〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 4 〉

 

 

 

 



 

 

A. シュレーバーの世界観の狂気を決定付けている "女性的なもの" の自分への取り込み、これについて考えるのを避ける訳にはいかないでしょう。彼が "女性的なもの" を取り込む際に持ち出す概念が "脱男性化" なのですが、おそらくほとんどの人はこの 脱男性化女性化 であると漠然的に考えている、もちろんシュレーバーの精神においてという意味で 。

 

B. しかし、回想録を細かく読むと、少なくともシュレーバーにおいて 脱男性化 = 女性化ではない と言わざるをえないのです。シュレーバーは男性的なものを廃棄して女性的なものへ走ろうとしているのではありません ( 彼の表現の中にはそう思えてしまうものもありますが )。もしそう解釈してしまえば、シュレーバーが保持しているのは単なる "変身願望" に過ぎなくなってしまう。変身願望であれば、その対象が女性であろうが他のものであろうが構わないという事になるでしょう、脱=自分 という欲望が満たされる訳なので。

 

 

「 むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ・・・  

 

回想録 第21章  p.283

 

私の人生の終焉に至るまで、女性化は徴候のみにとどまり、結局は男として世を去ることになるのかもしれないし、実際その公算の方が大きいようにも思える。」 

 

回想録 第22章  p.290 

 

C. シュレーバーの "女性的なもの" へのこだわりを考慮に入れるならば、他のものではなく "女性的なもの" でなければならない必然性が 享楽 の次元によって保障されている と考えるべきなのです。この享楽のためにはひとつの足場が必要となるのですが、この場合はシュレーバー自身の "身体" に他なりません。例えば男性の立場で言うなら、通常は自分の肉体的快感を得るために、"他者との性行為という身体性" を媒介にする、あるいは "他者との性行為という妄想" を媒介にして自慰行為で快感を得る、のですね。いずれにしても、自分の身体上における物理的快感を得るために、他者の肉体という余剰回路 を差し込んで自らの欲望を増幅させる という訳です。もちろんこの他者の肉体という回路は、主体が自分の欲望に都合よくするために作られた "幻想" に他なりません。

 

D. しかし、驚くべき事にシュレーバーは自分の 男性的身体の上に女性的特徴を具現化する という妄想によって快感を得る。彼は通常の男性が抱く妄想と違って、"想像的な女性" を相手にするのではなく 具体的な自分の身体を妄想の対象にする 、つまり、自分の身体をより直接的に享楽しようとしている 訳です。細かく言うならば、自分から他者へ向かう妄想はエネルギーを放出する減産的なものですが、シュレーバーは自分の身体の中に留まる代わりに 他者 ( シュレーバーが言うところの "" ) に自分を犯させるという倒錯性 によってエネルギーを内部に蓄積させて強烈な快感を味わおうとするのです。

 

「 私にとっては、官能的愉悦を育むことが自分の義務となっているのであるが、それは決して、他の人間 ( 婦人 ) への性的な欲情だとか、あるいはまして性的な交わりを結ぶことではない。むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ、さらに、性的に興奮することを目指して、もちろん決して自慰に類するようなことではないが、ー普通ならばおそらく卑猥とされるようなー ある種の行為をせねばならないのである。」 

 

回想録 第21章  p.283 

 

E. おそらくこの解釈は、フロイトシュレーバーから同性愛的傾向を読み取る事を誘発させた 他者の地位 についてのニュアンスを含んでいるともいえるでしょう。つまり、シュレーバーと他者の関係性について解釈者がどう考えているのかはその他者の地位に関わっているという事なのです。

 

F. もしシュレーバーが他者に依存し過ぎているとするならば、フロイトが分析したようにシュレーバーは彼の担当医であるフレッヒジヒと無意識において同性愛的関係を持とうとしたと分析する事も出来るでしょう。しかし、彼は自らの肉体を脱男性化して直接的に享受するために他者 ( 神 ) を 利用する だけ なのです。つまり、彼は自分の世界観の構築及びその享受のために他者を "登場させている" のであって、依存している訳ではないという事です。

 

G. とはいえ、それは彼が自分以外の人間から影響を受けていないのではない事を再確認しておく必要はあるでしょう。ラカンが指摘したように、シュレーバーは父のシニフィアンの回帰に直面し、それと上手く折り合いを付けられなかったのが彼の症候形成の一因であったという事です、全てではないにせよ。ここで一因と言ったのは、父のシニフィアンだけでは、彼の世界観 ( 脱男性化 ) 及び症候 ( 例えば内臓がないという妄想 ) における "肉体性" を説明するには足りないからです ( ラカンは精神病と身体との関係があるのを前提としている )。

 



 

 

A. 恐るべきことにシュレーバーはここで、"現実" という概念についてどの精神分析家よりも先に進んでいる、あるいはラカン現実界の概念を先取りする地点にまで到達していたという事が出来るのです。彼は自分の肉体を妄想上で創り変える事で、私達が通常抱いている "現実という感覚" を麻痺させてしまう。

 

B. 自分自身の肉体、それは他の誰のものでもない自分のものであるという経験的確信が私達の現実という感覚の根拠のひとつとなっています。ところがシュレーバーは、そんな "現実という感覚" でさえ、それは絶対的に揺るがないという根拠の無い思い込みによって支えられている事を明らかにするのです。

 

C. そんな根拠の無い思い込みを支えているものこそ、象徴的なもの、つまり言葉なのですね。 言葉は、それが指し示す物事の真実を語っている訳ではありません。それどころか言葉は、物事の真実、つまり 言葉が全く取り払われてしまった恐るべき現実 に深入りしなくてもいいように私達を守ってくれています。では "恐るべき現実" とは何か。それは "意味が無い" という事に他なりません。言葉という保護膜が剥がされた時、そこで起こるのは、それまで言葉によって指示されていた当の "" が "" それ自体へと変貌してしまう事なのです。逆説的な事に、物理的に何も無い空虚より ( 文字通りの無であるならば最初から認識されることもないから ) も、無意味なものがそこにある事こそが人間精神によりダメージを与える のです。

 

D. 自分の人生、自分の存在、自分の顔、手、足、内臓、骨・・・・ およそこういったものが意味のない "" であると分かった時、なぜそういったものがあるのか、いっそのこと最初から何も無い方がよかったのではと思いたくなる程の "無の必然性" こそが人間主体を形成しているという真実によって人間は狂気に陥る のです。

 

E. もちろんシュレーバーも最初から人を狂気に走らせる "無という現実" へ直接的に向かった訳ではないでしょう。父のシニフィアンと向き合う中で、妻ザビーネとの間に抱えた問題によって発症した時、彼はおそらく自分自身を偏執狂的に創り変えようとしていた。自分の身体を構成する言葉、自分を定義付ける言葉、そういったものが全く自分のものではない 強制された象徴でしかない事 を無意識的に理解していた。彼はそれを剥ぎ取り、自分で自分自身に言葉を与え再定義し、新しい自分を産み出そうとしていた。だから彼は男性でありながらも女性であるような脱男性化を唱え、自分の身体各部位を解剖学的象徴網から解き放とうとした。そういった意味で『 回想録 』とは、まさしく彼にとっての『 創世記 』に他ならなかった訳ですが、アダムでありイヴでもあろうとした彼の試みは新しい自分を産み出すための最後の抵抗であったのかもしれません。残酷なことに、このような過程においてシュレーバー剥き出しの現実界に遭遇し狂気に陥った のですが、同時にそれらを余すところなく書き残すように駆り立てた文字 ( エクリチュール ) の力は彼にとっての希望であったに違いないとも考えるべきでしょう。

 

 

 

▶ ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

 

 

 



 

 

A. 4章で述べたようにテクストに書き込まれなかった "父" ではない別の何かとは 妻ザビーネ に他なりません。シュレーバー精神分析においてもほとんど言及される事のないザビーネ ( そもそも精神分析は男と女という "組合せ" について上手く語る事が出来ない、男と女という "2つの性" についてラカンのように語る事は出来ても ) は、ある意味で "父" 以上にシュレーバーに影響を与えているといえるのです。では、どのように影響を与えているのかというと、おそらくはシュレーバーの狂気の 形成 ではなく、狂気の 発症 に対しての決定的な要因であるかもしれないという事です。

 

B. 狂気の "形成" と狂気の "発症" 、この区別は決してささいなものではないでしょう。狂気の形成がシュレーバーの人生の地下水脈において秘かに進行していた ( それこそフロイトラカンを初めとする幾つもの精神分析的診断が示すように ) としても、それがある特定の時期になぜ発症したかという問題は、やはり狂気の形成と発症を区別する考察に至らざるを得ません。

 

C. 既にラカンはこのことについて注意を払っていました。彼はシュレーバーの発症の契機を1884年 ( シュレーバー42歳 ) の 帝国議会選挙での落選1893年  ( シュレーバー51歳 ) の ドレスデン控訴院民事部部長への就任 というふたつの出来事にあるのではと考えたのですね。一方の政治的野心を叶えられなかった事実と、もう一方での時期尚早な権威的役職の獲得という事実の落差の中から生じた 父親的立場 に対するめまいが発症の契機になったというのです。そしてここに付け加えるならば、シュレーバーは職業には父親的機能を担うであろう権威主義的地位を得たものの、妻ザビーネが流産を繰り返していたため実際に父親になる事が出来なかったという事実 に直面して心的に引き裂かれていたと言う事が出来ますね。

 

D. しかし・・・以上のような説明の仕方は物事を男性的な立場に集約し過ぎたものだと言えるでしょう。というのも 流産のショック が妻ザビーネの元を離れシュレーバーただ1人に収斂し、その事が彼の内的緊張状態を作り出しているかのようだと思えるからです。確かに精神分析的アプローチだと、この場合、分析の対象はシュレーバー1人なのだから正しいのかもしれません。

 

E. ここで僕は個々で精神分析が妻ザビーネの立場を無視しているというようなフェミニズム的主張をしようという訳ではありません。そうではなく、流産または不妊治療というものが、夫婦関係をどのくらい危機的なものに陥らせるのかというように 男女間の 出来事 が互いの精神を修復不能にするかもしれない程の影響力を持つ のは考察してみる価値があるだろう ( それはもう精神分析とはいえないかもしれませんが ) という事です。そしてそれは回想録に書き込まれる事がなかったものなのです、直接的には ( )。

 

F. 互いの精神が修復不能になる・・・これは決して大袈裟な表現ではないでしょう。もう子供を持つ事が一生出来ないと知った時、今後の未来を見据える夫婦の悲しい視線はもう現在の夫婦関係を幸せに捉える事が困難になる。もちろん表向きは気持ちを切り替えているかのように見えるかもしれませんが、実際に彼らはどれ程心的にダメージを追ったかは他人に見せる事はほぼない。

 

G. 特に、妊娠・出産の主体である女性が受けるダメージは計り知れないものがあり、それは時としてパートナーである男性を驚かせ ( 例えば子を産んだ他の女性への妬み・恨み、など )、それどころか男性を攻撃するものになる。シュレーバーの精神における父親的機能の基である権威主義の父であるモーリッツ・シュレーバーをさらに100年以上も前に遡る事の出来るシュレーバーの家系・・・それについてラカンが、男性が副次的役割しか果たさない女性主導の受胎プロセスの中への 父というシニフィアンの導入のみが構造的変化 ( 世代という考え方 ) を起こす と巧みに説明しても、そのシニフィアン以上に妻は自らを責めると共に、夫を精神的に攻めるのです。

 

H. そしてシュレーバーも、父のシニフィアン以上に現実の妻 ( 発病時には父は既に死んでいたので ) を何とか受容れようとしていた と思われる出来事がありますね。ザビーネはシュレーバーが自分の元に帰るまでにある少女を引き取っていたのですが、彼が戻ってきた後、夫妻は彼女を正式に養女にしたというものです。たいして注目される事のないエピソードですが、ここから推察出来る事は、もしシュレーバーの中で父のシニフィアン "のみ" が作用していたとしたら、彼はシュレーバー家の存続を考えて ( 彼の兄であったグスタフ・シュレーバーは1877年にピストル自殺している ) 男の子を養子にしたはずだろう という事です。しかし彼はそうせずに、ザビーネの望みを受け入れ養女を取ったのですね。これは シュレーバー家の男系が自分で途絶えてしまうのをシュレーバーが認識していた という事でもあるのです。これに対して、シュレーバーはこの時、60歳を越えていたのだからすべてを諦めていただけではないのかという反論があるとしても、彼が死ぬ前に再入院した先でも依然として父のシニフィアンが原因である妄想を口走っていた事を考慮に入れるならば、適切な反論ではないと判断できるでしょう。そう、シュレーバーの中では父 "以上" にザビーネが優先されていたという事です、父の妄想に悩まされながらも。

 

I. さて、そういう妻の姿を見た時、夫が彼女にしてやれる事はほぼ何も無いのです。自分が妻に代わり妊娠・出産する事は出来ないという現実がある からです。もう、ここからシュレーバーが女性化への妄想へ踏み出すまでにはもう一歩です。このような状況の中で自分を保つために、シューレーバーは自分の精神を秘かに造りかえたのです。それが出来なければ後は夫婦関係の解消、すなわち離婚しかないのですから。しかし、シュレーバーは改変に失敗した・・・自分の精神形成の要である父親的機能との折り合いを付けられていない所に、自分の目の前にいる妻ザビーネへの心的対応という問題が強引に接続されてしまった からです。これこそがシュレーバーの狂気の "発症" の契機だと考え直す事も出来るでしょう。5章で述べた1893年ドレスデン控訴院民事部部長への就任時は、同時にそれまでザビーネの流産が複数回に渡っていた事が分かる年でもあるのですから。

 

 

( )

これについては補足が必要でしょう。ここでは回想録の中に妻の記述が全くないと言っている訳ではありません。むしろ、1回しか言及されていない父 ( このことはラカンが指摘している ) に比べたら、妻への記述は数箇所で見受けられます。例えば回想録の 第9章 p.135~136第12章 p.178 ~ 180など。なので記述がないというのは、流産という出来事を巡っての "妻との軋轢" が記述されていない という事なのです。いや、流産という不幸な出来事はあったにも関わらず、"揉め事" は何も無かったかのようにシュレーバーの記述は進んでいるのです。もちろん、人形でもない限り、ザビーネにも感情がある訳で、何も起きていないはずはないのですから、シュレーバーの記述に不自然さがある、いやもっというなら、妻との軋轢は敢えて "排除" されている事が推測出来ますね。それはラカン的に、回帰してくるものであると考えてもおかしくないでしょう。

 

 

 

 

 

▶ ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 

 



 

 

A. 回想録における世界観の展開を読む上で見過ごすべきではないのは、シュレーバーの中で妄想が妄想として記憶されているとしても、回想録において彼は 妄想の記憶以上の事を詳細に語りすぎている のです。回想録を読んだことのない人でも、最初に記した目次を眺めるだけでそれが直感出来るでしょう。そう、そこには言葉が過剰に溢れているし、それはもはや 妄想の記憶を越えて、妄想を説明しようとする執拗な意志が反映されている としかいいようがないのです。

 

B. しかも、その妄想の記録は、時系列的に読めるように上手く構成され過ぎています。精神にダメージを与えた妄想のひどい時期に、シュレーバーはそれを記録するどころではなかったはずなのに。つまり、回想録における各章のように上手く追っていける程、実際の妄想は秩序だって展開されてはいないという事です。それどころか妄想は時系列の意識を無視して分裂的に出現したのであり、妄想が特定のパターンで彼の中で反復されたという心的事実のみが彼の記憶を保障しているはずなのです。

 

C. それは彼が話を膨らませ過ぎている、あるいは捏造しているという事ではありません。妄想が時系列と紐付けられて一冊の書物として成立しているのは、何よりもそこに 妄想を書き残そうとする彼の意志がある という事であり、彼は その妄想を生き永らえさせるために世界秩序について語る のです。妄想を時系列に落とし込み、世界観を構築するというシュレーバーの手法は、可能な限り理解してもらおうとする彼の強力な意志が反映されている訳です、たとえ、その内容がどれほど奇妙なものであったとしても …… 。

 



 

 

A. 先に記した説明は、従来のシュレーバー『 回想録 』の読解ではあまり重視されなかったものだといえるでしょう。というのも殆どの人は『 回想録 』に記されている妄想をあまりにも素直に受容れ過ぎているからです。文字通りに受け止めて、神経言語・・・魂の殺害・・・脱男性化、という表現が 妄想それ自体 であるかのような錯覚に陥っているのです。注意しなければならないのは、回想録の妄想はシュレーバーが構築した世界観の中で後付の意味を既に付与されたものだという事です。つまり、回想録の妄想はシュレーバーがそれを書く以前に経験した 原体験としての妄想とは違うもの なのです。

 

B. しかし、その原体験はそれがあったとしか推測出来ないものなのであって、どのようなものなかは分からない、回想録の妄想は後付の意味で枠型を施されたものなのだから。ラカンはこのことについて次にように指摘しています。 

 

「 つまり、豊富な症状を産出した精神病の初期のあの体験、言葉にならない、伝えようのない、例の体験のことです。このことに気を奪われ、最も良いものを逃しているのだと考えるのは勝ってですが、最も良いものを逃していると嘆くのは、手の内に持っていながら、考えてみる価値のあるものを見逃す常套手段です。最終像は初期像に比べ教えるところが少ないなどとどうして言えましょう。無意識に関しては、主体と象徴的なものとの関係が基本的なものである、という原則を置いた以上、最終像がより価値の劣るものであるということはできません。」

 

 

ジャック・ラカン『 精神病【上】』 p.195

 

 

C. ラカンシュレーバーが書いた "言葉" から妄想について考察するしかないという当り前の事を言っているのではなく、妄想が 言葉という形 で構造化されている、と言っているのですね。つまり言葉はたんに人間の表現手段としての道具であるだけなのではなく、人間主体とは別のそれ自体が活動し人間の欲望が刻まれた世界であるという訳です。そのような言葉の世界 ( ラカン的にいうなら象徴界 ) は原体験に劣るどころか、人間関係の無意識的基盤として十分に考察に値するのですね。

 

D. しかし、妄想が言葉として構造化されているとしても、その言葉が幾つも織り重なり1冊の書物として成立しているという事は、その妄想を用いて自分の世界観を構築する意志が加わらなければ、それ ( 書物の成立 ) は不可能だったと言わなければならない。つまり、私達が目の当たりにしているのは、たんなるシュレーバーの症例なのではなく、シュレーバー"妄想 + 世界を構築する意志" という複合体 ( コンプレックス ) であり、それらを切り離して考えるのはまず困難だという事です。

 

E. このような複合体の奇妙さは、自分の人生の一部からひとつの世界観を出現させようとする意志によって書かれたテクストと、そのテクストには書き込めれなかった彼の人生の残りの部分が背中合わせになっているという事から来ています。端的に言うなら、それは テクストとその余白 なのです。

 

F. "余白" とは、たんに文字が書き込まれていないスペースだという事以上に、テクストはそこに書き込まれることのない外部がなければ成立しない、そのような 外部こそがテクストを規定する隠れた力になっている、という事を示していると考えるべきなのです。ではシュレーバーにとってのテクストの外部とは何でしょう。言うまでもなく、それは "父" です。ラカンは "父であることのシニフィアンの回帰" について語り、モートン・シャッツマンが『 魂の殺害者 』の中でシュレーバーの父であったモーリッツ・シュレーバーの迫害的な教育ぶりについて語って以降、厳格な父との関係性がシュレーバーの狂気を生じさせたという見方が一般的になっています。しかし、書き込まれることのない他の外部が今なお現在に至るまで残っている としたらどうでしょう。それについて考える事はシュレーバーの女性化妄想を別の角度から考察する事を可能にするといえるかもしれません。続きは次回にしましょう。

 

 

 

 

▶ ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

シュレーバー回想録 ある神経症者の手記 』 邦訳 ( 平凡社ハードカバー版 1991年初版 全542ページ )

 

著者 :   ダニエル・パウルシュレーバー

訳者 :   尾川 浩、金関 猛

改題 :   石澤誠一

 

目次

・ 序言

・ 枢密顧問官・医学博士フレッヒジヒ教授への公開状

・ 目次 

・ はじめに

・ 第 1 章   神と不死

・ 第 2 章   神の国々における危機? 魂の殺害

・ 第 3 章   印刷されず

・ 第 4 章   最初の神経病を患っていた間、及び二度目の神経病を患い始めた頃の個人的な体験

・ 第 5 章   前章の続き。神経言語 ( 内なる声 )。思考強迫。脱男性化が場合によっては世界秩序によって要請されるということ

・ 第 6 章   個人的な体験、前章の続き。ヴィジョン。「 見霊者 」

・ 第 7 章   個人的な体験、前章の続き。奇妙な病状。ヴィジョン。

・ 第 8 章   ピーアゾン博士の施設に入院していたときの個人的な体験。「 試練を受けた魂 」

・ 第 9 章    ゾンネンシュタインへの移送。光線との交信に生じた変化。「 筆記制度 」、「 遊星への繫留 」

・ 第 10 章   ゾンネンシュタインにおける個人的な体験。光線との交信に随伴して現れる「 妨害 」。「 気分盛上げ 」

・ 第 11 章   奇跡によって身体の不可侵性が犯されるということ

・ 第 12 章   声のおしゃべりの内容。「 魂の見解 」。魂の言語。個人的な体験 ( 継続 )

・ 第 13 章   引力の要素としての魂の官能的愉悦。様々な余波

・ 第 14 章  「 試練を受けた魂 」とその運命。個人的な体験 ( 継続 )

・ 第 15 章  「 人間玩弄 」と「 奇跡の戯れ 」。助けてくれという叫び声。話をする鳥。

・ 第 16 章   思考強迫、その現れと随伴現象

・ 第 17 章   前章の続き。魂の言語における意味での「素描 」

・ 第 18 章   神と創造過程。自然発生。奇跡の虫。「 視線方向変え 」。 

・ 第 19 章   前章の続き。神の全能と人間の意志の自由 

・ 第 20 章   私という人間に関する光線の自己中心的な考え方。個人的な状況の今後

・ 第 21 章   至福と官能的愉悦の相互関係。この関係が個人的な態度に及ぼす影響

・ 第 22 章   結び。未来への展望

 

補遺1

・ Ⅰ  奇跡について

・ Ⅱ  神の知性と人間の知性の関係について

・ Ⅲ  人間玩弄について

・ Ⅳ  幻覚について

・ Ⅴ  私という人間への神経接続を通じて明らかになった神の本性について

・ Ⅵ  本書を閉じるにあたっての考察及びその他諸々の事柄について

・ Ⅶ  火葬について

 

補遺2

 

・ 付録論文 「 精神病と見なされる人物の医療施設での拘禁は、当人がそれを拒否するはっきりとした意志を表明している場合、どういった前提条件があれば許されるか 」

 

資料( 禁治産宣告取消し訴訟の記録 )

・ A  枢密顧問官ヴェーバー博士による1899年12月9日付裁判医鑑定書

・ B  枢密顧問官ヴェーバー博士による1900年11月9日付管区病院医鑑定書

・ C  控訴理由書

・ D  枢密顧問官ヴェーバー博士による1902年4月5日付鑑定書

・ E  ドレースデン控訴院1902年7月4日の判決

 

シュレーバー年表

訳者あとがき

解題

決まり文句集

索引

参考文献

 

 

 

 

 

A. ドイツの法曹としてのキャリアを重ねながらも、精神を病み、度々入院生活を余儀なくされる程の体験をした ダニエル・パウルシュレーバー ( 1842~1911 ) による驚くべき回想録は20世紀における "哲学書" のひとつといえるでしょう。この回想録はシュレーバーが61歳の1903年に出版されたのですが、発売と同時に親戚らによって買い占められ焼却されたので、実際に流通したのはわずかだったと言われるほどの稀覯本でした ( 現在でもしばしば奇書として紹介されたりしますが内容は全く理解されていない )。 それくらい周囲の人を引かせる程の病的な印象を与える内容だったという訳です。

 

B. そんな中、この本にいち早く注目したのは ジークムント・フロイト ( 1856~1939 ) であり、シュレーバーが亡くなった1911年に彼についての『 自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』を発表しています。しかし、この回想録を世の中に決定的に広めたのはフランスの精神分析家、ジャック・ラカン ( 1901~1981 ) であった事は間違いないでしょう。 影響力のあった彼の講義録 ( 1955~56 年の講義録『 精神病 』) によって、フロイトの著作における1症例に過ぎなかったシュレーバー現代思想を通じて広まったのです。 ラカン的に言えば、"シュレーバー" という言葉は単に当人を指し示す固有名詞である事を越えて、精神分析と哲学を横断して人々の思考を刺激する "記号表現 ( シニフィアン )" になったのですね。

 

C. とはいえ、ここではシュレーバーをアカデミックな規範の元で考える、あるいは紹介するのが目的ではありません。 彼について僕が好きなように哲学的に解釈する事とその記録が目的なのであり、その哲学的解釈を施して、様々な人がこの回想録について考える上での契機になればいいと思っているわけです。

 

 

 

 

 

A. 回想録を読む上で注意したいのは、"魂の殺害"、"神経言語"、"神経接続"、"脱男性化"、などの神秘的表現とその表現を駆使したシュレーバーの世界観を、狂っていると安直に思うのなら、それは余りにも読解力が無さすぎるという事です。 シュレーバーの世界観がどうのこうのいう以前に、あるいはシュレーバーは狂っているなどの先入観を持たずに、丁寧にこの本を読んだ人ならば、フロイトラカンのように、極めて明晰に書かれている と感じるはずです。

 

B. シュレーバーにおいては、回想録が自らの手によって書かれているという事実、それこそが重要だといえるのです。もし、回想録を読んで彼が狂っていると言うのなら、その人は狂気について自分が抱く定義を問い直す必要があるでしょう。ここまで事細かに書き記す事の出来る狂気とは一体何なのか と。

 

C. 狂っていながらも、ここまで書く事が出来るのかと感嘆した人は、シュレーバーが回想録を書いた時期について、まず考え始めましょう。シュレーバーはゾンネンシュタイン精神病院での8年半の入院生活を送った ( 1894~1902 ) のですが、彼によると、回想録本文 ( 第1章~第22章 ) が 1900年2月から9月 にかけて、補遺1 (Ⅰ~Ⅶ ) が 1900年10月から1901年6月 にかけて、補遺2 が 1902年末、に書かれたという。シュレーバー1902年7月14日禁治産宣告を取り消され、ゾンネンシュタインを退院したのが 1902年1220日、という状況を見ると、回想録は入院末期に一気に書かれた事が分かりますね。

 

D. そしてここで注意すべきなのが、回想録本文、補遺と共に平凡社版に収められている付録論文である『 精神病と見なされる人物の医療施設での拘禁は、当人がそれを拒否するはっきりとした意志を表明している場合、どういった前提条件があれば許されるか 』とそれに続く資料である『 禁治産宣告取消し訴訟の記録 A、B、C、D、E 』です ( )。ほとんどの人は、回想録本文と補遺にしかまともに目を通さないでしょうが、おそらくシュレーバー自身が書いたであろう以上の付録論文と資料C『 控訴理由書 』は目を通すべき価値があります。それをきちんと読んだ人はシュレーバーの自分を極めて冷静に客観視する理路整然さに驚くでしょう、これが回想録を書いた人間と同一人物なのか、と。

 

E. 付録論文『 精神病と見なされる人物の医療施設での拘禁は、当人がそれを拒否するはっきりとした意志を表明している場合、どういった前提条件があれば許されるか 』は1900年の初頭に書かれ、資料C『 控訴理由書 』は1901年7月23日に書かれていますが、これはほぼ、回想録本文、補遺が書かれた時期と重なっています。驚くべきことにシュレーバーは目的に応じて内容を書き分けているかのように見えるのです。これをどう考えるべきなのでしょう。

 

F. 間違っても、シュレーバーは妄想から回復していたからそれらを書く事が出来たのだろうという安易な解釈に逃げ込むべきではありません。書く事が、そのまま妄想からの回復を意味するというのは楽観的な思い込みに過ぎないからです。それどころか 妄想が続いているからこそ書く事が出来る とさえ言えるのです。もし彼の精神があの奇妙な妄想から全面的に撤退していたとしたら、回想録の執筆及び出版などは考えもしなかったでしょう。

 

G. おそらくはここで考え直すべきは、シュレーバーは回想録と控訴理由書を書き分ける程に病的状態から離れて冷静かつ客観的であったのではなく、法的な控訴理由書と同じくらいに回想録を冷静かつ客観的に書いた、という事です。つまり、彼はそれらを書き分けていたのではなく、同じ客観性で以って、いや、病的なまでの観察眼で以って同じように書いていた というべきでしょう。そうでなければ、回想録と付録論文及び控訴理由書の 同時性 は説明できない。この同時性は『 回想録 』の第21章において自ずと明らかになります。そこでは禁治産宣告の取消しの訴えを起こしたというシュレーバー職業的法精神 と、その申し立ての内容文に顕になる彼の 身体的女性化妄想 が、病的な明晰さで以って一本の線で繋がるという短絡 ( ショートカット ) が起きているのです。

 

H. この病的なまでの明晰さこそ、パラノイアの特徴に他ならない。パラノイアは一般的に言われるように現実に対して偏った認識を抱いているというよりは、現実に対して必要以上の意味や解釈を与えるのだというべきでしょう。極端に言うなら、事物がそこにあるというだけでは満足できずに、それが単にある事に対してすら何らかの意味 ( 例えば陰謀など ) を見出そうとするのです。しかし、そのような パラノイア的姿勢こそ哲学的行為の根源的萌芽だ と言うべきなのです。フロイトはその事を理解していた。あらゆるものを観察の対象とし、そこから妄想を形成した挙句の果てに自己を観察対象とし迫害妄想を引き出すパラノイアから、そのような経験を自己を更新するための最高度の内省へと変換する事の出来る哲学者 ( ) への移行は、ほんのわずかな一歩に過ぎないのです。

 

I. ただし、このような移行が妄想の回復を意味するのでない事に注意しなければなりません。2章で述べたように、妄想が続いているからこそ、書く事が出来たのです。なので入院末期においてシュレーバーは回想録を書く事が出来るほどに回復したのではなく、彼の中では精神にダメージを与え続けてきた妄想が弱まったとしても依然として作用していたと言うべきなのです。

 

J. それでは病的な観察眼が、付録論文や控訴理由書を書く事を可能にしていたと言えるのでしょうか。これについて考えるには、"妄想からの回復" ではなく、"書くという行為" に視点を置く必要があります。そもそも "妄想からの回復" という考え方自体が他人からの一方的なもの ( たとえ精神科医であれ ) に過ぎないのですから。これは精神分析の治療がどの時点で終了なのかを判断する事の難しさに関わってくる問題なのですが、もし患者が妄想に向き合った結果、妄想というトラウマを自己のアイデンティティーとして秘かに書き換えてしまっていたとしたら、妄想の回復という考え方は逆に彼の人格基盤を奪いかねないものになってしまう のです。

 

K. このような患者の独特な経済構造 ( 自分のアイデンティティーを保つという利害のために妄想などのいくつもの要素を内的に操作する事 ) は、自己を脅かすものに対する抵抗という形でその姿を現すのですが、それは妄想を他人が取り除く事の難しさ、あるいは不可能性を示しているともいえるのです ( )。結局の所、妄想とは最後に患者本人が自分でどうにかするしかないのですが、もしかするとそれは患者の生涯の終焉にまで付きまとう残酷なものなのかもしれません。

 

L. 実際、シュレーバーは既に述べたように、ゾンネンシュタインを1902年の60歳で退院後、65歳で発作を起こし精神病院デーゼンに再び入院しています。そこで彼は妄想に囚われたまま肉体的に衰弱し68歳で亡くなるのです。これ以前にも彼は1884年の42歳の時に、帝国議会議員選挙で落選した後に発病し、ライプツィヒ大学付属病院のフレッヒジヒ教授の施設に半年入院していました。つまり、シュレーバーは生涯に計3度入院しているのですね。

 

・ 1回目の入院。1884年12月 ( 42歳 ) ~ 1885年5月 ( 43歳 )。

・ 2回目の入院。1893年11月 ( 51歳 ) ~ 1902年12月 ( 60歳 )。

・ 3回目の入院。1907年11月 ( 65歳 ) ~ 1911年4月 ( 68歳で死亡 )。

 

M. いずれの入院期間においても、妄想が程度の差はあれ、彼に影響を与えていたのは間違いないのであり、とても妄想から回復していたとはいえないでしょう。ただし、2回目の入院において『 回想録 』、『 付録論文 』と『 控訴理由書 』を上手く書き上げて妄想から一見回復したかのように見えたのはまさに "書くという行為" それ自体が彼の精神を支えていた のだと考える必要があるのです。3回目の入院期において、彼が残した判読出来ないなぐり書きのようなメモから、追い詰められた彼の精神が "書くという行為" にすがろうとしていたのが分かりますね。

 

N. それはもはや自己セラピーなどという生易しいものではなく、自己の生存危機の最中に彼が書くという行為を選択している意味で、それは 妄想とは別次元で主体に作用を及ぼす強力な何か だと言うべきなのです。"書く行為" が主体に与える "強度" は、病的な精神に囚われた主体にでさえ、ただひとつの目的、文字という痕跡 ( ) を残すために駆り立てるという事なのです。それは妄想がシュレーバーを衰弱させるのとは別次元で主体を死の次元に移行させる、痕跡という "物質性" を手に入れるのと引き換えに …… 。なので、シュレーバーが書く事に成功したのは妄想から回復したが故なのではなく、たんに衰弱していくだけの精神に抗して、痕跡という物質性を手に入れる為に書く行為に自分を駆り立てた結果なのだと解釈すべきなのですね。それが彼の精神を支えていたという訳です〈 続く 〉。

 

 

( )

この資料の意味は、シュレーバーに自分の財産を管理する能力がないことを示した禁治産宣告に対する異議申し立てがシュレーバー側から為されたという事です。では、シュレーバーに財産管理能力がないと困るのは誰かというと、この場合シュレーバーの妻であった ザビーネ なのですね。この禁治産宣告がシュレーバーの精神的尊厳を奪う程の重大なものである事を彼女が理解していたかどうか …… 。おそらく彼女は生活費を用立てるためによく分からずに周囲の助言に従っただけだと思うのですけど ( 禁治産宣告の請求は配偶者以外にも親族、後見人、検察でも可能なので実際の請求者がザビーネであったかどうかは不明 )。入院中のシュレーバーのお金を自由に出来なかった ( 元々はシュレーバーが財産を管理していたので ) 彼女は、法的手続きに乗っ取って彼に書類へのサインをもらいに面会に度々来る事が負担になっていたのかもしれませんね ( 時にはサインを拒否されることもあったようなので )。

 ちなみに、この邦訳で採用されている禁治産宣告という表現が依拠する禁治産制度・準禁治産制度はドイツにおいては法改正を経て1992年に世話法として施行され、日本においても2000年から成年後見制度として施行されている。いずれにおいても従来の禁治産制度よりも本人を保護する意味合いが強まっている。

 

( )

このような哲学者の代表こそシュレーバー ( 1842~1911 ) と同時代を生きた ニーチェ ( 1844~1900 ) に他ならない。彼らに共通するのは、客観的な論理体系 ( ヘーゲルが構築したような ) を提示するのではなく、自らの経験それ自体を客観的なものとして哲学的に語るという事です。彼らは "自らの経験を徹底的に考え抜く" という意味での最強のパラノイア哲学者だといえるでしょう。

 

( )

まさにこの患者の例が ベルナルド・ベルトルッチ の映画『 暗殺の森 』の主人公マルチェロです。彼は自分が少年時代に撃ち殺したと思っていたはずの同性愛者のリーノが生きていると分かった時、トラウマという逆説的アイデンティティーが崩れ落ちるのを必死に防ごうとしてリーノを罵倒しまくるのです。

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 ベルナルド・ベルトルッチの映画『 暗殺の森 』 ( 1970 )を哲学的に考える

 

 

( )

ただし、"痕跡" という概念は必ずしも文字のみに限定される訳ではありません。それは別の主体にとっては映像であり、写真であり、芸術であり、建築物など、であるというように考る事が出来ますね。そしてこのような書く行為につきまとう "痕跡"、"物質性" という概念はジャック・デリダ的、またはポール・ド・マン的視点からも考えられるべきものでしょう。

 

 

 

▶ アッバス・キアロスタミの映画『 桜桃の味 』( 1997 )を哲学的に考える

 

 

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監督  アッバス・キアロスタミ

公開  1997年

出演  ホルマン・エルバディ   ( バディ 役 )

    アブドルホセイン・バゲリ ( バゲリ 役 )

  



   1章 桜桃を味わうこと

 

この映画の主人公バディは、車に乗って自殺を手伝ってくれる人を探しに出かけます ( 自殺の理由は示されない )。自殺を手伝ってくれる代わりにお金を支払うと言うのですが、ことごとく断られてしまう。最後に出会うのが自然史博物館で働くバゲリという老人との車中での会話 ( というかほとんどバゲリが一人で話しているのですが ) によって、自殺しようと決めていたバディの中で何かが変わっていきます。

 

バゲリの話は映画の中で20分近くにも及ぶものですが、彼の話の特徴は、彼以前の登場人物達が自殺に対して否定的な態度や思いを示したのとは違って、今、生きている世界についてもう一度よく考えてみろというものなのです。

 

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バゲリはバディにこの世界について見直させるために、自然の四季について話します。各々の季節毎に自然は果物を恵んでくれる、と。そんな豊かな世界を神は与えてくれたのにそれを拒むのか、と。そんな恵みの一例としてバゲリはここで "桜桃" を挙げているのですね、"桜桃の味を忘れてしまうのか" と言って ( 1~12. )。

 

しかし、これを単純に神学的解釈に方に近づけるべきではないでしょう。もしそうであるならば、バゲリの立場はその前に登場した若き神学生 ( 彼の意見にバディは心を動かされる事はなかった ) とそれ程変わらないものになってしまう。だから、さらに細かく解釈する必要があるのです。

 

バゲリの話で大切なのは、自然には四季の "移り変わり" があるという事なのですね。もちろん、ここで自然 ( 四季の移り変わり ) の話を人生の比喩としてバゲリが持ち出している事を理解すれば、人生にも様々な局面があるが四季と同じく移り変わっていくものだ、つまり、ただひとつの自殺したくなるようなつらい事にこだわって、別の事柄 ( 桜桃 ) を味わう事を諦めてしまうのか・・・ 自殺にこだわらなくとも死はいつか訪れる ( このような人生の道程をバゲリは "旅" の比喩でも表しているし、そもそも車で移動するロングショットの多用が "旅" と重なっている )、それまでにこの世界の果実を味わうべきだ・・・幾つもの果実が世界には ( 人生には ) あるんだ・・・苦いものもあれば ( 自殺したくなるような事 ) 、甘いもの ( 桜桃 ) もあるという具合に・・・、そういう "味わい""旅の終わり ( いつか訪れる死 )" までに自分から捨てるような真似をしては駄目だ、とバゲリはバディに訴えているのですね。

 

そしてさらに大切なのは、バゲリがバディに俺たちは友達だと言っている事です、"行っても友達、行かなくても友達だよ" と ( 13~16. )。つまり、"あんたが死んでも友達だし、死ななくても友達だよ" 、という事なのですが、これは文字通りに受取るのではなく、"自殺すると言った手前、引くに引けなくなっているとしても自殺を思い止まるのは恥ずかしい事じゃない・・・自殺を止めたからといって俺はお前を笑いものにしたりしない・・・だから自殺を止めていいんだ" というように解釈すべきでしょう。

 

ここまで言われたバディの心境には明らかな変化が起こる ( 自殺を思い止まる ) のですが、次のシーンではその心境の変化がクスッと笑えるような形で描かれています。

 

バゲリが勤務する自然史博物館に引き返したバディはそこでバゲリが生徒たちに、ウズラの解剖の授業をしているのを目の当たりにする。バディはそこで軽くショックを受けるのですね。さっきまで俺を生かすように説得してたのに平気でウズラを殺すのか、と。バディあんた、生きる気満々じゃないのってツッコミたくなりますけど ( 笑 )。

 

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もはやバディは死ぬつもりはないのに、自殺する際の方法に細かい注文をつける。地面に掘った穴で睡眠薬 ( おそらく致死量の ) を飲んで一晩過ごし、翌日目を覚まさなければ、そのまま埋めてくれというのが当初の注文だったのですが、バディはもう意地でも俺を起こしてくれって言ってますね ( 笑 )。バゲリも分かった、分かった、という感じで。

 

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 2章 ストーリーの中断、あるいは映画からの距離

 

バディの自殺の話は、彼が夜中に穴倉の中で横たわり夜空を見つめるという所で終わります ( 29. )。その後は唐突に、ストーリーとは関係がないようなシーン、撮影が終わり、監督を含めたスタッフ、演者たちの姿が映し出されるという自己言及的なシーンが続いて映画は終わる ( 30~35. )。ちなみにシーン 32. の中央で帽子とサングラスを着けてトランシーバーで話しているのが監督のアッバス・キアロスタミ

 

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この唐突な終わり方になぜ?と思った人も多いでしょう。バディが自殺を思い止まった事をはっきりと示すような終わり方でよかったのじゃないの、と考えるでしょう。それでもアッバス・キアロスタミはこのラストを選択したのだから、それについて解釈を進めていきますね。

 

このストーリーを最後まで描く事を放棄したように見える振舞いは、果たして私たち観客に対して不誠実なものなのでしょうか、ストーリーを完結させて観客の欲望を満たさなかったという意味で。しかし、それは違います。むしろ観客に対して誠実であるとさえ言えるのです。

 

なぜなら登場人物の感情を追うような鑑賞の仕方は、観客に無意識的に登場人物と同一化しかねない、一歩間違えば危険なものになりかねない、とアッバス・キアロスタミはおそらく考えているからです。映画が作りものである以上、その中の登場人物は、間違いなく誰か ( 監督であり脚本家であり・・・) の主観によってキャラクター付けされる。それがどういう意味かというと、観客は登場人物という客観的なものに感情移入しているつもりでも、実際は登場人物とは全く違う "誰かの主観" に従っているに過ぎない のです ( *A )。

 

特にそれが "自殺" などの繊細な主題であれば、誰かの主観に導かれた登場人物に同一化する事は一層危険な訳です、観客が自分が誰かの意図に従っている事に気付いていない という意味で。アッバス・キアロスタミはそういったものから意識的に距離を置いているのです。彼はあるインタビューで、観客の登場人物への感情移入を否定していて、自分の作品に出てくるのは登場人物ではなく、"形象 ( 人の形をした )" である と言い切っています。そして、だからこそクローズアップではなくロングショットの構図にこだわるとまで言っているのです。

 

以上の事から、間違っても彼が反ヒューマニスムの持ち主などという結論を引き出すべきでないのは言うまでもありません。むしろ彼は観客に自由に考え、自由に解釈する空間を残してくれているのです。いつも映画をなんとなく見ていて、自分から考えずに映画から何かを与えてもらおうと思っている人にとってはアッバス・キアロスタミの映画は退屈に思えるはずです。しかし、もしこの映画が退屈に感じないのであれば、その人は自分から考えて解釈し、この作品に意味を与えようとしているといえるでしょう。そして、その時、その人はアッバス・キアロスタミが人生や世界を再び見直せるように自分の作品をそのための入口として、その入口から見える "風景" として提示している事に気付くはずです ( *B )。

 

 

 

( *A )

驚くべきことに、ここからキアロスタミは、さらに進んで 映画の "物語性" を否定さえする。フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーとの対談で彼は次のように言うのです。  

 

" 私は物語を語る映画に耐えられません。私は映画館から出ていきます。映画が、物語を語るだけ、よりうまく語れば語るだけ、私の抵抗は大きくなります "

 

『 映画の明らかさ -アッバス・キアロスタミジャン=リュック・ナンシー・著 上田和彦・訳 松籟社 p.107

 

彼の映画をたんなる牧歌的な物語だと勘違いしている人には驚きでしょう。では彼の映画が物語ではなければ、それは一体何なのか。キアロスタミはここで観客の役割、それも映画をたんに眺めるだけの受動的なものではない、"能動的役割" を強調するのです。 

 

" 新たな映画を企てる唯一の手段は、観客の役割をもっと考慮することです。観客が介入することができ、空白や欠落を埋めるためには、未完成で不完全な映画を企てる必要があります。堅固で非の打ち所のない構造を備えた映画を作るかわりに、そうした構造を弱めねばなりません ー 他方で、観客を逃げ出させてはならないとの意識を持っていなければなりませんが !  解決法はおそらく、積極的で建設的なかかわりを持つように、観客をまさしく駆り立てることです "

 

" 各自が自分自身の映画を組み立てる。彼が私の映画を受け入れるにせよ、擁護するにせよ、反対するにせよです。観客たちは自分たちの視点を擁護することができるように、いくつかのものを付け加える。そしてこの行為が映画の明らかさの一部をなす。ある種の弱さ、欠落でもってこそ、諸々の権力に抗する戦争に赴かねばならないのです ”

 

前掲書 p.107

 

" 権力は観客のほうに移ります。アンドレ・ジッドは言っていました。大切なものは視線のなかにあるのであって、主題のなかにではない、と。またゴダールはこう言っています。スクリーンのうえにあるものは既に死んでいて、それに生命を吹き込むのは観客の視線だ、と ”

 

前掲書 p. 99~100

 

 

( *B ) 

キアロスタミは、そのような "風景" を "写真的イメージ" として考えている。

 

" そうしたイメージが持つ呼びかける力、観客がそのなかに深く入り込み、そしてそこから独自の解釈を為すことをイメージが許してくれる可能性を、私はますます確信してきました "

 

前掲書 p.101

 

 

▶ イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



 4章  顔からの解放

 

おそらく、この映画でのベルイマンの狙いとは、舞台における演技者同士のやり取りの本当の対象が第三者の観客であるならば、そのやり取りがどのようなものであれ第三者に届くという舞台あるいは映画における鑑賞の必然的形式に揺さぶりをかけるというものでしょう。そして、この実験的試みに賭けられたものが "仮面" という事なのです。

 

エリザベートが女医への手紙の中で自分の秘密話 ( かつて少年達と乱交した時の生々しい話 ) を暴露したことにアルマは怒りを覚える。エリザベートを尊敬の眼差しで見ていたアルマの中で何かが壊れることを表すシーン。ガラスが割れるかのようなシーン 43~45. から彼女の顔に穴が開くという実験的なシーン 46~47. が続き、白い画面へと至る。

 

このシークエンスの細かい解釈。憧れのエリザベートに興味を持ってもらおうと昔の乱交話までしたアルマが、もはやエリザベートの対象になろうとはせず怒りで彼女を逆に非難するという攻撃的主体になった事が示されている。アルマがエリザベートの退屈を紛らわす都合のいい対象であるのを拒否した事が、顔がないという事で現されてる訳ですね。ここから人格的な顔は常に誰かの "対象" であるのが分かるわけですが、逆にいうと、人格的であるのを止めた顔は、誰かの思い通り ( の対象 ) にはならない自由を手に入れる事になる のですこれこそが 人格的な顔からの解放 なのです

 

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ベルイマンは観客である私達に自分は一体誰を、いや何を見ているのかと撹乱させる事によって、顔=人格という無意識的思い込みによる同一性を解体しようというのです。注意しなければならないのは、"" それ自体が悪いわけではありません。まずいのは、顔にその人間の人格を含めたあらゆるものを統合するかのような象徴的機能を付与する事 なのです。顔がその人間の全てを統合してしまう事は、その人間自身が違う要素の方へと向かう事を封じてしまう、それは自分のキャラには似つかわしくないという具合に。

 

母親である事、女優である事、その狭間で悩むエリザベートは顔にこだわりすぎていたのです。顔に人格を込めすぎていたのです。そのような人格的な顔に固執して、母親の顔であり、同時に女優の顔を持とうとするのは自分に無理強いする事にしかならない。必要なのは、自分ではない別の誰かになるというような幾つかの顔を持つ事 ( 別の誰かに方に逃げるというアリバイ作りでしかない ) でもなければ、仮面の裏に隠された本当の自分をさらす ( そのようなものはないのだから ) というような事ではありません。

 

そうではなく、〈 3. 演技の虚構性 〉 で述べたように "" を映画のスクリーンであるかのようにホワイトウォール、ブラックホールという抽象機械と化して、あらゆる要素 ( シーン 1~6. のような非人間的なものを含めて ) が混ざった "風景" を自分の中から映し出していく事が重要なのです。あらゆる経験あらゆるイマージュあらゆる感情、が詰まった 人生の風景・・・、その風景が織り重なって作られる 自由な世界を見せていく事 こそが大切なのであって、それは少なくとも "" の上では可能になるのです。

 



 5章  仮面の裏側 ……

 

さて最後に 〈 1. 仮面とは何か 〉  で残した問題、仮面の裏側について考えておくべきでしょう。仮面の裏側に、本当の自己などないのならば、そこには何があるのか。答えは、何も無い。言い換えると、"" があるのです。こう言うと、元も子もないように聞こえるかもしれませんが、それは絶望でも何でもありません。無があるからこそ、人はそこに、本当の自己、想像的自我、小人などという擬似人格的な表現で示されるものを押し込む事が出来るのです。

 

そして注意すべきなのは、私達がそのような擬似人格的なものを自分の内側に定立しようとするのも、そこに主体による定立化の行為の自由があるからこそなのです。その 主体行為の自由を可能にしてくれているものこそ、"無" に他ならない。もし "無" がなく、人格的なものが本当に私達の内部の玉座に固定されていたら、私達は日常生活において出会う咄嗟の場面  ( ゆっくりと考えることの出来ない ) において主体的な行為が出来なくなってしまうでしょう。まず主体の自由に動ける "無" があるからこそ、その結果、擬人化の作業も可能になるという訳です。

 

この映画においても、ベルイマンは、仮面との同一化に悩むエリザベートをアルマに諭させる形で人間の内奥の "" について最後に語らせていますね〈 終 〉。

 

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 〈 関連記事 〉

 

 

▶ イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



  3章  演技の虚構性

 

このへんで映画のストーリーの方に立ち戻ってみましょう。女優のエリザベートは舞台で突然沈黙してしまう。その理由は笑いそうになったからという。ほとんどの人は、この理由は見過ごしてしまうでしょうが、シーン 14~17. に続く失語症に陥った彼女が入院先のシーン 18~23. においても彼女はラジオから流れる女優の芝居に対して笑っているのです。つまり、この笑いは見過ごすべきものではなく、何かしら解釈の必要があるという事ですね。

 

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アルマとのやり取りの後、こちらをじっと見つめるエリザベートの顔のクローズアップが続きます ( 24. )。これによって彼女の沈黙の理由となった笑いの原因について推察する事が出来るでしょう。つまり彼女は舞台での自分の客観的姿に笑いそうになったのです。舞台での演技は共演者とのやり取りによって進んでいくのですが、実際は彼女の演技は共演者に向けられたものではなく、観客に向けられたもの なのです。

 

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これを演技とはそういうものだろうと常識的にしか考えられない人は、それ以上解釈を深める事は出来ないでしょう。ここから読み取るべきなのは、共演者と交わす直接的コミュニケーションがその相手ではなく、関係のない第三者に向かってしまっているという演技の虚構性に彼女が気付いてしまった という事なのです。つまり彼女は、自分は誰と一体しゃべっているのか、目の前の相手に自分は話しかけているのに本当はそうではないのだから自分は何をやっているのだろうという具合に、奇妙な "現実" に気付いて笑ってしまうという訳です。

 

ここでベルイマンは、演技の本当の対象である観客には "間接的行為" しか提示できない ( 言い換えれば舞台上の共演者としか "直接的には" やり取りする事が出来ない ) 演技の必然的虚構性 を、エリザベートがクローズアップであたかも "直接的に" こちら ( つまり観客に対して ) を見ているかのようなシーン 24. に重ね合わせるという演出をしているのですね。だからこのシーンによって 観客はあたかも彼女と "直接的にやりとりしている" かのような錯覚 を覚えて不安定な印象を受ける のです ( 演技者と観客を媒介するはずの "間接的行為" が欠如しているのに無意識的に気付くから )。

 

エリザベートは、この演技の虚構性を日常にまで持ち込んでしまうが故に、しゃべれなくなってしまう。看護師であるアルマはエリザベートと話をしようとする。しかしエリザベートはアルマと向き合って話そうにも、そのコミュニケーションがアルマをすり抜けて 別の第三者に向かってしまう演技になってしまうのではないかという思い込みに囚われて話す事が出来ない のです ( 言い方を変えれば、何をしようと彼女は常に誰かを演じていることになるのを自覚している )。

 

ここでエリザベートの中では、"現実" とは一体何かという不安が湧き上がります。その事を示すのがシーン 25~30. 。僧侶が政治的抗議として焼身自殺する映像を見てエリザベートは驚くのですが、これは単に彼女がショックを受けているなどと単純に思うべきではないでしょう。彼女は焼身自殺した僧侶と自分を重ね合わせているのです。僧侶も自分と同様に演技しているのなら、自殺してしまう程の演技とは一体何か、そして自分の演技も僧侶と同じく自らを死のような "現実" へと至らせるようなものなのか、という思いがこの驚きには込められていると解釈出来る訳です。 

 

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このシーンの前後あたりから舞台的な要素が強くなっていきます。看護師のアルマ、女医、らが正面に向かって語りかけるシーンが多くなるのですが、それは時に顔のクローズアップと共に私達の視線をそこに固定させ、私達との擬似直接感を引き起こし距離感を撹乱させるものになっている〈 続く 〉。

 

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 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 

 



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