうやって共有させるのかというと、赤子の死体を皆で食すというカニバリズム的儀式によってです。幼子 ( 神 ) は食べられる事によって単なる現実的な死から、皆の連帯の象徴、つまり、宗教的共同体の象徴へと移行する のです。もちろん、カニバリズムグリーナウェイ的悪趣味として他の作品 ( 『 コックと泥棒、その妻と愛人 』など ) でも見られるのですが、この場合、カニバリズムキリスト教儀式の聖餐 ( イエスが自分の身体をパン、血をワインとして弟子たちに共食させた最後の晩餐に由来する ) にグロテスク的誇張を施したもの ( あるいは古代宗教における犠牲の儀式 ) として解釈すべきでしょう〈 〉。

  

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▶ ロマン・ポランスキーの映画『 反撥 』( 1965 )を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

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監督 : ロマン・ポランスキー
公開 : 1965年
脚本 : ロマン・ポランスキー
出演 : カトリーヌ・ドヌーヴ   ( キャロル )
   : イヴォンヌ・フルノー   ( ヘレン )
   : ジョン・フレイザー    ( コリン / キャロルの恋人未満の男 )
   : イアン・ヘンドリー    ( マイケル / ヘレンの不倫相手 )
   : パトリック・ワイマーク  ( 家主 )
   : ヴァレリー・テイラー   ( マダム・ドニーズ )

 



 

 『 反撥 』の原題は『 Repulsion 』なのですが、内容に照らし合わせれば『 反撥 』よりも、repulsion の別の意味である "嫌悪" をタイトルに据える方が、この映画の主人公キャロルの内面性、つまり、"男嫌い" を上手く示せるかもしれません。この映画のタイトルが『 嫌悪 』だとするならば、その点についてはこの映画は明快で、主人公のキャロル ( カトリーヌ・ドヌーヴ ) は、姉のヘレンが家に連れ込む不倫相手のマイケルに拒否反応を示すように、男に "嫌悪" を抱いているのです。

 

■ ところが面白いことに、ストーリーが進んでキャロルの内面の力学が秘かに変化していくつれて『 反撥 』の repulsion という語の "物理学的比喩" を想起させる意味 の方がやはりふさわしいと思えてきます。まずはキャロルの男嫌いというこの映画の基本的モチーフを見ていきましょう。

 

■ キャロルとどうにかして恋仲になろうとするコリンを後ろから殺害するキャロル ( 1 ~ 4. )。自分の仕出かしたことに驚くキャロルは家の扉を塞ごうとする ( 5 ~ 6. )。このコリンを殺害した時点で、キャロルの内面に巣食っているのがたんなる男嫌いではない事が分かりますね。彼女を殺人行為へと走らせるものは、男嫌いという単なる生理的嫌悪を通り越した 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) なのですね。

 

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■ ここで思い出しておきたいのは、フロイトが自らの精神分析を練り上げる上で、物理学的比喩を用いた概念 を考えているという事です。その最たる代表例が "リビドー ( 物理的エネルギーの比喩 )" ですね。それの良い所は、物理学概念がそれ独自の法則に従っているように、フロイト精神分析概念も、人間主体の感情や思考とは別に、それ自身の法則に従う人間精神の領域がある 事を物理的に ( もちろんそれがあくまでも比喩である事に注意を払わなければならないのですが ) 表そうとする試みだという事です。これによって人間の感情が精神において主導権を握っているどころか、そんな事を無視するかのような 精神の独自の運動こそが人間を支配している のだと考察する事が出来るのです。

 

■ そうすると、この映画におけるキャロルの男嫌いという主要モチーフは、彼女の精神が引き起こした運動の "徴候" に過ぎない事が分かる訳です。ならば彼女の精神の運動とは何か。それこそ、先程、記した 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) という物理学的緊張なのです。『 反撥 』という邦題は、キャロルの精神が物理的緊張に囚われている事を示す精神分析的真理の示唆だと解釈出来るでしょう。

 



 

■ キャロルは殺人という大胆な行為をした自分に驚く ( 5. ) のですが、その時から、彼女の内面は男嫌いという生理的嫌悪から 殺人の欲望 へと移行してしまっているのです。キャロル自身が自分の内面の変化に後でしか気付かない。この 殺人の欲望 を媒介しているものこそ 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) に他ならないのですが、そもそもなぜ彼女は性的なものに反撥したのでしょう。これは映画の中で明言されているわけではないのですが、人間関係を見ると自ずと明らかになります。

 

■ キャロルが姉へレンの不倫相手であるイアンに対して嫌悪感を抱いているというこの映画の主要モチーフは、キャロルが直面する "性的なもの" との緊張関係をクローズアップさせてしまうので、彼女と姉の関係性を見えにくくさせてしまっています。

 

■ もちろん、キャロルと姉の元々の関係性 ( イアンが介入してくる以前の ) は直接的には描かれていないので、どのようなものであったかは分かりませんが、少なくともイアンの出現によって姉妹という家族関係が壊れていくのがキャロルにとって耐え難いものである事は間違いないでしょう。姉のヘレンからすると自分がいくら不倫していても妹が妹である事に変わりはないのですが、おそらくキャロルはそう考えていないのです。

 

■ というのもイアンは不倫相手なのだから家族になる事は出来ない。キャロルからすると、イアンは 姉妹という元々の家族関係を壊す外部から来た "不安要素" でしかないのですね。キャロルとヘレンが同居しているという基本的設定自体が異質な外部要素が排除された家族関係の象徴となっている訳です。決定的なのは、姉へレンとイアンの性行為が隣の部屋のキャロルに否応なしに聞こえてしまう事なのですが、この時、キャロルにとって "性的なもの" は家族関係を壊すものでしかなくなっています。姉のヘレンが "性的なもの" に嵌っていく事によってキャロルは自分が疎外されていくように感じるのです。

 

■ 本来、"性的なもの" は身体の発達や変化と共に、主体を自分に関わらせる ( 自分のセクシャリティや性癖、他者との関係性、などの構築 ) 力動的なものなのですが、キャロルの場合、"性的なもの" は外部から到来する "異質なもの ( その象徴がイアンや家主 )" でしかない。なのでキャロルは徹底的にそれを排除しようとした挙句、殺人というアクティングアウトを選択してしまったのですね。

 

■ 性的なものは、主体の欲望を刺激して止まないものであるはずなのに、キャロルはそれを排除してしまった。そして、その 排除の手段として選択した殺人行為こそが彼女の欲望となってしまう のです。ここからキャロルはヘレンの妹に過ぎなかった者から、人を殺すことで欲望を満足させるという異常者として倒錯的に自立する立場へと移行してしまう。

 

■ コリンを殺したにも関わらず、何事もなかったかのように裁縫をするキャロル ( 7. )。さらに次の場面は私たちにショッキングな出来事を想像させるものとなっていますね。それは "カニバリズム" です ( 8. )。直接的に食べる場面が描写されているわけではありませんが、( 8. ) は明らかに、キャロルはコリンの死体の一部を食べていた事を示しています。よく見ると、肉が乗った皿にはハエが数匹たかっていて、グロテスクさが強調されている。人間にとって食事という文化形式 ( 皿に盛る、フォークとナイフを使うなど ) が、喰うという本能が普遍的レベルにまで高められたものである事を考えるならば、( 7. )、( 8. ) の場面では、殺人という行為がキャロルの内面においては既に日常的なものになっている という不気味さが現れていると解釈出来るでしょう。

  

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■ 殺人行為によって "性的なもの" を排除しようとするキャロルですが、"性的なもの" は回帰してきます。ただし、キャロルの欲望を刺激するものではなく、"妄想" として回帰して来る のです ( 9~12. )。この後、キャロルは "殺人の欲望" と "性的妄想" の狭間で揺れ動き、精神の崩壊へと至るというラストへ話は続いていきます。

 

■ 家賃を取り立てに来た家主に執拗に迫られるキャロル ( 13 ~ 18. )

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■ 剃刀で家主を残虐に切り刻むキャロル。もうそこには明確な殺意しかない ( 19 ~ 24. )。

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■ コリン、家主、と立て続けに男を殺害したキャロルは、最後まで性的妄想を振り払う出来ずに自らの精神を崩壊させる ( 25 ~ 28. )。

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▶ 映画『 mother ! 』( 2017 : directed by ダーレン・アロノフスキー ) を哲学的に考える

 

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監督  ダーレン・アロノフスキー ( Darren Aronofsky : 1969~ )

公開  2017年

出演  ジェニファー・ローレンス ( Jennifer Lawrence : 1990~ )    妻

    ハビエル・バルデム ( Javier Bardem : 1969~ )           夫

    エド・ハリス ( Ed Harris : 1950~ )             客人・夫

    ミシェル・ファイファー ( Michelle Pfeiffer : 1958~ )    客人・妻

 



 1章  『 mother ! 』というタイトル

 

この映画のタイトル『 mother ! 』の頭文字が小文字であること、そして最後に感嘆符の ! が付けられていることを考え合わせるなら、これは『 母 』という名詞なのではなく、ある種の呼びかけに近い『 母よ ! 』と意味で捉えるべきでしょう。ただし、もしそうであるのなら、その呼びかけがいかなる意味を持つのかについて注意して考えなければなりません。母に対する賛歌なのか、それともため息混じりのつぶやきなのか、それとも "母なるもの" に対する執着なのか。アロノフスキーのこの驚異的な作品を見る限り、その呼びかけは、狂乱的騒ぎを起こすある集団が "母なるもの" を追い求める身振りであると同時に、1人の女性の自分の全てがその集団によって奪われてしまうことの悲劇的運命に対する叫びである、という少なくとも2つの事態を表していると言えるのです。そのことについて考えていきましょう。

 



 2章  タルコフスキーサクリファイス 』へのオマージュ

 

この記事の先頭画像、草原の中で燃え尽きた家の印象的なシーンは、タルコフスキーサクリファイス 』の草原の家の炎上シーンを思い起こさせますね。このシーンが『 サクリファイス 』へのオマージュだと考えるのは哲学的解釈をする上で有益になるでしょう ( *A )。『 サクリファイス 』が "新約聖書 ( ヨハネ福音書 )" をテーマにしている対して『 mother ! 』は "旧約聖書 ( 主に創世記 )" をテーマにしていると言えるのです。だからといって双方ともたんなる宗教についての映画なのではありません。宗教的なものを背景として登場人物たちがそこに絡み止められ、抵抗し、脱出しようとし、最後には服従あるいは同調してしまう行動過程を圧倒的な力で描写した哲学的映画なのですね。

 

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アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス 』( 1986 ) より

 

もっと焦点を絞るなら『 サクリファイス 』は 父と子の関係性 を描き出し、『 mother ! 』は母というよりは 母なるもの、そしてそれとの対比として1人の 女性、を描き出しているのです。ただし、その描き方は不気味でグロテスクでもあり、アロノフスキーの流儀が十分に示されたものとなっています。そして興味深いのは、ユダヤ人であるアロノフスキー自身が旧約聖書的共同体を否定的に描いていている事です。家の中に集まった多くの人々による狂乱は観る人に嫌悪感を抱かせるのに十分なものとなっていますね。事実、この映画は客人とそれに続く人々を平気で家に招き入れる夫 ( ハビエル・バルデム ) に対する妻 ( ジェニファー・ローレンス ) の不満から始まるのです。つまり、妻は 共同体的なもの ( その共同体は明らかに宗教的共同体、それもユダヤ的なものとして描かれている ) に対して否定的な立場にあるという訳です。

 

ようやく子供を身篭った幸せを2人で味わおうとせず客人をどんどん招き入れる夫に不満をもらす妻 ( 1~6 )。

 

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余りにも多く集まり過ぎた客人たちによる狂乱に耐え切れなくなった妻 ( 7~12. )。

 

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客人たちの騒ぎから逃れて子供を出産する妻 ( 13~18. )。

 

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出産の後、客人たちを追い払うようにと夫に言う妻 ( 19~24 )。

 

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生まれた子供を夫に抱かせようとしない妻 ( 25~30. )。

 

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( *A )

アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』の詳細については以下の記事を参照。

 



 3章  子供を奪われる女

 

睡魔に負けて眠った妻が目覚めた時、子供は夫から客人たちの手に渡っていた ( 31~36. )。 

 

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以下のシーンからがこの作品を解釈する上でのポイントとなります。子供を取り戻そうと客人たちの中に分け入った妻が見たものは、体中の肉を抉り取られた無残な子供の死骸でした ( 38. )。そこで繰り広げられていたものは狂気のカニバリズム的祝祭に他ならなかったのです ( 40. )。

 

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ブチ切れる妻。しかし逆に客人たちによるリンチで半殺しの目に会う。

 

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妻を助けに来た夫。しかし、客人たちを赦そうという理不尽な理屈を述べ始める。そんな夫に 「 正気じゃない 」 という妻。当然ですね。

 

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ここで重要なのはカニバリズムのシーンをどう解釈するかという事です。これをそのまんま受け止めてしまってはただのホラー映画になってしまう。この映画の製作スタッフの中にも 「 これはホラー映画だ!」って言う人もいましたけど ( 笑 )。しかし、これがホラー映画でないことは今までのアロノフスキー映画の傾向を見れば明らかでしょう。これをアロノフスキーが影響を受けているポランスキーの『 ローズマリーの赤ちゃん 』を引き合いに出してかろうじてサスペンスホラーの系譜に位置付けようとする人もいるが、子供が母親の手から奪われているという事 がそれとは決定的に違うものとして考察させるのです。

 

まずカニバリズムのシーンは象徴的なものとして解釈する必要があります。では何の象徴なのかというと、"宗教的共同体" の象徴なのですね。細かく解釈するなら、子供は生まれた瞬間から母親のものではなく、共同体の一員であるという事が示されている訳です。

 

カニバリズムという狂気の振舞いの場面には、子供を奪われた母親の悲劇的な視点も重ね合わされている。そこには 子供を失って狂わんばかりに高まった母親の感情が投影されている のです。その感情はそのまま家を燃やすという行為へと彼女を突き動かしていくのですが、通常であれば家が激しく燃え尽きたところで話は終わる。しかしそこで終わらないのがアロノフスキーの恐るべきところなので、それについては以下で考えていきましょう。



 4章  母なるものを奪われた女

 

妻の感情が爆発し、自分自身を死に至らせる程までに家を燃やしてしまう ( 57~66 )。 

 

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普通の監督なら シーン66. で終わりそうなものなのですが、アロノフスキーはそこで終わらない。このシーン以降から、この作品の本質について解釈を深める事が出来るでしょう。夫はここで明言はしないけれど自分の事を神だと仄めかしているのが分かります ( 67~78. )。そして妻には 「 君は家だ 」 と言う ( 70. )。 

 

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「 もう死なせて」と懇願する妻に "何か" をもらおうとする夫。この "何か" の事を夫は 「 君の愛だ 」といって曖昧な形でしか言い表しません。そして妻の体内から水晶を取り出します。

 

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アロノフスキーはこの水晶を心臓から取り出したものだと言っているのですが、それは建前でしょう。たしかに、この水晶を心臓に準えて、妻の命を "家" を再生させるために求めたとして解釈する事も出来ます。しかし細かく場面を辿っていくのなら、彼女はもう死にかけていて自分でもそれが分かっている のです。死につつある人間に命を差し出せという話はおかしいという事になりますね。

 

ここで思い出すべきは、映画の導入部で、妻が子を授かりたくてもの性生活がないことへのプレッシャーや苛立ちが、家の内装を手がける ( 壁を塗るなど ) という行為へと転換されていたという事です。家が母なるものの象徴だとするならば ( それは話が進まないと分からないのですが )、妻がその内装を手がけるというのは "母なるもの" へ同一化しようとする欲望が反映された行為 であるのです。

 

そのことを考慮するならば、夫が死につつある妻に要求したものは、子を産むという母親の象徴的器官つまり "子宮" である と考える方がストーリーに沿ったものになるはずです。アロノフスキーも子宮を取り出したなんて開けっぴろげに言う訳にもいかなかったでしょうし。最終的には妻から取り出された水晶 ( 子宮 ) は燃えた家を再生させるのですが、それは 妻が最初の自分の欲望どおりに "母なるもの" に悲壮な形で同一化したもの だと解釈出来る訳です。

 

しかし、ここで解釈を終わらせるわけにはいきません。もし、ここで話を終わらせてしまうと、母なる地球論を端とする環境問題などのアロノフスキーの発言の一部でしかないものがこの作品の最終的帰結になってしまうからです ( そういう解釈をしている人は結構いる )。

 

ここに至って省みられていないものは、子供を奪われた妻についての事なのです。これはフェミニズム的問題ではなく、女性とは何であるのか という哲学的問題なのであり、ここにこそアロノフスキーの隠れた関心があると思えます。注意すべきは水晶 ( 子宮 ) を手に入れた夫が不適に笑う場面 ( 87. ) です。これは彼の関心が妻であった "女性" ではなく、彼女の肉体に備わっていた出産という "母なるもの" にあったと解釈出来るでしょう。それを手に入れたから満足しているという訳です。

 

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これまでの妻と夫のやりとりには精神分析ジャック・ラカンによる欲望の定義 "欲望とは他者の欲望である" を思い起こさせるものがあります。つまり、母親になりたいという妻の欲望は、夫の "母なるもの" を望む欲望だったのです。形式的には、夫の欲望に従う事が妻の欲望であったという事なのです。場面 73. における妻のセリフ "私はあなたを満たせなかったのね" がその事を示していますね。

 

厳密に言うなら、等号で結ばれた彼らの欲望の均衡は、子供が産まれる事によって崩れていました。夫の欲望の対象が自分ではなく子供にある事を妻が知ってしまうからです。そうすると、夫の欲望は自分に向いているはずだと思い込んでいた妻が選択する次の行動は、夫の欲望を可能にしているもの ( 子供の存在 ) を与えない事 なのです。それも実は 倒錯した形で夫の欲望に沿ったもの なのですが、違うのは妻が夫に代わって自分を主人としている事です。だからこそ、子供を渡せと言う夫にはっきりとノーという事が出来たのですね ( 25~30. )。

 

しかし、最後に妻は子供のみならず、子宮という母なるものさえ奪い取られてしまいます。ここにおいて、"母なるもの" とは宗教的共同体の欲望の源泉として作り上げられた対象物でしかない 事が明らかになるのです。そうであるならば、母なるものを奪われた妻とは、女性とは、一体何であるのかという哲学的問題が発生するのですが、アロノフスキーはそれを直感して限界状況における女性の身振り (B ) を激しく描き出す事に専念したのだといえるでしょう〈 終 〉。

 

 

 ( *B )

ダーレン・アロノフスキーの『 ブラックスワン 』の詳細については次を参照 。