〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ルイス・ブニュエルの映画『 皆殺しの天使 』( 1962 )を哲学的に考える

 

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監督  ルイス・ブニュエル
公開  1962年
出演  シルヴィア・ピナル    ( レティシア / ワルキューレ )
    エンリケ・ランバル    ( ノビレ )
    ルシー・ガヤルド     ( ルチア / ノビレの妻 )
    アウグスト・べネディコ  ( コンデ / 医師 )
    パトリシア・デ・モレロス ( ブランカ / ピアニスト )
    クラウディオ・ブルック  ( フリオ / 執事 )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章    ブニュエルの作品に対する沈黙・・・

 

1962年に公開されたルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品『 皆殺しの天使 』を彼の最高傑作とする人は未だ多い。しかし、そのような賛辞とは裏腹に『 皆殺しの天使 』に対する考察がなされることはほとんどありません。不条理映画、シュルレアリズム映画、ブルジョワ批判、心理的閉塞、停滞、反復・・・、そのような言葉が解釈不能性と共に繰り返されるばかりです ( 映画評論家をはじめとする多くの観客において )。もっとも、それはブニュエルの映画一般について言える事であり、ブニュエル自身も自分の映画に不条理の要素がある事を語っているのですけどね。

 

おそらく多くの人はルイス・ブニュエルという偉大な監督の作品を前にして、考える事を無意識的に放棄しているのかもしれない、あたかも『 皆殺しの天使 』の中でノビレ邸に集まったブルジョワたちが帰ろうとすれば帰れるのにそれを諦めてしまったかのように。ブニュエルの作品は、観る人の考える力を奪ってしまう・・・いや、結局の所、人間が 自分の意志では何も考える自由のない生き物である 事を露呈させるブラックユーモアに満ちたものであるのでしょう。

 



 2章    ブニュエルの映画における反復強迫

 

この映画の奇妙さを決定付けているのは、ブルジョワたちのノビル邸から "帰らない" という振舞いにある事は言うまでもないでしょう。"帰らない" といっても、物理的に帰れないのでありません ( ノビレ邸の出入口はもちろん、邸宅へ至る敷地の門扉も開かれている ) 。注意すべきは、帰ってはいけないし、それを口に出してもいけないという暗黙のルールがあるかのように、帰らない言い訳や振舞いをして、帰りたいのに帰れない不満を募らせていく。このような振舞いこそが不条理性を示す形式として突出的に注目され、この映画に対する不条理性、停滞、反復、という評価を導いている現状があります。

 

たしかに、登場人物たちの不条理的身振りはブニュエルの狙いのひとつである事は間違いないでしょう。登場人物がある特定の行動を目指そうとすると、それを実現する過程が直線的かつ素直に描き出されるのではなく、それどころか 特定の行動とは真逆の振舞いを繰り返してしまう "反復脅迫あるいは強迫性障害とでも呼ぶべき精神的混乱" が描かれる。それこそが『 皆殺しの天使 』における帰りたくても帰らないブルジョワであり、『 欲望のあいまいな対象 ( 1977 ) 』におけるコンチータと別れたくても別れる事の出来ないマチューの身振りになっているのです。

 

以上はブニュエルの作品を決定付けている特徴についての基本的考察であり、観客のほとんどが無意識的に読み取っているものです。しかし、ブニュエルはそれだけでは終わらない。彼は "反復強迫に回帰せざるをえない袋小路"、つまり、そのためには一端外部に出ようとする動きが必要になってくるのですが、それを含めたものを最後に描き出しています。彼自身はそれについて言葉で上手く説明する訳ではないのですが、だからこそ解釈する余地が残されていると言えるので以下で考えていきましょう。

 



 3章    レティシアについて

 

ノビル邸から帰ることの出来ないブルジョワたちの間に溜まった不満は、やがてノビルに対する殺意へと変化していく ( 1 ~ 8 )。自分たちを邸宅内での閉塞状況に陥らせたのは、他でもない邸宅に招待した主人のノビルなので、彼を殺せば状況を打開出来るかもしれないという空気がブルジョワたちを支配したのです。

 

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医師のコンデが皆に落ち着くように説得するが聞き入れられない。それどころか襲われてしまう ( 5 ~ 8 )。 

 

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皆の不満を鎮めるためにピストルで自殺しようとするノビル ( 9 ~ 12 )。 

 

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その時、ワルキューレとも呼ばれるレティシアが現在の皆の収まっている位置が邸宅に来た最初の夜と全く同じであるという発見を驚きをもって皆に知らせる。彼女は改めて、ここで "帰る" という行動原理を皆に再確認させるのですね ( 13 ~ 16 )。 

 

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 レティシアは自ら率先して皆を外に連れ出す ( 17 ~ 20 )。 

 

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ブルジョワたちを外に連れ出す事に成功したレティシアですが、彼女の役割について注意して考える必要があるでしょう。というのも、この作品を観たほとんどの人が彼女を、ブルジョワを救い出したという振舞いによって "解放の女神" であるかのように 解釈しているからです。しかし、これは決定的に間違っています。その解釈では、これ以降のストーリーは全く解釈出来なくなってしまう。不条理であるのを明確に解釈する事と、ストーリーが理解出来ないからとりあえず不条理としておこうというのでは天と地ほどの違いがあることを念頭に置かなければなりません。

 

四方田犬彦でさえ、そのような誤解に陥っています。彼はブニュエル論『 ルイス・ブニュエル 』において、レティシアの役割が "皆殺しの天使" から処女の純真無垢な "自己犠牲の天使" へと変化したと考えます ( A )。その自己犠牲の天使によってノビレ邸のブルジョワたちが解放されるというのですが、そもそもレティシアは何一つ犠牲を払っていないので、彼の考えは成立しない。

 

彼は処女による自己犠牲の天使という考え方の論拠として、アナがユダヤ神秘思想のカバラによる運命解読を行った結果、無垢なる血が必要だと言った発言を引き合いに出します。アナの言葉 "無垢なる血" 、そしてレティシアが処女であること ( しかし、それはアナが噂話をしているだけで本当にそうかは分からない ) を結び付けて、自己犠牲の天使といういささか苦しい考えを打ち出した訳です。

 

ここで、場面 1 ~ 4 に戻るならば、アナの言う、無垢なる血が必ずしもレティシアを意味するわけではないのが分かります。4 で ( ノビルを ) 殺せ! と叫んでいるのはアナに他ならないのですから。つまり、必要な "犠牲の血" とは監禁状態の現場である邸宅の主人、ノビルに責任を負わせるものだったという事です。仮に、そこでレティシアはノビルを傍らで助ける自己犠牲の天使の役割を果たそうとしていると好意的に解釈しようにも、これ以降の話の流れを考慮すると、依然として "皆殺しの天使" のままであり、ブルジョワたちを本当の意味で助けたのかどうかさえ疑わしくなる のです。それについては以下で考えていきますが、まずは皆殺しの天使という言葉の意味について触れてからにしましょう。

 

 

( A ) 四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.372

 



 4章    ワルキューレ、そして皆殺しの天使・・・

 

『 皆殺しの天使 』というタイトルについて四方田は言っています。  

ブニュエル研究家たちは、この題名をめぐって、さまざまな出自の説を唱えている。たとえばビダルはそれが『 出エジプト記 』に由来するものであると説き、『 ヨハネの黙示録 』に登場する死の天使が出典であると主張する者もいる。 

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.352~353

 

おそらくこれが現在、一般的に流布している説であり、ブニュエル自身もこう言っています。 

この『 皆殺しの天使 』という語は、聖書の黙示録に出てくるもので、スペインの教団、『 1828年使徒団 』の教徒たちもこの名称を用いていた。確かモルモン教のグループだったと思う。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.248

 

それらに加えて四方田は自分の見解として、レティシアの渾名である ワルキューレワーグナーの舞台祝祭劇『 ニーベルングの指環 』によって解釈します。ここにおいて彼の言う "自己犠牲の天使" という考え方は、実は『 ニーベルングの指環 』の4作目『 神々の黄昏 』の第3幕における ブリュンヒルデ ( ワルキューレの1人 ) の自己犠牲 に過ぎなかったことが分かるでしょう。しかし、『 ニーベルングの指環 』は北欧神話をベースにしているもののギリシア悲劇的な演出 ( 近親相姦や反抗に対する処罰、自己犠牲など ) がクローズアップされており、『 皆殺しの天使 』というタイトルを解釈するにはやや冗長なものであるのは否めませんね。

 

ここでは『 皆殺しの天使 』を解釈する上で、 ワルキューレ北欧神話的なものとしてシンプルに考えてみます。ワルキューレとは、戦場で勇敢に戦って死んだ戦士を選んで北欧神話の主神オーディンのいるヴァルハラへと運ぶ女性たちの事です。運ばれた戦士たちはそこで死せる戦士 ( エインヘリヤル ) として復活し終末の日である ラグナロク ( この語については、神々の黄昏 Götterdämmerung というワーグナーのドイツ語訳 の方が有名でしょう ) に備えるのです。

 

ここで注意すべきはワルキューレが勇敢に死んだ戦士を選別する者だという事です。死者の中から勇者を復活させるという意味でワルキューレは生と死の領域を司る女性なのであり、決して人を殺す者ではありません。そして、ワルキューレはもともと天使なのではないのです。そうすると、レティシアワルキューレという渾名を与えたこと、映画のタイトルを『 皆殺しの天使 』にしたこと、とは北欧神話に聖書の天使概念を接木したブニュエルの混成イメージによるものだと分かりますね。

 

しかし問題はまだ残ります。ブニュエルの混成イメージによって、レティシアが死の天使であるとしても、既に述べたようにワルキューレが本来、人を殺す者ではない事を考慮するならば、レティシア "生と死を選別する天使" だというべきものです。細かく言うと、勇敢に死んだものを復活させる者です。しかし、これによってタイトルにおいて天使の前に付けられた "皆殺し" という誰も気にかけることのない言葉の意味に重みが出てくるのです。

 

レティシアは、ワルキューレが死んだ者を復活させるのと同じく、ノビル邸に自ら監禁された客人たちを脱出させ外の世界に復活させるのだとしたら、確かに、そこには解放の女神的な雰囲気を感じ取る人がいても無理はないかもしれません。しかし、ここでワルキューレの神話に戻ってみると、ワルキューレが死からの解放を司る者であるかは、かなり怪しいといえるでしょう。というのも、ワルキューレが勇者を復活させるのは、ラグナロクにおける戦いに従事させる為 であるからです。そうすると、勇者達は復活しても、戦いの場における必然的な死の運命からは逃れられないし、それ以外の選択肢は消されている という意味で、"死への従属者" であるしかないのです。

 

死から復活しても、戦いにおいて死ぬしかないのであれば、この場合、生とは再び死ぬための "擬似的な生 ( それは常に復活という概念につきまとう )" でしかない。とするならば、ワルキューレの真の姿とは死への従属者を引き連れる恐るべき何者かであると言えるのです。この真の姿こそが、この映画で描かれるレティシアなのであり、以下の 5章で述べるように、客人たちをより強力な監禁状態に追い込むために、束の間の 擬似的解放 を与える姿こそ、皆殺しの天使の名称が相応しい と解釈出来るのです。

 

死の領域の中から生を選び出すはずのワルキューレすべてのものを死の領域に閉じ込める ( これはブルジョワたちがノビル邸に監禁されている事の比喩になる ) 恐るべき天使である ことを『 皆殺しの天使 』というタイトルは示していると解釈出来るでしょう。もちろん、これらはブニュエルが明確に意識した結果なのではなく、彼の中で無意識的な機知が働いたという精神分析的解釈である事は言うまでもありませんね。

 



 5章    監禁という反復強迫の回帰

 

ノビル邸から脱出したブルジョワたちが教会で礼拝を行う ( 21 ~ 22 )。しかし礼拝が終わっても誰も帰ろうとしない。ブルジョワたちだけでなく、その場にいた誰もがです。正確に言うなら、帰ろうとはしても、教会の外に出ることが出来ないのです。誰かが出たら自分も出ようという言葉が発せられるだけです ( 25 ~ 26 )。

 

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この状況はノビル邸での反復だとしか言いようがないものですね。しかし、それではレティシアブルジョワたちを解放したのは一体何だったのでしょう。いや、果たしてあれは解放だったのでしょうか。その答えは言うまでもなく、解放ではありません。それは自由になるための解放ではなく、ワルキューレが勇者たちを死に従属させるのと同様の、"さらなる監禁のための解放" というべきものなのです。つまり、ただでさえ何の理由もなく反復される監禁が、さらに強力なものとして回帰してくる ( そのために監禁内部の人間は一端は外部に出れたという擬似脱出に惑わされる ) という絶望的な状況 が待ち構えている訳です。

 

場面 27 はデモの人々が警察に鎮圧されるというものですが、これはもとから教会の外にいる人々なのか、それとも教会の外に出た人々なのかは分かりません。というかブニュエルはストーリーの時系列の一部としてというよりは、時系列に構造的効果を波及させる "異質要素" として差し込んでいる のですね。ブニュエルは言います。 

 

おそらく『 皆殺しの天使 』では、警察の襲撃と教会の監禁とは何も関係がないだろう。たまたま時を同じくして二つの事が生じたのだ。しかし私には、例えば教会の正面、発砲、喚声、教会に入っていく子羊そんなふうにしかイメージが湧いてこないのだだ。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.262 

 

とはいえもうそれだけで十分に解釈を拡げていく事が出来ます。警察の襲撃というブニュエルの言い方から分かるように、それはまさに監禁の外部に存在するものが、いかにひどい世界であるかを予感させるイメージなのです。端的に言うなら、それはブニュエルにとってのスペイン内戦の経験という事になりますね。

 

ここにおいて監禁という反復脅迫に隣接するものが政治的危機的状況であることが分かります。ブルジョワたちは意味もなく監禁状況を繰り返していた訳ではなかったのです。彼らは監禁の外の危機的世界を漠然と予感していたという意味で間違った選択をしてはいなかった。ただし、それは 動物的反射として ( それこそ子羊として ) 外部の危機的世界から内部の監禁という別の危機的状況に逃げ込んだに過ぎない という絶望的なものです ( B )。そこは外部と同じく生が保障されていない死の領域であるのですから。この意味で、ブルジョワたちを袋小路に追い込むレティシアには "皆殺しの天使" という渾名こそが最もふさわしいといえるでしょう〈 終 〉。

 

 

( B ) ブニュエルはこのような政治的・社会的絶望を、様々な着想を用いて映画に昇華させようとしていたといえますね。

 

わたしは自分を抑圧し、堕落させようとする社会に抗して闘う人間というテーマへ、何度となく戻ってきた。ひとりひとりの人間は興味に値するように見えるが、かれらが集団になるとその攻撃性は束縛をなくして、攻撃または逃亡へと変貌し、暴力を行使するかそれに耐えるかになる。

 

ルイス・ブニュエルルイス・ブニュエル著作集 』思潮社 p.352

 



〈 関連記事 〉

 

 

▶ ピーター・グリーナウェイの映画『 ベイビー・オブ・マコン 』( 1993 )を哲学的に考える

 

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監督  ピーター・グリーナウェイ

公開  1993年

脚本  ピーター・グリーナウェイ

出演  ジュリア・オーモンド   ( 娘 )

    レイフ・ファインズ    ( 司教の息子 )

    フィリップ・ストーン   ( 司教 )

    ジョナサン・レイジー   ( コジモ・デ・メディチ )

 



  1章  演劇の中の現実的なもの

 

この映画は、17世紀のイタリアの町で上演される『 ベイビー・オブ・マコン 』という演劇を舞台にしています。興味深いのは、映画の中では、その演劇が純粋な虚構としてのみ導入されているのではなく、現実的な要素 を孕んだものとして描写されているという事です。いや、それどころかその現実的な要素が、演劇の虚構性を撹乱して舞台上の演者、それを見る観客、の区別を無くし双方を混合させる過程を絢爛とグロテスクさよって描き出しているのです。

 

ではその現実的な要素とは何でしょう。それは劇の冒頭で醜悪な老女が産んだ 赤子、そしてその赤子に関わった結果生じる に他なりません。赤子と死、この2つの要素こそが演劇の虚構性の中における唯一の 現実的なもの なのです。

 

観客は老女がまさか本当にその場で赤子を産んでるとは思いません。その真実に気付いているのは舞台上の演者たちと、そこに観客席から勝手に上がってきたコジモ・デ・メディチだけです。赤子の誕生という 現実なもの を間近で知ったコジモのセリフ「 キリストも聖母からこのように産まれたのか?」によって、この映画の重心が聖書の 処女懐胎 の方へと傾いていく事が示されています。ただし、それはスキャンダラスな、いかにもグリーナウェイ的な手法によってですが。

  

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赤子を産んだ老女の傍らで娘は、飢餓に苦しむ社会において赤子が 奇跡の子 として自分を幸せにしてくれることを夢見て母親 ( 老女 ) から赤子を奪い取る、つまり、赤子を自分の娘であるように周囲にアピールする。しかし、娘に相手はいないので、処女懐胎 を唱える羽目になります ( 11~24. )。

  

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注意すべきなのは、処女懐胎 は娘にとって赤子の母親の振りをするためのアリバイでしかない という事です。彼女は実際には子供の出産を望んでいたではありません。彼女が望んでいたのは 社会的な成功であって、赤子はそのために必要なものでしかなかった のですね ( 飢餓が蔓延して妊娠しにくい女性たちが増えているという社会不安が背景にある )。舞台の冒頭で赤子を産んだのは醜悪な老女でしたが、それはあくまで演劇上の見せかけに過ぎないと観客に思わせて自分こそが実の母親である事 ( もちろんそうではない ) を周囲にアピールするのが彼女の欲望なのです。

  

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その彼女の欲望が明らかになる場所は舞台上ではなく、舞台の地下です ( 25~38. )。言うまでもなく、この地下は娘の隠された欲望の象徴である と解釈出来るでしょう。ここで娘は司教の息子に赤子を産んだのは自分の母であると事実を打ち明けます。司教の息子へ隠しておきたかった事実 ( 自分が赤子の母親でなかったという ) を告白するによって、それまで社会的成功の欲望を抱くのみ ( 11~16. ) だった彼女の中に男を求める欲望が芽生えた事が露になる。つまり、彼女は司教の息子と肉体関係を持ちたいという欲望を膨らませていた のです。醜悪な老女が赤子を産んだ事実を信じようとしない司教の息子に対して、娘は自分と寝ればその事実が分かる ( 娘は処女なので赤子は産んでいない ) というように話を持っていくのです。

  

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  2章  〈 処女懐胎の欲望 〉と 〈 性行為の欲望 〉

 

家畜小屋 ( もちろんこれはマリアがイエスを家畜小屋で産んだとする聖書に則っている ) で娘が司教の息子と肉体関係を持とうとすると、幼子 ( 赤子が自分の意思を持った結果であることの象徴 ) が突然現れる。幼子は言うまでもなくキリストとして描かれています。

  

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娘と関係を持とうとする司教の息子に対して、幼子は家畜によって彼を残酷に殺します、処女懐胎という幻想の守護者 として。このシークエンスはグリーナウェイ的残酷さが顕著な見せ場のひとつであり、司教の息子役のレイフ・ファインズも一糸纏わぬ姿で熱演しています。この幼子の残虐さに娘は怒り、それを見た幼子は自分の命を家畜の中に預け、家畜を殺すことによって自分を殺すように娘を仕向けます。精神分析的に考えるならば、司教を殺された娘は 自分の性的欲望の対象を失った事に怒りを爆発させた のです。それ程までに性的対象に執着していた娘はこの時、自分の中にあった処女懐胎の欲望を完全に捨て去ってしまいます。そして、それまで彼女の中にあった処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) と性行為の欲望の均衡が崩れたこれ以降、彼女は性行為の欲望の中で溺れていく 事になるのです。

  

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    3章  性的なものによって滅ぼされる娘

 

幼子を殺した娘は町の法律によって処刑されようとします。ところがここで面白いのは、町の法律では 処女は処刑出来ない というひねりをグリーナウェイは加えている事です。これによって司教は娘を処刑する為に、彼女の処女を奪う事を許可するという倒錯性 を示します。娘を処刑する為ならば、彼女を多くの人間が襲っても構わない、つまり、処刑という大義の為ならば、道徳を破壊しても構わないという歪んだ論理が現れる のです。

 

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娘の処女を奪ってよいという司教の指示は、演者たちの性的欲望を掻き立ててしまう。性的欲望が〈 演劇の虚構性 〉 を破壊して、演劇を〈 単なる猥褻な現実 〉へと変貌させる のです。司教の息子が殺されて性的欲望の対象を失った娘でしたが、今度は 娘自身が不特定多数の男たちの性的欲望の対象となってしまった 訳です。ここにおいて娘は、倒錯的に回帰してきた自分の性的欲望に直面したのですが、やがて 性的なものの根源にある へと追いやられてしまいます ( 73~78. )。実は、処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) こそが恐るべき性的欲望の奔流を防いでいたのに、処女懐胎の欲望を放棄した代償は予想以上に大きかったのです。

  

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   4章  宗教的共同体とカニバリズム

 

グリーナウェイは娘の死によって映画を終わらせません。幼子の死が残っているからです。奇跡の子、あるいは神の子としての幼子の死をたんなる現実的な死として終わらせるのではなく、その死を皆で共有させる のです。どうやって共有させるのかというと、赤子の死体を皆で食すというカニバリズム的儀式によってです。幼子 ( 神 ) は食べられる事によって単なる現実的な死から、皆の連帯の象徴、つまり、宗教的共同体の象徴へと移行する のです。もちろん、カニバリズムグリーナウェイ的悪趣味として他の作品 ( 『 コックと泥棒、その妻と愛人 』など ) でも見られるのですが、この場合、カニバリズムキリスト教儀式の聖餐 ( イエスが自分の身体をパン、血をワインとして弟子たちに共食させた最後の晩餐に由来する ) にグロテスク的誇張を施したもの ( あるいは古代宗教における犠牲の儀式 ) として解釈すべきでしょう〈 〉。

  

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▶ ロマン・ポランスキーの映画『 反撥 』( 1965 )を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

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監督 : ロマン・ポランスキー
公開 : 1965年
脚本 : ロマン・ポランスキー
出演 : カトリーヌ・ドヌーヴ   ( キャロル )
   : イヴォンヌ・フルノー   ( ヘレン )
   : ジョン・フレイザー    ( コリン / キャロルの恋人未満の男 )
   : イアン・ヘンドリー    ( マイケル / ヘレンの不倫相手 )
   : パトリック・ワイマーク  ( 家主 )
   : ヴァレリー・テイラー   ( マダム・ドニーズ )

 



 

 『 反撥 』の原題は『 Repulsion 』なのですが、内容に照らし合わせれば『 反撥 』よりも、repulsion の別の意味である "嫌悪" をタイトルに据える方が、この映画の主人公キャロルの内面性、つまり、"男嫌い" を上手く示せるかもしれません。この映画のタイトルが『 嫌悪 』だとするならば、その点についてはこの映画は明快で、主人公のキャロル ( カトリーヌ・ドヌーヴ ) は、姉のヘレンが家に連れ込む不倫相手のマイケルに拒否反応を示すように、男に "嫌悪" を抱いているのです。

 

■ ところが面白いことに、ストーリーが進んでキャロルの内面の力学が秘かに変化していくつれて『 反撥 』の repulsion という語の "物理学的比喩" を想起させる意味 の方がやはりふさわしいと思えてきます。まずはキャロルの男嫌いというこの映画の基本的モチーフを見ていきましょう。

 

■ キャロルとどうにかして恋仲になろうとするコリンを後ろから殺害するキャロル ( 1 ~ 4. )。自分の仕出かしたことに驚くキャロルは家の扉を塞ごうとする ( 5 ~ 6. )。このコリンを殺害した時点で、キャロルの内面に巣食っているのがたんなる男嫌いではない事が分かりますね。彼女を殺人行為へと走らせるものは、男嫌いという単なる生理的嫌悪を通り越した 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) なのですね。

 

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■ ここで思い出しておきたいのは、フロイトが自らの精神分析を練り上げる上で、物理学的比喩を用いた概念 を考えているという事です。その最たる代表例が "リビドー ( 物理的エネルギーの比喩 )" ですね。それの良い所は、物理学概念がそれ独自の法則に従っているように、フロイト精神分析概念も、人間主体の感情や思考とは別に、それ自身の法則に従う人間精神の領域がある 事を物理的に ( もちろんそれがあくまでも比喩である事に注意を払わなければならないのですが ) 表そうとする試みだという事です。これによって人間の感情が精神において主導権を握っているどころか、そんな事を無視するかのような 精神の独自の運動こそが人間を支配している のだと考察する事が出来るのです。

 

■ そうすると、この映画におけるキャロルの男嫌いという主要モチーフは、彼女の精神が引き起こした運動の "徴候" に過ぎない事が分かる訳です。ならば彼女の精神の運動とは何か。それこそ、先程、記した 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) という物理学的緊張なのです。『 反撥 』という邦題は、キャロルの精神が物理的緊張に囚われている事を示す精神分析的真理の示唆だと解釈出来るでしょう。

 



 

■ キャロルは殺人という大胆な行為をした自分に驚く ( 5. ) のですが、その時から、彼女の内面は男嫌いという生理的嫌悪から 殺人の欲望 へと移行してしまっているのです。キャロル自身が自分の内面の変化に後でしか気付かない。この 殺人の欲望 を媒介しているものこそ 性的なものに対する反撥 ( repulsion ) に他ならないのですが、そもそもなぜ彼女は性的なものに反撥したのでしょう。これは映画の中で明言されているわけではないのですが、人間関係を見ると自ずと明らかになります。

 

■ キャロルが姉へレンの不倫相手であるイアンに対して嫌悪感を抱いているというこの映画の主要モチーフは、キャロルが直面する "性的なもの" との緊張関係をクローズアップさせてしまうので、彼女と姉の関係性を見えにくくさせてしまっています。

 

■ もちろん、キャロルと姉の元々の関係性 ( イアンが介入してくる以前の ) は直接的には描かれていないので、どのようなものであったかは分かりませんが、少なくともイアンの出現によって姉妹という家族関係が壊れていくのがキャロルにとって耐え難いものである事は間違いないでしょう。姉のヘレンからすると自分がいくら不倫していても妹が妹である事に変わりはないのですが、おそらくキャロルはそう考えていないのです。

 

■ というのもイアンは不倫相手なのだから家族になる事は出来ない。キャロルからすると、イアンは 姉妹という元々の家族関係を壊す外部から来た "不安要素" でしかないのですね。キャロルとヘレンが同居しているという基本的設定自体が異質な外部要素が排除された家族関係の象徴となっている訳です。決定的なのは、姉へレンとイアンの性行為が隣の部屋のキャロルに否応なしに聞こえてしまう事なのですが、この時、キャロルにとって "性的なもの" は家族関係を壊すものでしかなくなっています。姉のヘレンが "性的なもの" に嵌っていく事によってキャロルは自分が疎外されていくように感じるのです。

 

■ 本来、"性的なもの" は身体の発達や変化と共に、主体を自分に関わらせる ( 自分のセクシャリティや性癖、他者との関係性、などの構築 ) 力動的なものなのですが、キャロルの場合、"性的なもの" は外部から到来する "異質なもの ( その象徴がイアンや家主 )" でしかない。なのでキャロルは徹底的にそれを排除しようとした挙句、殺人というアクティングアウトを選択してしまったのですね。

 

■ 性的なものは、主体の欲望を刺激して止まないものであるはずなのに、キャロルはそれを排除してしまった。そして、その 排除の手段として選択した殺人行為こそが彼女の欲望となってしまう のです。ここからキャロルはヘレンの妹に過ぎなかった者から、人を殺すことで欲望を満足させるという異常者として倒錯的に自立する立場へと移行してしまう。

 

■ コリンを殺したにも関わらず、何事もなかったかのように裁縫をするキャロル ( 7. )。さらに次の場面は私たちにショッキングな出来事を想像させるものとなっていますね。それは "カニバリズム" です ( 8. )。直接的に食べる場面が描写されているわけではありませんが、( 8. ) は明らかに、キャロルはコリンの死体の一部を食べていた事を示しています。よく見ると、肉が乗った皿にはハエが数匹たかっていて、グロテスクさが強調されている。人間にとって食事という文化形式 ( 皿に盛る、フォークとナイフを使うなど ) が、喰うという本能が普遍的レベルにまで高められたものである事を考えるならば、( 7. )、( 8. ) の場面では、殺人という行為がキャロルの内面においては既に日常的なものになっている という不気味さが現れていると解釈出来るでしょう。

  

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■ 殺人行為によって "性的なもの" を排除しようとするキャロルですが、"性的なもの" は回帰してきます。ただし、キャロルの欲望を刺激するものではなく、"妄想" として回帰して来る のです ( 9~12. )。この後、キャロルは "殺人の欲望" と "性的妄想" の狭間で揺れ動き、精神の崩壊へと至るというラストへ話は続いていきます。

 

■ 家賃を取り立てに来た家主に執拗に迫られるキャロル ( 13 ~ 18. )

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■ 剃刀で家主を残虐に切り刻むキャロル。もうそこには明確な殺意しかない ( 19 ~ 24. )。

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■ コリン、家主、と立て続けに男を殺害したキャロルは、最後まで性的妄想を振り払う出来ずに自らの精神を崩壊させる ( 25 ~ 28. )。

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▶ 映画『 mother ! 』( 2017 : directed by ダーレン・アロノフスキー ) を哲学的に考える

 

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監督  ダーレン・アロノフスキー ( Darren Aronofsky : 1969~ )

公開  2017年

出演  ジェニファー・ローレンス ( Jennifer Lawrence : 1990~ )    妻

    ハビエル・バルデム ( Javier Bardem : 1969~ )           夫

    エド・ハリス ( Ed Harris : 1950~ )             客人・夫

    ミシェル・ファイファー ( Michelle Pfeiffer : 1958~ )    客人・妻

 



 1章  『 mother ! 』というタイトル

 

この映画のタイトル『 mother ! 』の頭文字が小文字であること、そして最後に感嘆符の ! が付けられていることを考え合わせるなら、これは『 母 』という名詞なのではなく、ある種の呼びかけに近い『 母よ ! 』と意味で捉えるべきでしょう。ただし、もしそうであるのなら、その呼びかけがいかなる意味を持つのかについて注意して考えなければなりません。母に対する賛歌なのか、それともため息混じりのつぶやきなのか、それとも "母なるもの" に対する執着なのか。アロノフスキーのこの驚異的な作品を見る限り、その呼びかけは、狂乱的騒ぎを起こすある集団が "母なるもの" を追い求める身振りであると同時に、1人の女性の自分の全てがその集団によって奪われてしまうことの悲劇的運命に対する叫びである、という少なくとも2つの事態を表していると言えるのです。そのことについて考えていきましょう。

 



 2章  タルコフスキーサクリファイス 』へのオマージュ

 

この記事の先頭画像、草原の中で燃え尽きた家の印象的なシーンは、タルコフスキーサクリファイス 』の草原の家の炎上シーンを思い起こさせますね。このシーンが『 サクリファイス 』へのオマージュだと考えるのは哲学的解釈をする上で有益になるでしょう ( *A )。『 サクリファイス 』が "新約聖書 ( ヨハネ福音書 )" をテーマにしている対して『 mother ! 』は "旧約聖書 ( 主に創世記 )" をテーマにしていると言えるのです。だからといって双方ともたんなる宗教についての映画なのではありません。宗教的なものを背景として登場人物たちがそこに絡み止められ、抵抗し、脱出しようとし、最後には服従あるいは同調してしまう行動過程を圧倒的な力で描写した哲学的映画なのですね。

 

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アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス 』( 1986 ) より

 

もっと焦点を絞るなら『 サクリファイス 』は 父と子の関係性 を描き出し、『 mother ! 』は母というよりは 母なるもの、そしてそれとの対比として1人の 女性、を描き出しているのです。ただし、その描き方は不気味でグロテスクでもあり、アロノフスキーの流儀が十分に示されたものとなっています。そして興味深いのは、ユダヤ人であるアロノフスキー自身が旧約聖書的共同体を否定的に描いていている事です。家の中に集まった多くの人々による狂乱は観る人に嫌悪感を抱かせるのに十分なものとなっていますね。事実、この映画は客人とそれに続く人々を平気で家に招き入れる夫 ( ハビエル・バルデム ) に対する妻 ( ジェニファー・ローレンス ) の不満から始まるのです。つまり、妻は 共同体的なもの ( その共同体は明らかに宗教的共同体、それもユダヤ的なものとして描かれている ) に対して否定的な立場にあるという訳です。

 

ようやく子供を身篭った幸せを2人で味わおうとせず客人をどんどん招き入れる夫に不満をもらす妻 ( 1~6 )。

 

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余りにも多く集まり過ぎた客人たちによる狂乱に耐え切れなくなった妻 ( 7~12. )。

 

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客人たちの騒ぎから逃れて子供を出産する妻 ( 13~18. )。

 

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出産の後、客人たちを追い払うようにと夫に言う妻 ( 19~24 )。

 

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生まれた子供を夫に抱かせようとしない妻 ( 25~30. )。

 

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( *A )

アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』の詳細については以下の記事を参照。

 



 3章  子供を奪われる女

 

睡魔に負けて眠った妻が目覚めた時、子供は夫から客人たちの手に渡っていた ( 31~36. )。 

 

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以下のシーンからがこの作品を解釈する上でのポイントとなります。子供を取り戻そうと客人たちの中に分け入った妻が見たものは、体中の肉を抉り取られた無残な子供の死骸でした ( 38. )。そこで繰り広げられていたものは狂気のカニバリズム的祝祭に他ならなかったのです ( 40. )。

 

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ブチ切れる妻。しかし逆に客人たちによるリンチで半殺しの目に会う。

 

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妻を助けに来た夫。しかし、客人たちを赦そうという理不尽な理屈を述べ始める。そんな夫に 「 正気じゃない 」 という妻。当然ですね。

 

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ここで重要なのはカニバリズムのシーンをどう解釈するかという事です。これをそのまんま受け止めてしまってはただのホラー映画になってしまう。この映画の製作スタッフの中にも 「 これはホラー映画だ!」って言う人もいましたけど ( 笑 )。しかし、これがホラー映画でないことは今までのアロノフスキー映画の傾向を見れば明らかでしょう。これをアロノフスキーが影響を受けているポランスキーの『 ローズマリーの赤ちゃん 』を引き合いに出してかろうじてサスペンスホラーの系譜に位置付けようとする人もいるが、子供が母親の手から奪われているという事 がそれとは決定的に違うものとして考察させるのです。

 

まずカニバリズムのシーンは象徴的なものとして解釈する必要があります。では何の象徴なのかというと、"宗教的共同体" の象徴なのですね。細かく解釈するなら、子供は生まれた瞬間から母親のものではなく、共同体の一員であるという事が示されている訳です。

 

カニバリズムという狂気の振舞いの場面には、子供を奪われた母親の悲劇的な視点も重ね合わされている。そこには 子供を失って狂わんばかりに高まった母親の感情が投影されている のです。その感情はそのまま家を燃やすという行為へと彼女を突き動かしていくのですが、通常であれば家が激しく燃え尽きたところで話は終わる。しかしそこで終わらないのがアロノフスキーの恐るべきところなので、それについては以下で考えていきましょう。



 4章  母なるものを奪われた女

 

妻の感情が爆発し、自分自身を死に至らせる程までに家を燃やしてしまう ( 57~66 )。 

 

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普通の監督なら シーン66. で終わりそうなものなのですが、アロノフスキーはそこで終わらない。このシーン以降から、この作品の本質について解釈を深める事が出来るでしょう。夫はここで明言はしないけれど自分の事を神だと仄めかしているのが分かります ( 67~78. )。そして妻には 「 君は家だ 」 と言う ( 70. )。 

 

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「 もう死なせて」と懇願する妻に "何か" をもらおうとする夫。この "何か" の事を夫は 「 君の愛だ 」といって曖昧な形でしか言い表しません。そして妻の体内から水晶を取り出します。

 

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アロノフスキーはこの水晶を心臓から取り出したものだと言っているのですが、それは建前でしょう。たしかに、この水晶を心臓に準えて、妻の命を "家" を再生させるために求めたとして解釈する事も出来ます。しかし細かく場面を辿っていくのなら、彼女はもう死にかけていて自分でもそれが分かっている のです。死につつある人間に命を差し出せという話はおかしいという事になりますね。

 

ここで思い出すべきは、映画の導入部で、妻が子を授かりたくてもの性生活がないことへのプレッシャーや苛立ちが、家の内装を手がける ( 壁を塗るなど ) という行為へと転換されていたという事です。家が母なるものの象徴だとするならば ( それは話が進まないと分からないのですが )、妻がその内装を手がけるというのは "母なるもの" へ同一化しようとする欲望が反映された行為 であるのです。

 

そのことを考慮するならば、夫が死につつある妻に要求したものは、子を産むという母親の象徴的器官つまり "子宮" である と考える方がストーリーに沿ったものになるはずです。アロノフスキーも子宮を取り出したなんて開けっぴろげに言う訳にもいかなかったでしょうし。最終的には妻から取り出された水晶 ( 子宮 ) は燃えた家を再生させるのですが、それは 妻が最初の自分の欲望どおりに "母なるもの" に悲壮な形で同一化したもの だと解釈出来る訳です。

 

しかし、ここで解釈を終わらせるわけにはいきません。もし、ここで話を終わらせてしまうと、母なる地球論を端とする環境問題などのアロノフスキーの発言の一部でしかないものがこの作品の最終的帰結になってしまうからです ( そういう解釈をしている人は結構いる )。

 

ここに至って省みられていないものは、子供を奪われた妻についての事なのです。これはフェミニズム的問題ではなく、女性とは何であるのか という哲学的問題なのであり、ここにこそアロノフスキーの隠れた関心があると思えます。注意すべきは水晶 ( 子宮 ) を手に入れた夫が不適に笑う場面 ( 87. ) です。これは彼の関心が妻であった "女性" ではなく、彼女の肉体に備わっていた出産という "母なるもの" にあったと解釈出来るでしょう。それを手に入れたから満足しているという訳です。

 

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これまでの妻と夫のやりとりには精神分析ジャック・ラカンによる欲望の定義 "欲望とは他者の欲望である" を思い起こさせるものがあります。つまり、母親になりたいという妻の欲望は、夫の "母なるもの" を望む欲望だったのです。形式的には、夫の欲望に従う事が妻の欲望であったという事なのです。場面 73. における妻のセリフ "私はあなたを満たせなかったのね" がその事を示していますね。

 

厳密に言うなら、等号で結ばれた彼らの欲望の均衡は、子供が産まれる事によって崩れていました。夫の欲望の対象が自分ではなく子供にある事を妻が知ってしまうからです。そうすると、夫の欲望は自分に向いているはずだと思い込んでいた妻が選択する次の行動は、夫の欲望を可能にしているもの ( 子供の存在 ) を与えない事 なのです。それも実は 倒錯した形で夫の欲望に沿ったもの なのですが、違うのは妻が夫に代わって自分を主人としている事です。だからこそ、子供を渡せと言う夫にはっきりとノーという事が出来たのですね ( 25~30. )。

 

しかし、最後に妻は子供のみならず、子宮という母なるものさえ奪い取られてしまいます。ここにおいて、"母なるもの" とは宗教的共同体の欲望の源泉として作り上げられた対象物でしかない 事が明らかになるのです。そうであるならば、母なるものを奪われた妻とは、女性とは、一体何であるのかという哲学的問題が発生するのですが、アロノフスキーはそれを直感して限界状況における女性の身振り (B ) を激しく描き出す事に専念したのだといえるでしょう〈 終 〉。

 

 

 ( *B )

ダーレン・アロノフスキーの『 ブラックスワン 』の詳細については次を参照 。

 

▶ 映画『 ブラックスワン 』( 2010 : directed by ダーレン・アロノフスキー )を哲学的に考える

 

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監督  ダーレン・アロノフスキー ( Darren Aronofsky : 1969~ )
公開  2010年
出演  ナタリー・ポートマン ( natalie Portman : 1981~ )   ニナ・セイヤーズ
    ヴァンサン・カッセル ( Vincent Cassel : 1966~ )     トマ・ルロイ
    ミラ・クニス ( Mila Kunis : 1983~ )            リリー
    ウィノナ・ライダー ( winona Ryder : 1971~ )      べス・マッキンタイア
    バーバラ・ハーシー ( Barbara Hershey : 1948~ )    エリカ・セイヤーズ

 



 1章  黒鳥とニナ

 

二ナが舞台の最後で自らの死と引き換えに黒鳥を演じきった結末をどう考えるべきなのでしょう。なぜ死ななければならなかったのか。ここで興味深いのは、"黒鳥という役柄との同一化" と "死の必然性" の両方が等しいものとして結びついてしまっている という関係性なのです。自分を追い詰める幻覚と戦いながらも見事に黒鳥となったニナのヒロイズムが頂点に達する結末は、私たちに奇妙な感動を覚えさせます。それが奇妙なのは彼女のヒロイズムと共に、精神の狂気が頂点に達していることを私たちが分かっているからに他なりません。このようなヒロイズムと狂気の結びつきを体現しているものこそ作品の主人公の演技なのですが、それについてここで考えていきましょう。

 

この作品の見所は、ニナ役のナタリー・ポートマンによる狂気の演技と彼女が徐々に黒鳥に蝕まれていく様を描いたアロノフスキーの手法にあるのは間違いないのですが、まず考えてみたいのは、ニナが黒鳥を上手く表現出来ない事の原因を自分を解放していないからだと言う演出家トマの指導 ( 1~16 ) についてです。

 

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平たく言うと、黒鳥の官能性を上手く表現するには、ニナ自身も実生活から官能的である必要がある、つまり自分の中の官能性を解き放て、とトマは彼女に迫る ( 彼自身の欲望をそこに絡めて ) のですね。この役柄の内面に没入させるように指導するトマのやり方は通俗的なメソッド演技を極端にしたものだといえるでしょう。メソッド演技のアプローチ自体がややもすれば冷ややかな距離を以って見られている現代においてトマの指導は時代錯誤的なものなのです。

 

とはいえ、アロノフスキーもそれくらいの事は承知なはず。極端化されたトマの指導はあくまでもストーリーを刺激的なものにするための誇張に過ぎないと考えるべきなのでしょう。そのような誇張的指導によってニナが黒鳥になろうとする過程を激的に描き出す事が可能になるという訳です。

 

ただし、ここで気を付けなければならないのは黒鳥が官能性の象徴であるという設定です。いや、官能性という言い方は上品すぎますね。黒鳥とは性的なものの象徴である という事です。そうすると、性的なものをどう表現するのか という問題にニナは突き当たります。これこそニナを悩まし続ける演技上の壁なのです。

 

 

 2章  性的なものと演技

 

日常生活における性的経験の豊かさが、そのまま黒鳥の官能的演技に繋がるはずだというトマの一方的要求にニナはどうにか答えようとするのですが上手くいきません。しかし、それは無理もないのです。というのもトマが稽古以外の日常においてニナに要求するのはセックスや自慰などのエロティックな行為でしかないからです。率直に言うならトマがニナに求める官能性とは、ニナと肉体関係を持ちたいというトマの欲望でしかないという事です。

 

そのようなエロティックな行為を求める事は、トマ自身のメソッド的手法の限界と同時に、そこに潜む性的なものについての浅はかな理解をも露呈させる 事になるのです。ニナの立場からすると、トマの言う通りに官能的であろうとも、バレエという形式においてどう表現すればいいのかと悩むのは当然です。まさか舞台上でセックスや自慰をする訳にはいかないのですから。一方トマの立場では、日常生活での性経験が舞台上のニナの仕草や雰囲気から官能性を醸しだすはずだといういささか適当なものである事は否めないでしょう。ダンサーの振付自体は誰が踊っても変わらないのだから ( 実際、映画のラストでは舞台の開演に間に合わないかもしれないニナの代役はリリーという事で話が進んでいた )。

 

このようにトマが黒鳥役に求める "性的なもの" とは性行為に他ならないという浅はかなものでしかなかったのですが、これに対するニナの反応はどうようなものだったか考えいきましょう。結局の所、ニナはトマの性的要求に答えていないのです。ニナにセックスを拒まれたトマはそれならば家で自慰をしろとニナに命じます。ニナは実家で寝起きに自慰をしようとするのですが、傍らで彼女の心配をしながら寝てしまった母親に気付いて途中で止めてしまうという具合なのです ( リリーとのレズ行為も二ナの妄想でしかなかった )。

 

これはニナがトマの要求を拒んでいる事の表れだと考えるべきなのでしょうか。たしかにニナはエロティックな行為を結果的に拒んでいるのですが、だからといって "性的なもの" を拒んでいると単純に解釈すべきではないでしょう。これについて考えるにはフロイトリビドー ( 欲動 ) の概念を参照する必要があります。

 



  3章  性的なものとリビドー

 

フロイトのリビドーについてよくある一般的誤解は、リビドーを性の欲動と同一視する事です。つまりリビドーを性欲と同じ位相で考えようとする傾向があるという事ですね。これはフロイト自身が抱いていたリビドーについての初期の考え方でもあるのです。これが間違っているのは、本来、人間主体を何らかの行動に突き動かす普遍的なものとしてエネルギーの比喩が持ち出されているのに、そのエネルギーに特定の性質を付与してしまっている という事です。

 

もしそうであるならば、性行為に直結しない諸々の人間行動については、その都度、何々エネルギーをという形式を際限なく持ち出さなければならなくなり、そこには理論的散漫さしか見出せなくなってしまう。なのでリビドーとはあくまで 人間を何らかの行動化へと駆り立てる 根源的エネルギー として考える必要がある のですね。そのリビドーが肉体の器官 ( 性器や口唇、肛門など ) に流れ込んだ時、人間は性衝動を感じるという訳です。

 

さてここで映画の方に話を戻しましょう。3章で述べたリビドーについての誤解こそ演出家トマの黒鳥という役柄に対する浅はかな理解と比することが出来るのです。黒鳥の演技上の秘密が官能性であるとしても、それを性的行為及びそこで消費される性的衝動としてしかトマは理解できません。彼は黒鳥の官能性に潜む崇高さに気付かないのです。

 



 4章  死とリビドー、あるいは死と演技

 

2章においてニナは性的なものを拒んでいるのではないと言いました。これには条件を付けなければなりません。それはトマの言う性的なもの、すなわち性行為ではないという条件です。では 性行為ではない性的なもの とは何でしょう。それこそ 3章で述べた性衝動の根源であるリビドー、性的なものへと分化しようとする直前の緊張を孕んだリビド ー に他なりません。

 

ニナはトマに言われるがまま安易に性的なものへ身を委ねようとせずに、この 根源的リビドーの激しさの中で黒鳥の演技の秘密を掴もうとする のです。なぜ根源的リビドーが激しいのかを考えるには、再びフロイトを参照する必要があります。フロイトは晩年、死の欲動と生の欲動という2つの考え方を提示したのですが、リビドーの根源性を考慮に入れるならば、欲動はやはりひとつのものだと考え直すべきでしょう。つまり、欲動は無差別的に動くものであり、生 ( 自己保存 ) と死 ( 自己破壊 ) はその欲動が向かう方向の違いでしかない という事になります。この欲動が示す軌跡は生と死という両極の間で絶えず繰りかえされるという意味での激しさを備えているという訳です。

 

おそらく、これこそが 黒鳥の官能性の秘密 であり、同時に、それは 『 白鳥の湖 』の秘密 でもあるのです。黒鳥に誘惑された ( 性的なものへの誘惑 ) 王子が最後に選択した行為は、白鳥と共に湖に投身自殺する事でしたね。自分の欲望を刺激して止まない性的なものの背後には "死" の背景があったという事です。もっと端的に言うなら、"性的なもの" とは、そのような "死" の中から発生した分化的リビドーに他ならない のです。単なる性的な演技を超えた先にあるものこそ、生きながら死ぬ死につつ生きるという未分化の両極であり生と死のどちらが真でどちらが偽なのか見分けがつかない混沌 に他なりません。ニナは黒鳥の演技において、リビドーの根源を身を以って示す事になるのです。

 

黒鳥の舞台前にニナは控室で鏡に映る自分自身をリリーだと妄想して刺し殺してしまいます。黒鳥を演じるのは自分しかいないという執念のあまり ( 17~28. )。

 

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つまり、ニナは黒鳥の舞台前に既に死んでいた。自分自身に起こった事に気付かない彼女は、まさしく生きながら死んでいたのです。そして彼女はこの状態で舞台に上がり死につつも生きて黒鳥を演じ切ります。しかし、最後の瞬間において彼女の表情には死への恐れは浮かんでいません。それどころか黒鳥を演じきった満足感で満ちているのです ( 29~36. )。

 

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映画の結末において、ニナは黒鳥として生き、そして自分自身としては死にました。そのような生と死、あるいは希望と絶望、という両極は映画における 自己言及的な演技設定、つまり演技についての演技、俳優が演技について演技するという設定の中で表す事が可能になった といえるでしょう。この映画における黒鳥の官能性というアロノフスキーによる設定は、ナタリー・ポートマンの狂気の演技がいかに迫真的なものであっても、それは演技についての演技であるという要素を既に含ませている という事でもあるのです。

 

もしナタリー・ポートマンの狂気が演技ではなく本物であったならば、それは到底映画では使えないのであり、それが限りなく本物であるかのように匂わせる演技であるからこそ映画として成立する。つまり、演技における狂気は、狂気それ自体の中にどっぷりと浸って本物であるかのように同調する事ではなく、狂気から身を引き離してどこまでも狂気であるかのように見せようとする "冷徹さそれ自体" の中にある のです。そのような冷徹さに勝る狂気の演技はないのであり、そこにこそ演技の崇高さがあるといえるでしょう〈 〉。

 



▶ ジョナサン・グレイザーの映画『 記憶の棘 』( 2009 )を哲学的に考える

 

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監督  ジョナサン・グレイザー
公開  2004年
脚本  ジャン・クロード・カリエール
    ミロ・アディカ
出演  二コール・キッドマン  ( アナ )
    キャメロン・ブライト  ( ショーン )
    ダニー・ヒューストン  ( ジョセフ )
    ローレン・バコール   ( エレノア )

 



 1章  死んだ夫としての少年

 

10年前に夫ショーンを亡くし、ジョセフ ( ダニー・ヒューストン ) と再婚しようとしているアナ ( 二コール・キッドマン ) の前に、自分はショーンの生まれ変わりだと言う少年 ( キャメロン・ブライト ) が現れるという設定の作品。この作品を輪廻転生の話しだと感じる人もいるでしょう。結局、少年はショーンの生まれ変わりではないのが最後に明らかになるのですが、それでもこの作品は輪廻転生がテーマだと象徴的に理解しようとする人がいるのは分からなくもありません。

 

というのも、誰よりも輪廻転生を信じているのが他ならぬアナ自身であるかのように思われるからです。ある日、見知らぬ少年がショーンの生まれ変わりだと言って現れたものだからアナは拒否します。ところが少年の余りの一途さにアナは彼に興味を持ち出し、やがては家に招き入れるようになるのです。

 

ここで注意すべきは、アナは婚約中のジョセフと既に一緒に暮らしているにも関わらず、少年を家に入れている点です。当然、ジョセフは気分がいいはずもなく、ある日、少年への怒りを大人気なく爆発させてしまったりします。そのジョセフが少年とアナの関係を疑って聞き耳をたてる以下のシーン。

 

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入浴中のアナの所に少年が一緒に入ってくるというこのシークエンス ( そしてジョセフは聞き耳を立てている ) は、亡き夫を忘れられないアナと彼女への一途な思いを抱く少年との関係性が、輪廻転生をテーマにした純愛であるかのような見かけの裏で、恋愛感情と絡んだ性的欲望が秘かに進行している のを示す注意すべきものになっています。監督のジョナサン・グレイザーが意図的にこのシークエンスを入れているのは明らかですね。

 



 2章  女と男、あるいは女と少年

 

ここでのジョナサン・グレイザーの意図は、男女の恋愛関係の裏側に潜む性的欲望を一方的に暴き出すというよりかは、恋愛感情と性的なものの重層的な絡み合いを描き出すことを狙ったものだといえるでしょう。つまり、かつての 恋愛の関係性 ( アナと亡夫 ) が現在における性的なものの力 ( アナと少年の関係性 ) によって秘かに変貌していく過程を描いている という事なのです。この辺は殆どの人が見過ごすところでしょう ( 薄々気付いていても )。

 

アナの視点からすると、彼女は再婚相手のジョセフを恋愛感情の末に選んだというよりは今後の人生を考えてのパートナーとして認識している。だからこそ、ショーンの生まれ変わりだと言う少年の言葉を信じて、かつての恋愛感情を自分の中で燃え上がらせている訳です。

 

ただし、1~12. においてバスタブに後から入ってきた少年の身体を見て、アナは現実に気付いたはずです。まだ大人に成り切れていない、これから大人になろうとする少年の身体が、アナの中の亡き夫への幻想とは別に、この少年がショーンではない1人の男であるとアナは認識せずにいられなかったでしょう。

 

赤裸々に言うと、ここでのアナは、少年が亡き夫の生まれ変わりだという輪廻転生の話を "アリバイ" として少年との恋愛を性的なものを絡めて秘かに楽しんでいる とさえ言えるのですね。これは決して穿った見方だとはいえません。というのも、そのような見方は再婚相手のジョセフのものであるからです。彼は輪廻転生の話など信じていません。少年を少年として認識し怒りをぶつけるだけなのです。少年のくせに自分の婚約者と恋愛関係を持とうとするのは何事かと言う訳です ( 13~16. )。

 

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そんなジョセフの不満に関わらず、アナは少年との恋愛感情を強めていきます ( 17~20. )。ここまで来ると、彼女は亡き夫への思いよりも、少年との恋愛関係という倫理的な一線を踏み越えることの興奮や情熱に身を傾けている のです。この後、彼女は少年がウソをついていたと告白するまで、彼との関係を持ち続けようとしていたくらいに ( 何年か後には彼がある程度の大人になるという算段をしながら )。

 

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アナと少年の関係も、少年の告白 ( 嘘をついていた ) によって終わりを迎えます。そこで彼女は "私を騙していたのね" と怒るのですが、これを文字通りに受けるべきではないでしょう。彼がショーンではない事が分からないような大人ではないし、それでは解釈が単純過ぎますね。

 

それではアナがどうして怒ったかというと、少年がショーンの振りをする事によって成り立っていたアナと少年との恋愛関係のゲームから彼が降りてしまったから です。このゲームは彼女の欲望を満足させていた、たとえ少年が嘘をついていたとしても。いやむしろ少年が嘘を付いていたから、このゲームが成り立っていることにアナは興奮していたといえるでしょう。

 

さらに踏み込んで解釈するならば、このゲームにおける少年のアナに対する裏切りは、アナの亡夫のショーンが生前に浮気していたという裏切りと重ねあわせる事が出来るでしょう。ショーンの浮気相手であったクララ ( アン・へッシュ ) が少年の嘘を暴くこと ( 少年がもしショーンの生まれ変わりであるならば浮気相手のクララが分かるはずなのに気付かなかった ) によってアナと少年の恋愛関係を結果的に終わらせた訳ですがそこにアナを不幸にしようというクララの意図がショーンの生前と同様に働いている ことの方がアナと少年のスキャンダラスな関係よりも実は恐ろしいのです。アナはおそらくクララの意図に気付かずに振り回されているのであり、そこにはある人間の人生 ( アナの人生 ) が特定の人間 ( クララ ) の意図によって狂わされていくことの恐ろしさがあると言えるでしょう〈 〉。

 



▶ ジョセフ・ルーベンの映画『 危険な遊び 』( 1993 )を哲学的に考える

 

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監督  ジョセフ・ルーベン
公開  1993年
出演  マコーレー・カルキン    ( ヘンリー・エヴァンス )
    イライジャ・ウッド     ( マーク・エヴァンス )
    ウェンディ・クルーソン   ( スーザン・エヴァンス / ヘンリーの母 )
    ダニエル・ヒュー・ケリー  ( ウォレス・エヴァンス / ヘンリーの父 )
    デヴィッド・モース     ( ジャック・エヴァンス / マークの父 )

 



  1章  少年と悪

 

今ではほとんど観られることのないB級サスペンス映画。共に子役時代のマコーレー・カルキンイライジャ・ウッドが共演している ( 2人とも当時12才くらい ) ことで記憶している人もいるでしょう。この映画の照準はマーク ( イライジャ・ウッド ) のいとこであるヘンリー ( マコーレー・カルキン ) の中に巣食う残虐な 悪 なのですが、ここではその悪の原因などは触れられることはありません。

 

例えば、ヘンリーが妹のコニー ( クイン・カルキン 〔 マコーレーの実妹 〕) を殺しかけたり、弟のリチャード ( ロリー・カルキン 〔 これもマコーレーの実弟 〕) の死におそらく関わっている事、そして最後には母親を殺そうとするなどの残酷非道振りの前では、もはやその原因を問う事など問題にもならないという訳です。

 

もちろん、原因を推測する事は可能です。例えば、自分以外の者が母から可愛がられる事への嫉妬などに起因を求める事は出来ますが、そのような結果から原因を推測する事の経済性は、行為のあまりの残虐さによって破綻してしまっている

 

つまり、そこにこそ 悪それ自体 がクローズアップされる意味があるのです。ヘンリーの悪に何らかのきっかけがあったとしても、その悪はもはやその原因から大きく解離してより自らの残酷さを享楽しようとする悪の純粋さに既に移行してしまっている という事なのです。

 

それが分かるのがマークと児童心理学者アリスとの会話シーン ( 1~8. )。ここでは悪が、たとえ少年にでも存在する可能性に気付かない大人の素朴な振舞いが示される。

 

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マークはヘンリーの母親ウェンディにヘンリーの残酷さに気付いてもらおうと話すが信じてくれない。

 

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しかし、子供の態度に敏感な母は、ヘンリーに少しづつ異和感を覚えていく。

 

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一方、ヘンリーも自分を疑う母親の態度に気付いて、殺すことを計画する。そして事もあろうか、母親の葬式で泣くというシュミレーションをする恐るべき振舞いを見せる。

 

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母親をためらうことなく崖から突き落とすヘンリー。そこに一切の迷いはない。

 

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崖の途中にかろうじて留まる母親にトドメを刺すために石を投げようとするヘンリー。それを阻止したマークとヘンリーの争いの中で、母親は何とか崖から這い上がり、今度は崖から落ちそうになる2人を彼女が助ける。

 

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体力的にに2人を同時に助けることが出来ないという究極の選択の場面で、彼女は実の息子であるヘンリーではなく、甥のマークを助けます ( 手を離されたヘンリーは落下死する )。このラストの帰結は、彼女が ヘンリーに息子の形象を見たのではなく、悪の本質を見た という事です。つまり 自分の理解を超えた異様な悪を絶つしかないという母親の悲壮な決意が最後に示された 訳ですね。

 



 2章  悪の象徴としての少年

 

この映画におけるヘンリーは、まさに悪の象徴として描かれています。一見純粋であるかのような少年のあどけなさとのギャップという意味で悪が存在するのではなく、まさに少年の幼さこそが純粋な悪の象徴になっている と理解する必要があるのですね。なので少年の未来に配慮して、彼の悪を矯正すべく原因を求めても無駄だという事です、この映画に関しては。それどころか少年とはまさに悪の萌芽であって、少年の未来とは、悪の未来に他ならないと予感させるのです。

 

この映画と同様に、社会の中に蠢く悪が少年という形象において先鋭化された映画がブライアン・シンガーの『 ゴールデンボーイ 』です。『 ゴールデンボーイ 』において主人公の少年トッド ( ブラッド・レンフロ ) はナチスという悪と共鳴しながら自らの悪を覚醒させていくのですが、『 ゴールデンボーイ 』が『 危険な遊び 』よりも不気味なのは ブライアン・シンガーが原作とは結末を変えてトッドを生き延びさせている 所です。『 危険な遊び 』ではヘンリーは落下死して一応のケジメはつけられていますが『 ゴールデンボーイ 』では 悪 は死ぬ事なく、社会の中で自らを現実化させようとする可能性を残しているという意味で、より生々しいリアルなものになっているといえるのです〈 〉。

   

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 ブライアン・シンガーの映画『 ゴールデン・ボーイ 』を哲学的に考える