〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ラース・フォン・トリアーの映画『 アンチクライスト ( 2009 ) 』を哲学的に考える

 

 

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監督  ラース・フォン・トリアー  

公開  2009 年

出演  シャルロット・ゲンズブール 

    ウィレム・デフォー

 



 1章  崩壊する男女関係

 

ラース・フォン・トリアーがこの映画で描き出そうとしているのは崩壊する男女関係しかも女性の側に比重を置いた崩壊過程の話だと言う事が出来るでしょう ( A )セックスに夢中になっていたシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦の近くで息子が転落死してしまうスローモーション映像 ( それは観る者に美しさを感じさせる倒錯的な映像でもある ) で話が始まるのですがそこでは最初から夫婦の繋がりの象徴である子供の存在は排除されている

 

つまり彼らは夫婦ではなく夫婦以前の男女として描かれるそれは結婚し夫婦となり子供が出来ても安定とは程遠い不確実で破裂しかねない緊張が奥底に潜んでいる事を明らかにしようとするものであり男と女という異なる人間同士が結びつく時に起こる問題を示すものでもあるのです

 

その事はシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦自身がお互いの関係性を精神的な意味での夫婦に昇華する事が出来ず未だ問題を抱えた "男女" であ ことを露呈させます特に妻の方がその事に対して根強い気持ちがあるといえるのですこの映画においては

 

というのも後の回想シーンでセックスの最中に実は妻の方が息子が窓際によじ登っていくのを見ているのが明らかになるからですという事は息子が転落する予兆にも関わらず見て見ぬ振りをしてセックスに没頭していたのですね

 

ならば妻は何に対して罪悪感を覚えたのでしょう答えは偶然にでも子供を死なせてしまったという後悔ではなく子供が死んでも構わないと瞬間的にでも思いセックスに没頭した自分の肉欲に対してだといえるでしょう

 



( *A )

リアーの映画の本質としての崩壊作用については以下の記事を参照

 

 

 2章  自分をコントロール出来なくなるという女の本質

 

ということはよくいわれるように妻は子供の転落死をきっかけに精神を病んでいったというよりは自分の中のいや 自分を超えたエデンの森という環境的自然 ( ネイチャー ) で言い表されるように制御出来ない なるものの本質 ( ネイチャー )  に支配されていったと言うべきでしょうもちろんここから女性が男性の肉体にはない自然とつながっている周期的な生理現象の哲学的意味を考える事も出来ますね自分の中に自分を超え出る本質を抱え込んでいるという事こそ女性の "魔女性" というべきものなのです

 

人間を取り囲む環境的自然 ( ネイチャー )主体を超えた女性の本質 ( ネイチャー )。( 1~13 )

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セックスの最中に殴ってと無茶なお願いをする妻自分を制御出来ずに暴走が止まらない ( 14~19 )。

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さらに暴走は止まらず野外に出ての激しい自慰行為もうここまで出来る女優は世界中でもいないのではないかと思わせる凄さを見せるシャルロット・ゲンズブール ( 20~23 )。

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自分の本性を知った夫が逃げ出すのではないかという思いから罵倒しつつ上から夫を攻める妻のサディズムが炸裂するここまで来たら夫は逃げ出すしかない ( 24~29 )。

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 3章  トリアーの真実

 

妻の束縛はエスカレートしていき砥石器で夫の足を貫き固定するという束縛にまでいたるのですが最終的に夫は妻を殺す事によって妻との関係に終止符を打ちますここに至るまでの過程には過激な描写が行われていて観客の道徳観念を挑発するものであるのは間違いないのですがそれだけしか見なければこの映画からいかなる解釈も引き出す事は出来ないでしょう

 

というのもトリアーが男女関係の崩壊を描いているのは確かだとしてもそれが女性的なるものの恐ろしさ女性が自分ではどうにもする事が出来ない獰猛さによるものだとする視点にトリアーが無意識的に囚われているかもしれないからです

 

何が言いたいかというとトリアーが女性差別主義者だという事ではなく女性 ( ビョーク二コール・キッドマンシャルロット・ゲンズブールなど ) こそがトリアーの作品の中心的役割を果たしている事を考えればトリアー自身が女性的なものの獰猛な本質の中に自分の映画作りの真実を無意識的に求めているかもしれない という事なのです世間体や道徳観念などの枠組みを無視したあるいは挑発した映画作りは既存の形式性によって自分の衝動を表すというより形式性に囚われない衝動をどうにかして表そうという極めて "女性的な振舞い" であるかもしれないのです 〉。

 



〈 English version 〉

 

▶ Thinking philosophically about Lars von Trier's film "Antichrist ( 2009 )".

 

 

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 1. collapsing relations between men and women

 

a. What Lars von Trier is trying to describe in this film is  collapsing relationship between a man and a woman, even collapsing process that puts more emphasis on the woman's side ( *1 ).  The story begins with a slow-motion picture of Charlotte Gainsbourg and Willem Defoe's son falling to his death near their sex-obsessed married couple ( it is also a perverse image that gives the viewer a sense of beauty ), but from the beginning, the existence of the child, the symbol of the couple's connection, is excluded. 

 

b. In other words, they are described not as husband and wife, but as a man and a woman before marriage.  It is an attempt to reveal that even after they get married and have a child, there is still an uncertain and potentially explosive tension lurking in the depths of their relationship that is far from stable. It also shows the problems that occur when two different people, a man and a woman, come together.

 

c. This exposes  that the couple of Charlotte Gainsbourg and Willem Defoe are still a troubled "man and woman" who have not been able to sublimate their relationship into an internalized marriage. The wife, in particular, has deep-seated feelings about this, in this film.

 

d. Because it becomes clear in a later reminiscence scene that during the sex, the wife had actually seen her son climb up to the window. This means that despite the signs that her son was about to fall, she pretended not to see him and was immersed in sex.

 

e. Then what did she feel guilty about? The answer is not regret for accidentally letting the child die, but for her own carnal desire to have sex with husband, thinking for a moment that she didn't care if the child died.

 

 

( *1 )

▶ For more on the collapsive effect as the essence of Trier's films, see the following article.

 

 

 2. The essence of Woman that she loses control of herself.

 

a. So, as is often pointed out, wife did not become mentally ill as a result of the death of our child by a fall, but rather she became dominated by the uncontrollable the essence ( Nature ) of Mother , as expressed in the environmental nature ( Nature ) of the forest of Eden within and beyond herself.  Of course, from this we can also consider the philosophical meaning of the cyclical physiological phenomena of women being connected to nature, which is not found in the male body.  The fact that a woman holds within herself an essence that transcends herself is what I would call her "witchiness".

 

b. "The environmental nature ( Nature )" that surrounds human beings. = "the essence ( Nature )" of women beyond the subject ( 1~13 ) .

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c. Wife makes a reckless request to her husband to hit her during sex. She can't control herself and can't stop running wild ( 14~19 ).

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d. And the outbursts don't stop, she goes out in the open air and masturbates vehemently. Charlotte Gainsbourg shows us that there is no other actress in the world who can do this much ( 20~23 ).

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e. The wife's sadism explodes as she attacks her husband from above while cursing him out of fear that he will run away when he discovers her true nature. The husband has no choice but to run away ( 24~29 ).

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 3. The truth about Trier

 

a. The wife's bondage escalates to the point where she uses a whetstone to pierce her husband's leg and immobilize him, and finally he ends his relationship with his wife by killing her.  The process leading up to this point is described in series of extreme scenes that will definitely provoke the audience's moral sense, but if we only see that, we will not be able to draw any interpretation from this film.

 

b. The reason is that even though Trier is certainly describing the collapse of the relationship between men and women, he may be unconsciously trapped in the perspective that this is due to the horror of Woman, the ferocity that women cannot control.

 

c. What I mean, thinking not that Trier is a misogynist, but that just women ( Bjork, Nicole Kidman, Charlotte Gainsbourg, etc. ) play a central role in his films, he himself may be unconsciously seeking the truth of his filmmaking in the ferocious nature of the Woman. It means that Trier himself may be subconsciously seeking the truth of his filmmaking in the fierce essence of Woman.  Filmmaking that defies or provokes the frameworks of public opinion and morality may be a very "Woman behavior" that somehow tries to express impulses that are not confined by formalities, rather than expressing one's impulses through existing formalities ( End ).

 

▶ 映画『 地獄の黙示録 』( 1979 : directed by フランシス・フォード・コッポラ )を哲学的に考える

 

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映画  『 地獄の黙示録 ( Apocalypse Now ) 』
監督  フランシス・フォード・コッポラ ( Francis Ford Coppola : 1939~ )
公開  1979年
脚本  ジョン・ミリアス ( John Milius : 1944~ )
    フランシス・フォード・コッポラ
出演  マーロン・ブランド ( Marlon Brando : 1924~2004 )      カーツ大佐
    マーティン・シーン ( Martin Sheen : 1940~ )         ウィラード大尉
    ロバート・デュバル ( Robert Duvall : 1931~ )          キルゴア中佐
    フレデリック・フォレスト ( Frederic Forrest : 1936~ )      ジェイ・“シェフ”・ヒックス
    サム・ボトムズ ( Sam Bottoms : 1995~2008 )         ランス・B・ジョンソン
    ローレンス・フィッシュバーン ( Laurence Fishburne : 1961~ ) タイロン・“クリーン”・ミラー

 



 第1章  ジョン・ミリアスとフランシス・F・コッポラ

 『 地獄の黙示録 』、 この製作過程における幾つものアイディアの挿入と脚本の改変によって繋ぎ合わされた作品が注目されたのは奇妙な感じだった。  監督のコッポラをして何を主題にして撮っているのか途中で分からなくなったと言わしめた作品がカンヌ映画祭パルムドールを受賞 ( 1979年 ) してしまったのですから。  それは、 争いの絶えない国家でどこかの政権が樹立されるまで主導権の在処が不安定な様に、 コッポラがこの映画をコントロールするのにどれ程の苦労を味わされたかを察する事が出来る事態だったといえるでしょう。

 

 コッポラが映画化の権利を得る前から、 ジョセフ・コンラッド ( Joseph Conrad :  1857~1924 ) の小説 『 闇の奥 ( 1902 ) 』 を基にしてアイデアを練っていた ( 映画用の脚本を書き始めたのはコッポラが権利を得てから ) ジョン・ミリアスを発端として、 この映画は始まった。  なので基本的にはこの作品はジョン・ミリアスの脚本を骨子としつつコッポラの芸の細かい改変によって出来上がったのですね。  実際に、 この映画は『 闇の奥 』を基本モチーフにしているだけでなく、 原題の『 Apocalypse Now 』、 BGMのドアーズ『 The End 』、 爆撃シーンでのワーグナーワルキューレの騎行 』、 そしてキルゴア中佐のサーフィンシーン、 などの多くの映画ファンの関心を惹いたアイデアが実はコッポラではなくジョン・ミリアスによるのは今日では知られている所です。

 

 しかし、 もし彼がこの映画の監督だったとしたら、 コッポラほどの重厚さを産み出す事は出来なかったのは間違いないでしょう。 ジョン・ミリアスが自分で監督するより、 コッポラの方がジョンのアイデアを生かす演出が出来た事は、 ジョンが監督した映画を観た人であれば納得するはずです ( )。  ジョン・ミリアスの力量では特にジョセフ・コンラッドの 『 闇の奥 』 でも見せ場のひとつでもあるカーツが死ぬ場面の緊張感を再現出来たかどうかは怪しい。  観客にとっても分かりやすい戦争シーンが満載の前半よりも、 いまいちピンとこなくて人気の無い後半のシーンはコッポラでさえ苦労した跡が伺えますからね。

 

 ( )

ジョン・ミリアスによるB級戦争映画についてはこちら。 もっとも彼の中ではB級などではなく、 戦争大作を作ったつもりなのでしょうけど。 

 



 第2章  原作を必要とする映画、そしてその逆も ……

 この記事では、 そのカーツの死をクライマックスとするシーンを中心に考えていきます。  正直、 コッポラの演出は上手くいっているというよりは、 説明足らずで分かりにくいでしょう。  それは映画と原作の小説との形式的違いがその一因でもあるのです。  つまり、 映画は 客観的視線によって支えられるイマージュ であるのに対して、 コンラッドの 『 闇の奥 』 が最も面白くなるのは、 マーロウの 1人称による圧倒的独白 が続く所であり、 それは 主体の中の内的時間とでもいうべきものであって、 可視化されたイマージュには還元されない何か であるのです。  仮にそれを可視化しようとすれば、 "闇" の中でマーロウの声だけが延々と続くという観客には耐え難い結果になるでしょう ( )。  という事で、 クライマックスのシーンについてコッポラは明確な解釈を提示する事が出来ていないので、原作を解釈する事によって補完する必要があります。  それは 映画が原作を必要とするという一方的な関係性ではなく、 原作も映画によって新たな生命を得るという双方性 でもあり、 極めてヴァルター・ベンヤミン的な哲学テーマ ( ) なのです。

 

 なぜこんな事を書くかと言うと、 現在ではポストコロニアル批評による植民地批判の観点でのみコンラッドの 『 闇の奥 』 が語られてしまう傾向 ( 原住民への植民地的主義的描写がいくつかあるのは確かですが ) が強く、 そこでは "小説的なもの" が政治的なものが支配する空間に閉じ込められているからです。  そのような空間では小説はそれ自体を楽しむ事が出来ない、 つまりベンヤミン的視点では 『 闇の奥 』 は新たな生命を得る事が出来ないという事であり、 やがては消え行く傾向に呑まれていく。  そういうベンヤミン的視点に立った時、 『 地獄の黙示録 』 は製作者達の意図を超えて、 コンラッドの 『 闇の奥 』 を現代に甦らせる映画として興味深いものなのです。  ここに、 原作によって映画の解釈を補完する事の意義があるのですね。

 

 ( )

この 客観的視線によるイマージュ主体の内的時間としての独白 こそが、映画と小説との形式的差異を表す対立テーゼだと言えるでしょう。 小説の1人称による独白を映像化しようとする試みはほとんど失敗してしまう。 この形式的差異を考慮する事のない観客にとっては全く面白みを感じないという訳ですね。 その失敗例のひとつが、ジム・トンプスン ( Jim Thompson : 1906~1977 ) によるノワール小説  『 おれの中の殺し屋 ( 1952 : The Killer Inside Me ) 』  を映画化した マイケル・ウインターボトム ( Michael Winterbottom : 1961~ ) の 『 キラー・インサイド・ミー 』 です。 主人公の内的独白の "声" がほぼ失われているものの、サウンドトラックの "音楽性" がそれを補っているこの奇妙な映画については以下の記事を参照。 

 

( * )

哲学者  ヴァルター・ベンヤミン ( Walter Benjamin : 1892 ~ 1940 ) は、 『 複製技術時代の芸術 』 で "オリジナル" の視点から "複製品" について語り ( これをテーゼ A とします )、 『 翻訳者の使命 』 では "翻訳 ( 複製品 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について語っている ( これをテーゼ B とします )。 興味深いことに、AB では視点が逆になっているのです。

 

テーゼ A では、オリジナルが大量工業化社会における複製化に抗う事が出来ないものの、オリジナルは複製品によってこそ、その中に新しい生命を得る ( より多くの人の目に触れる ) とされる。

テーゼ B では、翻訳が原作に忠実である事が翻訳者に課せられた使命とされる。ただし、この忠実性さというのが問題で、ベンヤミンは決して読者に読みやすく翻訳する事が原作への忠実さであるなどという常識的な主張をしている訳ではないのです。 むしろ彼は逐語的な翻訳を望んでいて、読みやすさという視点は最初から廃棄されている。それについて解釈するには、 ジャック・デリダ ( Jacques Derrida : 1930~2004 ) の 『 バベルの塔 』 を参考にしつつ、多くの言語が存在する事自体が言語間の根本的な翻訳不可能性を示しているのを考慮に入れる必要がある。 つまり、逐語的翻訳で明らかになる読みづらさこそが、根本的に翻訳不可能な言語間の隔たりを乗り越えて、 原作が新しい生命を得ようとする際の "唯物的振舞い" である と解釈しなければならないのです。

 

以上の A B を踏まえて、ここで避けるべき過ちは、テーゼ B に依拠して映画は原作に忠実であるべきだという結論です。 そうではなく、少なくとも1人称形式が多用される小説と映画では、その存在形式が違うのだから ( 視線によって支えられるイマージュ 主体の内的時間としての独白 との違い ) 、根本的に原作に忠実である事が出来ない、いや、そこでは忠実さという考え方自体に意味が無い。 むしろ、映画の場合は、翻訳と違って 原作を 自由に解釈すべき なのです。 その結果、生じる原作との隔たり、軋轢、裏切り、などが根本的に移行が不可能な映画と小説との媒体的差異を明らかにし、それを乗り越えて出来た映画にこそ、小説の新しい命が宿ると考えられるのです。

 

つまり、原作  ( 小説 ) の映像化という紋切り型 ( 商業的意味での ) は、複製的な範疇に収まるものなの ( テーゼ A ) ですが、異なる媒体への移行作業である映画化においては解釈の自由性が必要となる のですね。 これこそ映画におけるテーゼ B の変形ヴァージョンとしての新しいテーゼ C"移行媒体物 ( 映画 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について考える というものなのです。

 



 第3章  原作から微妙にずれるコッポラの解釈

 カーツが地獄の恐怖について語りながら死ぬシーンこそ、 この映画のクライマックスと言えるでしょう。  以下 ( 1 ~ 5. ) は原作にはないカーツのセリフ。  地獄の恐怖と向き合い、 それをどうにかしたいという思いが吐露されている。 

 

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 そして死の直前の有名な "地獄だ。地獄の恐怖だ"  のセリフ。  原作では  "The horror! The horror! " ( )

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 さて、 ここで原作を知らずに映画を観た人は、 カーツは死ぬ事を恐れているのだろうかと思うでしょう、 ウィラード大尉が軍の命令によってカーツを殺しに来た事を考え合わせれば。  原作を読んだ人ならば、 そうではない事が分かるのですが、 実はカーツが死を恐れているという解釈は間違っていないのです、 少なくとも映画に関しては。  なぜなら、 それは コッポラ自身が原作から "微妙に" 逸れた解釈を提示した結果 だからです。  端的に言うと、 コッポラは "" "地獄" を同一視している のです。  恐れるべきものは "死" なのであり、 それはジャングルの奥地で増幅され、 カーツを狂わせたとコッポラは考えている。  だから "王殺しという神話的概念" を持込む事によって、 ジャングルの王であるカーツと王を殺しに来たウィラードとを "死" で結びつける三角関係によって話を進めるという脚色を行った訳です。

 

 そして、このコッポラの脚色は、かなり凝ったものになっていますね。 彼はコンラッドの 『 闇の奥 』 を骨子とするというジョン・ミリアスのアイデアに、同じくコンラッド繋がりで  T.S.エリオット ( T.S. Eliot : 1888~1965 ) を接続する事によって表面上は話の流れに一貫性を持たせようとしているのです。 20世紀モダニズムの詩人である T.S. エリオットは、詩作においてコンラッドを参照していた 事で有名なのですが、コッポラはその事を上手く利用している。 エリオットを導入する事によって、彼が参照していたコンラッド ジェームズ・フレイザー ( James Frazer : 1854~1941 ) の 『 金枝篇 』、 ジェシー・ウェストン ( Jessie Weston : 1850~1928 ) 祭祀からロマンスへ ( From Ritual to Romance : 1920 ) 』 を画面中に一気に登場させ、王殺しの脚色を確定させるという教養的荒技を出すのです ( )

 

 カーツが死に至るシークエンスにおいては皆、 コッポラの教養に惑わされて引用物に注目する事に留まり、 それ以上解釈する事を忘れてしまう ( どれほど多くの批評がそうである事か ) のですが、 王殺しの脚色はウィラードがカーツの王国に留まらずに外部に戻るという話によって破綻しているという事に注意すべきでしょう。  なぜなら王殺しの神話は王国の再建・復活というモチーフが必須なのですが、 ウィラードはそういう事に興味を示さないし、 そもそもカーツは "爆弾を投下してすべてをせん滅せよ" と言っているのです。

 

 そうすると、 ここから読み取るべきは、 王殺しの脚色はカーツの死にアクセントを付けるためのアリバイに過ぎず、 コッポラは、 カーツに忍び寄る死の実存主義的恐怖を描いた  というのが本当の所でしょう。 王国を築いたカーツは、 "死" というものが自分の肉体のみならず、 王国を含めた自分の世界そのものの滅亡である事を望んでいた。  それを実現するのが眼前のアメリカ軍の爆撃なのであれば、 コッポラは無慈悲な戦争の中で省みられない個人の世界を、死の実存主義に取り憑かれたカーツを通して浮かび上がらせた と言えるでしょう。

 

 

( )

この "The horror! The horror! " は現在、日本語訳の最新版である光文社古典新訳の 『 闇の奥 』( 2009 ) では "恐ろしい! 恐ろしい!" となっている ( p171 )。 この形容詞的翻訳では、クルツ自身の恐怖の心情を表していると受け止められかねないので、この部分に関しては中野好夫による訳 "地獄だ! 地獄だ!" ( 岩波文庫 1958年 ) の方が適切でしょう。

なぜならクルツは死の間際で、 死ぬ事の恐怖を "感じた" のではなく、 彼が生前から生活してきたジャングルの中で漠然と感じた闇を今まさに "見た" という事を訴えているからです。  彼は "地獄を目撃した" と言っている のですね。  そうすると "The horror! The horror!" は素直に名詞的に "恐怖だ! 恐怖だ!" と訳した方がいいのです。  とはいえ、 光文社古典新訳版の黒原敏行の訳はこれまでの先人の業績も踏まえたものになっているので現状ではこれが妥当なのかなと思います。

 

( )

コッポラはカーツにエリオットの詩 『 うつろな人々 』 を朗読させているのですが、その 『 うつろな人々 』 では 『 闇の奥 』 の一節 "クルツの旦那死んだよ" ( 光文社古典新訳版 p.172 ) が引用されている。  ここでコッポラは "入れ子構造" を導入するというちょっとした遊びを披露しているのですね。  それはつまり、『 闇の奥 』  の後年に書かれた 『 うつろな人々 』 を、『 闇の奥 』 を原作とする 『 地獄の黙示録 』 というさらに後年の映画において導き入れる事によって、『 闇の奥 』 と 『 うつろな人々 』 を 同時代で遭遇させている 訳です。

 



 第4章  映画から原作へ …… クルツの真実

 さて先程、 コッポラの解釈は、 カーツは死を恐れていて "死" と "地獄" を同一視するものだが原作は違うと言いました。  そこではクルツ ( ここでは映画ではカーツ、 原作ではクルツというように既存の呼び方に倣っている ) は死の間際において絶望こそするものの、 明晰さを保ちつつ決して死を恐れてはいないのです。  この意味で ( ) で述べるように、 クルツの最後のセリフ "The horror! The horror! " は "恐怖だ! 恐怖だ!" とする方が適切でしょう。  クルツが、死の間際の深淵の中で覗き見た "恐怖" とは自分が死んで還っていく無の世界などではなく、 それどころか、人間の存在がそこから産まれる "闇の胎動" だったのです。  人間の形象などはまだあるはずもなく、そこから何かが産まれるであろう予兆としての鼓動が闇に響き渡る幻想を、クルツは明晰に "恐怖" と呼んだ のですね。  『 闇の奥 』 をかつての植民地支配への批判の為の "資料" としてしか ( 小説としてではなく ) 読めない近年のポストコロニアル的批判では、 この解釈 ( 闇の胎動 ) について考える事は出来ないでしょう ( エドワード・サイードでさえ )。

 

 以下はクルツの事を語るマーロウ ( 映画ではウィラード役に当る ) の独白。

 俺も深淵を覗き込んだことがある人間だから、クルツのあの眼差しの意味はよくわかる。彼には蝋燭の炎が見えなかったが、その眼は宇宙全体が見えるほど大きく見開かれ、闇の中で鼓動するすべての心臓を見通せるほど鋭かった。彼はいっさいをまとめあげ ー 審判をくだした。『恐ろしい!』と。 

 

光文社古典新訳版  p.173 ~ 174 

 俺が一番よく憶えているのは俺自身が死にそうになった時のことじゃない ー 眼の前が何も形をなさない灰色一色になって、肉体的痛みがみなぎり、もうこの痛みを含めて、どうせ何かも儚いものだと、生きる努力を無造作に投げてしまう境地じゃない。違う! 俺はどうやらクルツが死に際に達した境地を経験してしまったようなんだ。 

 

光文社古典新訳版  p.174

 俺としては、自分がもう少しで口にするところだった人生最後の言葉は、生きる努力を無造作に投げてしまう言葉ではなかったはずだと考えたいところだ。そんなものよりは、クルツの囁きのほうがいい ー ずっといい。あれは一つのことをちゃんと述べていた。数知れない敗北と、恐ろしい行為の数々と、忌まわしい欲望充足という代償によって得られた精神的勝利ではあったが、ともかく一つの勝利だった!

 

光文社古典新訳版  p.174 ~ 175

 

 コンゴの奥地のジャングルは人間存在の源泉の闇と共鳴してクルツの中に正体不明の無意識的衝動として彼を刺激していた。  おそらく、 これこそがクルツの真実であり、 彼に魅了されたマーロウの真実でもあるのです。  最後まで闇の正体を見定めようとしていたクルツの言動を見ると、このコンラッドの 『 HEART OF DARKNESS 』 の邦題は 『 闇の心臓 』 と "逐語的に" 訳す方が相応しいと言えるかもしれません ( 商業的には、今更無理でしょうけど )

 

 それからクルツは、『 ああ、しかし私はまだこれからお前の心臓を絞りあげてやるからな!』と、見えない魔境に向かって声をあげた。 

 

光文社古典新訳版  p.169

 

 

 

▶ 映画『 ローズマリーの赤ちゃん 』( 1968 : directed by ロマン・ポランスキー )を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

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映画  『 ローズマリーの赤ちゃん ( Rosemary's Baby ) 』
監督  ロマン・ポランスキー ( Roman Polanski : 1933~ )
公開  1968 年
原作  アイラ・レヴィン ( Ira Levin : 1929~2007 )
出演  ミア・ファロー ( Mia Farrow : 1945~ )       ローズマリーウッドハウス
    ジョン・カサヴェテス ( John Cassavetes : 1929~1989 )  ガイ・ウッドハウス
    シドニー・ブラックマー ( Sidney Blackmer : 1895~1973 ) ローマン・カスタベット
    ルース・ゴードン ( Ruth Gordon : 1896~1985 )       ミニー・カスタベット
    ラルフ・べラミー ( Ralph Bellamy : 1904~1991 )       サプスティン

 



 

 『 ローズマリーの赤ちゃん 』は主人公のローズマリーが悪魔の子を身篭り、出産してしまうという悪魔主義的モチーフが主題の映画だと受け止められている事がほとんどでしょう。それ以外には、ローズマリーのマタニティブルーによる被害妄想という解釈があるくらいですね。サスペンスホラーの源流とでもいえるこの映画の悪魔主義については、他に任せるとして、ここではローズマリーのマタニティブルーを発端として、夫婦関係が消滅する過程が暗示的に描かれている という方向で解釈を進めていきたいと思います。

 

■ 夫婦関係の消滅といっても、形式的にに離婚していなくとも、相手への信頼や愛情が既に無くなっているという意味での "心理的破綻" を示しているという事です。ただ、この映画ではそれが最初から露骨に示されている訳ではなく ( むしろ仲睦まじい様子が描かれている )、ローズマリーが妊娠の前後から夫への不信を募らせていくのですね。この不信がよく表されているのが、悪魔とのセックスシーンです。夫に不信感を抱きながらも性的なものに抗う事が出来ず、恍惚感を味わうローズマリーが悪魔の幻想を産み出しているといえるでしょう。

 

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■ そして重要なのは、ローズマリーが夫に対して表立って自分の不満をぶつけるのではなく、身篭った子供を守るというアリバイ によって、自分を取り囲む人間関係から逃げ出すのを最初に選択するという事です。妊娠の前後から絡んできた人間関係 ( 色々と口出ししてくる隣のカスタベット夫妻と彼ら側に付く夫 ) よりも、身篭った子供との関係性の方が優先する という訳です。つまり、そこでは新しい生命が宿るという経験が、彼女を規定する、もっと分かりやすく言うなら彼女自身を生まれ変わらせようとしているのです。

 

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■ その事が彼女を不安にさせ、周囲から逃げ出そうとさせたのですが、結局、連れ戻されそこで子供を産む事になってしまう。

 

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■ 子供が死産だったと伝えられ、嘆くローズマリー

 

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■ ローズマリーを慰める夫のガイ。ローズマリーのこれまでの言動をヒステリー性の妄想だとして片付けようとする。ここで注意すべきなのは、この映画が、悪魔主義を隠すべくガイに分析医の診断を語らせる事によって、却って悪魔主義の現実性を浮かび上がらせている、つまり、ローズマリーの疑惑が本当であったというオチ を選んでいるという事です。

 

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■ 通常であればこの種のサスペンスホラーは、主人公の周囲への疑惑は妄想に過ぎなかった、あるいは妄想なのか現実なのか分からない、という形で話を終わらせるのが定番なのでしょうが、この映画は 主人公の妄想が本物であったという現実性を、言い換えると精神分析ジャック・ラカンが言う "現実界" ( 不可能なことが起きるという現実以上に現実的な効果 ) を、オチに持ってきているのです。

 

■ その事が、この映画を単なるサスペンスでもなければ、単なるホラーでもない特殊な映画たらしめている訳なのですが、同時にそれは 夫婦関係の消滅過程が描写されている事を、この映画の隠れた本質にしてしまっている のです。実際に、ローズマリーが子供を捜して悪魔的結社の集会場所に辿りついた時、子供は殺さないように頼んでおいたと言うガイに彼女は唾を吐きかけるのですね。その後、悪魔の相貌の子供に驚きながらも、悪魔主義的連帯の雰囲気の中で育てていく事を決意するのですが、それは夫と子育てをするくらいなら、悪魔的主義的連中と手を結ぶ方がマシという、それこそ悪魔的な選択をしたという意味でもあるのです。

 

■ つまり、最初は夫と悪魔主義的連中から逃げ出す事を選択していたのが、最後には夫を捨てられるのなら彼らと手を結ぶという非情な選択へと移行している訳です。ここには 夫婦関係から母子関係への移行が秘かに描かれている ( A ) のであり、1人の女性の 精神的自立 ( 良い意味でも悪い意味でも ) の過程 でもある ( B ) と言えるでしょう〈 終 〉。

 

( A )

夫婦関係から母子関係への移行についての考察は、『 ローズマリーの赤ちゃん 』にオマージュが捧げられている『 ノイズ ( 1999 )  』について書いたこちらの記事を参照。

 

オマージュという点でいうならば、『 ローズマリーの赤ちゃん 』の監督ロマン・ポランスキーのかつての妻であったシャロン・テートチャールズ・マンソン・ファミリーによって惨殺された事件を描いたダニエル・ファランズの『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』を挙げておきましょう。次の記事を参照。

 

( B )

ミア・ファローは本作が撮影された1968年にフランク・シナトラと離婚している。そして、この映画がサスペンスホラーであるにもかかわらず、今では一部の女性達の間でミア・ファローの髪型 ( C ) やファッション ( D ) に注目して彼女をファッションアイコンとする見方がありますね。つまり、彼女を映画の文脈から切り抜いて象徴的女性にしようとしている訳です。ユニセフ親善大使、ダルフール紛争に対する社会活動、養子の奨励、などのこれまでの彼女の社会的振舞いを考慮に入れると、そこに自立的女性像を見て取る人達がいても不思議ではないという事ですね。

 

( C )

いわゆるピクシーカット。ヘア・スタイリストの先駆けであるヴィダル・サスーンが、この映画に出演する彼女の髪をカットしたのは有名。 ローマの休日 』のオードリー・ヘップバーンや『 悲しみよこんにちは 』のジーン・セバーグも披露している。ジーン・セバーグが同作で演じたセシル役にちなんでセシルカットとも呼ばれる。先程上述した『 ローズマリーの赤ちゃん 』にオマージュを捧げた映画『 ノイズ ( 1999 ) 』に出演したシャーリーズ・セロンもセシルカットにしています。 

 

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 (D )

ここにはこの映画で衣装デザインを担当したアンシア・アルバートの影響が強く出ています。よく観ると、主要登場人物達の服装がやたらとオシャレだなと気付くはずです。本作でミア・ファローはシャネルの2.55 ( バッグの事 ) を使用しているくらいなので。悪魔主義を題材にした映画なのに、登場人物はラグジュアリーな服や小物で装いされているというこのギャップ ( 笑 )。映画製作の舞台裏が垣間見えますね。

 

 

元PANTERA のレックス・ブラウンの手記がヴィニー・ポールへの愛に溢れていた・・・。

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■   2018年6月22日に54歳の若さで亡くなった元PANTERA~DAMAGE PLAN~HELLYEAH のドラマー、ヴィニー・ポールアボット。何人ものミュージシャンが追悼のコメントを出していますが、元メンバーのベーシスト、レックス・ブラウンがローリングストーン誌 ( 英語版 ) に寄せた手記ほど彼への愛情が溢れているものはないでしょう。彼のパンテラ、そしてヴィニーへの思いが痛いほど伝わってくる・・・。

 

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以下の記事は手記の抜粋 ( 私訳 )ですが全文を確認したい方は こちらのURLから。

https://www.rollingstone.com/music/music-news/pantera-bassist-rex-brown-on-vinnie-paul-everybody-wanted-to-play-like-him-696119/

または日本の BURRN! 誌の2018年9月号P38~39にその日本語訳が掲載されていますので、そちらでも確認出来ます ( 意訳されてる箇所がぼちぼちありますが )。

 

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I’ve been devastated, saddened, and shaken, almost beyond words, about the passing of my longtime brother in Pantera, Vincent Paul Abbott.

While I understand and appreciate the desire to hear from me, I have taken my time to collect my thoughts, to begin to process this terrible loss. I’ve chosen to decline the interview requests, because this is not about me. This moment belongs to Vinnie.

I’d like to send out my sincerest and heartfelt condolences to his relatives, to the Pantera family, to his newer family in Hellyeah, and to all of the fans that Vinnie Paul spent his life entertaining. My thoughts and prayers are with every one of you.

 

パンテラで長く兄弟だったヴィンセント・ポール・アボットが立ち去り、俺は打ちのめされ、悲しみ、動揺して、言葉に出来ないでいる。

俺から言葉を聞きたいという願いは理解出来るし、有り難いのだが、俺は自分の考えをまとめ、この残酷な喪失感を埋めるのに時間をかけた。俺は、自分のことではないからインタビューのリクエストは断ることにしていた。この場合はヴィニーのことなんだ ( 注:自分の事を語るように簡単にインタビューを受けることは出来ないという意味 )。

俺は誠心誠意、心からの哀悼を、彼の親族に、Panteraファミリーに、Hellyeahでの彼の新しい家族に、そしてヴィニーポールが生涯に渡って楽しませたファンのみんなに贈りたい。俺の思いと祈りはあんたら一人ひとりと共にある。

 

 

I’m especially heartbroken for Vinnie’s father, Jerry Abbott, who opened his studio and showed us the ropes in the early days. No man should have to bury his sons.

 

初期にスタジオを開き、俺達に手ほどきをしてくれたヴィニーの父、ジェリー・アボットのことを思うと、本当に心苦しい。誰も自分の息子達を埋葬すべきなんかじゃない。

 

 

All I can do is focus on the great times and the brotherhood the four of us shared. 

 

俺に出来ることは俺達4人が共有した偉大な時間と兄弟愛に焦点を合わせることだ。

 

 

In the ’90s, there wasn’t a tighter rhythm section than Vince, Darrell, and myself. Even on our worst night, we could dust you off the stage. Because the three of us had played so many clubs together, so many tunes, we always knew exactly where each other was going to go.

 

90年代、ヴィニー、ダレル、そして俺自身以上にタイトなリズムセクションはいなかった。出来が最悪だった夜でも、俺達はステージ上からあんたらをぶっ飛ばしたはずだ。俺達3人は多くのクラブで、多くの曲を一緒にプレイしていたから、みんな互いにどう出ようとしているか正確にわかっていた。

 

 

I don’t think there’ll ever be chemistry like what the four of us shared again. I’ve been so blessed in so many ways by having them in my life. We were living and breathing each other’s everything for 20 odd years, which just like anything in life, has its difficulties, but nothing major. But even when there was little communication, we still shared tremendous respect.

 

俺達4人が共有したようなケミストリーはもう二度とないだろうと思う。自分の人生に彼らがいたことによって多くの道筋で俺は恵まれた。俺達は20年間、人生における何かとしか言いようがないもの、難しさもあるがそんな事は大して問題にならないもの、つまり互いのすべて、を生き、そして吸っていた。コミュニケーションがわずかな時でも、俺達は変わらず大いなるリスペクトを共有していた。

 

 

When I look back, no matter what, I can honestly say that there were far more ups than downs with Pantera. It was uncanny the way we played together. Once we got into that state, with that black look in our eyes, we were fucking dangerous, man.

 

どんなことにせよ、振り返るとパンテラでは沈むことよりも上がっていくことの方が多かったと正直に言える。俺達が一緒にプレイする仕方は異様だった。俺達は、一端興奮状態に入ると、それも目が黒く見えるくらい ( 注:悪魔であるかのような事の比喩 )、超危険になっていた。

 

 

I’m so grateful to have been around the Abbott brothers, to play some part in their legacy, to share more than half of my life on the road and in the studio with them. And I’m so thankful that Vinnie found a home for his unmistakable groove, some peace and happiness, and a new family with Hellyeah, after the unthinkable tragedy in 2004.

 

俺はアボット兄弟の側にいれたこと、彼らの遺したものにいくらかでも関わったこと、彼らと共にツアーやスタジオで人生の半分以上を共有したこと、に感謝している。2004年の信じられない悲劇 ( 注:ダレルが射殺された事件の事 ) の後、Hellyeahで彼の紛れもないグルーヴのホームを、いくらかの平穏と幸せを、そして新しい家族を、見つけたことを俺はうれしく思う。

 

 

I never thought of myself as anything more than part of the team. That’s the way we all were. It was all about that jam. How many people get to experience something like what we experienced together? Very few.

 

俺は自分のことをチームの一員だとしか考えなかった。俺達みんながそうだった。それがあの集まりについての全てだった。俺達が一緒に経験したようことを得られる人間がどれだけいる?ほとんどいないはずだ。

 

 

At the end of the day, all you can hope is that you gave it your all, ya’ know? Vinnie did. He gave everything he possibly could, as we all did.

 

結局のところ、人は自分が差し出したものこそが、その人が望める全てだったという訳だろ?ヴィニーはそうした。俺達がしたように、彼も出来る限り、全てを差し出した。

 

 

The best way to honor Vinnie is to celebrate his life. He approached drumming, and friendship, with his own brand of perfection. We must remember the great times we shared with him. Rest in peace, Vinnie, and give Dime a big ole’ fashioned Texas style hug from all of us. You made an incredible mark on the world and you were taken from us way too soon. 

 

ヴィニーを称える最良の方法は、彼の人生を祝福することだ。彼は自分流の完璧さでドラミングや友情へのアプローチをした。俺達は彼と共有した偉大な時間を覚えておくべきだ。安らかに眠れ、ヴィニー、そして俺たちみんなからの堂々とした古風なテキサス流のハグをダイムにしてくれ。あんたはこの世に驚くべき足跡を刻み、俺達の前からあまりにも早く連れ去られていった。

 

 

Much love and respect,

Rex.

たくさんの愛とリスペクトを込めて、

レックス

 

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関連記事

 

 

 

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▶ ヒッチコックの映画『 サイコ 』( 1960 ) を哲学的に考える

 

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監督  アルフレッド・ヒッチコック  

公開  1960 年

脚本  ジョセフ・ステファノ

原作  ロバート・ブロック

出演  アンソニー・パーキンス   ( ノーマン・ベイツ )

    ジャネット・リー      ( マリオン・クレイン )

    ジョン・ギャビン      ( サム・ルーミス / マリオンの恋人 )

    ヴェラ・マイルズ      ( ライラ・クレイン / マリオンの妹 )

    マーティン・バルサム    ( アーボガスト / 私立探偵 )

 



 1章  母を自分の中に取り込むノーマン・ベイツ

 

『 サイコ 』においては、マリオン ( ジャネット・リー ) が殺害されるシャワーシーンこそ最も有名なのですが、ここではノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) が殺人行為に至った背景にある "母親との同一化" について焦点を絞って考えていきましょう。とはいえ映画の中で、既に事件についての精神分析が細かく披露されるシーンがあるので、それ以上必要あるのかと思う方もいるかもしれません。しかし、それを下敷きにして別の視点から考える事も可能なので話を進めていきます。

 

警察はノーマン・ベイツ逮捕後、分析医の話を聞いて以下のように説明します。ノーマン・ベイツが母と同一化するきっかけとして、彼が10年前に母とその愛人を殺した事件を挙げている。愛人が出来た母に捨てられると彼が考えたからという。

 

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さて、ここから以下のシーンでの説明には注意する必要があります。

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ノーマンが母の役を振舞うようになった、という説明で抜け落ちているが重要なのは、彼が母の声色を使ってその役に成り切る という事です。もちろん姿を見せない母の声色が私達に聞こえるというのは、ノーマンと母親の組合せに何か怪しい所があると予期させるのに十分な効果があるものなのです。そして私達は母の声に不安を引き立てられる …… つまり、その母の声は普通のものではない、という事に薄々気付くのです。

 

実際は母は既に死んでいてノーマンは1人2役で母の声色を演じていた事にああそういうことかと最終的に思うかもしれませんが、哲学的に考えるにはそこで母の声の不気味さを捨て去るべきではありません。その母の声は私達が聞く以前に、ノーマンが聞いていたものです。それはノーマン自身が話しているにも関わらず、声色を変える事によって他人 ( この場合は母親 ) が話しているかのように錯覚して聞く "1人称の主体の崩壊作用" が含まれているものです ( *1 )。だからこそ私達はその声に不気味さを感じるのです。

 

もちろん母の声の不気味さは精神分析的に母なる超自我のものとして、エディプスコンプレックスに囚われたノーマンを強く規定するというように解釈する事も出来るのですが、その解釈ではシーン11~26.で説明する警察のように無意識的にノーマンを擁護しかねない危険性 ( 母という別人格が犯罪を起こしたという情状酌量 ) に陥る可能性があるでしょう。

 

それの何が危険かというと、ノーマンはエディプスコンプレックスから、別の欲望の回路が作動する "殺人の領域" へと一線を飛び越えてしまっているからです。つまり、母親と愛人、そしてマリオン、アーボガストを殺害したノーマンは "連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としての主体" を秘かに打ち立ててしまっているのです。そこでは エディプスコンプレックスという精神分析解釈が、殺人行為の快楽を隠す "アリバイ" になってしまっている危険性があります。もちろんエディプスコンプレックスが無駄な解釈という事ではなく、当初はそれが妥当なものであっても、ノーマンはそこから殺人の欲望が働く領域へと既に移行してしまっている という訳です。

 

( *1

"1人称の主体の崩壊作用" は、エディプスコンプレックスなどの精神分析的解釈とは違う側面からのアプローチです。一見すると、主体は分裂しているかのように思えるのですが、行為の遂行 ( ここでは殺人行為 ) の点からすると、極めて明晰な意志が基になっており、それは自らのアリバイを常に探している とさえ言えます ( 例えば、複数の人格を有する事によって責任を負う主体である事を放棄し残酷な行為を可能にすること )。

 

この1人称の主体の崩壊作用については、以下の記事でも参照。哲学者ジャック・デリダ"差延" の概念を借りて説明を展開。

 

 



 2章  連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としてのノーマン・ベイツ 

 

精神分析的解釈を逃れて、そのような連続殺人鬼の快楽がほとんど見過ごされている ( *2 ) ところに『 サイコ 』の真の恐ろしさがあると言えますね。それは見えないものであるからこそ『 サイコ 』を 裏から強く規定していた のですが、『 サイコ2 』、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』と続編が出来るにつれ、連続殺人鬼としての本性が露骨に表れ作品の神秘性が失われていった ( *3 ) のは事実でしょう。しかし、それは『 サイコ 』の中にその要素が内包されていた事の証明とも言えますね。

 

母親を隠れ蓑にしたノーマンの殺人鬼振りが仄めかされているシーン32. のノーマンの薄ら笑いは隠れた本性を示す以外の何物でもない。おそらくヒッチコックはノーマンがエディプスコンプレックスから抜け出せない事を示したかったのですが、アンソニー・パーキンスという俳優の "狂気性" がヒッチコックの意図を超えてノーマン・ベイツに快楽殺人者としての資質を備えさせた と解釈出来るでしょう〈 終 〉。

 

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( *2 )

そのような殺人鬼の快楽が上手く隠された映画の例としてクリストファー・ノーランの『 メメント 』を挙げておきましょう。この映画を観たほとんどの人が、自らの記憶障害を利用する主人公レナードの "悪意" に気付かないままでいる。以下の記事を参照。 

 

ノーマンや レナードとは対照的に、殺人鬼の快楽をストレートに告白しているのが、アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』に登場する連続殺人犯のブレア・サリバン。

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 アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

( *3 )

それでも『 サイコ2 』までは一般的な観客への訴求力があると思いますが、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』に至っては完全にマニアックなものになっていますね。

 

 

▶ アンドレイ・タルコフスキーの映画『 ストーカー 』( 1979 )を哲学的に考える

 

 

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監督 : アンドレイ・タルコフスキー  

公開 : 1979 年

脚本 : アルカジイ・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー

 

出演 : アレクサンドル・カイダノフスキー ( ストーカー )

   : アリーサ・フレインドリフ     ( ストーカーの妻 )

   : アナトリー・ソリニーツィン    ( 作家 )

   : ニコライ・グリニコ        ( 教授 )

   : ナターシャ・アヴラモヴァ     ( ストーカーの娘:通称 "猿" )

 

 

映画を哲学的に考える …… もちろん、これは映画鑑賞のひとつの方法に過ぎません。しかし、作品の "分からなさ" を映画という形式につきまとう当然の "何か" であるかのように思うのは違います。"分からない" と言うことに何の抵抗も感じない方は、その "分からなさ" が映画の内容とは関係のない "自分の考えようとしない振舞い" から生まれたものであるに過ぎないことを告白するようなものです ( 映画のせいではないということ )。映画を哲学的に考えるとは、自分の観たものが、たんなる映像の羅列ではなく、まさしくその監督の創造性が具現化されたものとしての映画であったことを自分自身に理解させる行為だといえるでしょう。

 



 1. 人間の象徴としてのストーカー

 

突如現れた "ゾーン" への案内を仕事とする "ストーカー" ( この映画では案内人の意〈 ※1 ) が連れて来た "作家" と "教授" の2人によってゾーンの部屋 ( 願いが叶うといわれる ) の手前で非難されるシーンがあります。今回はこのシーンから考えてみましょう。

 

誰かに悪用される事を恐れ、部屋を爆破しようとする教授と作家に対して憤るストーカー。

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そんなストーカーを非難する作家。

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そして部屋に入ろうとしないストーカーをさらに非難する作家。

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それに対して自分を卑下しながら自己弁護に終始するストーカー。

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ストーカーに対して願いが叶うという部屋の本質を説く作家。

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ストーカーのセリフ ( 1~4.13~24. ) を見ると、彼に宗教色が濃く現れているのが分かりますね。これは意図的なものなのでしょうが、注意しなければならないのが、タルコフスキーはここで宗教批判をしようとしている訳ではないという事です。

 

彼は "宗教的人間" を非難しようとしているのではなく、宗教というイデオロギーを通じて "余りにも人間的なもの" を浮かび上がらせようとしている のですね。これこそタルコフスキーの隠れた哲学的テーマだといえるでしょう。タルコフスキーへの言及のほとんどが "映像表現の凄さ" などに留まっている現状では、その哲学的深みを味わう事は出来ないので、せめてここでは哲学的アプローチによってこの作品を理解しようという訳です。

 

この作品においてストーカーは "余りにも人間的なもの" の象徴になっています。通常の考えだと、ゾーンの部屋に興味を持つ教授と作家こそ人間的なものの象徴であり、部屋に入る事を拒否するストーカーは違うんじゃないのと思うかもしれません。しかし、タルコフスキーは部屋への案内だけに固執して、その中に入ろうとしないストーカーにこそ人間の本質 ( 否定的な意味で ) が現れていると考えるのですね。シーン 9 ~12. の作家のセリフにそれが現れています。

 

願いが叶うといっても、それが本人の無意識的な願望であるという事になれば、ゾーンの部屋とは制御の効かない機械 ( 本人の表面的な願いを裏切るので ) のようなものでしかない。教授と作家はその事を理解したのですが、最悪な事にストーカーはその事に薄々気付いているにも関わらず、宗教的情熱でもって自らを正当化しようとする ( 13 ~24. )。ここには "余りにも人間的なもの" の盲目性が現れているといえるでしょう。

 

ゾーンから帰ってきたストーカー。相変わらずというか、さらに頑なになった気がする。

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 2. " ゾーン" から "家族" へ

 

ゾーンからの帰還後は、ストーカーはそれまでの 教授と作家との3人組 から抜け出て、妻と娘との3人組 へと帰っていきます。つまり、ゾーンを巡る舞台は、ストーカー、教授、作家、の "人間関係" を描いたものから、ストーカー、妻、娘、の "家族関係" へと移行しているのですね。そう、お気付きのように、ここではゾーンそれ自体は 人間関係と家族関係を描くのに必要な要素 に過ぎず、ゾーンの秘密など何の問題にはならない。ゾーンに何らかの秘密があるかのようなSF的詮索にはタルコフスキーは何の興味もないのです ( まあストルガツキー兄弟の原作にもその秘密はないのですけど )。このようなSF的設定を媒介にしたタルコフスキーの人間関係の描写については『 惑星ソラリス ( 1972 ) 』も同様です〈 ※2 〉

 

ストーカーの妻が夫について語る場面。注意が必要な所です。

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もし、これを妻による夫の擁護として家族関係の中でのストーカーの救済だと "誤解" してしまうと、タルコフスキーの隠れた狂気性を見落とす事になる ( 実際、タルコフスキーを魂の救済者のように誤解する人は多い〈 ※3 〉 )。彼はあくまで "余りにも人間的なもの" の批判的描写を冷徹に行っているのであり、そのために家族関係というものを切り捨てるどころか、そこで何が起こっているのかを見極めようとさえしているのです。

 

その結末として彼は、ストーカーの娘の超能力開花の場面 ( テーブル上のグラスを念力で動かす ) を描く事によって、家族関係を含む "余りにも人間的なもの" の不気味さを強調している のです ( そういう解釈でなければ最後の場面は理解出来ない程の異質性を放っている )。詩的映像表現とそれを裏切るかのような暴力的な哲学性との二律背反的な同居こそ、タルコフスキーの恐るべき作家性を示しているといえるでしょう。

  

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〈 ※1 〉

stalk の元々の意味は、敵や獲物にそっと忍び寄るという事。なので stalker とは獲物に忍び寄る人の意。ストルガツキー兄弟の原作では、ゾーンに存在する様々な物を違法に漁って売り飛ばす者達の事を指すので意味は合うが、タルコフスキーの映画ではゾーンへの案内人になっているので意味に違和感が生じる。もちろんこれは彼が原作を好きなように脚色している事の結果。

 

※2

惑星ソラリス 』( 1972年 ) について書いた当ブログの記事を参照。タルコフスキーの映画における哲学的手法は以前から変わりないことが分かります。 

 

※3 〉

そのような見方は、宗教色が顕著になる1980年代のタルコフスキー作品『 ノスタルジア 』『 サクリファイス 』から現れたもの。つまりソ連からの亡命後ですね。それまでの作品には、宗教的要素はありながらも、それに取り込まれない哲学性が際立っていた。そういう意味で『 ストーカー 』はその分岐点にある作品だったといえます。1980年代のタルコフスキー的視点からすると、『 ストーカー 』は魂の救済的作品ということになるのでしょうが、前作の『 惑星ソラリス 』から続く視点では、宗教色に抗う哲学的狂気性が描かれている という事になるでしょう。

 

僕個人的な考えでは後者の "哲学性" によって『 ストーカー 』を考えるべきだと思いますね。いや、『 ストーカー 』だけでなく、『 ノスタルジア 』や『 サクリファイス 』でさえそう考えるべきでしょう。魂の救済的視点では、『 ストーカー 』のラスト ( どう見ても異様な娘の超能力が開花するシーン ) を神的なものの降臨などとというとんでもない擬似宗教的解釈が出現する危険性があるのです ( 実際、よく分からずにそう解釈する人もいる )。

 

ランド・ラビッチの映画『 ノイズ 』( 1999 ) を哲学的に考える

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公開 : 1999年

監督 : ランド・ラビッチ

出演 : ジョニー・デップ   ( スペンサー・アーマコスト )

   : シャーリーズ・セロン ( ジリアン・アーマコスト )

 

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この記事は『 ノイズ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることをせずに抽象的な説明に否定的な反応をする方は、別の場所に行くべきでしょう。そのような反応は、知性へのヒステリーという愚かな紋切型でしかないのですから。実際は、この記事は全く気軽に愉しむべきものです。ここでは、誰かが物事を抽象的に考えることを止めたりしないし、気の済むまで考える自由もあるのですから、思考することそれ自体を、何処までも享楽すべきなのです。

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 1. SF映画と見せかけて、実はSFではないサスペンスカルト映画

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f:id:mythink:20210212192015j:plain この映画、公開当時はジョニー・デップシャーリーズ・セロンが主演しているという意味ではメジャーっぽい扱いだった。そして、宇宙空間での作業中に何らかの事故を経て地球に帰還したジョニー・デップ ( スペンサー・アーマコスト役 ) に妻のシャーリーズ・セロン ( ジリアン・アーマコスト役 ) が不信感を抱くというストーリーがSFっぽさを予感させるものだったけど、宇宙のシーンはごくわずか。SFメジャー性を裏切るサスペンスホラー作品であり、監督のランド・ラヴィッチも代表作がほとんどない事を考えると、この作品をカルト映画と言っても差し支えないでしょう。

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   2. 『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968年 ) 』へのオマージュ

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画の邦題をなぜ『 ノイズ 』にしてしまったのかと思いましたね。たしかに映画中にノイズ ( おそらく宇宙人との交信を意味する ) は出てくるけど、シャーリーズ・セロンが『 ローズマリーの赤ちゃん 』のミア・ファローのショートヘアを明らかに真似ていたり、悪魔の子 ( 『ノイズ 』では宇宙人の子 ) を身篭るというストーリーを考慮に入れるなら、 ローズマリーの赤ちゃん ( Rosemary's Baby ) 』に倣った原題通りの『 宇宙飛行士の妻 ( The Astronaut's Wife ) 』にすべきだったでしょう。そうすれば、この映画が『 ローズマリーの赤ちゃん 』へのオマージュであるというという事で話題性をもっと上げる事も出来たのに

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ちなみに、『 ローズマリーの赤ちゃん 』にはミア・ファローの夫役でジョン・カサヴェテスが出演していますが、『 ノイズ 』にはジョニー・デップの同僚の宇宙飛行士アレックス・ストレック役で、ジョン・カサヴェテスの息子であるニック・カサヴェテスが出演しているのは偶然ではないかもしれませんね。

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 3. いくつかのシーンf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   アレックス・ストレック ( ニック・カサヴェテス ) の妻ナタリー ( ドナ・マーフィー ) が自らの妊娠を宇宙人の子の受胎だと知って感電自殺したように、ジリアン ( シャーリーズ・セロン ) が自殺するのを阻止するスペンサー ( ジョニー・デップ )

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 感電するスペンサー。ジリアンは椅子の上に逃げることで回避。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain スペンサーの身体から離れてジリアンの方に移動する宇宙人の憑依態。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 宇宙人の乗っ取り完了。悪人顔になるジリアン。

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 4. 夫婦関係から母子関係への移行f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画を哲学的に解釈するなら、緊張を孕む不安定な夫婦関係から、夫を排除する母子の信頼関係 ( 正確に言うなら、子は夫の代理であり、その子に対する母の一方的な信頼 ) への移行が無意識的に描かれているといえるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   人は恋愛関係においては相手のリアルな他者性を感じる事はないが ( 恋愛の幻想に溺れているので )、夫婦関係において社会的生活 ( 経済性、周囲との人間関係など ) を経てすぐ側のパートナーのリアルな他者性をいやでも味わう事になり、それは相手への耐え難さに行き着く事になる。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この意味で、『 ノイズ 』における宇宙人とは、妻の立場からの夫の他者性への嫌悪を最も象徴的に示すもの なのです。妻は妊娠における他者の受胎に最初は抵抗があるものの、やがて精神的な同化作業による受容れと、夫への精神的縁切りへ向かわせるという彼女の主体化がモチーフとして描かれている訳です。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   このことは、社会構造の中で、同じ家族でありながら 夫婦関係に対立するものとしての母子関係が家族関係を規定する力を持っている 事を示すといえるでしょう。そしてその母子関係の発端とは、妻の夫の他者性に対する異和感であり、自分という主体に固執する上での防御ともいえるのですね。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   もちろん、『 ノイズ 』がオマージュを捧げている『 ローズマリーの赤ちゃん 』も同じように解釈する事が可能でしょう。ただし、『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968年 )  』にミア・ファローの夫役で出演しているジョン・カサヴェテスが後年、監督をした『 こわれゆく女 ( 1974年 ) 』で、バラバラになりそうな家族関係の中での夫婦の縁の切れなさを描き切った のは興味深いことです、『 ローズマリーの赤ちゃん 』の撮影時にミア・ファローフランク・シナトラと離婚した事を考えれば。カサヴェテスは言っています、

 

 

僕が思うに・・・今日の男女の間には根源的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『こわれゆく女』) の中で、根源的な敵意ではなくて、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ

 

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   『 ローズマリーの赤ちゃん 』についてはこちらの記事を参照。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   母子関係の最悪なものを描いたのがアルフレッド・ヒッチコックの有名な作品『 サイコ 』( 1960 ) ですね。以下の記事を参照。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ジョン・カサヴェテス監督の『 こわれゆく女 』( 1974 ) については、こちらの記事を参照。とにかくカサヴェテスの女性への洞察には驚かされるものがあります。そこには精神分析的な客観視などではなく、女と共に生きていこうとする男の強い意志があるからでしょう。

 

 

 

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