読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【 僕を哲学的に考えさせる映画:大島 渚の〈戦場のメリークリスマス〉】

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

 

◆ 僕を楽しくさせるミュージシャンの音楽的ルーツ〈HYDEをかたち作った6枚〉

3. David Sylvian『Brilliant Trees』の記事で、映画戦場のメリークリスマスについて触れました。

戦場のメリークリスマス〉と、そのメインテーマ曲である "Merry Christmas Mr.Lawrence" の事は知っていても、デヴィッド・シルヴィアンが映画に触発されて "Merry Christmas Mr.Lawrence" に歌詞とメロディを乗せて "Forbidden Colours(このタイトルは三島由紀夫の男色小説『禁色』の英訳版に由来する)" を作った事を今では知らない人もいるでしょう(そもそもデヴィッド・シルヴィアンって誰?という感じですかね。ああ、元JAPANのねって分かる人はそれなりの年齢の洋楽好きの方でしょう)、そしてラルクアンシエル"Forbidden Lovers" がそれに影響されている事も。

そんな事を以前書いたので、ここで〈戦場のメリークリスマス〉について考えておこうという訳です。

 

 

***************************************

 

 

 

       f:id:mythink:20161010083251j:plain

 

公開:1983年   監督:大島 渚

出演:坂本龍一       ・・・ ヨノイ大尉

  デヴィッド・ボウイ  ・・・ ジャック・セリアズ

  ビートたけし     ・・・ ハラ・ゲンゴ

  トム・コンティ    ・・・ ジョン・ロレンス

  :ジャック・トンプソン ・・・ ヒックスリー

 

 

*************************************** 

 

 

 1. 捕虜収容所における男性同士の関係としての"同性愛"・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 第2次世界大戦中の1942年、ジャワ島の日本軍捕虜収容所が舞台の〈戦場のメリークリスマス〉には戦闘シーンは出てきません。代わりに焦点が当てられているのは、収容所の日常における"男性同士の関係"です。この"男性同士の関係"を軸にしてストーリーは進んでいくのですが、大島渚"男性同士の関係"を描くにあたって、2組の男性同士の組み合わせを用意しました。

ヨノイ大尉(坂本龍一)とジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の組合せ(長いのでこれを"A"としましょう)、とハラ軍曹(ビートたけし)とジョン・ロレンス(トム・コンティ)の組合せ(これを"B"としましょう)ですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain さて、この男性同士の関係とラディカルな大島渚の特徴で以って、この映画を同性愛的だと早急な結論を抱く人もいるかもしれませんが、踏みとどまる必要があります。ジャック・セリアズがヨノイにキスする衝撃的な場面もある事から、"A"こそこの映画を同性愛的なものとして特徴付ける象徴的な組合せだと考えたくなるのも当然かもしれません(もちろん、"Forbidden Colours"のデヴィッド・シルヴィアンはこの点からアプローチしていますが)。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、よく見れば分かりますが、ジャック・セリアズはヨノイが自分に対して恋愛感情を持っている事に気付いていても、彼自身はヨノイに対して恋愛感情を持っていないのです。それどころか彼は仲間を救う(反抗するヒックスリーをヨノイは斬ろうとしていた)ために、ヨノイの恋愛感情を冷静に利用する事さえ厭わない、セリアズがヨノイにキスした場面がまさしくそうです。あの行為によって精神的衝撃を受けたヨノイは卒倒して何も出来なくなったのですから。

それ故、"A"においては同性愛は成立していない(ヨノイの片思いという訳ですね)といえます。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ではセリアズの気持ちは何処にあったのでしょう。特定の誰かに?いや映画の中でも示されますが、かつてパブリックスクール時代に身障者の弟が多勢にいじめられるのを見過ごすなどのスカした自分の"過去"に気持ちが残っているといえます。そんな"過去"からの逃避、あるいは訣別こそが彼の人生の行動原理(戦争という特殊な状況でスカした自分を忘れようとする)なのであり、極端にいえば、それ以外の事には興味が持てない人間だったという事でしょう。セリアズはロレンスと共に収容所を脱出しようとして捕まり、頭部だけを地上に出して埋められてしまいます。死の近いこの最後の時に彼が回想するのが、その"過去"であり、彼の人間性の根拠を示す契機となっている訳です。

 

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ちなみに、この映画において同性愛的なものを示しているものがあるとすれば、"A"でも"B"でもなく、朝鮮人軍属カネモト(ジョニー大倉)とオランダ軍兵士デ・ヨンの組合せ(これを"C"とします)でしょう。よくこの映画の解説で、カネモトがデ・ヨンを犯したとありますが、それは誤りです。確かにデ・ヨンはハラ軍曹に状況を説明しろと厳しく責められた時、それまで看病してくれたカネモトが急に身体を求めてきたという事を言いました。しかし、実際にカネモトがハラに介錯され絶命した時、絶望の余り、自らも舌を噛み切って後追い自殺したのです。つまり、カネモトとデ・ヨンは互いに愛し合っていたという事ですね。

"A""C"について考えた時、やはりこの映画は軍隊に付きまとう精神的特質としての同性愛的傾向(同性愛への表面的嫌悪を含めて)を備えていると考えられるかもしれません。しかし、この映画がそれだけではない事を"B"は示しています。

 

 

2. 捕虜収容所における男性同士の関係としての"同志愛"・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain では"B"について考えていきましょう。一見すると"A"の方がセンセーショナルなので観客の注意を惹きやすい(世界的に有名なデヴィッド・ボウイ坂本龍一ですからね)のですが、この映画のテーマに近いのは"B"だといえます。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ハラ軍曹とロレンスは共に、基本的には組織の秩序を守る事に忠誠を尽くすタイプだといえるでしょう。しかし、少なくとも2人は何も考えずにそうするのではなく、秩序を守る事が、そこに所属する人間達を守る事だと直感的に理解しているのです。

・ロレンスは味方の捕虜達と敵の日本軍との仲介役を果たす事によって不満を持つ双方の危ういバランスを保っている(その為、味方からは日本軍に取入っていると思われ、あまり好かれていない)。

・ハラはロレンスをはじめ捕虜達に見せる厳しい態度によって、一見するとステレオタイプな日本軍兵かのように思える。しかし、ハラは、捕虜達をまとめるなずのリーダーのヒックスリーが仲間の不満を代弁するかのように敵対的な態度しか見せないのに対して中佐であるロレンスが出来るだけ協調的な体制が保てるように間に入ってくれているのを十分理解しているし、同時に、トップであるヨノイのセリアズに対する特別な感情を見抜き(表向きは知らない振りをしているけど)、そんな組織の乱れへの複雑な思いを抱いていたのです。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain つまりハラは、組織の秩序を守らなければならないのにセリアズに心を奪われているヨノイという上司こそが組織をかき乱す要素のひとつになっている事を懸念する自分と、仲間の捕虜達に軽蔑されながらも仲間を守る為に協調的な体制を何とか保とうとするロレンスとの間に、"同志的なもの"が萌芽としてある事を感じとっていたのですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain このような解釈をしておかないと、ハラがヨノイの許可なくロレンスとセリアズを独房(収容所から無線機が発見された為の懲罰)から解放する場面が、何の意味も無い唐突なものとしてしか写らなくなります(実際にそう見えた人も多いでしょう)。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 確かにこの場面は、酒に酔ったハラのロレンスとセリアズへのクリスマスプレゼントとして説明されますが、この行為自体は突発的なもの(プレゼントなのだから予告がある訳ではないし)だとしても、この行為に至るハラの心理的伏線はある訳です。それが先程説明したロレンスへの"同志的感情"ですね。それによって、この場面は意味を持つのです。

 

 

3. ハラからロレンスへのクリスマスプレゼントについての解釈

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そしてこのプレゼントという行為は、ロレンスへの同志的感情に裏付けられていると共に、セリアズへの恋心によって組織の規律を乱しかねないヨノイへの牽制にもなっている訳です。ハラ自身がロレンスとセリアズを勝手に釈放するという規律違反をわざと犯す事によって、ヨノイへの当てつけを行っているのですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ここでハラは、同志的感情による釈放(私的感情のレベル)とヨノイへの牽制(組織の秩序を守ろうとする公的感情)というレベルの違う2つの事を同時に成し遂げていますが、そこから見た目の暴力的側面だけでなく思慮深い人間である事も推測出来ますね(この意味ではハラを演じているビートたけしにもその要素があるでしょう)

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain とはいえ、ハラは何のリスクも犯さずに、その行為を為したのではありません。規律違反をするのだから処罰覚悟の行為だった訳で、そこには"同志"と"組織"ために自分の"存在"を賭けた熟考の末の決断(酒の力を借りて)があったと考えられます。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この点を踏まえてラストの場面について考えていきましょう。終戦後の1946年には、立場が変わり、ハラは刑務所に勾留され処刑を待つ身になっていました。そこにかつて捕虜だったロレンスが面会に来てくれたのですが、ハラは彼に"戦時中の自分の行いは他の皆と同じものだった" "処刑される覚悟は出来ている" 等の話をしました。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ロレンスの方も捕虜収容所での共に過ごした"同志"として義理立てて面会には来てくれたものの、次の何気ない一言でロレンスのハラに対する"同志愛"は限界を示しましたね。"ここの担当だったら助けるのに"という旨の発言ですが、これがロレンスの去り際にハラが発した言葉 "メリークリスマス ミスターローレンス" を引き出したと考えるべきでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain このセリフに対する説明の多くが、覚悟は出来ていると言ったものの、ハラはやはり助けを求めている(日本兵士の誇りから助けてと口に出していえない)というものですが、それだけではハラが自分の感情だけを表現した一方通行的なものでしかないでしょう。ハラはかつて独房からの釈放というクリスマスプレゼントをロレンスにした時、先に述べたようにリスクを背負って"自分の存在"を賭けた訳です。それを踏まえて、もう少し深く解釈するなら "メリークリスマス ミスターローレンス" と言った時、ハラはロレンスに対して"俺はあの時、自分の『存在』をかけたんだよ。お前は自分の『存在』を賭けないのかい?" という"同志への呼びかけ" だと考えられるのです

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 相手を1人の男という『存在』として認めたが故の、ハラの "同志への呼びかけ" に対するロレンスの返答はおそらくなかった、ハラの正面からのアップで終わるのだから。ロレンスはハラの思いを知りながらも、それに応える事を選択せずに断ち切った訳ですが、それもひとつの生き方だと言うには寂しすぎる・・・。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そう考えると、ラストのハラの表情はロレンスに受け止められる事のなかった"悲しき笑い"だとしか言えない。しかし、その"悲しき笑い"はロレンスには受け止められなかったけど、僕達、観客が受け止めざるを得ない程、印象的だったのは間違いないでしょう。

 

    f:id:mythink:20161016153505j:plain

    

 

 

***************************************

 

 

◆ 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈高瀬譜希子〉

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

 

◆ 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈菅原小春〉ではダンサーの菅原小春について書きました。その中で彼女は Years&Years (イギリスのエレクトロニカバンド) の "Desire" に振付をしていたのですが、その Years&Years に影響を与えたRADIOHEADトム・ヨークが自らの曲のMVでコンテンポラリーダンスを披露している事にも触れておきましょう。

 

 

***************************************

 

 

 

1. ATOMS FOR PEACE の "Ingenue" と高瀬譜希子

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain とはいえ、ここで言及したいのは、トム・ヨークが初めてダンスを披露した事で話題になったRADIOHEAD の MV "Lotus Flower" (英国ロイヤルバレエ団のコレオグラファーであり、自ら主宰するカンパニー、 Random Dance を持つウェイン・マクレガーが振付している)ではなく、レッドホットチリペッパーズフリーと共に結成したサイド・プロジェクト、ATOMS FOR PEACEの MV "Ingenue" です。

 

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この "Ingenue" もウェイン・マクレガーが振付しているのですが、特筆すべきはウェイン・マクレガー主宰のRandom Danceに所属する高瀬譜希子トム・ヨークと共演している事ですね。"Lotus Flower"に比べて何がいいかと言うと、トム1人より、高瀬譜希子との2人でのパフォーマンスの方が、ウェイン・マクレガーの世界観に近い、つまり、身体動作の可能性を追求するコンテンポラリーダンスの本質に迫っているという訳ですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain MVの構成自体も面白くて、最初は1人しかいないかのように思えたダンサーが、ノートン&サンズ(ミック・ジャガーも着用する歴史ある英国ブランド)仕立のスリーピースを纏ったトム・ヨークと高瀬譜希子の2人によって切り替わりながら演じられ、やがて2人として動いていくという流れになっています。ここでの高瀬譜希子の動きはさすがというべきで、ややぎこちないトムの動きを補って余るものであり、見るべき価値があるといえるでしょう。

 

          f:id:mythink:20161003194839j:plain

             高瀬譜希子

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain "Ingenue"の本来の世界観を味わうのなら、何といってもLIVEヴァージョンです。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain "Ingenue"に興味を持った方にオススメしたいのがATOMS FOR PEACEのアルバム〈AMOK〉です。RADIOHEADトム・ヨークの事を知らなくても、そんな事を抜きにして楽しめる1枚だと思います。アンビエントミュージック(たとえばブライアン・イーノ!)にモダンなアプローチをした結果に生まれたエレクトロニカミュージックとでもいえるでしょうか。

    

 

 

2. Random Dance の高瀬譜希子

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ATOMS FOR PEACEに言及したので、ATOMつながりという事で、高瀬譜希子が普段所属しているRandom Dance の映像を紹介しておきますね。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain Random Dance のATOMOSダイジェスト版です。もちろん高瀬譜希子の姿も見れます。よく見ないと分からないかもしれませんが。。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この作品は、ある意味でウェイン・マクレガーの思考の本質を示すのに適した最たるものであり、

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain とはいえ、彼は決して自分の考えをダンサー達に遂行させるという単純主義者ではない。彼は自分の考えを、ひとつの〈課題〉としてダンサー達に与え、そこから引き出される解釈も取り込みながら作品を構築するアプローチを採っている。高瀬譜希子もそういうやり方の中に身を置いているという訳ですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そんなウェイン・マクレガーについても語っている高瀬譜希子のインタビューがこちら。

 

 

***************************************

 

 

 

 

◆ 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈菅原小春〉

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

僕を哲学的に考えさせる映画〈人狼ゲーム ビーストサイド〉 の中で、土屋太鳳 Sia"アライブ" MVで魅せたコンテンポラリーダンスについて触れました。

彼女は、その時の事を自分のブログ、Alive.|土屋太鳳オフィシャルブログ「たおのSparkling day」で書いているのですが、そこで世界的なダンサーである菅原小春の名前を挙げているんですね。土屋太鳳がアライブでのコンテンポラリーダンスに取組む様子を放送したのはTBSの『情熱大陸』ですが、そのしばらく後で、同じ『情熱大陸』で菅原小春が紹介されて一般的に知られるきっかけになったと思います。

 

菅原小春が出演した『情熱大陸』(YouTube)にリンクを貼っていましたが削除されたようなので、 彼女を紹介した『めざましテレビ』(YouTube)を見てみましょう。    

    

 

 

***************************************

 

 

 

1. Years&Years のDesire と菅原小春

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain情熱大陸』では、彼女が Years&Years"Desire"にインスパイアされて振付けをしている場面がありますが、後日、放送を見たYears&Yearsのスタッフから "Desire" のMV出演を依頼されていますね。とはいえ、"Desire"のMVは既に製作されていた(Years&Yearsのメンバー自身が出ている)ので、日本スタッフによる特別版MVという所でしょう。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 本家の "Desire" MV はこちら。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain Years&Years は2016年2月に来日していますが、 "Desire" 演奏時にはステージ上に菅原小春が登場します。ライブで共演が実現するとは。会場も盛り上がってます。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 彼女の"Desire"の振付けが、はっきりと見られるのがこちら。キレッキレです。1:24~頃から4人組みの女性たちに交代するのですが、その中の金髪のShibuya Yuki(漢字は分かんないので)のダンスもダイナミックで凄い。

    

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そんなShibuya Yuki が菅原小春と一緒に踊っているのがこちら。圧倒的なパフォーマンス。菅原小春が身体の細部に至るまでの表現(彼女は生命や力を込めるという言い方をする)をするのに対して、Shibuya Yuki はダイナミックで力を爆発的に解放するかのような表現をしてます。

    

 

 

2. 菅原小春のダンススタイル・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain よく彼女のダンススタイルって何だろうと疑問に思う人がいるようですが、特定のジャンルに色分けするのは難しいでしょう。敢えて言えば、ストリートジャズダンスに近いフリースタイルだといえるのでしょうが、彼女自身、特定のジャンルやスキルにこだわるというよりは、それらを自分流にアレンジして "自分" を表現していますね、"スキル"を表現するのではなくて。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この点こそ、並いるダンスの猛者たちから彼女の存在が突出している理由だといえます。通常、ダンスの完成度が高くなるにつれて人は、特定のジャンルやスキルをいかに上手く表現するかという事に傾いていきます。しかし、彼女のアプローチは違う彼女はスキルを表現するのではなく、"自分"を表現するために"スキル"を使う、必要ならばスキルを自分流にアレンジして

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain これを哲学的に考えてみましょう。人は本来、自分や個性を発揮するためにダンスという表現手段を選択するのですが、いつの間にか、"スキル"を表現する事に楽しさを見出し、それが "個性" だと思い込む。その結果、ダンスで本来、表現されるべき個人の衝動や気持ちが、"スキルという紋切り型" の中に取り込まれて出口を見出さないまま消え去ってしまう

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 彼女はそんな"スキルという紋切り型"に自分の個性や衝動が取り込まれないように "外部" に向けて "自分" を表現しようとしているスキルを表現するのではなく、自分の内部の衝動や気持ちが出来るだけダイレクトに身体の隅々にまで行渡るよう(もちろんある程度、スキルという媒介が必要だけど)な表現を意識的にしていると思われますね。それが彼女の動きを見る人に彼女のダンスは独特だと思わせる理由になっているのでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain このような彼女のアプローチは、ダンスを自分を表現する ための"技法(art)"として位置付けているという意味で、芸術(ART)の萌芽としてのダンスに向かうものだと解釈出来ますね。人が自分の身体を使って表現しようとする際に、その開始点である衝動を痕跡として可能な限り残そうという姿勢は芸術的なものの原点を示している訳です。この意味で彼女のダンスは、アートのひとつとしてのコンテンポラリーダンスといえるでしょう。

 

 

 

***************************************

 

 

 

【 僕を哲学的に考えさせる映画 『ヤコペッティの大残酷』 ・・・ そしてヴォルテールの『カンディード』 】

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

      

       f:id:mythink:20160828090610j:plain

 

監督:グァルティエロ・ヤコペッティ   公開:1975年    

出演:クリストファー・ブラウン ・・・ カンディード

  :ミシェル・ミラー     ・・・ クネゴンダ

  :ジャック・エルラン    ・・・ バングロス

  :リチャード・ドンフィー  ・・・ カカンボ

  :ホセ・クアリオ      ・・・ アッティラ

 

 

***************************************

 

 

かつて人気を博したモンド=残酷映画といわれる擬似ドキュメンタリーのジャンルを切り開いたヤコペッティの傑作。ただし、この〈大残酷〉を観た人なら、それまでの彼の映画とは少し違う印象を受けるでしょう。

というのも、以前の映画は野蛮的なものの擬似ドキュメンタリーという形式で、"現実っぽくみせる" 事に力点が置かれていたのに対して、この作品は、それ自体の内在的な力量を示す事(擬似ドキュメンタリーではなく、作品のストーリー性や思想性)に力点が移動しているからです。つまり映画それ自体への昇華が見られるという事ですね。

 

モンド映画の第一人者として、エログロ的要素から語られる事がほとんどであった彼の作品ですが、最後の監督作品において彼は"映画的なもの"にようやく辿りついたといえるでしょう。

                 

                     f:id:mythink:20161226214001j:plain

         グァルティエロ・ヤコペッティ(1919~2011)

                                          

 

***************************************

 

 

 

 

1. 残念な邦題タイトル〈大残酷〉・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 〈大残酷〉・・・、このタイトルだけで、この作品は敬遠されるのではないかと残念に思う人は結構いるのではないでしょうか。つまり邦題タイトルが作品の受容の可能性を狭め、その結果、この作品の面白さが見過ごされてしまうという訳です。確かに彼のそれまでのエログロ要素溢れる擬似ドキュメンタリー映画の積み重ねによって、ヤコペッティ=残酷・キワモノという紋切型に映画の配給会社が宣伝上頼らざるを得なかったという事情はあったでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、国内における本作品の初DVD化(株式会社スティングレイの尽力による)の機会にタイトルを原題(Mondo candido)に倣って、〈カンディードの世界〉、あるいは直訳に難があるのなら〈カンディードの彷徨〉などとしておけば一部のマニア以外にも訴求出来たのに・・・と思う次第です。

 

 

2.〈大残酷〉と〈カンディード

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 〈大残酷〉の原題、〈Mondo candido〉とは、フランスの啓蒙主義時代の思想家であるヴォルテールの小説〈カンディード あるいは最善説〉(1759年)を基にしている事は言うまでもありませんね。

            

      f:id:mythink:20161226214636j:plain

           ヴォルテール (1694~1778年)

                                       

f:id:mythink:20170330232931j:plain モンド映画ヤコペッティ啓蒙思想家のヴォルテールの組み合わせは奇妙に思えますが、ヴォルテールの〈カンディード〉は、彼の事を敷居の高そうな思想家だと思い込んでいる人達の見方を覆す程の娯楽作品なのです。しかし〈大残酷〉の下敷きが〈カンディード〉である事を知っている人でも、〈カンディード〉を実際に読んでいる人は少ないでしょう(※1)カンディード〉には、〈大残酷〉の萌芽であるエログロ的要素、哲学的要素旅行紀(※2)という要素が散りばめられていて、ヤコペッティが自分好みとして飛びついたのは容易に想像できるのです。下手すると、〈大残酷〉よりも〈カンディード〉の方が面白いと感じる人もいるかもしれません。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ヤコペッティは原作の要素を上手く利用し、自分の色に染め上げる事に成功しています。この点は大切です。というのも、原作の映画化とは、原作に忠実である事が目的ではなく、原作にいかに手を入れ、監督の色に染める事が目的だからです。そうする事によって原作の内包する隠れた可能性について様々な解釈をする自由が生まれるのです。ヴォルテール原作の〈カンディード〉においては、それだけではどうしても当時のイデオロギー的状況(最善説やカトリックに対する反発など)が作品の成立条件の地平となってしまっているという無意識的地層が、現在の読者の受容を限られたものにしてしまう。そんな時に、映画化によって新たな命を吹き込まれた原作は、イデオロギー的状況に還元されるだけではない、作品に閉じ込められていた娯楽的要素の開放を可能にするといえるでしょう。

 

***************************************

 

(※1)

逆に言うと、この反対の事も言える、つまり、〈カンディード〉を読んでいても〈大残酷〉を観た事がない、と。もう少し、細かく言うなら〈大残酷〉が〈カンディード〉を原作にしている事を知っていても、そんな "B級" を観るつもりはない。言うまでもなく、このような態度は、ヴォルテールを高尚な思想家としてしか扱わない知識人に多いでしょう。ここには"思想" と "カルチャー" との 間の"無意識的な溝" があるのであり、だからこそ、ヴォルテールヤコペッティの短絡(ショートカット)はそんな "溝" に囚われないように大いに楽しむべき出来事なのです

 

(※2)

ヴォルテールアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによるイギリス社会を批判した〈ガリバー旅行紀〉に影響を受けている。

 

 

***************************************


 

 

 

3. 〈大残酷〉のストーリー

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ドイツのウエストファリア地方(※3)にあるツンダー・テン・トロンク男爵の城にカンディード(※4)という心のやさしい青年がいた。彼は哲学の家庭教師パングロスに "この世のすべては最善である" という教えを受けながら、男爵の娘である美しいクネゴンダに会える毎日に幸せを感じていました。

 

〔 シークエンス 1. 〕

クネゴンダから、ある日、食事中に誘いを受けるカンディード

 

"後で庭で会える?" by クネゴンダ

f:id:mythink:20160830210930j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

(※3) 

現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州。州都はデュッセルドルフ。ケルンやドルトムントなどの大都市があり、東西冷戦時代の西ドイツの首都であったボンもある。

              f:id:mythink:20160829170745j:plain

ノルトライン=ヴェストファーレン州は、第2次世界大戦までは西部のライン地方、東部のヴェストファーレン地方(英語で言うとエストファリアカトリックプロテスタントによる30年戦争終結時のエストファリア条約の締結地。高校の世界史で出てきますね。)、リッペ候国に分かれていた。

         f:id:mythink:20160829172335j:plain

              画像はWikipedia から

 

(※4) 

カンディード=CANDIDE(仏語)とは、無邪気純真無垢という意味だが、これはクネゴンダを追って世界を巡るなかで様々な災厄を被る主人公に対して、ライプニッツ最善説(すべては善である)に反駁する意図で以って、皮肉的につけられた名前だというのが一般的解釈でしょう。

しかし、さらに解釈を進めてみます。CANDIDE純真無垢とは、ラテン語candidus(白く輝く)に由来するといわれるが、さらにそれの元の語であるcandela(牛などの獣脂で作った蝋燭)を考慮するなら、蝋が何らかの型を取るのに適した性質を持つことから、"何らかの経験を刻む、あるいは刻まれるもの"という哲学的解釈を導く事も出来るでしょう。その解釈を表す言葉こそ、経験論哲学を唱えたイギリスの思想家ジョン・ロック"タブラ・ラサ(何かが刻まれる事が可能な白紙状態)" ですね。

そうすると、ジョン・ロックなどのイギリスの哲学に影響を受けたヴォルテールが描き挙げた主人公、カンディードとは、最善説への皮肉の象徴というつまらない者ではなく、世界各地を巡る中で被る様々な経験をその身に刻みながら、自分を "主体" として確立するというという意味で、経験論哲学の帰結を象徴しているとさえいえるでしょう。このポイントを取り逃がすとラストの場面(原作,そして映画も)の解釈はつまらないものになってしまいます。ラストの解釈については、本記事で考えていきますね。

 

***************************************

 

 

〔 シークエンス 2. 〕

カンディードクネゴンダがいる同じ庭でリンゴを採る侍女のお尻をさわりまくるパングロス。変態っぽさ丸出しです。

 

"この球ほど丸いものはない" by パングロス

f:id:mythink:20160830212632j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 3. 〕 

パングロスの変態行為はさらにエスカレートして木の穴を利用しての性行為へ。余りの激しさにリンゴがどんどん落ちてくる。パングロスの変態っぽい表情がスゴイ。これが哲学教師なのか(笑)!しかもその様子をクネゴンダが微笑みながら眺めている(驚)!

 

"パングロスは木を使うために作られた"

"何より果実をもぎ取るために作られた" by パングロス

f:id:mythink:20160830213658j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 4. 〕

パングロスと侍女の行為を眺めていたクネゴンダは、バランスを崩してブランコから落ちてしまう。なんとカンディードの顔に股を押し付けて倒れるという有り得ない展開へ。カンディードクネゴンダの股に顔を埋めたまま離れようとしない。恍惚の表情を浮かべるクネゴンダ。

f:id:mythink:20160831065813j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 5. 〕

その様子を城の望遠鏡から見て驚く男爵。表情の演技がいちいち大袈裟で面白い、これはパングロスにもいえる事ですが、とにかく、キャラクターが際立っている。 

f:id:mythink:20160901185953j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 6. 〕

興奮して家来を引き連れる男爵と巨漢の妻。妻の体重は、原作では170kgになっている。原作に近づけようとするキャスティング。

f:id:mythink:20160901212455j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 7. 〕

ユーモアのセンスがあるヤコペッティ。ショートコントを差し込んでいます。

 

"血の海を見せろ!押さえてくれ"  by 興奮する男爵

"はい 男爵"  by 男爵を押さえる家来

 

これは "違う! 俺じゃない" という男爵の家来へのツッコミがないから分かりにくいですが、わざわざコントをさせていますね。だってカンディードは既に逆さにされ、Vの字の形で家来に押さえつけられていて今さら押さえる必要がないのだから(苦笑)。しかもカンディードの逆さVの字の形、犬神家の一族です(笑)。

f:id:mythink:20160901214139j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 8. 〕

男爵に棍棒でブッたたかれ、地面を転げまわるカンディードカンディードが悲惨なこの場面でも、ヤコペッティはユーモアの精神を発揮する事を忘れない!

 

"お許し下さい" by 男爵に許しを請うカンディード

 

で、ここで犬のアップ。この後のカンディードに対する男爵の言葉!

 

"犬は黙れ!" 

 

まさか、このセリフのためだけに犬を用意したのか!そうだとすると芸が細かすぎる(笑)。一応原作では猟犬がいる事になってますが・・・それでもわざわざね。そしてカンディードの締めの言葉。

 

"そんな お許し下さい"

 

"そんな"という言葉が悲しすぎる(笑)。僕を犬扱いしないで下さいよという感じが伝わってきます。

f:id:mythink:20160901223046j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 9. 〕

男爵によって追放を宣告されるカンディード。それまでの城の庭から一転してカンディードがただ1人で何も無い広大な土地にたたずむ姿の場面への切替が印象的です。

 

"お前を追放する" by 男爵

f:id:mythink:20160904100919j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 10. 〕

1人寂しく旅に出るカンディード。自分への仕打ちに対して最善説への疑念を抱くカンディード。これに対して"世の中は甘くないのだから最善ではないのは当然だ"と反対の命題を唱えるのは単純すぎるでしょう。

見過ごされがちですが、最善説への反駁の舞台裏では、"経験論の哲学"が潜んでいます。つまり、最善ではないと思わせる主体の "経験" が働いているのであり、何が最善であり、何が最善ではないのか、という事には "主体の経験という出来事" が大きく関わっているのです。

この "経験という出来事" とは、経験の主体が、我が身が消滅する程の経験(戦争、災害、事故、殺人などの死)すら自らに刻み込んでしまうという意味で、最悪のものでありながら、その能力がなければ喜びや楽しみなど多様なものを味わう事が出来ない最善のものでもあるという意味で、矛盾に満ちたものであり、ある意味で人間的なものを越えているとさえ言えます。

f:id:mythink:20160904132029j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 11. 〕

ブルガリア(※4)で軍隊に無理矢理入れさせられたカンディードだが、彼が本格的に参加する前に、ブルガリア軍は国籍不明の敵国(※5)に大敗してしまう。そんな事よりも昔風のブルガリア兵と現代的な軍隊とのコントラストが凄すぎる!しかもブルガリア兵は敵国との戦力の違いからか全員固まってしまいイラストのボードになってしまうというシュールな展開に。かなり手の込んだ事をしているが、敵国の火炎放射器に対して生身の人間では危険すぎるという撮影時の配慮も織込み済みのウケ狙いなのか(笑)。

f:id:mythink:20160904142342j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

 (※4)

原作が書かれた当時(1759年)には、ブルガリアは国としては存在していない。以前に存在していた第2次ブルガリア帝国(1185~1396)は十字軍として参加した1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世率いるオスマン帝国に敗れ、オスマン帝国露土戦争(1877~1878年)で敗れるまで、その支配下にあった。

 

(※5)

原作では敵国はアバリアとなっているが、これは架空のもの。 (※4)で触れたブルガリアも当時、国として存在しない事と合わせて考えると、ブルガリアヴォルテールが滞在した事のあるプロイセン(ヴォルテールプロイセン国王のフリードリヒ2世と交流があった)であり、戦争はイギリスの支援を受けたプロイセンオーストリア・ロシア・フランスなどとの7年戦争をモデルにしているという見方が出来る。

 

***************************************

 

 

 

〔 シークエンス 12. 〕

戦死者が横たわる廃墟で再会するカンディードとパングロス 。彼はクネゴンダは犯され殺されたという残念な報告をする。これに対してカンディードは、それらの原因が "憎しみ" ではないかと言う。

f:id:mythink:20160905031502j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 13. 〕

しかし最善説の信奉者パングロスは、最善説を否定しかねないその意見を否定し、原因を "恋" というトンデモ説を展開する。

 

"梅毒がなければ私達はアメリカを手に入れておらん"

"アメリカ(※6)なしにポテトもトマトも口紅もなかった" by パングロス

 

これだけではよく意味が分からないのですが、要は自分に梅毒をもたらした経路(パングロス自身に梅毒を移したのは、冒頭で性行為をした侍女のパケット。リンゴを採っていた女性)の元は、コロンブスの船の水夫であり、彼らがアメリカを発見してくれた恩恵にくらべれば今の状況はなんて事はない、という事でしょうか・・・何という無茶苦茶な理屈!仮にアメリカ発見が最善な事だとしても、その恩恵に与るために不幸があるのだというパングロス的理屈に納得する人は変わり者でしょう。

f:id:mythink:20160905122757j:plain

f:id:mythink:20160905130201j:plain

              〈クリックで拡大〉 

(※6)

ちなみに原作ではアメリカは国という概念では出てこない(南米大陸の都市の記述はあるので、南北という括りではアメリカという大陸は登場する)。トマス・ジェファーソンによって"アメリカ合衆国"の言葉が加えられたアメリカ独立宣言1776年ヴォルテールの死の約2年前だから当然といえば当然。ヨーロッパ諸国からするとアメリカは植民地でしかなかった。

アメリカという言葉自体は、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーフィレンツェの探検家アメリゴ・ヴェスプッチに因んで、世界地図(1507年)でコロンブスの発見した新大陸にアメリカという言葉を用いた事による。ただし、これは南米大陸に書き込まれたものであり、大陸全体は一般的にインディアスと呼ばれていた。そのような漠然とした南北大陸について、北アメリカと南アメリカという別々の記載を行った(1538年)のが社会科の授業で習う有名なメルカトル図法ゲラルドゥス・メルカトルですね、あくまでも地理学的な視点から見た場合ですが。このような経緯の中、南北大陸をアメリカ大陸とする一般的な見方が徐々に定着していきます。

 

***************************************

 

 

 

〔 シークエンス 14. 〕

 その廃墟に突然現れた異端審問官が問う。

 

"すべてが最善であると信じるのであれば、罪も罰もない事になろう" by パングロスを問い質す異端審問官

 

それに対してパングロス罪と罰は、この世が最善であるための必然だと言う。異端審問官は必然であれば、自由を信じていないのか(※7)とさらに問い質す。パングロスは自由は必然と両立すると言うが、さえぎられ罰を宣告される。

ちなみに原作では、この場面は大地震発生直後のリスボン。現実に1755年にはリスボンの大地震が起きており、津波・火災を含めて死者が4~6万人といわれ、リスボンの町は廃墟と化したという。これに強く影響を受けたのが、ここで取り上げている〈カンディード〉の作者である啓蒙思想家のヴォルテール。この後、ヴォルテールリスボン大震災に寄せる詩〉を書き(1756年)、最善説の無力を示している(※8)

f:id:mythink:20160905155647j:plain

               〈クリックで拡大〉

 (※7)

この質問から、異端審問官がカトリックである事が分かる。これは"自由意志"の教義問答だともいえる。周知の通り、カトリックは自由意志を認めているが、自由意志を認めないカルヴァン派などを異端としている。

一見すると自由意志を認めないカルヴァン派は救いがなく身も蓋もないように思えるが、そうとはいえない。というのも世界史の授業で習うように、マルティン・ルターが免罪符を大量販売する教会を批判したように、当時は教会の腐敗が問題となっていました。このような腐敗の原因のひとつとして自由意志を認める教義があるからだと解釈出来る余地はあるでしょう。

つまり、贖罪に向かおうとする人々の自由意志を、罪の軽減によって教会の腐敗的権力が利用するのであれば、本来、人間がコントロール出来ない罪を教義的に正す必要があるカルヴァンが考えたのは当然の事だと言えます。自由意志の否定、予定説、全的堕落などのカルヴァン主義の特徴が、人間的なものの介入を許さないように見えるのは、教会権力への政治的対抗措置の理論的帰結としての側面も備えている事を見逃すべきではないでしょう。

 

(※8) 

リスボン大震災に寄せる詩〉の副題は"あるいは「すべては善である」という公理の検討" となっている。悲惨な現実を語ったその詩の中で、彼はライプニッツに言及する。

ライプニッツは、私にまったく何も教えてくれない

存在しうる世界のうち、最高に整っているこの世界で

底なしの無秩序、不幸の混沌が、多くの苦とわずかな快を

つなげている、その見えざる結び目について教えてくれない

罪のない者がどうして罪人と並んで、いやおうなしに

苦しまなければならないのか、かれは教えてくれない

どうしてすべてうまくいく、というのか、私にはわからない

 

とはいえヴォルテールの言葉で以って、現実を省みないライプニッツの哲学が価値の無いものだと感情論的に判断するべきではない、と付け加えておかなければ公平ではないでしょう。ヴォルテール自身も上記の詩の後に次のように付け加えている。

 

いやはや、私もそこらの学者と並んで、まったくの無知なのだ

 

 

***************************************

 

 

〔 シークエンス 15. 〕 

異端審問により罰を受けるカンディード。尻叩きの刑(笑)。パングロスは絞首刑だったが、死に切れずに生きていた事が後で分かる。その他にも処刑を受ける白塗りの魔女たちなどが登場し、黒服の男たちによつて音楽が演奏される状況は、非日常的で奇妙な世界となっている。そして尻叩きの刑を受けるカンディードを見つけてクネゴンダは驚く。彼女は生きていた、4人の男たちと関係を持ちながら。

f:id:mythink:20160906005728j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 16. 〕 

カンディードが追放された後、城で襲われた時の真相を語るクネゴンダ。

 

"悪魔に殺されたって・・・"

"犯されただけよ" by クネゴンダ

f:id:mythink:20160911094316j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 17. 〕

説明を続けるクネゴンダ。

 

"裁縫をしながらあなたを思っていた"

"乱暴な男が部屋に来たの" by クネゴンダ

 

レコードやギターが無造作に散らばっている様子(彼女にそんな趣味があったとは予想外・・・ヤコペッティの趣味なのか?)は、とても裁縫していたように思えないのですが・・・。しかも乱暴な男が来たと言うわりには、顔が見えないはずの甲冑姿の男がギターを持っているだけで好きなミュージシャンのアッティラ(※9)だと決め付けて興奮するクネゴンダ。自分から飛びつくとは能天気すぎる。尻軽なキャラになってます(笑)。

f:id:mythink:20160911110621j:plain

               〈クリックで拡大〉

 (※9)

ミュージシャンのアッティラ・・・誰かに由来しているのかなと思いましたが、おそらくはソロデビュー(1972年)以前のビリー・ジョエルが、前のバンド The Hussles でドラマーだったジョン・スモールと作ったバンAttila からインスピレーションを得ているのかも。1970年にアルバムアッティラ「邦題:フン族の大王アッティラを1枚リリースしたのみで活動を終えましたが(売れなかったようなので)、そのサイケデリックなへヴィサウンドでビリーがシャウトする楽曲(特に1970年代のハードロックバンドで多用されたオルガンの歪みが特徴的)は、今の彼からは遥か彼方の宇宙ほどにかけ離れ過ぎている(笑)ので戸惑うファンも多いでしょう。でも現在のへヴィロック好きのファンからしたら、お気に入りの作品になるくらい魅力的だといえます。

この時は、ソロデビュー前で名義もウィリアム・マーティン・ジョエルのようなので、ヤコペッティもビリーについては知らなくて、その攻撃的なサウンドとバンド名が頭の片隅に残っていたという所ではないでしょうか。

    

 

 

***************************************

 

 

〔 シークエンス 18. 〕

クネゴンダと再会したのも束の間、連れ去られたクネゴンダを追って、カンディードは元黒人奴隷のカカンボ(原作ではスペイン系の従僕)と共に、アメリカにやって来る。アメリカといっても現在のアメリカになっていて、そこにカンディードやカカンボが、コロンブスリンカーンなどの過去の人物達と共に現れます。

このアメリカ編から、ヤコペッティの脚色が強くなります。原作には無い、この過去から現在への時間の変化はこの映画を考える上で大切なポイントでしょう。というのもヤコペッティは最初に原作のカンディードありきで構想を練り始めるような文芸愛好家ではなく、彼の出自であるモンド映画の監督である事を考慮するなら、始めにありきなのは、彼の出自であるモンド映画の撮影記録の無意識的地層だといえるからです。

世界各地を対象とした撮影は、たとえ擬似ドキュメントだったとはいえ、"事物の記録の積重ね"が、彼の中に"事物の記録の経験者"としての自分をひとつの"主体"として、つまり"何事かを経験する者という経験論的視点"を獲得させたと言う事は出来るでしょう。

 

その彼が、"世界各地での経験"という視点をヴォルテールの原作の中に見出し、原作の主人公であるカンディード"経験する主体"である事を理解したとき、静かな哲学的興奮を覚えたに違いありません。つまり、〈大残酷〉とは、ヴォルテールの〈カンディード〉を自らの事物の記録という経験に接続する試みであり、過去から未来への時間移動は予め考え込まれたSF的設定ではなく、ヴォルテールを自らに方に接続しようとする試みの軌跡のひとつとして現れた時間軸である、というのが〈大残酷〉の哲学的真理だといえるでしょう。

 

"これこそ あり得べき最善の世界です" by なぜかパングロスがディレクターを務めるTV中継

f:id:mythink:20160911114046j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 19. 〕

 再会して互いに喜ぶカンディードとパングロス

 

"でも 絞首台で・・・" by 生きているパングロスを不思議に思うカンディード

"私を吊り損ねたんだ" by 説明するディレクターのパングロス

f:id:mythink:20160911174149j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 20. 〕

カンディードからクネゴンダを探していると聞いたパングロスはTVを使ってアピールするように言う。さすがディレクター、力を持っています。が、その直後、あり得べき最高の絶頂と紹介されているクネゴンダのショーの宣伝カーを見つけて、カンディードは激怒する。

 

"何しに来たんだ" by カンディードに聞くパングロス

f:id:mythink:20160911195318j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 21. 〕

ポスターにクネゴンダと一緒に描かれた男(アッティラですけど、彼の仲間がクネゴンダが連れ去る時に、彼はカンディードと戦って失神させられて置き去りになったはずなのですが・・・まあ、いっか)が彼女をたぶらかしたとして怒っているカンディードに対してパングロスは言う。

 

"彼に怒ってもムダだぞ" "彼はギターの弦で首を吊った"

"クネゴンダはどこです?" by カンディード

"アイルランドさ"

"プロテスタントと戦う彼女はカトリックの坊主と行った" by パングロス

 

おいおい、クネゴンダの行き先を知っているのなら、なぜカンディードにTVでアピールさせたんだ!ってツッコミたくなるが、それは野暮というもの。気にしないようにしましょう。

f:id:mythink:20160911205239j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 22. 〕

舞台はアイルランドアイルランド北部6州が北アイルランドとしてイギリスの一部である事に不満を抱くIRA(アイルランド共和軍) が、アイルランド統一のためイギリス勢力に対する武装闘争を掲げてテロを繰り返していた。1970~1990年代はIRA内部でも、一般的支持を得られないテロに代わる政治的交渉の声も起きたが、より純粋な武装闘争を唱えるIRA暫定派が台頭し、イギリス本土への爆弾テロなども仕掛け、テロリズムを強めていた(※10)

アイルランドになぜか現れたパングロス率いるTVクルー。

 

"キリスト教の平和な理想が起こす現実(※11)"

"小さな不幸は多数の善を生みます" by パングロス

f:id:mythink:20160911212934j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 (※10)

現在の状況に関して言うなら、1998年に労働党トニー・ブレア政権下でIRAとの和平合意(ベルファスト合意)が成立した。この後、アイルランド国民投票によって北部6州の領有権主張を放棄した。2005年にはIRAは武装闘争終結を宣言している。

 

(※11)

アイルランドにおける宗教闘争は、北アイルランド及びイギリスのプロテスタントアイルランドカトリックという形で現れていた。クネゴンダはカトリックのために率先して来たというよりは、カトリックである異端審問官に連れて来られたと言った方がいいかも。訳も分からずについて行ったという感じですか。

それにしても、宗教闘争それ自体は全く宗教的ではないといえる。どのような宗教であれ、その第一原理が、誰かとの争いを勧めるものではないのだから。では、外部の誰かとの闘争という原理は、どこから発生するのか?それが宗教それ自体からではないのなら?

答えは、宗教の内実それ自体からではないが、宗教という名のイデオロギーからといえる。宗教に従属する内部の人にとっては、それは恩寵や信仰といった内実のあるものだが、そこに従属しない外部の人に対してはイデオロギー的なものになる。言い換えると、宗教に従属する人に対しては教義であるものが、従属しない外部の人に対しては闘争を仕掛けるイデオロギーに変質するという事ですね。もちろん、この事は宗教だけでなく、科学や経済、政治、哲学などについてもいえます。

このようにイデオロギーとは闘争的なものなのですが、そのような用語を聞くと、古くさいマルクス主義を思い浮かべるかもしれませんが、マルクス以前に宗教にイデオロギー闘争を持ち込む事に成功した人こそ、少し前に触れたカルヴァンに他なりませんカルヴァン主義がヨーロッパで勢力を持ちえたのも、その教義のみだけではなく、イデオロギー闘争の側面があった事は否定出来ないでしょう。

 

***************************************

 

 

〔 シークエンス 23. 〕

アイルランドの内戦で廃墟と化した教会に足を踏み入れるカンディードとカカンボ。そこにはアメリカからクネゴンダを連れて来た異端審問官がいた、いや、今さら、異端審問官っていうのもどうしたものか、ただのおじさんにしか見えない(笑)。

クネゴンダは既にそこにはいなかった。裏切られたと感じている異端審問官は怒りのあまり、カンディードたちに機関銃を撃ちまくる。

 

"彼女はユダヤ人と聖地へ逃げた!" by 異端審問官

f:id:mythink:20160912225652j:plain

               〈クリックで拡大〉

 

〔 シークエンス 24. 〕

エルサレムに来てクネゴンダを探すカンディードとカカンボ。壁に貼られた兵士募集のポスターのモデルがクネゴンダなのに、誰も彼女の事を知らないという。何人にも聞いて回り、愚直にクネゴンダを探すカンディードに対して、カカンボはシャワーを浴びる女性兵士に色仕掛けで迫るという驚きの行為(そんなキャラだっけ?)で彼女が敵側であるアラブゲリラの所にいる事を聞きだす。アラブゲリラという事は、イスラエルと対立するアラブ諸国側の兵士なのでしょうが、エルサレムという場所を考慮するなら、パレスチナゲリラというのが正確な所でしょう。

f:id:mythink:20160912234346j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 25. 〕

おそらく撮影当時は、第4次中東戦争(1973年)前後ですが(さすがに撮影場所は違うと思うけど)、タイムリーで緊張感のある戦争を映画の素材の一部(先に述べたアイルランド紛争を含めて)として自分の色に染め上げてしまうヤコペッティは、世界各地における紛争・戦争が、人間にとっての "最悪の出来事" であるがゆえ、映画の中で描く必要のある "経験" だと直感的に理解していたといえますね。

以下の、赤い花が咲き誇る中でのイスラエル女性兵士とパレスチナゲリラの戦闘は、争いの中でも静かに佇むしかない花との対比において、人間存在が "最後に行き着く経験"、つまり "死" (赤い花畑の中に横たわるイスラエル兵とゲリラ兵の死体)を刹那的に描いている

f:id:mythink:20160918205509j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 26. 〕

クネゴンダを再び探すために老人たちばかりが集まる村に来たカンディードとカカンボ。ここにいる老人たちは"フラワーチルドレンという平和と愛と非暴力の集団" だと説明されていますが、もちろんこれは1960代後半から1970年代にかけてアメリカでのフラワームーブメントを担ったヒッピーたちの事。ここでは、社会的束縛に抵抗する事に熱中した若者であったヒッピー達の成れの果ての姿を描いている。

ただし、これはヒッピー達への批判というよりは、社会的抵抗を求め自由を謳歌する若者でさえも、"いずれ老いていくという誰にも共通する人間の経験" を表していると考えるべきでしょう。

村人はクネゴンダの居場所ならダルヴィーシュに聞けとカンディードに言う。ダルヴィーシュ(※12)とはイスラム神秘主義(スーフィー)の修道僧の事。原作でもダルヴィーシュは出てくるのですが、映画ではヒッピー達の村にイスラム神秘主義の修道僧がいるという奇妙な状況になってます(笑)。

f:id:mythink:20160918222657j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

(※12) ダルヴィーシュと聞くと、アメリカのメジャーリーグで現役投手(2016年現在)であるダルビッシュ有(テキサスレンジャーズ。元日本ハム)を思い浮かべるでしょう。彼の父親がイラン出身なので、ペルシア語のダルビッシュが名付けられている訳ですね。

 

***************************************

 

 

〔 シークエンス 27. 〕

■ なぜかヒッピーの村にいるクネゴンダを見つけるカカンボ。ダルヴィーシュに聞けと言った村人のアドバイスをまるっきり無視する流れ。一体何だったんだ!

クネゴンダの姿を確認したカンディードは一瞬目を潤ませるのですが、すぐに彼女が老けてしまっている事に気付きます。

f:id:mythink:20160919010026j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 28. 〕

そこに突然現れるかつての知り合い達。TVディレクターだったパングロスも元の姿に戻っている。男爵、奥方もいる。

そしてカンディードは、ダルヴィーシュを訪ね、哲学問答を始める。

 

"人間と言う妙な動物はなぜ存在するんです?" 

"この世は邪悪すぎます" by カンディード

"善悪を気にするなどお前のやるべき事か" by ダルヴィーシュ

 

カンディードの問いに対してダルヴィーシュは明確な答えを与えられず期待はずれなのですが、彼の発言は映画の結末(原作も含めて)に対する哲学的解釈を行う上での基本的な伏線となっているといえるでしょう。それについては後で考えていきますね。

f:id:mythink:20160919061428j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 29. 〕

老け込んだクネゴンダを見て考え込むカンディード

 

"なぜ若さは すぐ消える?" by カンディード

f:id:mythink:20160919090518j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

〔 シークエンス 30. 〕

目の前の川を見ながら、最善説を反芻するカンディード。だがここで彼は最善説から、ある種の運命論へ移行しつつある事が分かる。

 

"流れがなければシンボルは反対の岸に流れ着くが 結局 若者たちが またそれを川に投げる"

"運命だよ 逃れようがない" by カンディード

f:id:mythink:20160919094957j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

4. 結末の解釈

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain さて映画の結末について考える前に、原作の結末に触れておく必要があるでしょう、映画との差異を浮かび上がらせるためにも。

 

世界各地を放浪した末にパングロスは仲間達と共に、小さな畑を耕すという日常に没頭していきます。

"ぼくにわかっていることは ひとは自分の畑を耕さなければならない、ということ" by カンディード

"人間がエデンの園においてもらったのは、聖書にもあるとおり、そこを耕すため、つまり、労働をするためなのです" by パングロス

"議論とかするひまがあったら働きましょう。それのみが人生を我慢できるものにする唯一の方法なのです" by マルチン

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain このように、原作における結末である第30章は、最善説的な哲学議論から"労働"への移行が描かれています。この部分は、カンディード"ひとは自分の畑を耕さなければならない"というセリフと共に、ヴォルテールに関心のある人達にとって、常に解釈の対象となっていました、まるでカンディードの言葉に何らかの哲学が含まれているかのように。たとえば、抽象的に解釈するならば、答えの出ない哲学議論のような他の領野の中で迷走するよりは、自分の手が届く日々の生活の営みに集中する事の方が有意義な人生の過ごし方なのではないか、という具合に。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、カンディードダルヴィーシュとの哲学問答で示されていたのが哲学的思考の停止に他ならないとするならば、カンディードのセリフに含まれていたのは、哲学的なものものではなく、それどころか、哲学理論からの撤退以外の何物でもないのは明らかでしょう。つまり、カンディードのセリフは人生論的には有効でも、理論的には後退している(※8)で記したように、それはヴォルテール自身が認める所でしょう。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain そんな原作に対して、ヤコペッティの映画のラストは理論的なものについて考える可能性を残しているという意味で、ヴォルテールの原作以上に興味深いものになっています。

 

〔 シークエンス 31. 〕

"ダメだ 行くな 痛い目に遭うだけだ" by 川の対岸に自分の姿を見つけたカンディード

"痛い目に遭いたいのさ"

"最初から全部また経験するんだろ" by 去り際に冷静なセリフを残すカカンボ

f:id:mythink:20160919121344j:plain

              〈クリックで拡大〉 

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain このラストによって、ヤコペッティヴォルテールの原作の中では最善説の裏で漠然とした形でしか現れてなかった経験論を主体に帰す形で浮かび上がらせ、さらにその帰結を提示したのでした。つまり、最善説に反対するにせよ、賛成するにせよ、それ以前に、そこにはまず"何かを経験する主体"が先立つのであり、その"経験という在り方"は当然ではなく、主体にとっての特別な出来事であるという哲学理論が現れるのです。

このことはヴォルテールが放棄した理論的に考えるという知識の仕事は、もはや止められない事を意味します。パングロスエデンの園に言及しましたが、アダムはそこで知恵の樹の実を食べたが故に、イヴと共に追放されたのでした。つまり、それ以後は私達は知る事が出来るのに、知らない振りをするという嘘をつく事こそ、さらなる罪である事を哲学的に理解する必要があるでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ヤコペッティ経験する主体にさらに捻りを加えています、主体が経験した事を再び経験するという永劫回帰的モチーフを導入しているのです。この時、主体には何が起き、哲学的にどう考えなければならないかは大きなテーマとなるので機会があれば、その時に論じましょう。いずれにせよ、ヤコペッティの大残酷は、ヴォルテールカンディードが放棄した哲学理論的に考え続ける事の可能性と、映画それ自体を娯楽として楽しむ可能性を内包しているといえるでしょう。

 

 

***************************************

 

 

 

◆ 僕を楽しくさせるカルト映画:ジョン・フリンの〈ローリングサンダー〉

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

 

      f:id:mythink:20160815023356j:plain

                                   監督:ジョン・フリン 

              公開:1977年   

 

脚本ポール・シュレイダー 

  :ヘイウッド・グールド

出演ウィリアム・ディヴェイン ( レーン少佐 )

  トミー・リー・ジョーンズ ( ジョニー伍長 )  

  :リンダ・へインズ     ( リンダ・フォルシェ )

  :ローラソン・ドリスコル  ( クリフ )

  :ダブニー・コールマン   ( マクスウェル )

  :ルーク・アスキュー    ( スリム )

 

 

***************************************

 

 

 

1. 社会への不適合者

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain フック船長のような2本爪の義手を装着した佇まいが渋いウィリアム・ディヴェイン主演の映画。この映画のタイトルローリングサンダーベトナム戦争におけるアメリカ軍による北ベトナムへの爆撃作戦から来ている事は明らかでしょう。

ベトナム戦争帰りの兵士たちの社会への不適合性というこの作品の時代背景を知らない人も、レーン少佐のこの異様な姿を見るだけで、普通じゃない"何か"を感じ取るはずです。その"何か"とは、周囲に馴染めない人間の醸し出す雰囲気や存在感であり、2本爪の義手とは、まさにそのようなものの象徴と解釈する事が出来ますね

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain それ程、ベトナム戦争の帰還兵が受けた心の傷跡は大きかったし、アメリカという国にとってもベトナム戦争は、結果として長年に渡って疲弊を与えただけの負の歴史であったといえます。共産主義陣営とのイデオロギー対立を契機として、アイゼンハワーケネディ、ジョンソン、ニクソン、等の幾人もの歴代大統領にとっての政治的問題であり続け、泥沼にはまった挙句に最終的には撤退という形をとるしかなかったという経緯がありましたね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ベトナム戦争を経験した兵士の中には、社会復帰が上手く出来ない程のトラウマを抱え込んでしまう者もいたのでした。アメリカではベトナム戦争の経験が映画の1ジャンルを形作っているとさえいえます。〈ディアハンター〉〈フルメタルジャケット〉〈プラトーン〉〈地獄の黙示録〉(これは少し毛色の違う異色作ですが)、などですね。

 

 

2. 社会的メッセージ? いや個人の生き方として・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ただし、それらの映画がアメリカの社会的経験として昇華されているのに対して、このローリングサンダーや同じ脚本家のポール・シュレイダーが関わったタクシードライバー、そしてランボー〉の第1作などは、監督や脚本家がわざとそうしなかったのか、それとも出来なかったのかは分かりませんが、社会的なメッセージを訴える方向に向かわずに、ひたすら個人の生き様を描く事に固執していますね。個人の虚脱感や敗北感がかろうじて社会的なものへの引っかかりを示してはいますが。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain つまり、ベトナム戦争などの大きな出来事がなくとも、社会に馴染めず、自分の流儀にこだわる事しか出来ない(たとえ破滅的な結末であろうとも)不器用な人間はいる訳で、そのような個人の生き方に焦点を絞るなら、ベトナム戦争という大きなテーマでさえ、個人の人生の中ではひとつの要素に過ぎなくなってしまう程、強烈に人生の刹那を描いている訳です

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そう考えると、ローリングサンダーは、ベトナム戦争での拷問のトラウマが主人公に大きな影響を与えているとはいえ、殺された家族の復讐をする事しか出来ない彼の不器用な生き様をひたすら描いたカルト映画だといえるでしょう。

 

 

3. いくつかの場面・・・

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ベトナム戦争から帰還した夫に妻ジャネットは、親切にしてくれていた警官クリフとの交際を告白する。

 "成り行きだったの" by レーン少佐の妻ジャネット

f:id:mythink:20160815173111j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 表向きは冷静を装うレーン・・・。というより戦争中の拷問のトラウマで感情の起伏がなくなっているのか?

  "それ以上は聞きたくない" by レーン少佐

f:id:mythink:20160815174202j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ベッドに横たわるレーン少佐の脳裏にフラッシュバックする拷問シーン。反射的に腕立て伏せを始めてしまう。身体を動かす事で悪夢をごまかそうというのか?しかも捕虜中はシーツのない板のベッドで寝ていたため、家のベッドもシーツをはがしてしまうという行動に出る・・・そして体育座り。

f:id:mythink:20160815182115j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ジャネットとの交際の件で話しに来たクリフだが、なぜか突然、戦争中の拷問に耐えたレーン少佐を賞賛し出す・・・。ご機嫌をとろうというのか?それに対してレーン少佐はなぜかうれしそうになる。

 "聞きたいんだろう" by ニヤッと笑うレーン少佐

f:id:mythink:20160815183254j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ロープを使った拷問を実演し始めるレーン少佐。通常であれば、相手にかけるであろう所を、なぜか自分にロープをかけてしまう・・・これでは相手に痛さが伝わらない!マゾなのか?

"もっと高くだ  骨が音をたてるまで  " by ロープでもっとキツくするよう訴えるレーン少佐

"もういい 充分だよ" by ドン引きするクリフ

f:id:mythink:20160815184624j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 冷静になったレーン少佐はクリフに釘をさす "おれの子供をチビと呼ばんでくれよ"。つまり身内であるかのようになれなれしくするなという事ですね。しかし、これでは根本的な解決になっていない!妻の事には触れずに"約束だぞ"と言って終わるのだから。妻との交際は黙認するというのか?微妙だ・・・。

 "気にせんでくれよ" by レーン少佐

f:id:mythink:20160815190327j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、妻に裏切られようとも、渋いレーン少佐には女の方から寄ってくる。この時から彼の気持ちはリンダに傾いている。

 "あなたは口数が少ないタイプね" by リンダ

f:id:mythink:20160815192138j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 家に帰ってきたレーン少佐を待ち受けるメキシコ人の強盗たち。

町の歓迎式典でレーンが贈呈された銀貨を奪いにきたが、レーンは答えようとしない。

f:id:mythink:20160815193443j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 何発殴られても口を割らないレーン。戦時中の拷問場面がフラッシュバックしているが、それに比べたら耐えられると自分に言い聞かせているのか?手をライターで炙られても動じない精神力!

f:id:mythink:20160815212029j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 強情なレーンに対して、強盗たちはさらなる痛みを加える。レーンの右手を台所下のディスポーザーに突っ込むという暴挙に出る!それまで無口だったレーンも苦痛のあまり、さすがに叫び声を挙げてしまう!しかし、砕けてしまった自分の右手をかばいながらも、銀貨の在りかはしゃべらないという精神力は健在です!

f:id:mythink:20160815213117j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そこにタイミング悪く帰ってきたレーンの妻と息子。強盗は銀貨を渡さないとレーンを殺すと脅す。父を助けるために銀貨を取りにいく息子。その様子を見た強盗のスリムはレーンに向かって言う"このバカ野郎、痛い思いをしただけだぞ"。そんな強盗に同調するかのように妻のジャネットも言う"チャーリー、なぜ言わなかったの?"。それに対して強盗のボスは言う"そいつはバカだからさ"

敵だけでなく身内からも非難轟々のレーン。それこそ答えようがなく、何も言わずにいるしかないでしょう(悲)。しかし、銀貨を渡した後、妻と息子は強盗たちに撃ち殺されてしまいます。

f:id:mythink:20160815215627j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 事件後に入院して療養するレーン少佐と見舞いに来たトミー・リー・ジョーンズ演じるジョニー伍長。トミー・リー・ジョーンズが若い。若いといっても当時30才くらいですが。それでも予備知識がなければ、彼だと気付かない人は結構いるかも。

日常生活に馴染めない彼ら。

"今となっては人並みの生活には戻れませんよ。あなたは?" by ジョニー伍長

"どうでもいいさ" by レーン少佐

本当はどうでもいいわけではないでしょうが、今のレーンは、"復讐"の事しか考えられないという所でしょう。それはジョニー伍長も察していて、こう言います "奴らには生きる権利はありませんよ"

f:id:mythink:20160816001308j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 退院して自宅で2本爪の義手の調整をするレーン。長すぎる銃身を切り、使いやすくしたショットガンを用意して復讐のための準備を整える。

f:id:mythink:20160816003406j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain レーン少佐は、リンダを一緒に連れて行くのだが、危ない目にあって振り回されっぱなしの彼女は、ついに切れて車から降りる。しかしレーンは彼女を追っかけ、取っ組み合いのケンカを始めてしまう。復讐以外の要素もバッチリです。

"こんな車には乗ってられないわ!" by リンダ

f:id:mythink:20160816010203j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 取っ組み合いが終わると、リンダはレーンに言います "私はあなたのものよ!"。さっきまでのキレ具合はどこへやら。レーンに惚れた女に様変わりします。

f:id:mythink:20160816013515j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain レーンに完全に惚れきったリンダは、レーンに復讐をやめさせようとします。

"こんなことする必要があるの?"

"しばらく私と暮らさない?"

"抱いて"

レーンは表情ひとつ変えない・・・。渋すぎる。そうなのか?

f:id:mythink:20160816020314j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain モーテルで一夜を過ごした彼ら。レーン少佐は軍服に着替え、お金を残し、リンダに気付かれないように部屋を出る。強盗たちとの最後の戦いに出向くために、好きな女をこれ以上巻き込みたくないとの配慮から、愛すら振り切ってしまう!

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし普通の人なら、こう思うでしょう "なぜ軍服なんだ?戦争ではなく個人的な復讐なのに" 。でも、それは野暮な疑問です。レーン少佐にとって、命をかけた戦いに赴く時の正装は、軍服なのです。極端に言うなら、命をかけるという意味では、戦争だろうが個人的復讐であろうが何ら変わりないのです。たしかに一般人の日常感覚からすると、レーン少佐は狂っているのかもしれませんが、彼は既にベトナム戦争で日常感覚を失っているのであり、それは同時に彼の中では、彼の戦争(歴史的な大文字の戦争ではなく、命をかけた彼の孤独な内面的戦い)は未だ終わっていないことを意味します

もはや誰も彼を止められない!

f:id:mythink:20160816201148j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 強盗たちと戦うために、ジョニー伍長を必要とするレーン少佐は彼の家を訪れる。強盗を見つけたと言うレーンに対し、ジョニーは何のためらいもなく答える "片づけに行こう"。レーンの個人的復讐にも関わらず、かつての上官には今でも従うのは当然だといわんばかりのジョニーは、やはりレーンと同様、日常生活に戻れない不適合者であり、戦争が必要な男だった!

軍服を着たジョニー伍長は彼の父に言う "さよなら パパ"

f:id:mythink:20160816212939j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 強盗たちがいる売春宿に乗り込むレーン少佐とジョニー伍長。真っ先に殺されてしまう強盗のボス。何と掟破りな!何のためらいもなく強盗たちを撃ちまくる!

f:id:mythink:20160817001246j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 撃ちまくるだけじゃ済む訳はない。ついにレーン少佐は敵のスリムに腹部を撃たれてしまう。倒れながらも反撃するレーン少佐。

f:id:mythink:20160817003415j:plain

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 立ち上がり、スリムにトドメをさすレーン少佐。戦いが終わりジョニー伍長に肩を貸すレーン。歩いて帰る2人。復讐を成し遂げたものの、そこに満足感などはなく虚脱感だけが残る。彼らは一時的なカタルシスを得たのかもしれないが、その後はどうなるのか・・・。エンドロールで流れるデニーブルックスが歌う〈サン・アントニオ〉が美しい・・・。

f:id:mythink:20160817004746j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20170122223736j:plain

 

 

◆ 僕を楽しくさせるミュージシャンの音楽的ルーツ〈HYDEをかたち作った6枚〉

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

L’Arc~en~CielVAMPS、のHYDEが『Rolling Stone JAPAN』(2016年2月号)のインタビュー HYDEをかたち作った6枚で、自分が影響を受けた6枚のアルバムについて語っています。こういうアーティストが影響を受けた音楽を語るのは、そのアーティストの熱狂的なファンでなくても、その人の音楽のルーツが垣間見え、それが納得出来たり、意外に感じたりして興味深いものです。正直言って、かなり多彩な内容なので、以下にあげられたアルバムのどれかを聴いた事がある人でも、全てを聴いた人はそういないのではないかと思えるくらいです。逆に言うと、それはHYDEがジャンルに関係なく、様々な音楽を聴いていく姿勢がある事を示していますね。

 

f:id:mythink:20160802202510j:plain

 

 

 1. GASTUNK『EARLY SINGLES』

f:id:mythink:20170510230432j:plain

  

        f:id:mythink:20160802203636j:plain

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain 彼が最初に挙げたのが、GASTUNKです。L'arcの音楽しか知らない人からしたらどんなバンドなのかさっぱり分からないでしょう(笑)。1980年代当時におけるメタルとハードコア・パンクのクロスオーヴァーを体現していたバンドであり(元々メタルとハードコア・パンクは相反するものでした)、ハードコアの激しさにメタルのスピード感が加わった曲が特徴的でした。ハードロック色の強い後期よりも、メタル・ハードコア色の強いインディーズ時代を含めた前期は本当に素晴らしい。その時期の曲を集めたアルバムが『GASTUNK / EARLY SINGLES』です。

HYDEは言っています、

"僕が初めてライヴハウスに行ったのもGASTUNKのライヴじゃないかな。その時の衝撃は永遠ですね。"

"まさにVAMPSでやりたいことって、それなんですよ。その時の体感を今現代でやったらどうなのかっていうのを焼き直しているだけかもしれない"

 

       GERONIMOfrom 『EARLY SINGLES』

          

 

       〈DEVIL〉from 『EARLY SINGLES』

    

 

                         〈SHOUT〉 

『EARLY SINGLES』には収められていないが、オススメの1曲。メタルが好きな人からしたら、マイケル・シェンカーの影響を受けているTATSUのギターは本当に楽しめますね。

   

 

 

f:id:mythink:20170122214855j:plainVAMPSで衝動の強い曲といえば、これでしょう。

         〈Sex、Blood、Rock'nRoll〉

   

 

 

 2. MISFITS 『Legacy of Brutality』

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

     『Legacy of Brutality (Full Album)』by MISFITS

   

f:id:mythink:20170122214855j:plain HYDE曰く、ホラーパンクを求めて辿りついたのが、MISFITSという事らしいです。他のアルバムと違って、ハードコアっぽくない本作『Legacy of Brutality』が気に入ったようですね。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain ハードコアっぽくないという点でいえば、『Legacy of Brutality』以上にオススメなのが『FAMOUS MONSTERS』です。キャッチーでMISFITSならではのPOPさが満載のこのアルバムは、コアなファン向けというよりは、誰が聞いても楽しめる普遍的な傑作となっていますね。発売当初、BURRN!誌のレビューでも90点台を出したと記憶しています。Voがオリジナルメンバーのグレン・ダンジグではなく、マイケル・グレイヴスなので、評価しないコアなファンもいるようですが、MISFITS史上最も楽しめるアルバムだと個人的に思いますね。このアルバムのツアーで日本にも来ています。僕が見たライブでは、マイケル・グレイヴスは最後の方で全裸になっていた(笑)。

              

      『FAMOUS MONSTERS (Full Album) 』

    8曲目の〈Saturday Night〉は素晴らしいバラード。

   

 

      〈SECRET IN MY HEART〉by VAMPS

ヴァンパイアの宿命により人を自由に愛する事ができないせつなさを歌った曲。サビの部分が美しい。

        

 

                         〈REDRUM〉by VAMPS

         殺人者の衝動を歌った曲。REDRUM=MURDER

   

 

 

3. David Sylvian『Brilliant Trees』

f:id:mythink:20170510230432j:plain


       『Brilliant Trees』by David Sylvian

    

   

f:id:mythink:20170122214855j:plain HYDEの美意識に大きな影響を与えたデヴィッド・シルヴィアン

"本当に美しい顔で呪文みたいな歌で、すべてが美意識の塊みたいで。当時の僕にとってデカダンスの始まりでした。妙に好きで、本当に聴きまくっていまし た。いちばん吸収する多感な頃だったので、その時の影響はすごく大きいかもしれない。デヴィッド・シルヴィアンはいまだに僕のアイドルです。(HYDE)"

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain デヴィッド・シルヴィアンのアルバムとしては、『Brilliant Trees』を名作とする声が多いのですが、それ以上に『Secrets of the beehive』こそ、彼の最高傑作といえるでしょう。装飾を排したシンプルな曲で構成されたアルバムでありながら、彼の世界観が余す所なく体現されているという意味で、そこら辺のロックでは太刀打ち出来ない程 "へヴィな" 作品だといえます。坂本龍一のアレンジやプロデューサーのスティーヴ・ナイによる仕上げが施されているのはもちろんですが、それ以上にデヴィッド・シルヴィアンの自分の世界観を創り上げるという強力な意志が貫かれています。聴く人にこれほど内面世界に耽溺させる作品にはそう出会えるものではありませんね。ちなみに2003年に再発された本作のデジタル・リマスター盤では、残念な事に削られた"Forbidden Colours"(映画『戦場のメリークリスマス』における坂本龍一作曲のメインテーマにデヴィッドが歌詞を乗せて歌ったヴァージョン。"Forbidden Colours"というタイトルが三島由紀夫の小説"禁色"の英語版に由来する事は有名ですね。)ですが、このYou Tube版では聴くことが出来ます。

    

                『Secrets of the Beehive』by David Sylvian

   

 

f:id:mythink:20160720205908j:plain そんなデヴィッド・シルヴィアンHYDEが最も近かった時期がソロ名義で発表されたアルバム『ROENTGEN』の頃でしょう。L'arcの時とは違うHYDEの世界観が確立された傑作です。

        f:id:mythink:20160807230017j:plain

 

       〈evergreen〉from 『ROENTGEN』

                                 アルバムを代表する名曲。

   

 

     〈SHALLOW SLEEP〉from 『ROENTGEN』

           これも名曲。

   

 

      〈Angels Tale〉from『ROENTGEN』

このアルバムの中でもデヴィッド・シルヴィアン的な曲のひとつ。

        

 

      〈Secret Letters〉from『ROENTGEN』

      これもデヴィッド・シルヴィアン的な曲。

    

 

 

4. MÖTLEY CRÜE『SHOUT AT THE DEVIL』

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

              『Shout of the devil (Full Album) 』by MÖTLEY CRÜE

   

f:id:mythink:20170122214855j:plain 派手なメイク、髪型、レザー、などの特徴的な外見と、ザクザクのギター音が相俟ったLAメタルと呼ばれるスタイルを確立し、多くのフォロワ-を生み出した彼らが発表した疾走感溢れる2ndアルバム(1983年)。ビートルズの〈ヘルタースケルター〉もカバーしている。この頃、若かった洋楽ロック好きな人は誰でも、彼らの曲を、耳にしたことがあるはず。それくらい勢いがありましたね。

 

"モトリーはリアルタイムで聴いていました。ちょうど、LAメタルが流行って、ニューロマと重なってきていて今思えばルックスも似てるっちゃ似てたとも言え るし。そんななかで、当時、見た目はパンクなのかメタルなのかよくわからなかった(笑)。髪の立て方も、スージー・アンド・ザ・バンシーズみたいだった し。『なんやこれ? ものすごいルックスやなあ』と思って、そこから入りましたね。やっぱりルックスは大事だなといまだに思います。ルックスとサウンドがリンクした時にバー ン!とくるんでしょうね。(HYDE)"

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain VAMPSは彼らの〈LIVE WIRE(モトリークルーの1stアルバム『Too Fast For Love』に収録)〉をカバーしていますが、特にチリでの演奏は観衆の熱気に押されてか、テンション高いです。〈TROUBLE(shampooのカバー)〉から始まり、6:40秒頃から〈LIVE WIRE〉の演奏。この時のパフォーマンスは本家よりパワーがあるかも。

   

 

 

5. Depeche Mode『Some Great Reward』

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

            『Some Great Reward(Full Album)』by Depeche Mode

        

" デペッシュ・モードはすごい音楽的衝撃を受けて、それからずっとフェイバリットですね。ここまで好きになってしまうと、駄作でもOKっていうくらい (笑)。新しい作品が出るだけでも十分みたいな、そういう域にいっちゃってます。デイヴ(・ガーン/ヴォーカル)とマーティン(・ゴア/ギター、ヴォーカ ル、キーボード)の2人がやってくれるだけでありがたいというか。"

"84年の作品だけど、未だに音楽的なネタの宝庫です。便利というか(笑)。ここもうちょっとこうしたほうがいいなっていう時に、デペッシュ・モードを思い出したりします。 そうすると自分好みになるんですよ。歌い方を真似してたこともありましたね。(HYDE) "

 

f:id:mythink:20170122214855j:plainPeople Are People〉〈Somebody〉〈Master and Servant〉などの名曲揃いの傑作アルバム(1984年発表)。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(ドイツのインダストリアル・ノイズミュージックの実験的バンド)に影響を受けたマーティン・ゴアが前作から持ち込んだインダストリアル的志向性によって、重厚かつ金属的残響感が色濃く打ち出されている。そのような音作りによって醸し出される無機的な空気感がデカダンス(頽廃)を生み出しています。ある意味で、この作品はHYDEが自分のデカダンスの始まりと評したデヴィッド・シルヴィアンの『Brilliant Trees』以上にデカダンスが支配しているといえます。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain ここで『Some Great Reward』以上に評価が高く、彼らの最高傑作と呼ばれる『Violator』について触れておくべきでしょう。

        

                          『Violator』by Depeche Mode

   

    

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain この作品は、確かにデカダンスに彩られているのですが、インダストリアル的方向性を打ち出していた『Some Great Reward』や『Black Celebration』と違って、強烈なデカダンスの効果を生み出していた金属感のある音処理は、影を潜めています。

ヴォーカルの音までが金属的に処理されていた『Some Great Reward』や『Black Celebration』に対して、『Violator』ではヴォーカルの有機性を生かすべく、金属感は取り除かれ、空間性は保てれているものの、音を前面に出すような作りになっています(ちなみにリマスター盤では、この味わいは損なわれている)。これは、それまでの際限なく繰り広げられるデカダンスの波に、抑制を加え、コントロールする事で内面の世界観を作り出すことに成功しているという事です。つまり、たんなるデカダンスから、それをデペッシュ・モードの美学へと昇華させたわけですね。アルバムジャケットのアートワークである一輪の花が、それを象徴しています。この内面世界を構築するために採られる装飾を削ぎ落としたアプローチは、デヴィッド・シルヴィアン『Secrets of the beehive』とも共通するものである事も付け加えておきましょう。

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain デヴィッド・シルヴィアン『Secrets of the beehive』デペッシュ・モードの『Violator』に近いL'arcの曲といえば、彼らの世界観が壮大に表現された〈forbidden lover〉でしょう。戦争に巻きこまれている"女性"が、かつての忘れられない恋人へ思いを募らせながらも、どうにもならない状況の中で神の名を叫ぶというストーリーのこの壮大な曲はライブでこそ、その真価を発揮するといえますね。

                          

                        〈forbidden loverby L'arc~en~Ciel

   

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain 3. David Sylvian『Brilliant Trees』の所でも紹介しましたが、この曲のストーリーは明らかにデヴィッド・シルヴィアンの〈Forbidden Colours〉に影響されていますね。坂本龍一が作曲した大島渚の映画『戦場のメリークリスマス』のテーマソングに、デヴィッドが詞を乗せて作ったこの曲のタイトルが三島由紀夫"禁色(言うまでもなく、同性愛についての作品)"の英語版に由来する事、そしてこの映画で同性愛的感情が描かれている事を考えると、〈forbidden lover〉における"恋人関係"がいかなるものかは容易に推測できます。しかし、HYDEが〈Forbidden Colours〉に影響されているとはいえ、それは同性愛的なものからというよりは、デヴィッドの曲作りを含めた"美意識"からだという方が適切でしょう。

 

                 〈Forbidden Colours〉by Sylvian&Sakamoto

   

 

         

6. オフコース『We are』

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

        f:id:mythink:20160811174322j:plain

 

"音楽を作り始めた頃は僕はハードコアや、ゴシックロックにハマってたから、ラルクを始めて、すごくキャッチーな曲がメンバーから出てきた時に、どういう詩 を書いていいかさっぱりわからなかったんです。『何を言ってええんやろうな?』ってすごい迷って試行錯誤して詩を書いた時に、開いた引き出しがオフコース で。オフコースの曲って、実は都会的なクールな感じで、歌詞もすごく抽象的だと思います。言葉もかなり選んでいるし。そういうところで、『あ、こういう表現の仕方があるな』って。"(HYDE)

 

f:id:mythink:20170122214855j:plain HYDEが手がける詞は、美しく繊細であり、ほとんど詩人だなと思わせる曲がいくつかありますね、特にL'arcの〈〉〈花葬〉〈forbidden lover〉、ソロの〈evergreen〉〈shallow sleep〉など。これらの詞を考える上で、小田和正を参考にしていたというのは興味深いですね。確かに小田和正の曲には、楽曲の中に埋もれてしまわない詞の力強さがあります。

 

        〈時に愛は〉by オフコース

" 時に愛は力つきて 崩れ落ちてゆくようにみえても~"  詩的な言葉遣い。

 

   

 

 

 

f:id:mythink:20170122223736j:plain

 

 

 

〈このブログ内の関連記事〉

 

◆ 僕を楽しくさせる異形のアルバムジャケット〈トニー・マーティン時代のブラック・サバス〉

 

◆ 僕を楽しくさせる異形のアルバムジャケット〈メガデス〉

 

 

 

 

f:id:mythink:20170122223736j:plain

 

 

 

 

◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 2.

f:id:mythink:20170506173201j:plain

 

 

◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 1. の続きという事で。

 

 

***************************************

 

 

 1. 花森安治の『暮らしの手帖』の表紙デザインⅡ

f:id:mythink:20170510230432j:plain

 

   

     f:id:mythink:20160725232125j:plain

 

f:id:mythink:20160731190155j:plain 1948年から1969年の約20年間で、100号を迎えた『暮らしの手帖』は、それまでの100号を1世紀と位置付ける事によって(100号であって100年じゃないけど・・・。初心に返るという意味を込めているとはいえ強引な気もしますが、花森安治らしいという所でしょう〈笑〉)、次からを101号で始めるのではなく、2世紀1号からで・・・という事にしちゃったようですね。判型もB5判からA4変形判になりました。

 

f:id:mythink:20160725224614j:plain

f:id:mythink:20160725224707j:plain

f:id:mythink:20160725224726j:plain

f:id:mythink:20160725224743j:plain

f:id:mythink:20160731190155j:plain 2世紀~で特徴的なのは、特に25号以降ですが、女性のアップの顔が増えていく事ですね。『暮らしの手帖』のメインターゲットである女性をより意識している事が現れていますね。

f:id:mythink:20160725225940j:plain

f:id:mythink:20160725230024j:plain

f:id:mythink:20160725230039j:plain

f:id:mythink:20160725230057j:plain

f:id:mythink:20160725230302j:plain

f:id:mythink:20160731190155j:plain 花森安治による最後の表紙である53号のデザインは、生前「自分が病気になった時に使いなさい」とスタッフに渡されていたものでした。

 

 

2. 手仕事へのこだわり、手仕事への考察

f:id:mythink:20170510230432j:plain

f:id:mythink:20160731190155j:plain そんな花森が自分が使う文房具にこだわりを持っていた事はよく知られていますね。鉛筆、定規、ハサミなどは机の上の定位置に置かれていなければならず、それらを管理するスタッフは鉛筆の芯も折れないように丸く整えたりするという気の使いようだったらしいです。それだけにファーバー・カステルの鉛筆(ゴッホムンク、クレーも使っていた)やシェーファーのインクを花森が高く評価したのも頷けますね。

                                       

                                       【花森の作業用文房具】

f:id:mythink:20160725233246j:plain

             

f:id:mythink:20160731190155j:plain そこには自分の手で使用し満足を与えてくれる道具に対する愛着があります。道具を使用し自分の手を動かす事から何かを生み出す喜びがあります。道具を使用し自分の手を動かす者はその事を誰よりも知っているといえるでしょう。

花森の生前の最後のエッセイ『人間の手について(1978年)』を読むと、手仕事の大切さを説いているのが分かりますね。このエッセイは、鉛筆を削るのにナイフを使わせずに鉛筆削り器を子供たちに使用させる小学校の教育方針を批判しながら、手仕事の経験を通じて本当の教育の在り方について考えるべきだという提案をしています。

 

f:id:mythink:20160731190155j:plain もちろん時代が変わった現在では、学校教育に対する花森の主張がそのまま通用する訳ではありませんが、それでも彼の手仕事に対する考察は興味深いものがありますので少し長めに抜粋しておきますね。

"  人間は、道具をつかう動物だ、といわれています。ここで、はっきりしておきたいのは、人間は、道具につかわれる動物ではない、ということです。

 道具をつかうのは、人間の手です。あるいは、人間の目や、耳や、鼻といった感覚です。こういった感覚は、訓練をすればするほど、鋭くなっていきます。

 たとえば、昔、海軍の水兵たちは、暗闇でものを見る訓練を、そうとう痛烈にやらされたということです。その結果、本来なら見えないはずのものが、水兵たちは見ることができた、いいます。

 この話は、レーダーのなかった日本軍の苦しいあまりの一策だった、といわれています。しかし、もしも、レーダーがこわれたとき、そういう訓練ができているのと、いないのとでは、たいへんな違いがおこります。鉛筆削り器にしても、こわれることはよくあります。一度こわれたら、新しいのを買うまで、だれも鉛筆を削ることができないのでしょうか。そんなバカげたことは、ありますまい。

 人間の手のわざを、封じないようにしたいというのは、つまりは、人間の持っているいろんな感覚を、マヒさせてしまわないように、ひいては、自分の身のまわり、人と人とのつながり、世の中のこと、そういったことにも、なにが美しいのか、なにがみにくいのか、という美意識をつちかっていくことになるからです。"

 

"  人間の手わざは、みんな自分でなにかを作り出す喜びというものに、つながっています。ところが、いくらよくできた鉛筆削り器でも、それを使って鉛筆を削ったとき、なにかを作り出したというよろこびがあるでしょうか。

 鉛筆の芯がまるくなったから、鉛筆の芯が折れたから、新しい鉛筆をおろさなばならないから、そういったときに、まるでビジネスのように、鉛筆削り器を使っています。料理ひとつ作るにしても、じぶんの手で材料を洗い、切り、煮炊きし、味をつけて、ひとつの料理に仕上げていく、そこにこそ、じぶんで作り出すというよろこびがあるのです。"

  

 

***************************************

 

 

〈このブログ内の関連記事〉

 

◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 1.

 

 

 

***************************************