〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

記憶に残したいカルト映画:シドニー・ポラックの『 ザ・ヤクザ 』( 1974年 )

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監督 : シドニー・ポラック

公開 : 1974  

原案 : レナード・シュレイダー

脚本 : ポール・シュレイダー、 ロバート・タウン

製作総指揮 : 俊藤浩滋

 

出演 : 高倉健        ( 田中健 ) 

   ロバート・ミッチャム  ( ハリー・キルマー )

   : ブライアン・キース   ( ジョージ・タナー ) 

   : ハーブ・エデルマン   ( オリヴァー・ウィート )

   : 岸恵子         ( 田中英子 ) 

   岡田英次        ( 東野 )

   ジェームス繁田     ( 田中五郎 "健の兄" )

   郷 鍈治        ( スパイダー "五郎の息子" ) 

   待田京介        ( 加藤二郎 )

 

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『 ザ・ヤクザ ( The Yakuza ) 』 というタイトルが示すように、田中健 ( 高倉健 )とハリー・キルマー ( ロバート・ミッチヤム )という違う国の男同士の関係をヤクザ (というより任侠と言った方がいいでしょう ) の世界における "義理" という概念で現し、その世界を垣間見せようとする映画です。今回はこの映画について考えていきましょう。

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  1.   任侠イデオロギーとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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a. 『 ザ・ヤクザ 』に対するよくある反応は、監督がアメリカのシドニー・ポラックだという事だけで、外国人が作った割りには良く出来ているとか、所々で過剰な演出はあるものの任侠というものの扱いが結構分かっているとか、いう所でしょう。もちろん、このような見方は日本的なものを扱う外人に対する日本人の見方です。外人だけど結構、日本の事分かってるね、という感じですね。

 

b.   しかし、この外人が日本人であれば、日本的なものを扱う日本人という訳で、日本の事を分かっているのは当然だという事になりますね。何が言いたいかというと、この映画の製作に当って、シドニー・ポラックが自分色に染める事が出来た部分は僅か ( シドニー・ポラックの映画を見たことがある人なら、この映画には僅かしか彼のカラーを見出せないと思うはず ) であり、大部分が日本の、いや東映の任侠的イデオロギーで占められているという事です。

 

c.   その東映任侠的イデオロギーの中心にいたのが、東映任侠映画製作の筆頭であった俊藤浩滋 ( この映画においては製作総指揮 ) と、原案がレナード、脚本がポールの、日本通のシュレイダー兄弟であり、撮影場所もまさに仁侠映画にふさわしい東映京都撮影所であった ( すべての撮影という事ではないですが ) という訳です。この任侠的イデオロギーの要素の強調を果たして、シドニー・ポラックが望んでいたかどうかは微妙な所だと思われますね。この部分に関しては、やはり、俊藤浩滋がその豪腕でもって、シュレイダー兄弟と共に任侠カラーを強く主張した ( ポラック、あるいは配給先のワーナーブラザーズに対して ) と考えるべきでしょう。『 ザ・ヤクザ 』というポラックなら付けそうにもない露骨なタイトル、高倉健さんを印象付けようとする田中健という配役名、などにその一端が現れていますね。

 

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  .  フィルム・ノワールとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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a.   ではポラックは、どのような映画を撮りたかったのか、という仮定の話を考えてみるのも 面白いでしょう。ここで参考になるのが、もう1人の脚本家のロバート・タウンです。ロバート・タウンといえば、ロマン・ポランスキーチャイナタウン ( 1974 ) ブライアン・デ・パルマの『 ミッションインポッシブル ( 1996 )などで脚本を担当しているように、フィルム・ノワールやサスペンスものが得意ですね。特にフィルム・ノワールに特徴的な登場人物のモチーフである探偵、そしてファム・ファタール ( 運命の女 ) は、この映画に当てはまるといえるでしょう。

 

b.   フィルム・ノワールの虚無感を体現する探偵役のロバート・ミッチャムファム・ファタール ( 運命の女 ) としての岸恵子。ここにロバート・タウンを起用したポラックの狙いがあったするのは的外れではないでしょう。

 

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c.   ファム・ファタールの要素に、ポラック的手法である人間 ( 男女 ) 関係を交差させる事 ( 代表的な所では、彼の映画である『 愛と哀しみの果て 』。ここでは田中花子を巡る夫の健とハリーの関係 ) によって物語を進行させるという特徴を加える事によって彼なりのフィルム・ノワール的映画を作ろうとしたのだと今となっては言えますね。

 

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3.   任侠映画でもフィルムノワールでもなく・・・カルト映画としての『 ザ・ヤクザ 』

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a.   もちろんポラックの試みは中途半端なものになっているのは言うまでもないのですが、その要因は東映の任侠イデオロギーとの折合いが上手くいってない、いやそれどころか押し切られているという所にあるのはお分かりでしょう。ポール・シュレイダーとかは、ポラックのストーリー構築の手法 ( 先に述べた人間関係の交差による物語の進行 ) が理解出来ずに、ラブストーリーを導入しようとしていると非難したくらいですから。しかしポラックによる田中花子を巡る健とハリーの複雑な関係性がなかったら、この映画は単なる海外向けの東映任侠映画でしかなく、ポラックが監督をする意味は全く無かったでしょう。

 

b.   そんな状況でもポラックは、東映任侠イデオロギーと折合いを付けるべく、田中健とハリー・キルマーの関係を、ハリーが健に感じた負い目 ( 健を花子から遠ざけ、彼の娘までを死なせてしまった事 ) を清算すべく指詰めするという形で描き上げたというのは、仕方のない帰結だったのかもしれませんね。

目の前で健の指詰めを見ておきながら知らないふりをしても、日本の流儀の異文化性を浮彫りにするだけだし、かといってハリーが指詰めをしても、日本の流儀が似合わない外人の部外者性がつきまとうだけに終わったという難しさがそこに残る訳です。

 

健さん指詰めシーン。やはりサマになっています。

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ハリーことロバート・ミッチャム指詰めシーン。

痛さが伝わってこない・・・。やる気あるのかな ( 笑 )。

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c.   この和洋折衷とでもいうべき『 ザ・ヤクザ 』は、映画の内容だけでなく、製作の舞台裏でも和洋間の微妙な力関係が働いていたわけですが、出演・製作者のほとんどが亡くなられた現在では、 この映画をひとつの娯楽作品として楽しむ事が適当なのでしょう。幾つかの力関係の中で作られてたこの映画は、年月の経過と共に視聴者にアナクロニズムを感じさせるものになっていますが、まさにそこを含めた〈 カルト映画 〉として味わう事こそが、ひとつの楽しみ方だという訳ですね。

 

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〈 関連記事 〉

 

 

 

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映画『 ヒメアノ~ル 』を哲学的に考える

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公開:2016年  監督:吉田恵輔  脚本:吉田恵輔  原作:古谷実

出演:森田剛 (森田正一)  :佐津川愛美 (阿部ユカ)

  :濱田岳 (岡田進)   :ムロツヨシ (安藤勇次)

 

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■   オープニングクレジットが上映開始から43分後に出てくるという効果的な演出が凝っている〈ヒメアノ~ル〉。もちろんこれは、それまでコメディー的要素のあった前半の物語が、岡田進 ( 濱田岳 ) と阿部ユカ ( 佐津川愛美 ) が結ばれている事を知った ( 部屋の外の森田にまで、行為中の声が聞こえている ) 森田が明確に岡田を殺そうと決めたのをきっかけとして殺人行為が満載になる後半へと切り替わっていく事を示していますね。

 

■   観る人によっては、森田正一の感情の壊れた殺しっぷりについていけないかもしれませんが ( もしそうなら、そう思わせるだけ森田剛の演技が凄まじかったという事ですね )、この映画について哲学的に考えていく事にしましょう。

 

■   ただし、そのようなアプローチは僕の知的欲求を満たしたいという身勝手なものであるので、余計なおしゃべりは勘弁してくれという方は、別の場所で映画の情報を参照した方がいいでしょう。

 

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1.   〈衝動〉によって結びつく〈性行為〉と〈殺人行為〉

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a.   この映画の最大の見せ場は、岡田と阿部による〈性行為〉と森田による和草浩介 ( 駒木根隆介 ) と婚約者の久美子 ( 山田真歩 ) に対する〈殺人行為〉が細かく交互に映し出されるシークエンスだといえるでしょう。もちろん、このふたつの〈行為〉は別々の場所で起きているのですが、ふたつの行為が交互に映し出される事によって、まるで〈繋がり〉があるかのように見せていますね。人によっては、このシークエンスを二つの行為の〈並列〉だという見方をするかもしれませんが、それでは、観る人の性的快楽を交差的に刺激するエロチックなものという帰結以上のものをそこから引き出すのは難しいでしょう。

 

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b.   では、どのような意味で繋がっているといえるのでしょう?監督の吉田恵輔は「日常と非日常、コメディとサスペンスが融合する映画のキーとなるシーン」と言っています ( 1 )〈繋がり〉どころか〈融合〉と言っている所が興味深いですね。〈繋がり〉であれば、ふたつの〈行為〉は各々の形式を保ちながら、接続されるという所なのでしょうが、〈融合〉とは各々が自らの形式を捨て相互に浸透していくというイメージになるでしょう。

 

c.   とはいえ、ふたつの〈行為〉は、表面的には違う行為なのだから、〈融合〉とはどのような位相でそうなるのか考える必要がありますね。そのためには精神分析でいう所の衝動 ( 欲動 ) の概念を参考にしましょう。性行為における衝動殺人行における衝動も両方とも最終的には身体における局部的な性器という器官において得られるオーガスムによって性的快楽へと転化してしまっているのです( 2 )

 

 

d.   そしてこの性的快楽以前の衝動の位相においてこそ未だ区別も分化も知らない無差別的なものとしての衝動がカオス的に在るという意味で融合が可能になると言えるでしょう。つまり、〈性行為〉と〈殺人行為〉は社会性や日常性という視点では別物であっても、哲学的あるいは精神分析的には快楽以前の人間存在の原初の衝動という意味では共通しているのです。

 

e.   監督の吉田恵輔は、おそらく無意識的でしょうが、その事をこの映画で暴き出していると言えるでしょう。なのでこの映画は、一見すると倫理的に耐え難いように思えるかもしれないけど、実際には、人間という生物の原初の衝動を扱った存在論的な映画だと考えられるのです。

 

 

2.   この映画の無意識性・・・

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a.   この映画での森田正一の犯行の原因が学生時代の強烈なイジメにあるという描かれ方は原作の漫画とは違う、という指摘が見られる事がありますね。漫画の森田はそれこそ外部の原因に関係なく自分の異常性に気付く点が彼の怪物性を際立てたせています。しかし、ある意味で人間を超えた衝動という無差別性の概念をここで導入するならば犯行の動機を外部に求めようが自分に求めようが犯行の残酷性という点からすると彼が自分の中に抱え込んでいた衝動の獰猛さについては変わりないのではないかと考えられますね。

 

b.   仮に森田の殺人行為の動機がイジメであったとしても、彼は既にイジメの報復以上の行為を犯している訳であり、それどころか殺人行為そのものに快楽を覚えているという点からすると、イジメというトラウマは自らの殺人行為を正当化するために森田の中で保持されているアリバイに過ぎないというべきでしょう。

 

 

c.   つまり、殺人行為を平然と為す森田に対して、アリバイになるような原因を見つけたくなるのであれば、それは無意識的に彼に感情移入し過ぎているのです、あるいは感情移入させるような無意識的構成になっている。森田剛に周囲を突き放すような無感情的で驚くべき演技をさせておきながら最終的には観客に彼に感情移入させるような構成は無意識的であれこの監督の計算高さと同時に力技を示していると言えるでしょう。

 

 

d.   岡田を連れて逃げる森田( 18.19.)。車で逃走中に犬を避けようとして電柱に激突してしまう( 20.21.22.)。この衝撃で森田は、岡田とゲームなどをして遊んだ過去への退行現象が出てしまう( 23.)。

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e.   警察から車の外に引きずり出される森田。その右足は肉が削れて骨だけになっているというちょっとしたホラー状態( 25.)。連行されながらも「また遊びに来てよ」という笑顔の森田、壊れています( 26.)。車に残された岡田は、かつて森田と遊んだ少年時代を回想する( 27.28.29.)。ここで、森田の家の庭先に飼われている犬が先程、車で逃走中に避けた犬と重なって いる事は言うまでもありませんね( 30.31.)。

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( 1 )

 

( 2 )

   岡田と阿部の性行為は当然の事として、森田の場合は、殺人後に自慰行為をするという点を説明として付け加えておきましょう。まあ、この自慰行為自体は、最初の殺人のシーンでしか描写されていませんが、以降の殺人でも同じだと考えるのが妥当でしょう。

 

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▶ 記憶に残したいへヴィメタル〈 パンテラ 〉

 

  2016年12月8日はへヴィメタルバンドPANTERA のギタリストだった ダイムバッグ・ダレル ( 本名:ダレル・ランス・アボット )パンテラ解散後の新バンドであるダメージプランでの演奏中に観客に射殺 1 されてから12年目の日になりますね享年38歳の早過ぎる死でした。 

              

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■ それまで音楽ファンの間では12月8日といえばジョン・レノンの命日でしたが少なくとも僕の中ではこの事件以来12月8日はダイムバッグ・ダレルの命日となりましたねそれ程パンテラの音楽は若い時の僕に衝撃を与えました最もそれは僕だけじゃなくリアルタイムでパンテラの音楽を聴いていた連中は誰もがそうだったはずですそして誰もが感じていた・・・音楽のトレンドが変わりつつある現場に立ち会っている

 

■ つまりそれまでアンダーグランドの音楽シーンの中で流通していた "獰猛なへヴィネス" の概念をメジャーシーンに向けて解き放ったという事ですもっと分かりやすく言うと"へヴィネス" を音楽シーンにおけるひとつの基準にさせる事に成功したという事です

 

■ 彼らが1994年に発表したアルバム、『 Far Beyond Driven ( 邦題 "脳殺" )はキャッチーさがこれっぽちもない獰猛なアルバムなのに ( 強いて挙げれば、ブラックサバスのカバー "Planet Caravan" が唯一キャッチーなくらい ) アメリカのチャートで1位 2を獲得している程ですここではそんな彼らのアルバムについて語ってみますね

 



 ではパンテラがメジャーデビューしてからのアルバムを紹介しましょう

 

 

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  1990年に発表されたメジャー第1弾が『 COWBOYS FROM HELL 』ですアートワークだけを見ると4人の兄ちゃん達がカジノバーみたいな所にいるだけの何じゃこりゃって感じなのですがこのアルバムの内容こそがアートワークの単調さなんか吹っ飛ばしてしまう程の衝撃を与えましたね特にアルバムタイトルにもなっている " Cowboys From Hell " 当時どんな奴にも影響を与えずにはいられないってくらいの迫力でした 今風に言うと "神曲" という事になるでしょうかヴォーカルのフィリップ・アンセルモの攻撃的な歌唱が象徴するように一見乱暴なバンドパフォーマンスなのですが演奏自体は非常にタイトでありそしてなおかつダレルによる歪んだギターサウンドつぶれる事のないクリアな音作りが注目されるなどへヴィなバンドサウンドが既にメジャークラスであった事が分かりますね

     

" Cowboys From Hell "  fromCOWBOYS FROM HELL 』    

 

■ 1992年に発表されたメジャー第2弾が VULGAR DISPLAY OF POWER ( 邦題 "俗悪" ) このアルバムのアートワークもダレル風の男がぶん殴られているというよく分からないものですが前作同様名曲揃い ( "Walk" "Fucking Hostile" など ) の内容が素晴らしい特に有名なのが "Mouth For War "MVでの聴衆を含めての暴れっぷりがいい ()

     

" Mouth For War fromVULGAR DISPLAY OF POWER 』     

 

■ こちらはLIVE版" Heresy " から " Mouth for War "激しいのに演奏が乱れない技術の高さが分かる1992年で皆若いからとにかく元気がいいそれにしてもダレルのギターの音がクリア過ぎる     

 



 

■ COWBOYS FROM HELL 』とVULGAR DISPLAY OF POWERの2作品はそれまでのへヴィメタルをアグレッシヴにモダン化したという意味で伝統的なメタルの延長線上に生まれたものだといえますがメジャー第3弾の『 FAR BEYOND DRIVEN ( 邦題 "脳殺" ) 』においてはもはやへヴィメタルという形式に囚われないパンテラ独自のアメリカ南部からのハードコアと呼べるであろう音楽を創り上げています

 

■ そんな強烈さを示すがごとくアートワークも迫力あるものになっているし個人的には音楽性だけを考えるならば一番のお気に入りです実際パンテラの作品の中でも音楽的にもメンバー間の関係性においても最も緊張感が高まっていた傑作だと思うのは間違いないと思いますねこのアルバム以後メンバー間の結束が徐々に崩れていくにつれて発表されるアルバム自体のインパクトが弱まっていったといえるでしょう ( 1曲毎の作りはさすがというべきなのですが、全体性という意味では弱まっているという事ですね )。 

 

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■ FAR BEYOND DRIVEN ( 邦題 "脳殺" ) 』というタイトルについて考えてみましょうこのタイトルは意味が分かりにくいからですね通常だと"driven" はdrive の過去分詞形あるいは形容詞になるのですが意味としてはよく用いられる "動かす" ではなくアートワークから推測して"打ち込む""掘る""貫通させる" という意味である事が分かりますねそうするとこの場合"driven" は形容詞 ( 過去分詞 ) の名詞的用法 ( the は省略されているけど ) だと考えるのが一番意味が採りやすいつまり文字通りに訳すなら『 打ち込まれる事をはるかに超えて 』という意味になりますね

 

■ それだけでは意味がはっきりしないのでもう少し解釈しますドリルが頭蓋骨に打ち込まれているというアートワークが与える以上の "衝撃"パンテラは自分達の音楽で強力に示しているそれこそが FAR BEYOND DRIVEN 』という意味になっているという訳です

 

■ と解説したものの実は上のアートワークは発禁処分されたオリジナルの差替え分ですオリジナルはこちら。 

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■ 陰部にドリルがぶち込まれているという衝撃のアートワークあっここでアルバムのタイトルって下ネタだったんだって分かるという。『 ぶちこまれる快感以上のモノを与えてやるぜって感じこりゃ発売禁止になるわここまでくるとアルバムの中身を聞く以前に衝撃を与えすぎて普通の人は引いてしまうでしょう ()

 

■ FAR BEYOND DRIVENからの曲  "5 minutes Alone"歌詞の内容が後に世間にフィル・アンセルモの悪名を轟かせてしまう人種差別的要素 が彼の中に既にあった事を暗に仄めかすものになっていますこの曲に象徴されるように評価の高い音楽性とは裏腹に歌詞だけ読んでいるとどうしようもなく暗澹たる気持ちになる曲のオンパレードです ( )その意味で本作品はパンテラの中でも最も凶悪なものである事は間違いないでしょうそれはまるで地の底でへばりつき身動きが出来ない中で怒りと憎悪が激しくのたうちまわっているような印象ですよくこんな詩が次から次へと書けたなあと変に感心するばかりですねまるでロートレアモンの『 マルドロールの歌 』ですよ ( いきなり文学になってすみません )

      

"5 minutes AlonefromFAR BEYOND DRIVEN 』     

 

■ こちらはLIVE版の "5 minutes Alone" ですがメンツが凄すぎるリードギターがスレイヤーのケリー・キング。リズムギターエクソダスのゲイリー・ホルトとアンスラックスのスコット・イアンベースがアンスラックスのフランク・ベロドラムも同じくアンスラックスのチャーリー・ベナンテという豪華すぎる布陣そんな中でもフィルの存在感は彼らに負けていないのはさすがというべきかもちろん演奏力だけで見ると本家にはかなわないがそんな事抜きで楽しめます。      

 



 

■ 1996年発表のメジャー第4弾『 THE GREAT SOUTHERN TRENDKILL ( 邦題 "鎌首 ")アルバムのアートワークとしてはこれが1番好きですただし音楽的には散漫な印象派拭えない1曲目の "The Great Southern Trendkill " が無ければ本当にまとまりが無かったかもまあタイトルの和訳、『 偉大なる南部のトレンド殺しの通りトレンドに迎合しない姿勢は健在ですがこれを聞いた後では、『 FAR BEYOND DRIVEN ( 邦題 "脳殺" ) 』 の出来がいかに良かったかというのが再認識出来るのですがそのFAR BEYOND DRIVENの音楽性をサザンロック的な方向性で薄めたという印象ですかね ( これを前作に比べてバラエティに富んでいると評価する人もいますが )とはいえそこはやはりパンテラなのでそこら辺の音楽では到底太刀打ち出来ない激しさがあるのは当然です"Suicide Note Pt. II " などのライブでの再現度が人間技じゃない曲もありますからねそして全米4位にまで登りつめているのはすごい

 

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■ 1997年に発表されたライブ盤『 OFFICIAL LIVE 101 PROOF ( 邦題 "ライブ~狂獣 " )Amazonのレビューでもよく書かれているがパンテラの入門としては最適ライブでのアルバムの再現度が凄いいやそれを超えているといっても過言ではない出来 新曲が2曲 ( "Where You Come From"  "I can't Hide" ) も付いているそれにしてもこのアートワークもカッコイイですジャック・ダニエルのラベルみたいで酒好きのバンドでしたからね。 

 

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■ 2000年に発表されたパンテラ最後のスタジオアルバム『 REINVENTING THE STEEL ( 邦題 "激鉄" )このアートワークは格好良くない・・・そう感じたのは僕だけではないと思うしかし楽曲的には傑作揃いです1曲目の "Hellbound "6曲目の "Death Rattle"8曲目の "Uplift" などで他の曲も優れていますバンドの危機的状況の中でよくこれだけのアルバムをつくったなという感じですねというのもこの時フィルとアボット兄弟 ( ダレルと兄のヴィニー ) の確執は強くなっていてほとんど一緒にはスタジオには入っていない ( フィルは自分の住んでいる場所が彼らから離れていて、しかもDOWN〈 フィルのサイドプロジェクト 〉などで忙しかったという建前を述べていた )出来上がった曲に後から別の場所でフィルがヴォーカルを乗せるという方法をとっていたはずそう考えるとこのアルバムはパンテラという炎が燃え尽きる前の最後の一閃だったと言えるでしょう

 

■ 音的にはダレルのギターの特徴であるノイズのような粒立ちの歪みは抑えられていて伝統的なへヴィメタルの方向性で纏められているしかし下手したらアルバムの前半はCOWBOYS FROM HELL俗悪 よりも控えめな音になっているかも後半特に8曲目の "Uplift" あたりから聞きなれたパンテラっぽい音になっているけどよく聞いたら分かる音の微妙な統一感の無さやはりそれまで一緒に作業してパンテラの音を作り上げたプロデューサー兼エンジニアリングのテリー・デイトが参加してない事が原因なのでしょう ( この作品はパンテラのセルフプロデュース )出来ればこのアルバムをFAR BEYOND DRIVENの頃のようなゴリゴリの音で聞きたかったなあ

 

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犯人は元海兵隊員のネイサン・ゲール( Nathan Gale 当時25歳ダレルは3発撃たれて即死ネイサン・ゲールも駆けつけた警察により射殺される彼はダレルがパンテラを解散させたとして恨んでいたのと共に精神病院への入退院歴があった事も明らかになっている

 


ちなみに、へヴィメタルの偉大な開拓者であるメタリカアメリカのチャートで1位を獲得したのは1991年発表のアルバムMetallica ( 通称ブラックアルバム : アルバムのアートワークが真っ黒な事からそう呼ばれる ) 』ですがそれですらパンテラの『 Far Beyond Driven ( 邦題 "脳殺" ) 』に比べるとキャッチーになってしまうと言っても言い過ぎではないでしょうまあメタリカからしたらハードロック寄りのへヴィなアプローチをしたのだからキャッチーなのは当然といえば当然なのですが

 

事実パンテラのようなへヴィな音作りをするフォロワーも多く生まれたしそれどころかパンテラが影響を受けた先輩達にも衝撃を与えたその代表例がメタルゴッドと呼ばれるジューダス・プリーストのヴォーカルロブ・ハルフォードその当時、彼は正統なHMを捨てFight というバンドを作りモダンでへヴィネスなアプローチに傾倒したこれには賛否両論あったけど僕は嫌いじゃなかったな

 

元々へヴィメタルの世界には激しいパフォーマンスとは裏腹に音作りにこだわりを持つ人が多い特にギタリストはその傾向が強くダレルもその1人でしたねへヴィな音作りをする上ではアクティヴ式ピックアップのEMG搭載のギター+マーシャルあるいはメサブギーのアンプという組合せが注目を集めていました時期がありました例えばザック・ワイルドメタリカなど

 

そんな時に現れたダレルはパッシヴ式ピックアップ ( フロントに セイモア・ダンカン "59 "、リアに ビル・ローレンス "L-500XL":後にセイモア・ダンカンの "Dimebucker " ) を使用して音がクリアな ランドール のアンプと組み合わせるという異なるアプローチで独自の強烈な音を作り上げたのでしたもちろんそれだけではなくアンプへの入力前にはエフェクターで中域をブーストさせながらもアンプ側では中域をカットして高・低域を上げるなどの工夫もあった

 

この微妙なニュアンスを読み取るにはネット上に散見される歌詞の機械的翻訳よりも、『 Far Beyond Driven ( 邦題 "脳殺" ) 』 の日本盤 ( ちなみに旧盤の前提です。数年前に発売された20周年記念盤は持っていないので ) に付いている対訳を読むのがいいでしょう

 

フィル・アンセルモの白人の優位性を唱える人種差別的発言はこれまで何度かあったが最近最も問題視されたのがダレルを偲んで2010年から毎年開催されている DimeBash のステージ ( 2016年 ) で "ナチス式敬礼" を行い"White Power" と叫んだ事ですねこの問題によってフィルは最初は拒んでいたものの謝罪せざるを得ない程の騒ぎになってしまいましたここらの辺の経緯については

Rock is not Dead : ロックニュース -- www.rockisnotdeadoc.com を参照して下さい

     

 

フィルの謝罪涙目にも見えるがまさか芝居じゃないよね    

 

彼の人種差別発言は当然許されるものではありませんがただし彼の場合黒人のファンと抱擁したり、"ボクシングが好きで自分のヒーローは黒人だ" と言ったかと思えばマシーンヘッドのロブ・フリンに "Nigger 寄り ( いわゆるラップメタル ) のアルバムThe Burning Red ( マシーンヘッドの3rdアルバム ) 』が嫌いだ" と言ったりと複雑な様相を見せています

 

そこら辺は彼の出身地であるニューオーリンズの土地柄

( 黒人の人口比が70%近い、つまりアフリカ系黒人が奴隷として多く連れて来られた地域で、黒人差別が強い ) が彼の人格形成期に大きな影響を与えたのかもしれません彼を擁護する人達は彼はレイシストじゃないと言うしフィル自身もそんな人間ではないと釈明した〈 ※ りしましたが彼の根っ子の部分では彼の人格の一部として無意識的にその要素が組み込まれている可能性もあるといえるのですそうでなければいくら酔っていたとはいえあのような行為が出てくるはずがないでしょう

 

そして意識的な面で言うと音楽マニアでもある彼が白人至上主義を掲げるいわゆる ホワイトパワーミュージック ( ナチパンク など。イデオロギーと音楽が最悪の形で結びついたものですね )に影響を受けている事も容易に推測出来ると付け加えておきましょうそんな彼の今回の行為について、スレイヤーのケリー・キングは言っています彼は一線を越えた戻ってこれないかもしれない 」。つまり彼はレイシズムの強力な魔力に引き込まれているそこから引き返すのはそう簡単ではない、という事でしょう

 

ここに近年のレイシストの特徴が現れているといえますつまり彼らは自分は人種差別主義者ではない ( 本音では思っていても )自らの人種に対する "誇り" を持っているだけだと言うのですねたとえ"誇り""尊重" などの意識付けが正しいように思えても"人種"の概念を区別 ( これもレイシストの言葉使いの特徴。彼らは差別ではなく、区別という言い方を使う ) の基準にそもそも持込むこと自体が既に "差別" の概念によって侵食されている事に彼らは気付かない

 

"ホワイトパワー" という言葉で真っ先に思い出されるのはイギリスの元祖ネオナチバンドのスクリュードライバーであり彼らの曲 "White Power" でしょう1976年に結成されたバンドは当初セックス・ピストルズの影響下にあったが休止後1982年に活動を再開した時にはフロントマンのイアン・スチュアート・ドナルドソン主導による白人至上主義のバンドになっていた1993年にイアンは交通事故で亡くなってスクリュードライバーは解散したが未だに "ネオナチバンド" といえば "スクリュードライバー" という図式で紹介される程影響力を残している思想や歌詞は別にして音楽性は魅力あるだけに逆にそれまで政治性とは無縁の若者を惹き付けてしまい右傾化させる危険性があるという事ですね

 

 
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▶ アール・デコ、あるいは北欧モダニズムの伝統から抜け出したデザイナー【 スティグ・リンドベリ 】

     

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   2016年の今年で生誕100周年を迎えたスウェーデンのデザイナースティグ・リンドベリ ( 1916~1982 ) について哲学的に考えてみましょうといっても彼の作品について個別的に考えるのではなく彼のデザインが "北欧デザイン" という括りで語られるものの中でいかなる意義を持つのかを全体的な流れの中で考えてみようという訳です北欧デザインが哲学的に語られる事はほとんどない ( 少なくとも日本ではこれからもないと思う ) のでそれを考えるとそれなりの意義はあるでしょう

 



 

 1.   スウェーデンの国民的デザイナー、リンドベリ

 

a.   スティグ・リンドベリといえばスウェーデンの陶磁器メーカーであるグスタフスベリ社のアートディレクターであり経営難のグスタフスベリを建て直したという話がよく聞かれますねそのきっかけが彼がグスタフスベリ社に持込んだ "POPなデザイン" にある事は間違いないでしょう"POPなデザイン" で彩られた食器はスウェーデン国民の日常の食器使いを華やかなものにするという意味でグスタフスベリ陶器の普及に貢献したのです

      

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f:id:mythink:20180611205013j:plain  彼のデザイン性を象徴するテキスタイル楽園

 

b.   彼のPOPデザインの斬新性は彼と共にグスタフスベリ社の三巨頭として語られるヴィルヘルム・コーゲ ( 1889~1960 ) ベルント・フルーベリ ( 1899~1981 ) に比べてみても明らかでしょうはっきりと指摘される事はありませんが三巨頭と言ってもリンドベリは他の2人と比較出来ない独自の道を進んだのであり北欧モダニズムと称される北欧現代陶芸の枠には収まりきれない "POPなデザインを駆使する北欧アーティスト" へと至った と考えるべきですね

 



  2.   スティグ・リンドベリが登場した時代背景 

 

a.   若きリンドベリを見出したヴィルヘルム・コーゲ ( 彼がグスタフスベリのアート・ディレクターを務めていた1937年にリンドベリは20才で入社した ) から始まったとされる北欧現代陶芸を美術史的に考えるならばそれは1910~1930年代にかけてヨーロッパ・アメリカで流行したアール・デコ様式の時代に位置するといえるでしょう

 

b.   アール・デコ ( Art Déco ) は文字通り訳すなら "装飾芸術" となりますがそれ以前のアール・ヌーヴォー ( Art Nouveau ) 様式ほど過剰な装飾ではなく当時台頭してきた大量工業生産という時代背景と隣接する "適度な装飾デザイン" ( つまり大量工業生産と共に発達する大衆消費社会へ量的に行渡ることが無意識的に前提とされている ) になっているのです

 

c.   さらに細かく言うならアール・デコにおいては "芸術的装飾性" "無駄を排除する機能的モダニズム" "両極性" の振り幅の中で幾つもの作品が作られたのですが特徴的なのはそれらの作品の活力が "異国的なもの" ( *1 ) から得られている事です

 

d.   もちろん芸術における異国的なもの影響 ( 例えば西洋に対する日本の浮世絵など、いわゆるジャポニズムの影響など ) は前世紀でも見られるのですが192030年代は世界を横断する交通が増大していく過程 ( *2 ) での "脱 - 境界的なもの" が一般的になった ( *3 ) という意味で"デザイン装飾" が特定の国家や地域伝統などの縛りから脱して世界の中でそれ自体がひとつのジャンルとして "一般的なもの" になったのです

 

e.   つまりアール・デコの作品が異国的な雰囲気を醸し出すのはデザイン装飾それ自体が特定地域の縛りを受けない "脱 - 境界的なものの一般化" へと至っているからなのですねまあ実際にはデザインが一般的になったアール・デコ以後も各々の作品は定義上特定の呼称 ( 北欧モダニズム、ミッドセンチュリー、民芸、ポストモダン、など ) を与えざるを得ないのですが

 

f.   ではこの辺で北欧現代陶芸に話しを戻しましょう北欧現代陶芸の巨匠である ヴィルヘルム・コーゲ と彼に師事した ベルント・フリーベリ の作品から分かるのは彼らの装飾性を抑え簡素性から逸脱しない作品がアール・デコの両極の一方である "無駄のないモダニズム" を担っているのに対してコーゲと並んで巨匠と称されるデンマーク アクセル・サルト ( 1889~1961 ) の生命力が凝縮されたかのような作品はアール・デコのもう一方の "芸術的装飾性" を担っているという事です2人とも北欧現代陶芸の巨匠と呼ばれますがアール・デコという芸術様式に照らし合わされると違いが明らかになりますね

 

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 ヴィルヘルム・コーゲ

 

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 ベルント・フリーベリ

 

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 アクセル・サルト

 

g.   いずれにせよコーゲサルトフルーベリらの "陶芸作品" ( "陶芸作品" と限定するのは、コーゲやサルトは、グラフィックデザイナー出身という陶芸以外の素養もあるので ) が アール・デコを無意識的基盤にしているのであり、それこそが北欧モダニズムの本質だ といえるのですね

 

 

( *1 )

 アール・デコ期の異国的なものの例 ( ~5. )

 

1.   エジプトの影響 "エジプト風ヴァニティケース " by カルティエ  ( フランス・1924年 )

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2.   アフリカの影響 "仮面" by サージェント・ジョンソン ( アメリカ・1934年 )

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3.   アフリカの影響 "スツール" by ピエール・エミール・ルグラン ( フランス・1925年 )

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4.   日本の影響 装飾パネル "アルザスコウノトリ" by エドガー・ブラント ( フランス・1928年 )

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5.   アフリカの影響  写真 "黒と白" by マン・レイ ( フランス・1926年 )

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( *2 )

 世界的交通の象徴的出来事の例 ( 4. )。

 

1.   1927年 チャールズ・リンドバーグ によるニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行

 

2.   1928年 ドイツの巨大飛行船 LZ127 "グラーフ・ツェッペリン" 飛行開始

 

3.   1935年 フランスの巨大豪華客船 "ノルマンディー号" 就航開始

因みにアール・デコを代表するフランスのグラフィックデザイナーの アドルフ・ムーロン・カッサンドル が1935年に発表したポスター"ノルマンディー号" は彼の作品の中でも最も有名なもののひとつですね

 

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4.   1936年 ドイツの巨大飛行船 LZ129 "ヒンデンブルク" 飛行開始

 

( *3

   " - 境界的的なものが一般的となった" といっても言うまでもなく国境や階級様々な領域間の差異などにおける"境界的なもの"が消滅する訳ではありませんフランスの哲学者ドゥルーズガタリによる『アンチ・オイディプス』でも示されるように脱領土化と再領土化は絶えず繰り返される 事によって資本主義における運動のダイナミズムとなるのであり"境界的なもの" は依然としてあるあるいは新たに違う形態で再生産されると言うべきでしょう

 



 3.   リンドベリの "POPな絵画的デザイン"

 

a.   では先に挙げたコーゲらとリンドベリとの違いとは何でしょう? それは既に述べたように "POPデザイン" にあるといえますしかしこう言うとコーゲやサルトもグラフィックデザイナー出身なのだからデザイン的素養があったはずだしそれだからこそコーゲは若きリンドベリの才能を見出す事も出来たのでは?と考える人もいるでしょう彼らとは違うリンドベリのデザインを哲学的に理解するためにもここで "POPデザイン"という言葉の意味を考える必要がありますね

 

b.   まず彼のPOPデザインは 2次元的なものという意味で "絵画的なもの" だといえますしかしなぜここで "絵画的なもの" と敢えて言うのか? それを "単なるデザイン"だと言ってしまうと陶磁器のフォルムや絵付けを含めた雑多なものを意味してしまうからですそれだと "絵画的なものの哲学的意味" が見えなくなってしまう訳です

 

c.   "絵画的なもの" とは絵画が具現化されるためにはキャンバスという下地が必要なように何らかの物質的基底材 ( もちろんこれはキャンバスだけでなく、それこそ陶磁器などの立体的なものを含む ) の上に投影され貼り付けられる "イデア" としての "デザイン性それ自体" だと考えられるのです

 

d.   例えば陶芸で考えてみるならば通常のアプローチだと陶磁器それ自体がひとつの作品であるためにフォルムや絵付けのデザインは作品を補助する要素であるはずですねあくまでも主役は陶磁器という作品である訳です

 

e.   ところが興味深い事にリンドベリの中ではコーゲに師事し彼と共に陶磁器の製作に取組んだ北欧現代陶芸の枠組に忠実であった初期からグスタフスベリのアートディレクター就任そして独立復帰といった一連の成熟期において彼のデザイン観に哲学的変化が起きたといえるのですつまり陶磁器の絵付けとしての要素的デザインから彼のデザイン世界観をひとつの具現化すべきイデアとする "絵画的デザイン" への移行 ですね

 

f.   そうすると何が起きるかというと陶磁器などの "物質的基底材" は主役なのではなく彼の "絵画的的デザインというイデア"  を具現化するための "現実的なものという要素" に過ぎなくなるという変化が起きる 訳です少なくとも彼の中ではこの点こそがコーゲやフリーベリサルトに比べてリンドベリを陶芸家ではなく独自の "デザイナー" たらしめているといえるでしょう

 

g.   もちろんコーゲやサルトらもデザイナーの資質があるので陶磁器以外にも手がけた作品があるのですがリンドベリほど強力な一歩を踏み出せていないその一歩を踏み出すには彼らは余りにもアール・デコの芸術に忠実でありすぎたのです

 

h.   ではリンドベリにアール・デコに留まらせずに一歩踏み出させた "絵画的デザイン" の特徴とは何でしょうそれこそ "POP性" に他なりません"絵画的" といっても西洋美術における絵画ではなくデザインがそれ自体として成立するというイデア的意味での絵画 なのであるのに加えて大衆への普及 ( POPULARIZATION ) という意味で"POPな絵画" だといえるのです大衆への普及 ( POPULARIZATION ) という言い方につきまとう俗物性が気になるのであれば"大多数への浸透" と言い換える事も出来るでしょう

 

i.   しかしリンドベリのデザインそれ自体を楽しませる "POPな絵画性" スウェーデン国民の間で共有されやすいものであったのは間違いないでしょうし同時に彼が従来の芸術 ( アール・デコ ) の延長線上にある北欧モダニズムとは異質な流れ ( もちろん、このPOP性は、今では北欧デザインのスタンダードなもののひとつとして引き継がれている ) をつくりだした事も付け加えておくべきでしょう〈

 

【 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈高瀬譜希子〉】

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 ◆ 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈菅原小春〉ではダンサーの菅原小春について書きました。その中で彼女は Years&Years (イギリスのエレクトロニカバンド) の "Desire" に振付をしていたのですが、その Years&Years に影響を与えたRADIOHEADトム・ヨークが自らの曲のMVでコンテンポラリーダンスを披露している事にも触れておきましょう。

 

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1.   ATOMS FOR PEACE の "Ingenue" と高瀬譜希子

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   とはいえ、ここで言及したいのは、トム・ヨークが初めてダンスを披露した事で話題になったRADIOHEAD の MV "Lotus Flower" ( 英国ロイヤルバレエ団のコレオグラファーであり、自ら主宰するカンパニー、 Random Dance を持つウェイン・マクレガーが振付している ) ではなく、レッドホットチリペッパーズのフリーと共に結成したサイド・プロジェクト、ATOMS FOR PEACEの MV "Ingenue" です。

 

        

 

   この "Ingenue" もウェイン・マクレガーが振付しているのですが、特筆すべきはウェイン・マクレガー主宰のRandom Danceに所属する高瀬譜希子トム・ヨークと共演している事ですね。"Lotus Flower" に比べて何がいいかと言うと、トム1人より、高瀬譜希子との2人でのパフォーマンスの方が、ウェイン・マクレガーの世界観に近い、つまり、身体動作の可能性を追求するコンテンポラリーダンスの本質に迫っているという訳ですね。

 

   MVの構成自体も面白くて、最初は1人しかいないかのように思えたダンサーが、ノートン&サンズ ( ミック・ジャガーも着用する歴史ある英国ブランド ) 仕立のスリーピースを纏ったトム・ヨークと高瀬譜希子の2人によって切り替わりながら演じられ、やがて2人として動いていくという流れになっています。ここでの高瀬譜希子の動きはさすがというべきで、ややぎこちないトムの動きを補って余るものであり、見るべき価値があるといえるでしょう。

 

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                 高瀬譜希子

 

 

   "Ingenue"の本来の世界観を味わうのなら、何といってもLIVEヴァージョンです。

 

        

 

   "Ingenue"に興味を持った方にオススメしたいのが ATOMS FOR PEACE のアルバム『 AMOK 』です。RADIOHEADトム・ヨークの事を知らなくても、そんな事を抜きにして楽しめる1枚だと思います。アンビエントミュージック ( たとえばブライアン・イーノ! ) にモダンなアプローチをした結果に生まれたエレクトロニカミュージックとでもいえるでしょうか。

 

        

 

 

2.   Random Dance の高瀬譜希子

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   ATOMS FOR PEACEに言及したので、ATOMつながりという事で、高瀬譜希子が普段所属しているRandom Dance の映像を紹介しておきますね。

 

        

 

   Random Dance の『 ATOMOS 』ダイジェスト版です。もちろん高瀬譜希子の姿も見れます。よく見ないと分からないかもしれませんが。この作品は、ウェイン・マクレガーという特異なコレオグラファーの思考の本質を表しているのですが、ダンサー達が作品テーマである原子の運動を単に表現しているだけではなく、コンテンポラリーダンスの自立的原理それ自体をひとつの運動として示すというマクレガーの思考を実践しているのです。

 

   とはいえ、彼は決して自分の考えをダンサー達に遂行させるという単純主義者ではない。彼は自分の考えを、ひとつの〈 課題 〉としてダンサー達に与え、そこから引き出される解釈も取り込みながら作品を構築するアプローチを採っている。高瀬譜希子もそういうやり方の中に身を置いているという訳ですね。

 

そんなウェイン・マクレガーについても語っている高瀬譜希子のインタビューがこちら。

 

 

 

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▶ ジョン・フリンの映画『 ローリングサンダー 』( 1977 )について考える

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監督 : ジョン・フリン        

脚本 ポール・シュレイダー 

   : ヘイウッド・グールド

公開 : 1977年

 

出演 ウィリアム・ディヴェイン    ( レーン少佐 )

  トミー・リー・ジョーンズ    ( ジョニー伍長 )  

   : リンダ・へインズ        ( リンダ・フォルシェ )

   : ローラソン・ドリスコル     ( クリフ )

   : ダブニー・コールマン      ( マクスウェル )

   : ルーク・アスキュー       ( スリム )

 

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  1.   社会への不適合者f:id:mythink:20210621101426j:plain


   フック船長のような2本爪の義手を装着した佇まいが渋いウィリアム・ディヴェイン主演の映画。この映画のタイトル『 ローリングサンダー』がベトナム戦争におけるアメリカ軍による北ベトナムへの爆撃作戦から来ている事は明らかでしょう。ベトナム戦争帰りの兵士たちの社会への不適合性というこの作品の時代背景を知らない人も、レーン少佐のこの異様な姿を見るだけで、普通じゃない "何か" を感じ取るはずです。その "何か" とは、周囲に馴染めない人間の醸し出す雰囲気や存在感であり2本爪の義手とはまさにそのようなものの象徴である と解釈する事が出来ますね。

 

   それ程、ベトナム戦争の帰還兵が受けた心の傷跡は大きかったし、アメリカという国にとってもベトナム戦争は、結果として長年に渡って疲弊を与えただけの負の歴史であったといえます。共産主義陣営とのイデオロギー対立を契機として、アイゼンハワーケネディ、ジョンソン、ニクソン、等の幾人もの歴代大統領にとっての政治的問題であり続け、泥沼にはまった挙句に最終的には撤退という形をとるしかなかったという経緯がありましたね。

 

  ベトナム戦争を経験した兵士の中には、社会復帰が上手く出来ない程のトラウマを抱え込んでしまう者もいたのでした。アメリカではベトナム戦争の経験が映画の1ジャンルを形作っているとさえいえます。『 ディアハンター』『 フルメタルジャケット 』『 プラトーン 』『 地獄の黙示録 』( これは少し毛色の違う異色作ですが )、などですね。

 

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  2.   社会的メッセージ? いや個人の生き方として・・・f:id:mythink:20210621101426j:plain


  ただし、それらの映画がアメリカの社会的経験として昇華されているのに対して、この『 ローリングサンダ ー』や同じ脚本家のポール・シュレイダーが関わった『 タクシードライバー 』、そして『 ランボー 』の第1作などは、監督や脚本家がわざとそうしなかったのか、それとも出来なかったのかは分かりませんが、社会的なメッセージを訴える方向に向かわずに、ひたすら 個人の生き様を描く事に固執 していますね。個人の虚脱感や敗北感がかろうじて社会的なものへの引っかかりを示してはいますが。

 

▶ つまり、ベトナム戦争などの大きな出来事がなくとも、社会に馴染めず、自分の流儀にこだわる事しか出来ない ( たとえ破滅的な結末であろうとも ) 不器用な人間はいる訳で、そのような個人の生き方に焦点を絞るなら、ベトナム戦争という大きなテーマでさえ、個人の人生の中ではひとつの要素に過ぎなくなってしまう程、強烈に人生の刹那を描いている訳です

 

   そう考えると、『 ローリングサンダー 』は、ベトナム戦争での拷問のトラウマが主人公に大きな影響を与えているとはいえ、殺された家族の復讐をする事しか出来ない彼の不器用な生き様をひたすら描いたカルト映画だといえるでしょう。

 

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  3.   いくつかの場面・・・f:id:mythink:20210621101426j:plain


  ベトナム戦争から帰還した夫に妻ジャネットは、親切にしてくれていた警官クリフとの交際を告白する。

 

"成り行きだったの"  by  レーン少佐の妻ジャネット

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  表向きは冷静を装うレーン・・・。というより戦争中の拷問のトラウマで感情の起伏がなくなっている?

 

"それ以上は聞きたくない"  by  レーン少佐

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  ベッドに横たわるレーン少佐の脳裏にフラッシュバックする拷問シーン。反射的に腕立て伏せを始めてしまう。身体を動かす事で悪夢をごまかそうとしている?しかも捕虜中はシーツのない板のベッドで寝ていたため、家のベッドもシーツをはがしてしまうという行動に出る・・・そして体育座り。

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  ジャネットとの交際の件で話しに来たクリフだが、なぜか突然、戦争中の拷問に耐えたレーン少佐を賞賛し出す・・・。ご機嫌をとる? それに対してレーン少佐はなぜかうれしそうになる。

 

"聞きたいんだろう" by  ニヤッと笑うレーン少佐

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   ロープを使った拷問を実演し始めるレーン少佐。通常であれば、相手にかけるであろう所を、なぜか自分にロープをかけてしまう …… これは相手に痛さが伝わらない自虐的行為。

 

"もっと高くだ  骨が音をたてるまで"  by  ロープでもっとキツくするよう訴えるレーン少佐

"もういい 充分だよ"  by  ドン引きするクリフ

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   冷静になったレーン少佐はクリフに釘をさす "おれの子供をチビと呼ばんでくれよ"。つまり身内であるかのようになれなれしくするなという事ですね。しかし、これでは根本的な解決になっていない。妻の事には触れずに "約束だぞ" と言って終わるのだから。妻との交際は黙認する? 微妙です。

 

"気にせんでくれよ"  by  レーン少佐

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   しかし、妻に裏切られようとも、渋いレーン少佐には女の方から寄ってくる。この時から彼の気持ちはリンダに傾いている。

 

"あなたは口数が少ないタイプね"  by  リンダ

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   家に帰ってきたレーン少佐を待ち受けるメキシコ人の強盗たち。町の歓迎式典でレーンが贈呈された銀貨を奪いにきたが、レーンは答えようとしない。

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  何発殴られても口を割らないレーン。戦時中の拷問場面がフラッシュバックしているが、それに比べたら耐えられると自分に言い聞かせている? そして手をライターで炙られても動じない。

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   強情なレーンに対して、強盗たちはさらなる痛みを加える。レーンの右手を台所下のディスポーザーに突っ込むという暴挙に出る!それまで無口だったレーンも苦痛のあまり、さすがに叫び声を挙げてしまう!しかし、砕けてしまった自分の右手をかばいながらも、銀貨の在りかはしゃべらない。

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   そこにタイミング悪く帰ってきたレーンの妻と息子。強盗は銀貨を渡さないとレーンを殺すと脅す。父を助けるために銀貨を取りにいく息子。その様子を見た強盗のスリムはレーンに向かって言う "このバカ野郎、痛い思いをしただけだぞ"。そんな強盗に同調するかのように妻のジャネットも言う "チャーリー、なぜ言わなかったの?"。それに対して強盗のボスは言う "そいつはバカだからさ"

 

  敵だけでなく身内からも非難轟々のレーン。それこそ答えようがなく、何も言わずにいるしかないでしょう ( 悲 )。しかし、銀貨を渡した後、妻と息子は強盗たちに撃ち殺されてしまいます。

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事件後に入院して療養するレーン少佐と見舞いに来たトミー・リー・ジョーンズ演じるジョニー伍長。トミー・リー・ジョーンズが若い。若いといっても当時30才くらいですが。それでも予備知識がなければ、彼だと気付かない人は結構いるかも。日常生活に馴染めない彼ら。

 

"今となっては人並みの生活には戻れませんよ。あなたは?"  by  ジョニー伍長

"どうでもいいさ"  by  レーン少佐

 

   本当はどうでもいいわけではないでしょうが、今のレーンは、"復讐" の事しか考えられないという所でしょう。それはジョニー伍長も察していて、こう言います "奴らには生きる権利はありませんよ"

 

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    退院して自宅で2本爪の義手の調整をするレーン。長すぎる銃身を切り、使いやすくしたショットガンを用意して復讐のための準備を整える。

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   レーン少佐は、リンダを一緒に連れて行くのだが、危ない目にあって振り回されっぱなしの彼女は、ついに切れて車から降りる。しかしレーンは彼女を追っかけ、取っ組み合いのケンカを始めてしまう。

 

"こんな車には乗ってられないわ!"  by  リンダ

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  取っ組み合いが終わると、リンダはレーンに言います "私はあなたのものよ!"。さっきまでのキレ具合はどこへやら。レーンに惚れた女に様変わりする。 

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   レーンに完全に惚れきったリンダは、レーンに復讐をやめさせようとします。

 

"こんなことする必要があるの?"

"しばらく私と暮らさない?"

"抱いて"

 

レーンは表情ひとつ変えない。

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  モーテルで一夜を過ごした彼ら。レーン少佐は軍服に着替え、お金を残し、リンダに気付かれないように部屋を出る。強盗たちとの最後の戦いに出向くために、好きな女をこれ以上巻き込みたくないとの配慮から、愛すら振り切ってしまう!

 

   しかし普通の人なら、こう思うでしょう "なぜ軍服なんだ?戦争ではなく個人的な復讐なのに" 。でも、それは野暮な疑問です。レーン少佐にとって、命をかけた戦いに赴く時の正装は、軍服なのです。極端に言うなら、命をかけるという意味では、戦争だろうが個人的復讐であろうが何ら変わりないのです。

 

  たしかに一般人の日常感覚からすると、レーン少佐は狂っているのかもしれませんが、彼は既にベトナム戦争で日常感覚を失っているのであり、それは同時に 彼の中では彼の戦争 ( 歴史的な大文字の戦争ではなく、命をかけた彼の孤独な内面的戦い ) は未だ終わっていない ことを意味します。

 

こうなると誰も彼を止められない。

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   強盗たちと戦うために、ジョニー伍長を必要とするレーン少佐は彼の家を訪れる。強盗を見つけたと言うレーンに対し、ジョニーは何のためらいもなく答える "片づけに行こう"。レーンの個人的復讐にも関わらず、かつての上官には今でも従うのは当然だといわんばかりのジョニーは、やはりレーンと同様、日常生活に戻れない不適合者であり、戦争が必要な男だった!

 

   軍服を着たジョニー伍長は彼の父に言う "さよなら パパ"

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   強盗たちがいる売春宿に乗り込むレーン少佐とジョニー伍長。真っ先に殺されてしまう強盗のボス。何と掟破りな!何のためらいもなく強盗たちを撃ちまくる! 

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  撃ちまくるだけじゃ済む訳はない。ついにレーン少佐は敵のスリムに腹部を撃たれてしまう。倒れながらも反撃するレーン少佐。

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  立ち上がり、スリムにトドメをさすレーン少佐。戦いが終わりジョニー伍長に肩を貸すレーン。歩いて帰る2人。復讐を成し遂げたものの、そこに満足感などはなく虚脱感だけが残る。彼らは一時的なカタルシスを得たのかもしれないが、その後はどうなるのか。デニーブルックスが歌う〈 サン・アントニオ 〉がエンドロールで流れる。

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【 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン〈 2 〉】

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  ◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 1. の続きという事で。

 

 

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 1. 花森安治の『暮らしの手帖』の表紙デザインⅡ

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   1948年から1969年の約20年間で、100号を迎えた『暮らしの手帖』は、それまでの100号を1世紀と位置付ける事によって ( 100号であって100年じゃないけど・・・。初心に返るという意味を込めているとはいえ強引な気もしますが、花森安治らしいという所でしょう〈笑〉)、次からを101号で始めるのではなく、2世紀1号からで・・・という事にしちゃったようですね。判型もB5判からA4変形判になりました。

 

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   2世紀~で特徴的なのは、特に25号以降ですが、女性のアップの顔が増えていく事ですね。『暮らしの手帖』のメインターゲットである女性をより意識している事が現れていますね。

 

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   花森安治による最後の表紙である53号のデザインは、生前「自分が病気になった時に使いなさい」とスタッフに渡されていたものでした。

 

 

2. 手仕事へのこだわり、手仕事への考察

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   そんな花森が自分が使う文房具にこだわりを持っていた事はよく知られていますね。鉛筆、定規、ハサミなどは机の上の定位置に置かれていなければならず、それらを管理するスタッフは鉛筆の芯も折れないように丸く整えたりするという気の使いようだったらしいです。それだけにファーバー・カステルの鉛筆 ( ゴッホムンク、クレーも使っていた ) やシェーファーのインクを花森が高く評価したのも頷けますね。

                                       

                                       【花森の作業用文房具】

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   そこには自分の手で使用し満足を与えてくれる道具に対する愛着があります。道具を使用し自分の手を動かす事から何かを生み出す喜びがあります。道具を使用し自分の手を動かす者はその事を誰よりも知っているといえるでしょう。

 

   花森の生前の最後のエッセイ『 人間の手について ( 1978年 ) 』を読むと、手仕事の大切さを説いているのが分かりますね。このエッセイは、鉛筆を削るのにナイフを使わせずに鉛筆削り器を子供たちに使用させる小学校の教育方針を批判しながら、手仕事の経験を通じて本当の教育の在り方について考えるべきだという提案をしています。

 

   もちろん時代が変わった現在では、学校教育に対する花森の主張がそのまま通用する訳ではありませんが、それでも彼の手仕事に対する考察は興味深いものがありますので少し長めに抜粋しておきますね。

 

"  人間は、道具をつかう動物だ、といわれています。ここで、はっきりしておきたいのは、人間は、道具につかわれる動物ではない、ということです。

 道具をつかうのは、人間の手です。あるいは、人間の目や、耳や、鼻といった感覚です。こういった感覚は、訓練をすればするほど、鋭くなっていきます。

 たとえば、昔、海軍の水兵たちは、暗闇でものを見る訓練を、そうとう痛烈にやらされたということです。その結果、本来なら見えないはずのものが、水兵たちは見ることができた、いいます。

 この話は、レーダーのなかった日本軍の苦しいあまりの一策だった、といわれています。しかし、もしも、レーダーがこわれたとき、そういう訓練ができているのと、いないのとでは、たいへんな違いがおこります。鉛筆削り器にしても、こわれることはよくあります。一度こわれたら、新しいのを買うまで、だれも鉛筆を削ることができないのでしょうか。そんなバカげたことは、ありますまい。

 人間の手のわざを、封じないようにしたいというのは、つまりは、人間の持っているいろんな感覚を、マヒさせてしまわないように、ひいては、自分の身のまわり、人と人とのつながり、世の中のこと、そういったことにも、なにが美しいのか、なにがみにくいのか、という美意識をつちかっていくことになるからです。"

 

"  人間の手わざは、みんな自分でなにかを作り出す喜びというものに、つながっています。ところが、いくらよくできた鉛筆削り器でも、それを使って鉛筆を削ったとき、なにかを作り出したというよろこびがあるでしょうか。

 鉛筆の芯がまるくなったから、鉛筆の芯が折れたから、新しい鉛筆をおろさなばならないから、そういったときに、まるでビジネスのように、鉛筆削り器を使っています。料理ひとつ作るにしても、じぶんの手で材料を洗い、切り、煮炊きし、味をつけて、ひとつの料理に仕上げていく、そこにこそ、じぶんで作り出すというよろこびがあるのです。"

  

 

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