〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

元PANTERA のレックス・ブラウンの手記がヴィニー・ポールへの愛に溢れていた・・・。

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■   2018年6月22日に54歳の若さで亡くなった元PANTERA~DAMAGE PLAN~HELLYEAH のドラマー、ヴィニー・ポールアボット。何人ものミュージシャンが追悼のコメントを出していますが、元メンバーのベーシスト、レックス・ブラウンがローリングストーン誌 ( 英語版 ) に寄せた手記ほど彼への愛情が溢れているものはないでしょう。彼のパンテラ、そしてヴィニーへの思いが痛いほど伝わってくる・・・。

 

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以下の記事は手記の抜粋 ( 私訳 )ですが全文を確認したい方は こちらのURLから。

https://www.rollingstone.com/music/music-news/pantera-bassist-rex-brown-on-vinnie-paul-everybody-wanted-to-play-like-him-696119/

または日本の BURRN! 誌の2018年9月号P38~39にその日本語訳が掲載されていますので、そちらでも確認出来ます ( 意訳されてる箇所がぼちぼちありますが )。

 

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I’ve been devastated, saddened, and shaken, almost beyond words, about the passing of my longtime brother in Pantera, Vincent Paul Abbott.

While I understand and appreciate the desire to hear from me, I have taken my time to collect my thoughts, to begin to process this terrible loss. I’ve chosen to decline the interview requests, because this is not about me. This moment belongs to Vinnie.

I’d like to send out my sincerest and heartfelt condolences to his relatives, to the Pantera family, to his newer family in Hellyeah, and to all of the fans that Vinnie Paul spent his life entertaining. My thoughts and prayers are with every one of you.

 

パンテラで長く兄弟だったヴィンセント・ポール・アボットが立ち去り、俺は打ちのめされ、悲しみ、動揺して、言葉に出来ないでいる。

俺から言葉を聞きたいという願いは理解出来るし、有り難いのだが、俺は自分の考えをまとめ、この残酷な喪失感を埋めるのに時間をかけた。俺は、自分のことではないからインタビューのリクエストは断ることにしていた。この場合はヴィニーのことなんだ ( 注:自分の事を語るように簡単にインタビューを受けることは出来ないという意味 )。

俺は誠心誠意、心からの哀悼を、彼の親族に、Panteraファミリーに、Hellyeahでの彼の新しい家族に、そしてヴィニーポールが生涯に渡って楽しませたファンのみんなに贈りたい。俺の思いと祈りはあんたら一人ひとりと共にある。

 

 

I’m especially heartbroken for Vinnie’s father, Jerry Abbott, who opened his studio and showed us the ropes in the early days. No man should have to bury his sons.

 

初期にスタジオを開き、俺達に手ほどきをしてくれたヴィニーの父、ジェリー・アボットのことを思うと、本当に心苦しい。誰も自分の息子達を埋葬すべきなんかじゃない。

 

 

All I can do is focus on the great times and the brotherhood the four of us shared. 

 

俺に出来ることは俺達4人が共有した偉大な時間と兄弟愛に焦点を合わせることだ。

 

 

In the ’90s, there wasn’t a tighter rhythm section than Vince, Darrell, and myself. Even on our worst night, we could dust you off the stage. Because the three of us had played so many clubs together, so many tunes, we always knew exactly where each other was going to go.

 

90年代、ヴィニー、ダレル、そして俺自身以上にタイトなリズムセクションはいなかった。出来が最悪だった夜でも、俺達はステージ上からあんたらをぶっ飛ばしたはずだ。俺達3人は多くのクラブで、多くの曲を一緒にプレイしていたから、みんな互いにどう出ようとしているか正確にわかっていた。

 

 

I don’t think there’ll ever be chemistry like what the four of us shared again. I’ve been so blessed in so many ways by having them in my life. We were living and breathing each other’s everything for 20 odd years, which just like anything in life, has its difficulties, but nothing major. But even when there was little communication, we still shared tremendous respect.

 

俺達4人が共有したようなケミストリーはもう二度とないだろうと思う。自分の人生に彼らがいたことによって多くの道筋で俺は恵まれた。俺達は20年間、人生における何かとしか言いようがないもの、難しさもあるがそんな事は大して問題にならないもの、つまり互いのすべて、を生き、そして吸っていた。コミュニケーションがわずかな時でも、俺達は変わらず大いなるリスペクトを共有していた。

 

 

When I look back, no matter what, I can honestly say that there were far more ups than downs with Pantera. It was uncanny the way we played together. Once we got into that state, with that black look in our eyes, we were fucking dangerous, man.

 

どんなことにせよ、振り返るとパンテラでは沈むことよりも上がっていくことの方が多かったと正直に言える。俺達が一緒にプレイする仕方は異様だった。俺達は、一端興奮状態に入ると、それも目が黒く見えるくらい ( 注:悪魔であるかのような事の比喩 )、超危険になっていた。

 

 

I’m so grateful to have been around the Abbott brothers, to play some part in their legacy, to share more than half of my life on the road and in the studio with them. And I’m so thankful that Vinnie found a home for his unmistakable groove, some peace and happiness, and a new family with Hellyeah, after the unthinkable tragedy in 2004.

 

俺はアボット兄弟の側にいれたこと、彼らの遺したものにいくらかでも関わったこと、彼らと共にツアーやスタジオで人生の半分以上を共有したこと、に感謝している。2004年の信じられない悲劇 ( 注:ダレルが射殺された事件の事 ) の後、Hellyeahで彼の紛れもないグルーヴのホームを、いくらかの平穏と幸せを、そして新しい家族を、見つけたことを俺はうれしく思う。

 

 

I never thought of myself as anything more than part of the team. That’s the way we all were. It was all about that jam. How many people get to experience something like what we experienced together? Very few.

 

俺は自分のことをチームの一員だとしか考えなかった。俺達みんながそうだった。それがあの集まりについての全てだった。俺達が一緒に経験したようことを得られる人間がどれだけいる?ほとんどいないはずだ。

 

 

At the end of the day, all you can hope is that you gave it your all, ya’ know? Vinnie did. He gave everything he possibly could, as we all did.

 

結局のところ、人は自分が差し出したものこそが、その人が望める全てだったという訳だろ?ヴィニーはそうした。俺達がしたように、彼も出来る限り、全てを差し出した。

 

 

The best way to honor Vinnie is to celebrate his life. He approached drumming, and friendship, with his own brand of perfection. We must remember the great times we shared with him. Rest in peace, Vinnie, and give Dime a big ole’ fashioned Texas style hug from all of us. You made an incredible mark on the world and you were taken from us way too soon. 

 

ヴィニーを称える最良の方法は、彼の人生を祝福することだ。彼は自分流の完璧さでドラミングや友情へのアプローチをした。俺達は彼と共有した偉大な時間を覚えておくべきだ。安らかに眠れ、ヴィニー、そして俺たちみんなからの堂々とした古風なテキサス流のハグをダイムにしてくれ。あんたはこの世に驚くべき足跡を刻み、俺達の前からあまりにも早く連れ去られていった。

 

 

Much love and respect,

Rex.

たくさんの愛とリスペクトを込めて、

レックス

 

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関連記事

 

 

 

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▶ ヒッチコックの映画『 サイコ 』( 1960 ) を哲学的に考える

 

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監督  アルフレッド・ヒッチコック  

公開  1960 年

脚本  ジョセフ・ステファノ

原作  ロバート・ブロック

出演  アンソニー・パーキンス   ( ノーマン・ベイツ )

    ジャネット・リー      ( マリオン・クレイン )

    ジョン・ギャビン      ( サム・ルーミス / マリオンの恋人 )

    ヴェラ・マイルズ      ( ライラ・クレイン / マリオンの妹 )

    マーティン・バルサム    ( アーボガスト / 私立探偵 )

 



 1章  母を自分の中に取り込むノーマン・ベイツ

 

『 サイコ 』においては、マリオン ( ジャネット・リー ) が殺害されるシャワーシーンこそ最も有名なのですが、ここではノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) が殺人行為に至った背景にある "母親との同一化" について焦点を絞って考えていきましょう。とはいえ映画の中で、既に事件についての精神分析が細かく披露されるシーンがあるので、それ以上必要あるのかと思う方もいるかもしれません。しかし、それを下敷きにして別の視点から考える事も可能なので話を進めていきます。

 

警察はノーマン・ベイツ逮捕後、分析医の話を聞いて以下のように説明します。ノーマン・ベイツが母と同一化するきっかけとして、彼が10年前に母とその愛人を殺した事件を挙げている。愛人が出来た母に捨てられると彼が考えたからという。

 

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さて、ここから以下のシーンでの説明には注意する必要があります。

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ノーマンが母の役を振舞うようになった、という説明で抜け落ちているが重要なのは、彼が母の声色を使ってその役に成り切る という事です。もちろん姿を見せない母の声色が私達に聞こえるというのは、ノーマンと母親の組合せに何か怪しい所があると予期させるのに十分な効果があるものなのです。そして私達は母の声に不安を引き立てられる …… つまり、その母の声は普通のものではない、という事に薄々気付くのです。

 

実際は母は既に死んでいてノーマンは1人2役で母の声色を演じていた事にああそういうことかと最終的に思うかもしれませんが、哲学的に考えるにはそこで母の声の不気味さを捨て去るべきではありません。その母の声は私達が聞く以前に、ノーマンが聞いていたものです。それはノーマン自身が話しているにも関わらず、声色を変える事によって他人 ( この場合は母親 ) が話しているかのように錯覚して聞く "1人称の主体の崩壊作用" が含まれているものです ( *1 )。だからこそ私達はその声に不気味さを感じるのです。

 

もちろん母の声の不気味さは精神分析的に母なる超自我のものとして、エディプスコンプレックスに囚われたノーマンを強く規定するというように解釈する事も出来るのですが、その解釈ではシーン11~26.で説明する警察のように無意識的にノーマンを擁護しかねない危険性 ( 母という別人格が犯罪を起こしたという情状酌量 ) に陥る可能性があるでしょう。

 

それの何が危険かというと、ノーマンはエディプスコンプレックスから、別の欲望の回路が作動する "殺人の領域" へと一線を飛び越えてしまっているからです。つまり、母親と愛人、そしてマリオン、アーボガストを殺害したノーマンは "連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としての主体" を秘かに打ち立ててしまっているのです。そこでは エディプスコンプレックスという精神分析解釈が、殺人行為の快楽を隠す "アリバイ" になってしまっている危険性があります。もちろんエディプスコンプレックスが無駄な解釈という事ではなく、当初はそれが妥当なものであっても、ノーマンはそこから殺人の欲望が働く領域へと既に移行してしまっている という訳です。

 

( *1

"1人称の主体の崩壊作用" は、エディプスコンプレックスなどの精神分析的解釈とは違う側面からのアプローチです。一見すると、主体は分裂しているかのように思えるのですが、行為の遂行 ( ここでは殺人行為 ) の点からすると、極めて明晰な意志が基になっており、それは自らのアリバイを常に探している とさえ言えます ( 例えば、複数の人格を有する事によって責任を負う主体である事を放棄し残酷な行為を可能にすること )。

 

この1人称の主体の崩壊作用については、以下の記事でも参照。哲学者ジャック・デリダ"差延" の概念を借りて説明を展開。

 

 



 2章  連続殺人鬼 ( シリアルキラー ) としてのノーマン・ベイツ 

 

精神分析的解釈を逃れて、そのような連続殺人鬼の快楽がほとんど見過ごされている ( *2 ) ところに『 サイコ 』の真の恐ろしさがあると言えますね。それは見えないものであるからこそ『 サイコ 』を 裏から強く規定していた のですが、『 サイコ2 』、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』と続編が出来るにつれ、連続殺人鬼としての本性が露骨に表れ作品の神秘性が失われていった ( *3 ) のは事実でしょう。しかし、それは『 サイコ 』の中にその要素が内包されていた事の証明とも言えますね。

 

母親を隠れ蓑にしたノーマンの殺人鬼振りが仄めかされているシーン32. のノーマンの薄ら笑いは隠れた本性を示す以外の何物でもない。おそらくヒッチコックはノーマンがエディプスコンプレックスから抜け出せない事を示したかったのですが、アンソニー・パーキンスという俳優の "狂気性" がヒッチコックの意図を超えてノーマン・ベイツに快楽殺人者としての資質を備えさせた と解釈出来るでしょう〈 終 〉。

 

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( *2 )

そのような殺人鬼の快楽が上手く隠された映画の例としてクリストファー・ノーランの『 メメント 』を挙げておきましょう。この映画を観たほとんどの人が、自らの記憶障害を利用する主人公レナードの "悪意" に気付かないままでいる。以下の記事を参照。 

 

ノーマンや レナードとは対照的に、殺人鬼の快楽をストレートに告白しているのが、アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』に登場する連続殺人犯のブレア・サリバン。

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 アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

( *3 )

それでも『 サイコ2 』までは一般的な観客への訴求力があると思いますが、『 サイコ3 』、『 サイコ4 』に至っては完全にマニアックなものになっていますね。

 

 

▶ アンドレイ・タルコフスキーの映画『 ストーカー 』( 1979 )を哲学的に考える

 

 

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監督 : アンドレイ・タルコフスキー  

公開 : 1979 年

脚本 : アルカジイ・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー

 

出演 : アレクサンドル・カイダノフスキー ( ストーカー )

   : アリーサ・フレインドリフ     ( ストーカーの妻 )

   : アナトリー・ソリニーツィン    ( 作家 )

   : ニコライ・グリニコ        ( 教授 )

   : ナターシャ・アヴラモヴァ     ( ストーカーの娘:通称 "猿" )

 

 

映画を哲学的に考える …… もちろん、これは映画鑑賞のひとつの方法に過ぎません。しかし、作品の "分からなさ" を映画という形式につきまとう当然の "何か" であるかのように思うのは違います。"分からない" と言うことに何の抵抗も感じない方は、その "分からなさ" が映画の内容とは関係のない "自分の考えようとしない振舞い" から生まれたものであるに過ぎないことを告白するようなものです ( 映画のせいではないということ )。映画を哲学的に考えるとは、自分の観たものが、たんなる映像の羅列ではなく、まさしくその監督の創造性が具現化されたものとしての映画であったことを自分自身に理解させる行為だといえるでしょう。

 



 1. 人間の象徴としてのストーカー

 

突如現れた "ゾーン" への案内を仕事とする "ストーカー" ( この映画では案内人の意〈 ※1 ) が連れて来た "作家" と "教授" の2人によってゾーンの部屋 ( 願いが叶うといわれる ) の手前で非難されるシーンがあります。今回はこのシーンから考えてみましょう。

 

誰かに悪用される事を恐れ、部屋を爆破しようとする教授と作家に対して憤るストーカー。

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そんなストーカーを非難する作家。

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そして部屋に入ろうとしないストーカーをさらに非難する作家。

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それに対して自分を卑下しながら自己弁護に終始するストーカー。

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ストーカーに対して願いが叶うという部屋の本質を説く作家。

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ストーカーのセリフ ( 1~4.13~24. ) を見ると、彼に宗教色が濃く現れているのが分かりますね。これは意図的なものなのでしょうが、注意しなければならないのが、タルコフスキーはここで宗教批判をしようとしている訳ではないという事です。

 

彼は "宗教的人間" を非難しようとしているのではなく、宗教というイデオロギーを通じて "余りにも人間的なもの" を浮かび上がらせようとしている のですね。これこそタルコフスキーの隠れた哲学的テーマだといえるでしょう。タルコフスキーへの言及のほとんどが "映像表現の凄さ" などに留まっている現状では、その哲学的深みを味わう事は出来ないので、せめてここでは哲学的アプローチによってこの作品を理解しようという訳です。

 

この作品においてストーカーは "余りにも人間的なもの" の象徴になっています。通常の考えだと、ゾーンの部屋に興味を持つ教授と作家こそ人間的なものの象徴であり、部屋に入る事を拒否するストーカーは違うんじゃないのと思うかもしれません。しかし、タルコフスキーは部屋への案内だけに固執して、その中に入ろうとしないストーカーにこそ人間の本質 ( 否定的な意味で ) が現れていると考えるのですね。シーン 9 ~12. の作家のセリフにそれが現れています。

 

願いが叶うといっても、それが本人の無意識的な願望であるという事になれば、ゾーンの部屋とは制御の効かない機械 ( 本人の表面的な願いを裏切るので ) のようなものでしかない。教授と作家はその事を理解したのですが、最悪な事にストーカーはその事に薄々気付いているにも関わらず、宗教的情熱でもって自らを正当化しようとする ( 13 ~24. )。ここには "余りにも人間的なもの" の盲目性が現れているといえるでしょう。

 

ゾーンから帰ってきたストーカー。相変わらずというか、さらに頑なになった気がする。

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 2. " ゾーン" から "家族" へ

 

ゾーンからの帰還後は、ストーカーはそれまでの 教授と作家との3人組 から抜け出て、妻と娘との3人組 へと帰っていきます。つまり、ゾーンを巡る舞台は、ストーカー、教授、作家、の "人間関係" を描いたものから、ストーカー、妻、娘、の "家族関係" へと移行しているのですね。そう、お気付きのように、ここではゾーンそれ自体は 人間関係と家族関係を描くのに必要な要素 に過ぎず、ゾーンの秘密など何の問題にはならない。ゾーンに何らかの秘密があるかのようなSF的詮索にはタルコフスキーは何の興味もないのです ( まあストルガツキー兄弟の原作にもその秘密はないのですけど )。このようなSF的設定を媒介にしたタルコフスキーの人間関係の描写については『 惑星ソラリス ( 1972 ) 』も同様です〈 ※2 〉

 

ストーカーの妻が夫について語る場面。注意が必要な所です。

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もし、これを妻による夫の擁護として家族関係の中でのストーカーの救済だと "誤解" してしまうと、タルコフスキーの隠れた狂気性を見落とす事になる ( 実際、タルコフスキーを魂の救済者のように誤解する人は多い〈 ※3 〉 )。彼はあくまで "余りにも人間的なもの" の批判的描写を冷徹に行っているのであり、そのために家族関係というものを切り捨てるどころか、そこで何が起こっているのかを見極めようとさえしているのです。

 

その結末として彼は、ストーカーの娘の超能力開花の場面 ( テーブル上のグラスを念力で動かす ) を描く事によって、家族関係を含む "余りにも人間的なもの" の不気味さを強調している のです ( そういう解釈でなければ最後の場面は理解出来ない程の異質性を放っている )。詩的映像表現とそれを裏切るかのような暴力的な哲学性との二律背反的な同居こそ、タルコフスキーの恐るべき作家性を示しているといえるでしょう。

  

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〈 ※1 〉

stalk の元々の意味は、敵や獲物にそっと忍び寄るという事。なので stalker とは獲物に忍び寄る人の意。ストルガツキー兄弟の原作では、ゾーンに存在する様々な物を違法に漁って売り飛ばす者達の事を指すので意味は合うが、タルコフスキーの映画ではゾーンへの案内人になっているので意味に違和感が生じる。もちろんこれは彼が原作を好きなように脚色している事の結果。

 

※2

惑星ソラリス 』( 1972年 ) について書いた当ブログの記事を参照。タルコフスキーの映画における哲学的手法は以前から変わりないことが分かります。 

 

※3 〉

そのような見方は、宗教色が顕著になる1980年代のタルコフスキー作品『 ノスタルジア 』『 サクリファイス 』から現れたもの。つまりソ連からの亡命後ですね。それまでの作品には、宗教的要素はありながらも、それに取り込まれない哲学性が際立っていた。そういう意味で『 ストーカー 』はその分岐点にある作品だったといえます。1980年代のタルコフスキー的視点からすると、『 ストーカー 』は魂の救済的作品ということになるのでしょうが、前作の『 惑星ソラリス 』から続く視点では、宗教色に抗う哲学的狂気性が描かれている という事になるでしょう。

 

僕個人的な考えでは後者の "哲学性" によって『 ストーカー 』を考えるべきだと思いますね。いや、『 ストーカー 』だけでなく、『 ノスタルジア 』や『 サクリファイス 』でさえそう考えるべきでしょう。魂の救済的視点では、『 ストーカー 』のラスト ( どう見ても異様な娘の超能力が開花するシーン ) を神的なものの降臨などとというとんでもない擬似宗教的解釈が出現する危険性があるのです ( 実際、よく分からずにそう解釈する人もいる )。

 

ランド・ラビッチの映画『 ノイズ 』( 1999 ) を哲学的に考える

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公開 : 1999年

監督 : ランド・ラビッチ

出演 : ジョニー・デップ   ( スペンサー・アーマコスト )

   : シャーリーズ・セロン ( ジリアン・アーマコスト )

 

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この記事は『 ノイズ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることをせずに抽象的な説明に否定的な反応をする方は、別の場所に行くべきでしょう。そのような反応は、知性へのヒステリーという愚かな紋切型でしかないのですから。実際は、この記事は全く気軽に愉しむべきものです。ここでは、誰かが物事を抽象的に考えることを止めたりしないし、気の済むまで考える自由もあるのですから、思考することそれ自体を、何処までも享楽すべきなのです。

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 1. SF映画と見せかけて、実はSFではないサスペンスカルト映画

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f:id:mythink:20210212192015j:plain この映画、公開当時はジョニー・デップシャーリーズ・セロンが主演しているという意味ではメジャーっぽい扱いだった。そして、宇宙空間での作業中に何らかの事故を経て地球に帰還したジョニー・デップ ( スペンサー・アーマコスト役 ) に妻のシャーリーズ・セロン ( ジリアン・アーマコスト役 ) が不信感を抱くというストーリーがSFっぽさを予感させるものだったけど、宇宙のシーンはごくわずか。SFメジャー性を裏切るサスペンスホラー作品であり、監督のランド・ラヴィッチも代表作がほとんどない事を考えると、この作品をカルト映画と言っても差し支えないでしょう。

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   2. 『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968年 ) 』へのオマージュ

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画の邦題をなぜ『 ノイズ 』にしてしまったのかと思いましたね。たしかに映画中にノイズ ( おそらく宇宙人との交信を意味する ) は出てくるけど、シャーリーズ・セロンが『 ローズマリーの赤ちゃん 』のミア・ファローのショートヘアを明らかに真似ていたり、悪魔の子 ( 『ノイズ 』では宇宙人の子 ) を身篭るというストーリーを考慮に入れるなら、 ローズマリーの赤ちゃん ( Rosemary's Baby ) 』に倣った原題通りの『 宇宙飛行士の妻 ( The Astronaut's Wife ) 』にすべきだったでしょう。そうすれば、この映画が『 ローズマリーの赤ちゃん 』へのオマージュであるというという事で話題性をもっと上げる事も出来たのに

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ちなみに、『 ローズマリーの赤ちゃん 』にはミア・ファローの夫役でジョン・カサヴェテスが出演していますが、『 ノイズ 』にはジョニー・デップの同僚の宇宙飛行士アレックス・ストレック役で、ジョン・カサヴェテスの息子であるニック・カサヴェテスが出演しているのは偶然ではないかもしれませんね。

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 3. いくつかのシーンf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   アレックス・ストレック ( ニック・カサヴェテス ) の妻ナタリー ( ドナ・マーフィー ) が自らの妊娠を宇宙人の子の受胎だと知って感電自殺したように、ジリアン ( シャーリーズ・セロン ) が自殺するのを阻止するスペンサー ( ジョニー・デップ )

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 感電するスペンサー。ジリアンは椅子の上に逃げることで回避。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain スペンサーの身体から離れてジリアンの方に移動する宇宙人の憑依態。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 宇宙人の乗っ取り完了。悪人顔になるジリアン。

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 4. 夫婦関係から母子関係への移行f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画を哲学的に解釈するなら、緊張を孕む不安定な夫婦関係から、夫を排除する母子の信頼関係 ( 正確に言うなら、子は夫の代理であり、その子に対する母の一方的な信頼 ) への移行が無意識的に描かれているといえるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   人は恋愛関係においては相手のリアルな他者性を感じる事はないが ( 恋愛の幻想に溺れているので )、夫婦関係において社会的生活 ( 経済性、周囲との人間関係など ) を経てすぐ側のパートナーのリアルな他者性をいやでも味わう事になり、それは相手への耐え難さに行き着く事になる。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この意味で、『 ノイズ 』における宇宙人とは、妻の立場からの夫の他者性への嫌悪を最も象徴的に示すもの なのです。妻は妊娠における他者の受胎に最初は抵抗があるものの、やがて精神的な同化作業による受容れと、夫への精神的縁切りへ向かわせるという彼女の主体化がモチーフとして描かれている訳です。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   このことは、社会構造の中で、同じ家族でありながら 夫婦関係に対立するものとしての母子関係が家族関係を規定する力を持っている 事を示すといえるでしょう。そしてその母子関係の発端とは、妻の夫の他者性に対する異和感であり、自分という主体に固執する上での防御ともいえるのですね。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   もちろん、『 ノイズ 』がオマージュを捧げている『 ローズマリーの赤ちゃん 』も同じように解釈する事が可能でしょう。ただし、『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968年 )  』にミア・ファローの夫役で出演しているジョン・カサヴェテスが後年、監督をした『 こわれゆく女 ( 1974年 ) 』で、バラバラになりそうな家族関係の中での夫婦の縁の切れなさを描き切った のは興味深いことです、『 ローズマリーの赤ちゃん 』の撮影時にミア・ファローフランク・シナトラと離婚した事を考えれば。カサヴェテスは言っています、

 

 

僕が思うに・・・今日の男女の間には根源的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『こわれゆく女』) の中で、根源的な敵意ではなくて、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ

 

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   『 ローズマリーの赤ちゃん 』についてはこちらの記事を参照。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   母子関係の最悪なものを描いたのがアルフレッド・ヒッチコックの有名な作品『 サイコ 』( 1960 ) ですね。以下の記事を参照。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ジョン・カサヴェテス監督の『 こわれゆく女 』( 1974 ) については、こちらの記事を参照。とにかくカサヴェテスの女性への洞察には驚かされるものがあります。そこには精神分析的な客観視などではなく、女と共に生きていこうとする男の強い意志があるからでしょう。

 

 

 

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▶ ブライアン・シンガーの映画『 ユージュアル・サスペクツ 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

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監督 : ブライアン・シンガー  
公開 : 1995 年
脚本 : クリストファー・マッカーリー
出演 : ガブリエル・バーン      ( ディーン・キートン
   :ケヴィン・スペイシー      ( ヴァーバル・キント )
   : ベニチオ・デル・トロ     ( フレッド・フェンスター )
   : スティーヴン・ボールドゥイン  ( マイケル・マクマナス )
   : ケヴィン・ポラック      ( トッド・ホックニー
   : ピート・ポスルスウェイト    ( コバヤシ )
   : チャズ・パルミンテリ     ( デヴィッド・クイヤン捜査官 )

 



 1章  カイザー・ソゼの謎

 

この映画のラストでは左側の手足が不自由な詐欺師のヴァーバル・キントこそが謎の黒幕カイザー・ソゼであったと分かりますが、哲学的にはカイザー・ソゼの正体は誰なのかという見方よりも、カイザー・ソゼという "虚像" がいかにして出現したのか という考え方が哲学的には重要でしょう。

 

ヴァーバル・キント ( Verbal・Kint ) という名前から分かる通り、"おしゃべりな ( Verbal )" キントは、巧みな話術でカイザー・ソゼの事をクイヤン捜査官に語りますが、カイザー・ソゼとは事件の黒幕としてのおしゃべりな自分をドイツ語とトルコ語で言い換えたものなのですね。"Kaiser" はドイツ語で "皇帝"、"Soze" はトルコ語で "おしゃべり"、を意味するので、黒幕としての自分を "おしゃべりな皇帝" と称したブラックジョークな訳です。

  

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勘のいい人はここでカイザー・ソゼのみならずヴァーバル・キントという名前もおそらく偽名に過ぎないんだなと気付くでしょう。そうすると、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントであるという言い方自体に意味が無い事が分かりますね。両方とも偽名なのだから。

 

確かに私達は映画のストーリーを把握する上で、便宜上、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントだと理解するしかないのですが、両方とも偽名であるならば、カイザー・ソゼ ( ヴァーバル・キントでもいいのですが ) なる人物の正体には、近づけていない のです。その人物の名前は本人にしか分からないのですから ( 少なくとも映画の中には出てこない )。

 

それでもストーリーの中で出てくる幾つかのカイザー・ソゼのエピソードによって、彼の本当の名前は分からなくても、私達は彼の本質に近づく事は出来ているのではないかと思う人もいるでしょう。例えばカイザー・ソゼが対立する組織に妻と娘を人質に捕られても彼女らを先に撃ち殺し、相手に恐怖を与えるというエピソード ( ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクがよく引用するもの ) がありますが、それも正直どこまで本当か分からないですね。

 

これもキントが目の前のクイヤン捜査官にカイザー・ソゼの存在を印象付けるために話している事を考慮に入れるならば、全くの嘘ではないにしろ、話を盛っていると考える方が自然でしょう。個人的にはその話が全くの嘘である方が面白いですけどね。

 



 2章    実在の効果を生む言葉の魔力

 

今一度言うなら、カイザー・ソゼあるいはヴァーバル・キントを名乗る男は誰なのかという問いは本質的なものではないという事です。おそらく彼が真実を語ることはないでしょうから。せいぜいのところ、また偽名と嘘を語るくらいです。そうすると、ここで有効な哲学的問いとは、1章で既に述べたように、カイザー・ソゼという虚像がいかにして出現したのか、という事になる訳です。

 

この問いを考えるには、カイザー・ソゼを名乗る男が 自らの名前において何をしようとしているのかを哲学的に考える必要があるでしょう。通常、名前とは特定の対象を名指すものであり、それによって特定の対象を周囲のその他の対象から区別する事が出来るようになりますね。いわゆる "言葉の名指し機能" です。もっと端的に言うなら "固有名詞" という事になります。

 

その名指し機能は、通常の状態だと、特定の対象が判別されるような "狭い生活圏" でしか機能していません。通常の状態というのは、例えば A という人物が周囲の人達から具体的な特性を持ったものとして、認識されていなければならないという事です。A は誰々の家の息子だという具合に。その時に初めて言葉の名指し機能が、名指しされる対象の特性と共に機能するのです。

 

しかし、そこには "言葉の流通機能" が不足しています。それでは名前は狭い生活圏でしか機能せず、その生活圏から外れてしまえば意味が無くなってしまう。A という名前が挙がったとしても、一体それが誰を名指ししているか分からないから です。私達の大部分はそのような狭い生活圏の中で名指し機能による自己同一性を保持して一生を過ごします。

 

ところが一部の有名人 ( 様々な分野における ) は "言葉の流通機能" によってその名前を広める のです。そのためには狭い生活圏における名指し機能による自己同一性を脱する必要があります。狭い地域における属性の "直接的認識 ( 名指し機能 )" は、言葉と映像による "間接的属性 ( 流通機能 )" に取って代わられ拡散していくのです。

 

ここは大切なところです。というのも "同じ名前" でも、限定的な生活圏においては "固有名詞" として機能するけど、より広い圏域においては固有名詞ではなく、"記号表現"  として流通して機能するのです。おそらく哲学や言語学を学んでいる人でも 名前=固有名詞 でしかないと思い込んでいる人もいるでしょうが、『 ユージュアル・サスペクツ 』はそんな思い込みを裏切ってくれます。固有名詞は、記号表現に対して常に優位に立っている訳ではないのです。ここで起こっている現象は 固有名詞の記号表現化 といえるものでしょう。

 

"記号" ではなく、"記号表現" としたのは、フェルディナン・ド・ソシュール言語学以来、記号表現 ( シニフィアン ) / 記号内容 ( シニフィエ ) という言語学的区分による組合せがかつて現代思想を席巻し、ラカン精神分析で頂点に達した 記号表現 ( シニフィアン ) を念頭に置いているからです。最近ではその事を問題にする人はほとんどいませんが、そういう状況だからこそ、記号表現 / 記号内容 の概念を道具として使い自由に考える余地が残されているといえるのです。

 

カイザー・ソゼと呼ばれる男は、自分を名指す固有名詞としてカイザー・ソゼを使っている訳ではありません。誰がカイザー・ソゼなのか皆知らないし、彼自身も自分を特定させるつもりもありません。彼は、その名前を記号表現として流通させているのです。それはただたんに浮遊しているイメージとしての記号表現ではなく、恐怖というソゼの内実を伴う記号表現として機能するのです。

 

その事を図式を使って考えていきましょう。まずは記号表現 / 記号内容 の関係性とそれをカイザー・ソゼに当てはめた場合です ( 図 A )。

 

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一見すると分かりやすい図式に思えますが、この 図 A には問題があります。というのも記号表現 / 記号内容 の組合が、暗黙の内に了承されたものになっているからです。私達は図式の 下段の記号内容の方を中心だと無意識的に思い込んでいる記号内容を名指すために記号表現を探して適用しなければならないという訳です。

 

しかし、これでは名指しが機能する狭い圏域の話になってしまい、そこでは当然、カイザー・ソゼと名指される事になる男の正体は知れ渡っていてる。つまり、カイザー・ソゼの謎めいた神秘さは出現する事はない。

 

カイザー・ソゼの存在を理解するには、記号表現を対象物を示す言葉としてではなく、それ自体としてある言葉、つまり、口から発せられた言葉の物質性 として考え直す必要があります。一端それが名前として発せられ流通すれば、後は不足する内実性 ( 記号内容を含めた ) を引き寄せるようになる。ここでは、名指しを待つ記号内容ではなく、流通する言葉としての記号表現がまず最初にあるのであり、その後に記号内容や内実性、そしてそれらを語る者、などの属性が引き寄せられるという "逆転現象" が起こるのです。

 

これを再び図式によって考えてみましょう。お分かりのように、通常の 記号表現 / 記号内容 の1対1対応の組合せは名指し機能に基づいた恣意的なものなので、カイザー・ソゼの存在を説明出来ない。なのでカイザー・ソゼという記号表現が様々な属性を引き連れて流通していく謎を図式で示しますね ( 図 B )。

 

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図 B において大切なのが、3. の『 ただし彼は自らを記号内容として正体をさらす事はしない 』です。この他の属性と違う点が、自らの存在を神秘的にしている訳です。逆に言うと、名指しの対象として自らの存在を明らかにしなくても自らの名前を記号表現として流通させる事が出来る という事です。これがカイザー・ソゼの秘密といえるでしょう。

 

これらは、『 ユージュアル・サスペクツ 』が公開された1995年の当時より、インターネット社会 ( 特にSNS ) が発達した現在においてこそ、より理解出来るといえるでしょう。ある人間に対する噂や中傷が何の確証も無く ( 確証がありそうな雰囲気だけで ) 拡散するし、何らかのニュースでさえ、当事者しか分からない詳細が省かれてると、偏った受け止め方をされ、非難が起こるという具合ですからね。そのように記号表現とは 人間を幻惑させ、行動を誘発するという意味で、人間主体を越え出て私達を規定する謎めいたもの だと言えます。そして、そこに人間の〈 欲望 〉が絡んでいるのは間違いないのです ( )。

 

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〈 関連記事 〉 

 

▶ ポール・バーホーベンの映画『 ELLE 』( 2016年 ) を哲学的に考える

 

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公開  2016 年
監督  ポール・バーホーベン
原作  フィリップ・ディジャン
出演  イザベル・ユペール   ( ミシェル・ルブラン )
    ジュディット・マール  ( イレーヌ・ルブラン )
    ジョナ・ブロケ     ( ヴァンサン・ルブラン )
    ロラン・ラフィット   ( パトリック )
    ヴィルジニー・エフィラ ( レベッカ
    クリスチャン・ベルケル ( ロベール )
    アンヌ・コンシニ    ( アンナ )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



  1章  B級映画監督ポール・バーホーベン

 

ポール・バーホーベンといえばエロティックかつグロテスクなシーンを得意とし面白い作品 (ロボコッ プ』、『 トータル・リコール 』など ) を創ったかと思えばこき下ろされるような作品 (ショーガール ) を創るという意味でB級映画監督という印象を抱いている人がほとんどではないでしょうか

 

これほど評価の浮き沈みが激しい監督も珍しいこの安定感の無さは何に起因するのでしょうこれを単に映画監督としての力量が足らないからだと結論付けてしまっては話は終わるのですが彼の作品にはそう思わせない何かがあります

 

それについて考えるにはやはり彼特有のエログロを強調したシーンの意味を分析する必要があるでしょう彼の作品のエログロシーンが定番なのは何故かバーホーベンはどのような意図でそのシーンを使うのかその問いについて考えていく事がバーホーベンの映画の特徴を明らかにするのに繋がるでしょう

 



 2章    ストーリーが二転三転する『 ELLE 』

 

  ブラックブックなど比較的エログロシーンが押さえられた最近の作品から一転して『 ELLE 』にはエロどころか批判を浴びかねないイザベル・ユペール ( ミシェル・ルブラン役 ) がレイプされるシーンが登場します。 

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ここでこれまでの彼のエログロシーン ( *1 ) について考えてみるとそれは明らかに観客の性的嗜好や嫌悪感などのリアクションを掻き立てる機能を果たしていてバーホーベンの意図的な操作の結果な訳なのですねでも間違えないでほしいのはバーホーベン自身が欲情的であるからエログロシーンを撮るのではありませんそこには性的嗜好を刺激して観客の心情を操作しようとする無意識的試みに取り憑かれたバーホーベンの制作スタイルが現れている訳です ( *2 )

 

さてこれまでのエログロシーンならば観客の欲望を刺激してそこで終わりだったのですが、『 ELLE 』のレイプシーンはその先に行ってしまっているのですつまりレイプシーンは仮に欲情する者がいたとしても大多数はそのシーンに道徳的批判の声を挙げてしまうという事です

 

しかしレイプシーンに対する道徳的非難これをバーホーベンが予測していないはずがないいや正確に言うならば道徳的非難を引き起こすレイプシーンを見せながらもすぐにそれを打ち消すようなミシェル ( イザベル・ユペール ) の振舞いを演出するのですレイプというトラウマになりかねない出来事にショックを受けた女性がそこから立ち直るというような紋切型の話とはバーホーベンは縁を切る事によって観客が普通の反応 ( ここでは道徳的非難 ) が出来ないように操作しているという訳です。 ではレイプされた後のミシェルの振舞いとはどのようなものか見ていきましょう

 

護身用グッズを買うミシェルしかし小型の斧はもう護身どころか殺傷能力があるのでこの時点で彼女にはレイプ犯への復讐心が芽生えているのが読み取れる・・・あくまで上辺だけですけど。 

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レストランでの友人たちとの食事のシーンレイプされた事実をあけすけに語り彼らを引かせてしまう。 

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そして最も重要なのはミシェルがレイプされた後警察に通報しなかった事 ですこの映画のストーリーを設定する上でその事はレイプされた事よりも大切な要素になっているのですそれは不謹慎だという感情レベルでの反応以前に観客の通常の解釈と反応を斥けるあらゆるストーリー設定が可能になる条件 であると言えるでしょう

 

事実警察に通報しなかった事 ( これを便宜上 A とします ) によりそこに 幾つ物の話を差込んで接続する ( 以下の ①~ ) 事 をバーホーベンはやってのけています

 

 A それ自体はまず過去の父親の犯罪を巡って警察への不信感があるという話によってまず固定される

 

  A の背景には犯罪者の父の存在自体がミシェルのトラウマになっていて男自体への憎しみがあるのでミシェルが自分自身で犯人に復讐しようとする意図が隠されているかのように話が進む

 

  の話を強化するかのようにミシェルは度々襲われるレイプのフラッシュバック的妄想の中で犯人に抵抗し傷を負わせるシーンが差し込まれる

 

 しかしミシェルは再び襲われた時に犯人が向かいの家に住むパトリックだと分かったにも関わらずそのまま放っておくこの流れの伏線としては近所付き合いのあるパトリックに恋愛感情を抱いていたミシェルの振舞いがありますパトリックを挑発したり自宅から向かいの家のパトリックを見ながら自慰行為をするなど

 

 

から ③ で積重ねられたトラウマによる復讐行為という筋書きは によってあっさりと覆されますこれについてはミシェルはレイプのトラウマより彼女の中の欲望が勝ってしまったんだ と解釈するしか出来ないでしょうただしこの解釈ではA の時点で 実はミシェルは再びレイプされる事を望んでいたかもしれない ( バーホーベンならそう考えていても不思議ではない ) というとんでもない帰結が導きだされる可能性がありますね

 

そこでバーホーベンはそれをはっきり言明せず曖昧なままにする ( 正面切って主張するにはスキャンダラスであるので ) ためにひねりを加えた次の展開に移行します

 

事件の後パトリックの妻だったレベッカが引っ越すシーン

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驚くべきはレベッカは夫のパトリックがミシェルを襲っていた事を知っていた のですレベッカの設定は敬虔なキリスト教徒だったのですが彼女の発言 ( シーン10. ) によってその背景に 夫の病的な性癖 ( レイプすることでしか女性とSEXすることが出来ない ) に悩んでいた 事が推測出来るというオチが付くのです

 

レベッカ "彼に応えてくれて感謝している" というセリフは一見するとミシェルの立場を考えない身勝手なものに思えるかもしれませんがレベッカは日常近所付合いでのミシェルのパトリックへの恋愛感情に気付いていたしだからこそレイプも彼の性癖を分かった上での "ゲーム的行為" であると考えていたと解釈出来る訳ですね

 

つまりここでのレベッカミシェルの隠された欲望の真実を明らかにする役割を果たしているのですだからこの時のミシェルは自分の本質を見抜かれてしまったとして普通ならば驚きや気恥ずかしさを表現しそうなものですがそうはならない

 

そこで終わらせないためにバーホーベンは事をさらに曖昧すべく冗長なひねりを加えます物語の核心を担うはずのミシェルとパトリックの組合せからラストにおいてミシェルとアンナの女性同士の組合せを登場させるのです ( *3 )それによって ミシェルの欲望の対象がパトリックからアンナへ移行している 事を示そうとします

 

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もちろんこの女性同士の組合せはレズビアンに他ならないのですがこのミシェルの振舞いはスキャンダラスというよりはほとんど支離滅裂なものになっていますね果たしてこのミシェルとアンナの組合せを登場させる必要があったのでしょうか映画の前半にはミシェルとアンナがかつてレズビアンであった事を仄めかすシーンがありバーホーベンは最初からこのラストのオチを考えていたようですが散漫な印象になっている事は否めないでしょう何せこのラストのシーン ( 22~26. ) においてすら2人が仲睦まじくし過ぎているという事で控えめな演技をさせたとインタビューで語っていたくらいですから

 

結果としてバーホーベンはより曖昧な方向に進む事を自ら選択しているのでありその曖昧さはストーリーを練り上げる上で必要な複雑さから来ているというよりは観客に解釈させず宙吊りにする事を好む彼の欲望から来ているといえるのです

  

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( *1 )

スターシップトゥルーパーズ ( 1998 )のグロシーンブレイン・バグスに脳みそを吸い取られるザンダー ( パトリック・マルドーン )

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( *2 )

氷の微笑 ( 1992 ) シャロン・ストーンが足を組みかえる有名なシーン。 

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( *3 )

氷の微笑 ( 1992 )にもシャロン・ストーン演じるキャサリン・トラメルとレイラニ・サレル演じるロキシーレズビアンの組合せが登場する。 

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 3章    バーホーベンの映画の本質である倒錯的形式

 

ようやくここから本題に入れるのですが以上で述べてきたようにバーホーベンの映画の特徴はエログロシーンと二転三転するストーリーの組合せという事で大方説明が付くでしょうそしてその組合せが上手く機能すれば面白い作品 (ブラックブック ) になるし上手くいかなければ駄作になるという具合です

 

しかしエログロシーンと転調的ストーリーとは結局の所観客の目を引く事と観客の解釈を拒否する事 ( 事実、バーホーベンはインタビューで映画を解釈する事に否定的な発言をしている ) でありその観客の鑑賞スタイルを操作しようとする製作スタイルにこそバーホーベンの欲望が潜んでいるといえます

 

このバーホーベンの欲望について考える上で "倒錯" の概念を参照しましょう倒錯といっても一般的には "正常な状態から逸脱した" という意味ですが精神分析的に考えると通常なら性器における直接行為で得られる快楽が性器に辿りつく前の別の箇所あるいは状況における行為によって得られてしまう事を意味します ( まあこの考え自体が精神分析において古いことは否めませんが )

 

もちろんそのままではここでの展開に適用出来ないので哲学的に考え直す必要がありますね映画を製作する人間は通常は自分の考え方や主張なりを提示する事に満足を見出すのでしょうがバーホーベンは違う彼は観客に対して提示したい考えや主張などのメッセージ性が最初にあるのではなくまず 観客の視線や反応解釈などの他者の即物性 を想定してそれを 裏切る映画を作る事に快楽を見出している

 

だから彼の映画にはいつもエログロシーンが登場して観客の反応や欲望を誘導しようとするし観客の解釈を裏切るべく二転三転するストーリー ( 時として不必要だと感じる時があるくらい ) を展開させるのです

 

つまり観客の反応や解釈などの他者の即物性を先取りしている事こそがバーホーベンのスタイルの本質になっている のであり通常ならば映画の根幹である脚本はそんな彼のスタイルの中に溶かされていくそのような 偏執的な先取りが既に本質になっている彼のスタイルは倒錯的である ( 気を付けなければいけないのは彼の人間性が倒錯的なのではなく、映画の製作スタイルが倒錯的であるという事 ) と言う他はなく映画自体が倒錯的形式で構成されてしまうのは必然的であると言えるでしょう ( )

 

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   このテーゼの内容を掘り下げる必要があるでしょう。手紙が彷徨うとはどういう事であるのか? 受取られても逃げ去るのはなぜなのか? それは手紙の行程そのものに関わる問題でもある。手紙は一体何処に向かうのか? 宛名人に向かってなのか? 確かにそうでしょう。しかしそれは宛名人が最終の目的地である事を意味するのか? もしそうであるならば、"最終" とはいかなる意味でそうであるのか? 手紙の行程がそこで全て終わる事を意味するのか?

 

b.   確かに象徴的身振りとしては受取りは差出しから始まる手紙の行程を完了させるものです。しかし、その身振りは手紙の内容に同意するにせよ、しないにせよ、 受容れ( 受取りとは違う )を一旦保留する事を意味する行為でもある のです。とりあえず受取りました、あなたの気持ちは受け止めておきますという事であり、そこから先どうするかは受取人の自由なのです。

 

c.   そのような自由の行使権は、受取人が既に手紙の行程の一部として巻き込まれている事に対する抵抗でもあります。手紙における宛名の署名が受取人本人ではなく差出人によって先取りされているという受取人の自由の剥奪に対して、受取人は自分の自由を行使して対応・対抗する のです。受取人が手紙を受容れる ( これはもちろん手紙の内容に全面的に同意する事を意味するとは限らない ) にせよ、手紙の受容れを拒否する ( 自分を手紙の行程の最終目的地としての受取人になるのを否定する事 ) にせよ、それは受取人の裁量に委ねられている。

 

d.   そしてそのような余地があるという事は、手紙の受取りが行程の最終目的地とする見方が局地的・限定的である事を意味しているのではないでしょうか。手紙の受取りが差出人の行為に賭けられたものを全て返済するものであるというのは困難であるのではないでしょうか。というのは 差出しという行為は手紙の内容を含む差出人の固有圏域の唐突な送り出しであり、それに対して受取人はいかなる態度で対応すべきなのか即座に判断する事は困難である からです。それがプライヴェートなもの ( 愛の告白など ) であればなおさらそうです。

 

e.   それ故に、一度動き出した差出人の固有圏域は、受取人がそれをすべて受容れる事の困難さによって、受取を最終地点としてそこに留まる事が出来ずに通過する。それが手紙が彷徨うという事の意味なのです。そのような自らを受取ってもらえない事の報われなさは悲劇であるのでしょうか。いや、そうではありません。その報われなさは確かに差出人を気落ちさせるかもしれないが、それこそが個人の 固有圏域 がある事を示しているのです。

 

f.   それは報われなさという否定性から展開される弁証法的論理ではありません。報われなさの身振りとしての彷徨いは、幽霊が取り囲むかのように、個人の固有圏域に触れる。いかなるものによっても定義する事が困難な( なぜなら個人という言い方でも十分に個人的でないから )個人の固有圏域は、何処にも届く事なく、承認される事なく、見向きもされなくても、実在する。ただし彷徨いながらであるが。それは終わる事のない差出しとして人々の間を通過し漂流する、そうする事しか出来ないのです。なぜならいかなるものも個人の人生を定義出来ないし、いかなるものも個人の世界を知らないから、手紙を差出す本人以外は。しかし、ここで言う本人とは僕であり、あなたであり、すべての者の事であるのです〈 終 〉。