哲学的考察と備忘録

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【 僕を哲学的に考えさせるコンテンポラリーダンス〈菅原小春〉】

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   僕を哲学的に考えさせる映画〈人狼ゲーム ビーストサイド〉 の中で、土屋太鳳 が Siaの "アライブ" MVで魅せたコンテンポラリーダンスについて触れました。彼女は、その時の事を自分のブログ、Alive.|土屋太鳳オフィシャルブログ「たおのSparkling day」で書いているのですが、そこで世界的なダンサーである菅原小春の名前を挙げているんですね。土屋太鳳がアライブでのコンテンポラリーダンスに取組む様子を放送したのはTBSの『情熱大陸』ですが、そのしばらく後で、同じ『情熱大陸』で菅原小春が紹介されて一般的に知られるきっかけになったと思います。

 

    菅原小春が出演した『情熱大陸』(YouTube)にリンクを貼っていましたが削除されたようなので、 彼女を紹介した『めざましテレビ』を見てみましょう。

    

        

 

 

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1.   Years&Years のDesire と菅原小春

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   情熱大陸』では、彼女が Years&Years の "Desire" にインスパイアされて振付けをしている場面がありますが、後日、放送を見たYears&Yearsのスタッフから "Desire" のMV出演を依頼されていますね。とはいえ、"Desire" のMVは既に製作されていた ( Years&Yearsのメンバー自身が出ている ) ので、日本スタッフによる特別版MVという所でしょう。

 

        

 

   本家の "Desire" MV はこちら。

 

        

 

   Years&Years は2016年2月に来日していますが、 "Desire" 演奏時にはステージ上に菅原小春が登場します。ライブで共演が実現するとは。会場も盛り上がってます。

 

        

 

   彼女の "Desire" の振付けが、はっきりと見られるのがこちら。キレッキレです。1:24~頃から4人組みの女性たちに交代するのですが、その中の金髪の Shibuya Yuki ( 漢字は分かんないので ) のダンスもダイナミックで凄い。

 

        

 

   そんな Shibuya Yuki が菅原小春と一緒に踊っているのがこちら。圧倒的なパフォーマンス。菅原小春が身体の細部に至るまでの表現 ( 彼女は生命や力を込めるという言い方をする ) をするのに対して、Shibuya Yuki はダイナミックで力を爆発的に解放するかのような表現をしてます。

 

        

 

 

2.   菅原小春のダンススタイル・・・

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   よく彼女のダンススタイルって何だろうと疑問に思う人がいるようですが、特定のジャンルに色分けするのは難しいでしょう。敢えて言えば、ストリートジャズダンスに近いフリースタイルだといえるのでしょうが、彼女自身、特定のジャンルやスキルにこだわるというよりは、それらを自分流にアレンジして "自分" を表現していますね、"スキル" を表現するのではなくて。

 

   この点こそ、並いるダンスの猛者たちから彼女の存在が突出している理由だといえます。通常、ダンスの完成度が高くなるにつれて人は、特定のジャンルやスキルをいかに上手く表現するかという事に傾いていきます。しかし、彼女のアプローチは違う彼女はスキルを表現するのではなく、"自分" を表現するために "スキル" を使う、必要ならばスキルを自分流にアレンジして

 

   これを哲学的に考えてみましょう。人は本来、自分や個性を発揮するためにダンスという表現手段を選択するのですが、いつの間にか、"スキル" を表現する事に楽しさを見出し、それが  "個性" だと思い込む。その結果、ダンスで本来、表現されるべき個人の衝動や気持ちが、"スキルという紋切り型" の中に取り込まれて出口を見出さないまま消え去ってしまう

 

   彼女はそんな "スキルという紋切り型" に自分の個性や衝動が取り込まれないように "外部" に向けて "自分" を表現しようとしているスキルを表現するのではなく、自分の内部の衝動や気持ちが出来るだけダイレクトに身体の隅々にまで行渡るよう ( もちろんある程度、スキルという媒介が必要だけど ) な表現を意識的にしていると思われますね。それが彼女の動きを見る人に彼女のダンスは独特だと思わせる理由になっているのでしょう。

 

このような彼女のアプローチは、ダンスを自分を表現する ための "技法 ( art )"として位置付けているという意味で、芸術 ( ART ) の萌芽としてのダンスに向かうものだと解釈出来ますね。人が自分の身体を使って表現しようとする際に、その開始点である衝動を痕跡として可能な限り残そうという姿勢は芸術的なものの原点を示している訳です。この意味で彼女のダンスは、アートのひとつとしてのコンテンポラリーダンスといえるでしょう。

 

 

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僕を哲学的に考えさせる映画 『ヤコペッティの大残酷』 ・・・ そしてヴォルテールの『カンディード』

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監督:グァルティエロ・ヤコペッティ   公開:1975年    

出演:クリストファー・ブラウン ・・・ カンディード

  :ミシェル・ミラー     ・・・ クネゴンダ

  :ジャック・エルラン    ・・・ バングロス

  :リチャード・ドンフィー  ・・・ カカンボ

  :ホセ・クアリオ      ・・・ アッティラ

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■   かつて人気を博したモンド=残酷映画といわれる擬似ドキュメンタリーのジャンルを切り開いたヤコペッティの傑作。ただし、この〈大残酷〉を観た人なら、それまでの彼の映画とは少し違う印象を受けるでしょう。

 

   というのも、以前の映画は野蛮的なものの擬似ドキュメンタリーという形式で、"現実っぽくみせる" 事に力点が置かれていたのに対して、この作品は、それ自体の内在的な力量を示す事 ( 擬似ドキュメンタリーではなく、作品のストーリー性や思想性 ) に力点が移動しているからです。つまり映画それ自体への昇華が見られるという事ですね。

 

■   モンド映画の第一人者として、エログロ的要素から語られる事がほとんどであった彼の作品ですが、最後の監督作品において彼は "映画的なもの" にようやく辿りついたといえるでしょう。

                 

                    

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           グァルティエロ・ヤコペッティ(1919~2011)

                                          

 


1.   残念な邦題タイトル『 大残酷 』・・・

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  『 大残酷 』・・・、このタイトルだけで、この作品は敬遠されるのではないかと残念に思う人は結構いるのではないでしょうか。つまり邦題タイトルが作品の受容の可能性を狭め、その結果、この作品の面白さが見過ごされてしまうという訳です。確かに彼のそれまでのエログロ要素溢れる擬似ドキュメンタリー映画の積み重ねによって、ヤコペッティ=残酷・キワモノという紋切型に映画の配給会社が宣伝上頼らざるを得なかったという事情はあったでしょう。

 

   しかし、国内における本作品の初DVD化 ( 株式会社スティングレイの尽力による ) の機会にタイトルを原題 ( Mondo candido ) に倣って、"カンディードの世界"、あるいは直訳に難があるのなら "カンディードの彷徨" などとしておけば一部のマニア以外にも訴求出来たのに・・・と思う次第です。

 

 

2. 『 大残酷 』と『 カンディード 』

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  『 大残酷 』の原題、『 Mondo candido 』とは、フランスの啓蒙主義時代の思想家であるヴォルテールの小説『 カンディード あるいは最善説 』(1759年) を基にしている事は言うまでもありませんね。

            

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             ヴォルテール ( 1694~1778年 )

                                       

   モンド映画ヤコペッティ啓蒙思想家のヴォルテールの組み合わせは奇妙に思えますが、ヴォルテールの『 カンディード 』は、彼の事を敷居の高そうな思想家だと思い込んでいる人達の見方を覆す程の娯楽作品なのです。しかし『 大残酷 』の下敷きが『 カンディード 』である事を知っている人でも、『 カンディード 』を実際に読んでいる人は少ないでしょう ( 1 )カンディード 』には、『 大残酷 』の萌芽であるエログロ的要素、哲学的要素、旅行紀 ( 2 ) という要素が散りばめられていて、ヤコペッティが自分好みとして飛びついたのは容易に想像できるのです。下手すると、『 大残酷 』よりも『 カンディード 』の方が面白いと感じる人もいるかもしれません。

 

   ヤコペッティは原作の要素を上手く利用し、自分の色に染め上げる事に成功しています。この点は大切です。というのも、原作の映画化とは、原作に忠実である事が目的ではなく、原作にいかに手を入れ、監督の色に染める事が目的だからです。そうする事によって原作の内包する隠れた可能性について様々な解釈をする自由が生まれるのです。ヴォルテール原作の『 カンディード 』においては、それだけではどうしても当時のイデオロギー的状況 ( 最善説やカトリックに対する反発など ) が作品の成立条件の地平となってしまっているという無意識的地層が、現在の読者の受容を限られたものにしてしまう。そんな時に、映画化によって新たな命を吹き込まれた原作は、イデオロギー的状況に還元されるだけではない、作品に閉じ込められていた娯楽的要素の開放を可能にするといえるでしょう。

 

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( 1 )

   逆に言うと、この反対の事も言える、つまり、〈カンディード〉を読んでいても〈大残酷〉を観た事がない、と。もう少し、細かく言うなら〈大残酷〉が〈カンディード〉を原作にしている事を知っていても、そんな "B級" を観るつもりはない。言うまでもなく、このような態度は、ヴォルテールを高尚な思想家としてしか扱わない知識人に多いでしょう。ここには"思想" と "カルチャー" との 間の"無意識的な溝" があるのであり、だからこそ、ヴォルテールヤコペッティの短絡 ( ショートカット ) はそんな "溝" に囚われないように大いに楽しむべき出来事なのです

 

 

( 2 )

   ヴォルテールアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトによるイギリス社会を批判した『 ガリバー旅行紀 』に影響を受けている。

 

 

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3. 〈大残酷〉のストーリー

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   ドイツのウエストファリア地方 ( 3 ) にあるツンダー・テン・トロンク男爵の城にカンディード ( 4 ) という心のやさしい青年がいた。彼は哲学の家庭教師パングロスに "この世のすべては最善である" という教えを受けながら、男爵の娘である美しいクネゴンダに会える毎日に幸せを感じていました。

 

 

〔 シークエンス 1. 〕

   クネゴンダから、ある日、食事中に誘いを受けるカンディード

 

"後で庭で会える?" by クネゴンダ

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( 3 ) 

   現在のドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州。州都はデュッセルドルフ。ケルンやドルトムントなどの大都市があり、東西冷戦時代の西ドイツの首都であったボンもある。

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   ノルトライン=ヴェストファーレン州は、第2次世界大戦までは西部のライン地方、東部のヴェストファーレン地方 ( 英語で言うとウエストファリア。カトリックプロテスタントによる30年戦争終結時のウエストファリア条約の締結地。高校の世界史で出てきますね )、リッペ候国に分かれていた。

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( 4 ) 

   カンディード=CANDIDE ( 仏語 ) とは、無邪気、純真無垢という意味だが、これはクネゴンダを追って世界を巡るなかで様々な災厄を被る主人公に対して、ライプニッツの最善説 ( すべては善である ) に反駁する意図で以って、皮肉的につけられた名前だというのが一般的解釈でしょう。

 

   しかし、さらに解釈を進めてみましょう。CANDIDE 純真無垢とは、ラテン語candidus ( 白く輝く ) に由来するといわれるが、さらにそれの元の語であるcandela ( 牛などの獣脂で作った蝋燭 ) を考慮するなら、蝋が何らかの型を取るのに適した性質を持つことから、"何らかの経験を刻む、あるいは刻まれるもの"という哲学的解釈を導く事も出来ますね。その解釈を表す言葉こそ、経験論哲学を唱えたイギリスの思想家ジョン・ロック "タブラ・ラサ ( 何かが刻まれる事が可能な白紙状態 )" です。

 

   そうすると、ジョン・ロックなどのイギリスの哲学に影響を受けたヴォルテールが描き上げた主人公、カンディードとは、最善説への皮肉の象徴というつまらない者ではなく、世界各地を巡る中で被る様々な経験をその身に刻みながら、自分を "主体" として確立するというという意味で、経験論哲学の帰結を象徴しているとさえいえるでしょう。このポイントを取り逃がすとラストの場面 ( 原作、そして映画も ) の解釈はつまらないものになってしまいます。ラストの解釈については、本記事で考えていきますね。

 

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〔 シークエンス 2. 〕

   カンディードクネゴンダがいる同じ庭でリンゴを採る侍女のお尻をさわりまくるパングロス。変態っぽさ丸出しです。

 

"この球ほど丸いものはない" by パングロス

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〔 シークエンス 3. 〕 

   パングロスの変態行為はさらにエスカレートして木の穴を利用しての性行為へ。余りの激しさにリンゴがどんどん落ちてくる。パングロスの変態っぽい表情がスゴイ。これが哲学教師なのか(笑)!しかもその様子をクネゴンダが微笑みながら眺めている(驚)!

 

"パングロスは木を使うために作られた"

"何より果実をもぎ取るために作られた" by パングロス

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〔 シークエンス 4. 〕

  パングロスと侍女の行為を眺めていたクネゴンダは、バランスを崩してブランコから落ちてしまう。なんとカンディードの顔に股を押し付けて倒れるという有り得ない展開へ。カンディードクネゴンダの股に顔を埋めたまま離れようとしない。恍惚の表情を浮かべるクネゴンダ。

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〔 シークエンス 5. 〕

■   その様子を城の望遠鏡から見て驚く男爵。表情の演技がいちいち大袈裟で面白い、これはパングロスにもいえる事ですが、とにかく、キャラクターが際立っている。 

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〔 シークエンス 6. 〕

■   興奮して家来を引き連れる男爵と巨漢の妻。妻の体重は、原作では170kgになっている。原作に近づけようとするキャスティング。

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〔 シークエンス 7. 〕

■   ユーモアのセンスがあるヤコペッティ。ショートコントを差し込んでいます。

 

"血の海を見せろ!押さえてくれby 興奮する男爵

"はい 男爵by 男爵を押さえる家来

 

■   これは "違う! 俺じゃない" という男爵の家来へのツッコミがないから分かりにくいですが、わざわざコントをさせていますね。だってカンディードは既に逆さにされ、Vの字の形で家来に押さえつけられていて今さら押さえる必要がないのだから(苦笑)。しかもカンディードの逆さVの字の形、犬神家の一族です(笑)。

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〔 シークエンス 8. 〕

■   男爵に棍棒でブッたたかれ、地面を転げまわるカンディードカンディードが悲惨なこの場面でも、ヤコペッティはユーモアの精神を発揮する事を忘れない!

 

"お許し下さい" by 男爵に許しを請うカンディード

 

   で、ここで犬のアップ。この後のカンディードに対する男爵の言葉!

 

"犬は黙れ!" 

 

■   まさか、このセリフのためだけに犬を用意したのか!そうだとすると芸が細かすぎる(笑)。一応原作では猟犬がいる事になってますが・・・それでもわざわざね。そしてカンディードの締めの言葉。

 

"そんな お許し下さい"

 

■   "そんな"という言葉が悲しすぎる (笑)。僕を犬扱いしないで下さいよという感じが伝わってきます。

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〔 シークエンス 9. 〕

■   男爵によって追放を宣告されるカンディード。それまでの城の庭から一転してカンディードがただ1人で何も無い広大な土地にたたずむ姿の場面への切替が印象的です。

 

"お前を追放する" by 男爵

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〔 シークエンス 10. 〕

■   1人寂しく旅に出るカンディード。自分への仕打ちに対して最善説への疑念を抱くカンディード。これに対して"世の中は甘くないのだから最善ではないのは当然だ"と反対の命題を唱えるのは単純すぎるでしょう。

 

■   見過ごされがちですが、最善説への反駁の舞台裏では、"経験論の哲学" が潜んでいます。つまり、最善ではないと思わせる主体の "経験" が働いているのであり、何が最善であり、何が最善ではないのか、という事には "主体の経験という出来事" が大きく関わっているのです。

 

   この "経験という出来事" とは、経験の主体が、我が身が消滅する程の経験 ( 戦争、災害、事故、殺人などの死 ) すら自らに刻み込んでしまうという意味で、最悪のものでありながら、その能力がなければ喜びや楽しみなど多様なものを味わう事が出来ない最善のものでもあるという意味で、矛盾に満ちたものであり、ある意味で人間的なものを越えているとさえ言えます。

 

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〔 シークエンス 11. 〕

■   ブルガリア ( 4 ) で軍隊に無理矢理入れさせられたカンディードだが、彼が本格的に参加する前に、ブルガリア軍は国籍不明の敵国 ( 5 ) に大敗してしまう。そんな事よりも昔風のブルガリア兵と現代的な軍隊とのコントラストが凄すぎる!しかもブルガリア兵は敵国との戦力の違いからか全員固まってしまいイラストのボードになってしまうというシュールな展開に。かなり手の込んだ事をしているが、敵国の火炎放射器に対して生身の人間では危険すぎるという撮影時の配慮も織込み済みのウケ狙いなのか (笑)。

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 ( 4 )

   原作が書かれた当時 ( 1759年 ) には、ブルガリアは国としては存在していない。以前に存在していた第2次ブルガリア帝国 ( 1185~1396 ) は十字軍として参加した1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世率いるオスマン帝国に敗れ、オスマン帝国露土戦争( 1877~1878年 ) で敗れるまで、その支配下にあった。

 

( 5 )

   原作では敵国はアバリアとなっているが、これは架空のもの。 ( 4 )で触れたブルガリアも当時、国として存在しない事と合わせて考えると、ブルガリアヴォルテールが滞在した事のあるプロイセン ( ヴォルテールプロイセン国王のフリードリヒ2世と交流があった ) であり、戦争はイギリスの支援を受けたプロイセンオーストリア・ロシア・フランスなどとの7年戦争をモデルにしているという見方が出来る。

 

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〔 シークエンス 12. 〕

■   戦死者が横たわる廃墟で再会するカンディードとパングロス 。彼はクネゴンダは犯され殺されたという残念な報告をする。これに対してカンディードは、それらの原因が "憎しみ" ではないかと言う。

 

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〔 シークエンス 13. 〕

■   しかし最善説の信奉者パングロスは、最善説を否定しかねないその意見を否定し、原因を "恋" というトンデモ説を展開する。

 

"梅毒がなければ私達はアメリカを手に入れておらん"

"アメリカ ( 6 ) なしにポテトもトマトも口紅もなかった" by パングロス

 

   これだけではよく意味が分からないのですが、要は自分に梅毒をもたらした経路(パングロス自身に梅毒を移したのは、冒頭で性行為をした侍女のパケット。リンゴを採っていた女性)の元は、コロンブスの船の水夫であり、彼らがアメリカを発見してくれた恩恵にくらべれば今の状況はなんて事はない、という事でしょうか・・・何という無茶苦茶な理屈!仮にアメリカ発見が最善な事だとしても、その恩恵に与るために不幸があるのだというパングロス的理屈に納得する人は変わり者でしょう。

 

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(6 )

   ちなみに原作ではアメリカは国という概念では出てこない ( 南米大陸の都市の記述はあるので、南北という括りではアメリカという大陸は登場する )。トマス・ジェファーソンによって"アメリカ合衆国"の言葉が加えられたアメリカ独立宣言は1776年。ヴォルテールの死の約2年前だから当然といえば当然。ヨーロッパ諸国からするとアメリカは植民地でしかなかった。

 

   アメリカという言葉自体は、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーフィレンツェの探検家アメリゴ・ヴェスプッチに因んで、世界地図 ( 1507年 ) でコロンブスの発見した新大陸にアメリカという言葉を用いた事による。ただし、これは南米大陸に書き込まれたものであり、大陸全体は一般的にインディアスと呼ばれていた。そのような漠然とした南北大陸について、北アメリカと南アメリカという別々の記載を行った ( 1538年 ) のが社会科の授業で習う有名なメルカトル図法のゲラルドゥス・メルカトルですね、あくまでも地理学的な視点から見た場合ですが。このような経緯の中、南北大陸をアメリカ大陸とする一般的な見方が徐々に定着していきます。

 

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〔 シークエンス 14. 〕

■   その廃墟に突然現れた異端審問官が問う。

 

"すべてが最善であると信じるのであれば、罪も罰もない事になろう" by パングロスを問い質す異端審問官

 

■   それに対してパングロス罪と罰は、この世が最善であるための必然だと言う。異端審問官は必然であれば、自由を信じていないのか ( 7 ) とさらに問い質す。パングロスは自由は必然と両立すると言うが、さえぎられ罰を宣告される。

 

   ちなみに原作では、この場面は大地震発生直後のリスボン。現実に1755年にはリスボンの大地震が起きており、津波・火災を含めて死者が4~6万人といわれ、リスボンの町は廃墟と化したという。これに強く影響を受けたのが、ここで取り上げている『 カンディード 』の作者である啓蒙思想家のヴォルテール。この後、ヴォルテールは『 リスボン大震災に寄せる詩 ( 1756年 ) 』を書き、最善説の無力を示している ( 8 )

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 ( 7 )

   この質問から、異端審問官がカトリックである事が分かる。これは "自由意志" の教義問答だともいえる。周知の通り、カトリックは自由意志を認めているが、自由意志を認めないカルヴァン派などを異端としている。

 

   一見すると自由意志を認めないカルヴァン派は救いがなく身も蓋もないように思えるが、そうとはいえない。というのも世界史の授業で習うように、マルティン・ルターが免罪符を大量販売する教会を批判したように、当時は教会の腐敗が問題となっていた。このような腐敗の原因のひとつとして自由意志を認める教義があるからだと解釈出来る余地はある。

 

   つまり、贖罪に向かおうとする人々の自由意志を、罪の軽減によって教会の腐敗的権力が利用するのであれば、本来、人間がコントロール出来ない罪を教義的に正す必要があるカルヴァンが考えたのは当然の事だと言えます。自由意志の否定、予定説、全的堕落などのカルヴァン主義の特徴が、人間的なものの介入を許さないように見えるのは、教会権力への政治的対抗措置の理論的帰結としての側面も備えている事を見逃すべきではないでしょう。

 

( 8 ) 

リスボン大震災に寄せる詩 』の副題は "あるいは「すべては善である」という公理の検討" となっている。悲惨な現実を語ったその詩の中で、彼はライプニッツに言及する。

ライプニッツは、私にまったく何も教えてくれない

存在しうる世界のうち、最高に整っているこの世界で

底なしの無秩序、不幸の混沌が、多くの苦とわずかな快を

つなげている、その見えざる結び目について教えてくれない

罪のない者がどうして罪人と並んで、いやおうなしに

苦しまなければならないのか、かれは教えてくれない

どうしてすべてうまくいく、というのか、私にはわからない

 

とはいえヴォルテールの言葉で以って、現実を省みないライプニッツの哲学が価値の無いものだと感情論的に判断するべきではない、と付け加えておかなければ公平ではないでしょう。ヴォルテール自身も上記の詩の後に次のように付け加えている。

 

いやはや、私もそこらの学者と並んで、まったくの無知なのだ

 

 

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〔 シークエンス 15. 〕 

■   異端審問により罰を受けるカンディード。尻叩きの刑 (笑)。パングロスは絞首刑だったが、死に切れずに生きていた事が後で分かる。その他にも処刑を受ける白塗りの魔女たちなどが登場し、黒服の男たちによつて音楽が演奏される状況は、非日常的で奇妙な世界となっている。そして尻叩きの刑を受けるカンディードを見つけてクネゴンダは驚く。彼女は生きていた、4人の男たちと関係を持ちながら。

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〔 シークエンス 16. 〕 

■   カンディードが追放された後、城で襲われた時の真相を語るクネゴンダ。

 

"悪魔に殺されたって・・・"

"犯されただけよ" by クネゴンダ

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〔 シークエンス 17. 〕

■   説明を続けるクネゴンダ。

 

"裁縫をしながらあなたを思っていた"

"乱暴な男が部屋に来たの" by クネゴンダ

 

■   レコードやギターが無造作に散らばっている様子 ( 彼女にそんな趣味があったとは予想外・・・ヤコペッティの趣味なのか?) は、とても裁縫していたように思えないのですが・・・。しかも乱暴な男が来たと言うわりには、顔が見えないはずの甲冑姿の男がギターを持っているだけで好きなミュージシャンのアッティラ ( 9 ) だと決め付けて興奮するクネゴンダ。自分から飛びつくとは能天気すぎる。尻軽なキャラになってます(笑)。

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 ( 9 )

   ミュージシャンのアッティラ・・・誰かに由来しているのかなと思いましたが、おそらくはソロデビュー ( 1972年 ) 以前のビリー・ジョエルが、前のバンド The Hussles でドラマーだったジョン・スモールと作ったバンド Attila からインスピレーションを得ているのかも。1970年にアルバムアッティラ「邦題:フン族の大王アッティラを1枚リリースしたのみで活動を終えましたが ( 売れなかったようなので )、そのサイケデリックなへヴィサウンドでビリーがシャウトする楽曲 ( 特に1970年代のハードロックバンドで多用されたオルガンの歪みが特徴的 ) は、今の彼からは遥か彼方の宇宙ほどにかけ離れ過ぎている (笑) ので戸惑うファンも多いでしょう。でも現在のへヴィロック好きのファンからしたら、お気に入りの作品になるくらい魅力的だといえます。

 

   この時は、ソロデビュー前で名義もウィリアム・マーティン・ジョエルのようなので、ヤコペッティもビリーについては知らなくて、その攻撃的なサウンドとバンド名が頭の片隅に残っていたという所ではないでしょうか。

 

    

 

 

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〔 シークエンス 18. 〕

■   クネゴンダと再会したのも束の間、連れ去られたクネゴンダを追って、カンディードは元黒人奴隷のカカンボ(原作ではスペイン系の従僕)と共に、アメリカにやって来る。アメリカといっても現在のアメリカになっていて、そこにカンディードやカカンボが、コロンブスリンカーンなどの過去の人物達と共に現れます。

 

■   このアメリカ編から、ヤコペッティの脚色が強くなります。原作には無い、この過去から現在への時間の変化はこの映画を考える上で大切なポイントでしょう。というのもヤコペッティは最初に原作のカンディードありきで構想を練り始めるような文芸愛好家ではなく、彼の出自であるモンド映画の監督である事を考慮するなら、始めにありきなのは、彼の出自であるモンド映画の撮影記録の無意識的地層だといえるからです。

 

■   世界各地を対象とした撮影は、たとえ擬似ドキュメントだったとはいえ、"事物の記録の積重ね" が、彼の中に "事物の記録の経験者" としての自分をひとつの "主体" として、つまり "何事かを経験する者という経験論的視点" を獲得させたと言う事は出来るでしょう。

 

   その彼が、"世界各地での経験"という視点をヴォルテールの原作の中に見出し、原作の主人公であるカンディードが "経験する主体" である事を理解したとき、静かな哲学的興奮を覚えたに違いありません。

 

   つまり、〈大残酷〉とは、ヴォルテールの〈カンディード〉を自らの事物の記録という経験に接続する試みであり、それは過去から未来への時間移動は予め考え込まれたSF的設定ではなく、ヴォルテールを自らに方に接続しようとする試みの軌跡のひとつとして現れた時間軸である、というのが〈大残酷〉の哲学的真理だといえるでしょう。

 

"これこそ あり得べき最善の世界です" by なぜかパングロスがディレクターを務めるTV中継

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〔 シークエンス 19. 〕

 ■   再会して互いに喜ぶカンディードとパングロス

 

"でも 絞首台で・・・" by 生きているパングロスを不思議に思うカンディード

"私を吊り損ねたんだ" by 説明するディレクターのパングロス

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〔 シークエンス 20. 〕

■   カンディードからクネゴンダを探していると聞いたパングロスはTVを使ってアピールするように言う。さすがディレクター、力を持っています。が、その直後、あり得べき最高の絶頂と紹介されているクネゴンダのショーの宣伝カーを見つけて、カンディードは激怒する。

 

"何しに来たんだ" by カンディードに聞くパングロス

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〔 シークエンス 21. 〕

■   ポスターにクネゴンダと一緒に描かれた男(アッティラですけど、彼の仲間がクネゴンダが連れ去る時に、彼はカンディードと戦って失神させられて置き去りになったはずなのですが・・・まあ、いっか)が彼女をたぶらかしたとして怒っているカンディードに対してパングロスは言う。

 

"彼に怒ってもムダだぞ" "彼はギターの弦で首を吊った"

"クネゴンダはどこです?" by カンディード

"アイルランド"

"プロテスタントと戦う彼女はカトリックの坊主と行った" by パングロス

 

■   おいおい、クネゴンダの行き先を知っているのなら、なぜカンディードにTVでアピールさせたんだ!ってツッコミたくなるが、それは野暮というもの。気にしないようにしましょう。

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〔 シークエンス 22. 〕

■   舞台はアイルランドアイルランド北部6州が北アイルランドとしてイギリスの一部である事に不満を抱くIRA(アイルランド共和軍) が、アイルランド統一のためイギリス勢力に対する武装闘争を掲げてテロを繰り返していた。1970~1990年代はIRA内部でも、一般的支持を得られないテロに代わる政治的交渉の声も起きたが、より純粋な武装闘争を唱えるIRA暫定派が台頭し、イギリス本土への爆弾テロなども仕掛け、テロリズムを強めていた ( 10 )アイルランドになぜか現れたパングロス率いるTVクルー。

 

"キリスト教の平和な理想が起こす現実 ( 11 )"

"小さな不幸は多数の善を生みます" by パングロス

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 ( 10 )

   現在の状況に関して言うなら、1998年に労働党トニー・ブレア政権下でIRAとの和平合意 ( ベルファスト合意 ) が成立した。この後、アイルランド国民投票によって北部6州の領有権主張を放棄した。2005年にはIRA武装闘争終結を宣言している。

 

( 11 )

   アイルランドにおける宗教闘争は、北アイルランド及びイギリスのプロテスタントアイルランドカトリックという形で現れていた。クネゴンダはカトリックのために率先して来たというよりは、カトリックである異端審問官に連れて来られたと言った方がいいかも。訳も分からずについて行ったという感じですか。

 

   それにしても、宗教闘争それ自体は全く宗教的ではないといえる。どのような宗教であれ、その第一原理が、誰かとの争いを勧めるものではないのだから。では、外部の誰かとの闘争という原理は、どこから発生するのか?それが宗教それ自体からではないのなら?

 

   答えは、宗教の内実それ自体からではないが、宗教という名のイデオロギーからといえる。宗教に従属する内部の人にとっては、それは恩寵や信仰といった内実のあるものだが、そこに従属しない外部の人に対してはイデオロギー的なものになる。言い換えると、宗教に従属する人に対しては教義であるものが、従属しない外部の人に対しては闘争を仕掛けるイデオロギーに変質するという事ですね。もちろん、この事は宗教だけでなく、科学や経済、政治、哲学などについてもいえます。

 

   このようにイデオロギーとは闘争的なものなのですが、そのような用語を聞くと、古くさいマルクス主義を思い浮かべるかもしれませんが、マルクス以前に宗教にイデオロギー闘争を持ち込む事に成功した人こそ、少し前に触れたカルヴァンに他なりませんカルヴァン主義がヨーロッパで勢力を持ちえたのも、その教義のみだけではなく、イデオロギー闘争の側面があった事は否定出来ないでしょう。

 

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〔 シークエンス 23. 〕

■   アイルランドの内戦で廃墟と化した教会に足を踏み入れるカンディードとカカンボ。そこにはアメリカからクネゴンダを連れて来た異端審問官がいた、いや、今さら、異端審問官っていうのもどうしたものか、ただのおじさんにしか見えない(笑)。

クネゴンダは既にそこにはいなかった。裏切られたと感じている異端審問官は怒りのあまり、カンディードたちに機関銃を撃ちまくる。

 

"彼女はユダヤ人と聖地へ逃げた!" by 異端審問官

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〔 シークエンス 24. 〕

■   エルサレムに来てクネゴンダを探すカンディードとカカンボ。壁に貼られた兵士募集のポスターのモデルがクネゴンダなのに、誰も彼女の事を知らないという。何人にも聞いて回り、愚直にクネゴンダを探すカンディードに対して、カカンボはシャワーを浴びる女性兵士に色仕掛けで迫るという驚きの行為 ( そんなキャラだっけ?) で彼女が敵側であるアラブゲリラの所にいる事を聞きだす。アラブゲリラという事は、イスラエルと対立するアラブ諸国側の兵士なのでしょうが、エルサレムという場所を考慮するなら、パレスチナゲリラというのが正確な所でしょう。

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〔 シークエンス 25. 〕

■   おそらく撮影当時は、第4次中東戦争 ( 1973年 ) 前後ですが ( さすがに撮影場所は違うと思うけど )、タイムリーで緊張感のある戦争を映画の素材の一部 ( 先に述べたアイルランド紛争を含めて ) として自分の色に染め上げてしまうヤコペッティは、世界各地における紛争・戦争が、人間にとっての "最悪の出来事" であるがゆえ、映画の中で描く必要のある "経験" だと直感的に理解していたといえますね。

 

■   以下の、赤い花が咲き誇る中でのイスラエル女性兵士とパレスチナゲリラの戦闘は、争いの中でも静かに佇むしかない花との対比において、人間存在が "最後に行き着く経験"、つまり "" ( 赤い花畑の中に横たわるイスラエル兵とゲリラ兵の死体 ) を刹那的に描いている

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〔 シークエンス 26. 〕

■   クネゴンダを再び探すために老人たちばかりが集まる村に来たカンディードとカカンボ。ここにいる老人たちは"フラワーチルドレンという平和と愛と非暴力の集団" だと説明されていますが、もちろんこれは1960代後半から1970年代にかけてアメリカでのフラワームーブメントを担ったヒッピーたちの事。ここでは、社会的束縛に抵抗する事に熱中した若者であったヒッピー達の成れの果ての姿を描いている。

 

■   ただし、これはヒッピー達への批判というよりは、社会的抵抗を求め自由を謳歌する若者でさえも、"いずれ老いていくという誰にも共通する人間の経験" を表していると考えるべきでしょう。

 

■   村人はクネゴンダの居場所ならダルヴィーシュに聞けとカンディードに言う。ダルヴィーシュ ( 12 ) とはイスラム神秘主義 ( スーフィー ) の修道僧の事。原作でもダルヴィーシュは出てくるのですが、映画ではヒッピー達の村にイスラム神秘主義の修道僧がいるという奇妙な状況になってます (笑)。

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( 12 )

   ダルヴィーシュと聞くと、アメリカのメジャーリーグで現役投手 ( 2016年現在 ) であるダルビッシュ有 ( テキサスレンジャーズ。元日本ハム ) を思い浮かべるでしょう。彼の父親がイラン出身なので、ペルシア語のダルビッシュが名付けられている訳ですね。

 

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〔 シークエンス 27. 〕

■   なぜかヒッピーの村にいるクネゴンダを見つけるカカンボ。ダルヴィーシュに聞けと言った村人のアドバイスをまるっきり無視する流れ。一体何だったんだ!

 

■   クネゴンダの姿を確認したカンディードは一瞬目を潤ませるのですが、すぐに彼女が老けてしまっている事に気付きます。

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〔 シークエンス 28. 〕

■   そこに突然現れるかつての知り合い達。TVディレクターだったパングロスも元の姿に戻っている。男爵、奥方もいる。

そしてカンディードは、ダルヴィーシュを訪ね、哲学問答を始める。

 

"人間と言う妙な動物はなぜ存在するんです?

"この世は邪悪すぎます" by カンディード

"善悪を気にするなどお前のやるべき事か" by ダルヴィーシュ

 

■   カンディードの問いに対してダルヴィーシュは明確な答えを与えられず期待はずれなのですが、彼の発言は映画の結末 ( 原作も含めて ) に対する哲学的解釈を行う上での基本的な伏線となっているといえるでしょう。それについては後で考えていきますね。

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〔 シークエンス 29. 〕

■   老け込んだクネゴンダを見て考え込むカンディード

 

"なぜ若さは すぐ消える?" by カンディード

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〔 シークエンス 30. 〕

■   目の前の川を見ながら、最善説を反芻するカンディード。だがここで彼は最善説から、ある種の運命論へ移行しつつある事が分かる。

 

"流れがなければシンボルは反対の岸に流れ着くが 結局 若者たちが またそれを川に投げる"

"運命だよ 逃れようがない" by カンディード

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4.   結末の解釈

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■   さて映画の結末について考える前に、原作の結末に触れておく必要があるでしょう、映画との差異を浮かび上がらせるためにも。

 

■   世界各地を放浪した末にパングロスは仲間達と共に、小さな畑を耕すという日常に没頭していきます。

 

"ぼくにわかっていることは ひとは自分の畑を耕さなければならない、ということ" by カンディード

 

"人間がエデンの園においてもらったのは、聖書にもあるとおり、そこを耕すため、つまり、労働をするためなのです" by パングロス

 

"議論とかするひまがあったら働きましょう。それのみが人生を我慢できるものにする唯一の方法なのです" by マルチン

 

 

■   このように、原作における結末である第30章は、最善説的な哲学議論から "労働" への移行が描かれています。この部分は、カンディード "ひとは自分の畑を耕さなければならない" というセリフと共に、ヴォルテールに関心のある人達にとって、常に解釈の対象となっていました、まるでカンディードの言葉に何らかの哲学が含まれているかのように。たとえば、抽象的に解釈するならば、答えの出ない哲学議論のような他の領野の中で迷走するよりは、自分の手が届く日々の生活の営みに集中する事の方が有意義な人生の過ごし方なのではないか、という具合に。

 

 

■   しかし、カンディードダルヴィーシュとの哲学問答で示されていたのが哲学的思考の停止に他ならないとするならば、カンディードのセリフに含まれていたのは、哲学的なものものではなく、それどころか、哲学理論からの撤退以外の何物でもないのは明らかでしょう。つまり、カンディードのセリフは人生論的には有効でも、理論的には後退している( 8 ) で記したように、それはヴォルテール自身が認める所でしょう。

 

 

■   そんな原作に対して、ヤコペッティの映画のラストは理論的なものについて考える可能性を残しているという意味で、ヴォルテールの原作以上に興味深いものになっています。

 

 

〔 シークエンス 31. 〕

"ダメだ 行くな 痛い目に遭うだけだ" by 川の対岸に自分の姿を見つけたカンディード

"痛い目に遭いたいのさ"

"最初から全部また経験するんだろ" by 去り際に冷静なセリフを残すカカンボ

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■   このラストによって、ヤコペッティヴォルテールの原作の中では最善説の裏で漠然とした形でしか現れてなかった経験論を主体に帰す形で浮かび上がらせ、さらにその帰結を提示したのでした。つまり、最善説に反対するにせよ、賛成するにせよ、それ以前に、そこにはまず "何かを経験する主体" が先立つのであり、その "経験という在り方" は当然ではなく、主体にとっての特別な出来事であるという哲学理論が現れるのです。

 

 

■   このことはヴォルテールが放棄した理論的に考えるという知識の仕事は、もはや止められない事を意味します。パングロスエデンの園に言及しましたが、アダムはそこで知恵の樹の実を食べたが故に、イヴと共に追放されたのでした。それはどういう事なのか。

 

■   何かを知ることは罪なのではなく、何かを知ろうとする事は止められないが故に、どうにもならない事なのです。知る事とは、喜びや楽しみだけではない、負の側面を知る事も含むので自らの楽園から出て行くことでもあるのですね。ならば、私達は知る事が出来るのに、知らないままに安住する態度こそ、さらなる罪である事を哲学的に理解する必要があるでしょう。知らないままでいる態度とは、詰まる所、知る事が出来るのにそれを拒否するという最悪の否定性に留まる事をも意味するのです。

 

■   シークエンス31.において、ヤコペッティは何かを経験する主体にさらに捻りを加えています。主体が経験した事を再び経験するという永劫回帰的モチーフを導入しているのです。この時、主体には何が起き、哲学的にどう考えなければならないかは大きなテーマとなるので機会があれば、その時に論じましょう。いずれにせよ、ヤコペッティの大残酷は、ヴォルテールカンディードが放棄した哲学理論的に考え続ける事の可能性と、映画それ自体を娯楽として楽しむ可能性を内包しているといえるでしょう。

 

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【 僕を楽しくさせるカルト映画:ジョン・フリンの『 ローリングサンダー』】

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監督:ジョン・フリン       公開:1977年  

脚本:ポール・シュレイダー 

  ヘイウッド・グールド

出演:ウィリアム・ディヴェイン ・・・・・ レーン少佐

  :トミー・リー・ジョーンズ ・・・・・ ジョニー伍長  

  :リンダ・へインズ ・・・・・・・・・ リンダ・フォルシェ

  :ローラソン・ドリスコル ・・・・・・ クリフ

  :ダブニー・コールマン ・・・・・・・ マクスウェル

  :ルーク・アスキュー ・・・・・・・・ スリム

 

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1. 社会への不適合者

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   フック船長のような2本爪の義手を装着した佇まいが渋いウィリアム・ディヴェイン主演の映画。この映画のタイトルローリングサンダーベトナム戦争におけるアメリカ軍による北ベトナムへの爆撃作戦から来ている事は明らかでしょう。

 

   ベトナム戦争帰りの兵士たちの社会への不適合性というこの作品の時代背景を知らない人も、レーン少佐のこの異様な姿を見るだけで、普通じゃない "何か" を感じ取るはずです。その"何か"とは、周囲に馴染めない人間の醸し出す雰囲気や存在感であり、2本爪の義手とは、まさにそのようなものの象徴と解釈する事が出来ますね

 

   それ程、ベトナム戦争の帰還兵が受けた心の傷跡は大きかったし、アメリカという国にとってもベトナム戦争は、結果として長年に渡って疲弊を与えただけの負の歴史であったといえます。共産主義陣営とのイデオロギー対立を契機として、アイゼンハワーケネディ、ジョンソン、ニクソン、等の幾人もの歴代大統領にとっての政治的問題であり続け、泥沼にはまった挙句に最終的には撤退という形をとるしかなかったという経緯がありましたね。

 

   ベトナム戦争を経験した兵士の中には、社会復帰が上手く出来ない程のトラウマを抱え込んでしまう者もいたのでした。アメリカではベトナム戦争の経験が映画の1ジャンルを形作っているとさえいえます。『 ディアハンター』『 フルメタルジャケット 』『 プラトーン 』『 地獄の黙示録( これは少し毛色の違う異色作ですが )、などですね。

 

 

2. 社会的メッセージ? いや個人の生き方として・・・

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   ただし、それらの映画がアメリカの社会的経験として昇華されているのに対して、この『 ローリングサンダ ー』や同じ脚本家のポール・シュレイダーが関わった『 タクシードライバー 』、そして『 ランボー 』の第1作などは、監督や脚本家がわざとそうしなかったのか、それとも出来なかったのかは分かりませんが、社会的なメッセージを訴える方向に向かわずに、ひたすら個人の生き様を描く事に固執していますね。個人の虚脱感や敗北感がかろうじて社会的なものへの引っかかりを示してはいますが。

 

   つまり、ベトナム戦争などの大きな出来事がなくとも、社会に馴染めず、自分の流儀にこだわる事しか出来ない ( たとえ破滅的な結末であろうとも ) 不器用な人間はいる訳で、そのような個人の生き方に焦点を絞るなら、ベトナム戦争という大きなテーマでさえ、個人の人生の中ではひとつの要素に過ぎなくなってしまう程、強烈に人生の刹那を描いている訳です

 

   そう考えると、『 ローリングサンダー 』は、ベトナム戦争での拷問のトラウマが主人公に大きな影響を与えているとはいえ、殺された家族の復讐をする事しか出来ない彼の不器用な生き様をひたすら描いたカルト映画だといえるでしょう。

 

 

3. いくつかの場面・・・

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   ベトナム戦争から帰還した夫に妻ジャネットは、親切にしてくれていた警官クリフとの交際を告白する。

 "成り行きだったの" by レーン少佐の妻ジャネット

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   表向きは冷静を装うレーン・・・。というより戦争中の拷問のトラウマで感情の起伏がなくなっているのか?

 "それ以上は聞きたくない" by レーン少佐

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   ベッドに横たわるレーン少佐の脳裏にフラッシュバックする拷問シーン。反射的に腕立て伏せを始めてしまう。身体を動かす事で悪夢をごまかそうというのか?しかも捕虜中はシーツのない板のベッドで寝ていたため、家のベッドもシーツをはがしてしまうという行動に出る・・・そして体育座り。

 

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   ジャネットとの交際の件で話しに来たクリフだが、なぜか突然、戦争中の拷問に耐えたレーン少佐を賞賛し出す・・・。ご機嫌をとろうというのか?それに対してレーン少佐はなぜかうれしそうになる。

 "聞きたいんだろう" by ニヤッと笑うレーン少佐

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   ロープを使った拷問を実演し始めるレーン少佐。通常であれば、相手にかけるであろう所を、なぜか自分にロープをかけてしまう・・・これでは相手に痛さが伝わらない!マゾなのか?

"もっと高くだ  骨が音をたてるまで  " by ロープでもっとキツくするよう訴えるレーン少佐

"もういい 充分だよ" by ドン引きするクリフ

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   冷静になったレーン少佐はクリフに釘をさす "おれの子供をチビと呼ばんでくれよ"。つまり身内であるかのようになれなれしくするなという事ですね。しかし、これでは根本的な解決になっていない!妻の事には触れずに"約束だぞ"と言って終わるのだから。妻との交際は黙認するというのか?微妙だ・・・。

 "気にせんでくれよ" by レーン少佐

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   しかし、妻に裏切られようとも、渋いレーン少佐には女の方から寄ってくる。この時から彼の気持ちはリンダに傾いている。

 "あなたは口数が少ないタイプね" by リンダ

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   家に帰ってきたレーン少佐を待ち受けるメキシコ人の強盗たち。

町の歓迎式典でレーンが贈呈された銀貨を奪いにきたが、レーンは答えようとしない。

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■   何発殴られても口を割らないレーン。戦時中の拷問場面がフラッシュバックしているが、それに比べたら耐えられると自分に言い聞かせているのか?手をライターで炙られても動じない精神力!

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   強情なレーンに対して、強盗たちはさらなる痛みを加える。レーンの右手を台所下のディスポーザーに突っ込むという暴挙に出る!それまで無口だったレーンも苦痛のあまり、さすがに叫び声を挙げてしまう!しかし、砕けてしまった自分の右手をかばいながらも、銀貨の在りかはしゃべらないという精神力は健在です!

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   そこにタイミング悪く帰ってきたレーンの妻と息子。強盗は銀貨を渡さないとレーンを殺すと脅す。父を助けるために銀貨を取りにいく息子。その様子を見た強盗のスリムはレーンに向かって言う "このバカ野郎、痛い思いをしただけだぞ"そんな強盗に同調するかのように妻のジャネットも言う "チャーリー、なぜ言わなかったの?"それに対して強盗のボスは言う "そいつはバカだからさ"

 

   敵だけでなく身内からも非難轟々のレーン。それこそ答えようがなく、何も言わずにいるしかないでしょう(悲)。しかし、銀貨を渡した後、妻と息子は強盗たちに撃ち殺されてしまいます。

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  事件後に入院して療養するレーン少佐と見舞いに来たトミー・リー・ジョーンズ演じるジョニー伍長。トミー・リー・ジョーンズが若い。若いといっても当時30才くらいですが。それでも予備知識がなければ、彼だと気付かない人は結構いるかも。

 

   日常生活に馴染めない彼ら。

"今となっては人並みの生活には戻れませんよ。あなたは?" by ジョニー伍長

"どうでもいいさ" by レーン少佐

 

   本当はどうでもいいわけではないでしょうが、今のレーンは、"復讐"の事しか考えられないという所でしょう。それはジョニー伍長も察していて、こう言います "奴らには生きる権利はありませんよ"

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   退院して自宅で2本爪の義手の調整をするレーン。長すぎる銃身を切り、使いやすくしたショットガンを用意して復讐のための準備を整える。

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   レーン少佐は、リンダを一緒に連れて行くのだが、危ない目にあって振り回されっぱなしの彼女は、ついに切れて車から降りる。しかしレーンは彼女を追っかけ、取っ組み合いのケンカを始めてしまう。復讐以外の要素もバッチリです。

"こんな車には乗ってられないわ!" by リンダ

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   取っ組み合いが終わると、リンダはレーンに言います "私はあなたのものよ!"さっきまでのキレ具合はどこへやら。レーンに惚れた女に様変わりします。

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   レーンに完全に惚れきったリンダは、レーンに復讐をやめさせようとします。

"こんなことする必要があるの?"

"しばらく私と暮らさない?"

"抱いて"

   レーンは表情ひとつ変えない・・・。渋すぎる。そうなのか?

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   モーテルで一夜を過ごした彼ら。レーン少佐は軍服に着替え、お金を残し、リンダに気付かれないように部屋を出る。強盗たちとの最後の戦いに出向くために、好きな女をこれ以上巻き込みたくないとの配慮から、愛すら振り切ってしまう!

 

   しかし普通の人なら、こう思うでしょう "なぜ軍服なんだ?戦争ではなく個人的な復讐なのに" 。でも、それは野暮な疑問です。レーン少佐にとって、命をかけた戦いに赴く時の正装は、軍服なのです。極端に言うなら、命をかけるという意味では、戦争だろうが個人的復讐であろうが何ら変わりないのです。

 

   たしかに一般人の日常感覚からすると、レーン少佐は狂っているのかもしれませんが、彼は既にベトナム戦争で日常感覚を失っているのであり、それは同時に彼の中では、彼の戦争 ( 歴史的な大文字の戦争ではなく、命をかけた彼の孤独な内面的戦い ) は未だ終わっていないことを意味します

 

   もはや誰も彼を止められない!

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   強盗たちと戦うために、ジョニー伍長を必要とするレーン少佐は彼の家を訪れる。強盗を見つけたと言うレーンに対し、ジョニーは何のためらいもなく答える "片づけに行こう"。レーンの個人的復讐にも関わらず、かつての上官には今でも従うのは当然だといわんばかりのジョニーは、やはりレーンと同様、日常生活に戻れない不適合者であり、戦争が必要な男だった!

 

   軍服を着たジョニー伍長は彼の父に言う "さよなら パパ"

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   強盗たちがいる売春宿に乗り込むレーン少佐とジョニー伍長。真っ先に殺されてしまう強盗のボス。何と掟破りな!何のためらいもなく強盗たちを撃ちまくる!

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   撃ちまくるだけじゃ済む訳はない。ついにレーン少佐は敵のスリムに腹部を撃たれてしまう。倒れながらも反撃するレーン少佐。

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   立ち上がり、スリムにトドメをさすレーン少佐。戦いが終わりジョニー伍長に肩を貸すレーン。歩いて帰る2人。復讐を成し遂げたものの、そこに満足感などはなく虚脱感だけが残る。彼らは一時的なカタルシスを得たのかもしれないが、その後はどうなるのか・・・。エンドロールで流れるデニーブルックスが歌う〈サン・アントニオ〉が美しい・・・。

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僕を楽しませてくれたミュージシャンの音楽的ルーツ〈 HYDEをかたち作った6枚 〉

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   L’Arc~en~CielVAMPS、のHYDEが『 Rolling Stone JAPAN 』( 2016年2月号 ) のインタビュー HYDEをかたち作った6枚で、自分が影響を受けた6枚のアルバムについて語っています。こういうアーティストが影響を受けた音楽を語るのは、そのアーティストの熱狂的なファンでなくても、その人の音楽のルーツが垣間見え、それが納得出来たり、意外に感じたりして興味深いものです。正直言って、かなり多彩な内容なので、以下にあげられたアルバムのどれかを聴いた事がある人でも、全てを聴いた人はそういないのではないかと思えるくらいです。逆に言うと、それはHYDEがジャンルに関係なく、様々な音楽を聴いていく姿勢がある事を示していますね。

 

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 1.   GASTUNK『 EARLY SINGLES 』

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   彼が最初に挙げたのが、GASTUNKです。L'arcの音楽しか知らない人からしたらどんなバンドなのかさっぱり分からないでしょう。1980年代当時におけるメタルとハードコア・パンククロスオーヴァーを体現していたバンドであり ( 元々メタルとハードコア・パンクは相反するものでした )、ハードコアの激しさにメタルのスピード感が加わった曲が特徴的でした。ハードロック色の強い後期よりも、メタル・ハードコア色の強いインディーズ時代を含めた前期は本当に素晴らしい。その時期の曲を集めたアルバムが『 GASTUNK / EARLY SINGLES 』です。

 

HYDEは言っています、

 

"僕が初めてライヴハウスに行ったのもGASTUNKのライヴじゃないかな。その時の衝撃は永遠ですね。"

"まさにVAMPSでやりたいことって、それなんですよ。その時の体感を今現代でやったらどうなのかっていうのを焼き直しているだけかもしれない"

 

       

  "GERONIMO"   from 『 EARLY SINGLES 』

 

 

"DEVIL"   from 『EARLY SINGLES』

 

 

                       

 "SHOUT"

 

『 EARLY SINGLES 』には収められていないが、オススメの1曲。メタルが好きな人からしたら、マイケル・シェンカーの影響を受けているTATSUのギターは本当に楽しめますね。 

 

"Sex、Blood、Rock'nRoll"

 

VAMPSで衝動の強い曲といえば、これでしょう。 

 

 

 2.   MISFITS 『 Legacy of Brutality 』

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『 Legacy of Brutality 』 by  MISFITS

 

   HYDE曰く、ホラーパンクを求めて辿りついたのが、MISFITSという事らしいです。他のアルバムと違って、ハードコアっぽくない本作『 Legacy of Brutality 』が気に入ったようですね。

 

   ハードコアっぽくないという点でいえば、『 Legacy of Brutality 』以上にオススメなのが『 FAMOUS MONSTERS 』です。キャッチーでMISFITSならではのPOPさが満載のこのアルバムは、コアなファン向けというよりは、誰が聞いても楽しめる普遍的な傑作となっていますね。発売当初、BURRN! 誌のレビューでも90点台を出したと記憶しています。Voがオリジナルメンバーのグレン・ダンジグではなく、マイケル・グレイヴスなので、評価しないコアなファンもいるようですが、MISFITS史上最も楽しめるアルバムだと個人的に思いますね。このアルバムのツアーで日本にも来ています。僕が見たライブでは、マイケル・グレイヴスは最後の方で全裸になっていた。

                          

  FAMOUS MONSTERS

 8曲目の "Saturday Night" は素晴らしいバラード 

 

"SECRET IN MY HEART"   by   VAMPS

 

ヴァンパイアの宿命により人を自由に愛する事ができないせつなさを歌った曲。サビの部分が美しい。

                          

"REDRUM"   by   VAMPS

殺人者の衝動を歌った曲。REDRUM=MURDER ということですね。 

 

3.   David Sylvian『 Brilliant Trees 』

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Brilliant Treesby David Sylvian     

 

   HYDEの美意識に大きな影響を与えたデヴィッド・シルヴィアン

 

"本当に美しい顔で呪文みたいな歌で、すべてが美意識の塊みたいで。当時の僕にとってデカダンスの始まりでした。妙に好きで、本当に聴きまくっていまし た。いちばん吸収する多感な頃だったので、その時の影響はすごく大きいかもしれない。デヴィッド・シルヴィアンはいまだに僕のアイドルです。( HYDE )"

 

   デヴィッド・シルヴィアンのアルバムとしては、『 Brilliant Trees 』を名作とする声が多いのですが、それ以上に『 Secrets of the beehive 』こそ、彼の最高傑作といえるでしょう。装飾を排したシンプルな曲で構成されたアルバムでありながら、彼の世界観が余す所なく体現されているという意味で、そこら辺のロックでは太刀打ち出来ない程 "へヴィな" 作品だといえます。坂本龍一のアレンジやプロデューサーのスティーヴ・ナイによる仕上げが施されているのはもちろんですが、それ以上にデヴィッド・シルヴィアンの自分の世界観を創り上げるという強力な意志が貫かれています。聴く人にこれほど内面世界に耽溺させる作品にはそう出会えるものではありませんね。ちなみに2003年に再発された本作のデジタル・リマスター盤では、残念な事に削られた "Forbidden Colours"( 映画『戦場のメリークリスマス』における坂本龍一作曲のメインテーマにデヴィッドが歌詞を乗せて歌ったヴァージョン。"Forbidden Colours"というタイトルが三島由紀夫の小説 "禁色" の英語版に由来する事は有名ですね )ですが、このYou Tube版では聴くことが出来ます。

    

『 Secrets of the Beehive 』  by  David Sylvian

 

   そんなデヴィッド・シルヴィアンHYDEが最も近かった時期がソロ名義で発表されたアルバム『 ROENTGEN 』の頃でしょう。L'arcの時とは違うHYDEの世界観が確立された傑作です。

          

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" evergreen "  from 『 ROENTGEN 』

  アルバムを代表する名曲。 

               

" SHALLOW SLEEPfrom 『 ROENTGEN 』

これも名曲。 

      

"Angels Tale"   from  『 ROENTGEN 』

このアルバムの中でもデヴィッド・シルヴィアン的な曲のひとつ。 

      

" Secret Letters "  from『 ROENTGEN 』      

 

 これもデヴィッド・シルヴィアン的な曲。

 

4.   MÖTLEY CRÜE『 SHOUT AT THE DEVIL 』

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Shout of the devilby  MÖTLEY CRÜE

 

   派手なメイク、髪型、レザー、などの特徴的な外見と、ザクザクのギター音が相俟ったLAメタルと呼ばれるスタイルを確立し、多くのフォロワ-を生み出した彼らが発表した疾走感溢れる2ndアルバム ( 1983年 )。ビートルズの " ヘルタースケルター" もカバーしている。この頃、若かった洋楽ロック好きな人は誰でも、彼らの曲を、耳にしたことがあるはず。それくらい勢いがありましたね。

 

"モトリーはリアルタイムで聴いていました。ちょうど、LAメタルが流行って、ニューロマと重なってきていて今思えばルックスも似てるっちゃ似てたとも言え るし。そんななかで、当時、見た目はパンクなのかメタルなのかよくわからなかった(笑)。髪の立て方も、スージー・アンド・ザ・バンシーズみたいだった し。『なんやこれ? ものすごいルックスやなあ』と思って、そこから入りましたね。やっぱりルックスは大事だなといまだに思います。ルックスとサウンドがリンクした時にバー ン!とくるんでしょうね。( HYDE )"

 

   VAMPSは彼らの "LIVE WIRE ( モトリークルーの1stアルバム『 Too Fast For Love 』に収録 )" をカバーしていますが、特にチリでの演奏は観衆の熱気に押されてか、テンション高いです。"TROUBLE ( shampooのカバー )" から始まり、6:40秒頃から "LIVE WIRE" の演奏。この時のパフォーマンスは本家よりパワーがあるかも。

 

 

5.   Depeche Mode『Some Great Reward』

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 Some Great Rewardby Depeche Mode

 

 

"デペッシュ・モードはすごい音楽的衝撃を受けて、それからずっとフェイバリットですね。ここまで好きになってしまうと、駄作でもOKっていうくらい (笑)。新しい作品が出るだけでも十分みたいな、そういう域にいっちゃってます。デイヴ (・ガーン/ヴォーカル ) とマーティン (・ゴア/ギター、ヴォーカ ル、キーボード ) の2人がやってくれるだけでありがたいというか。"

"84年の作品だけど、未だに音楽的なネタの宝庫です。便利というか(笑)。ここもうちょっとこうしたほうがいいなっていう時に、デペッシュ・モードを思い出したりします。 そうすると自分好みになるんですよ。歌い方を真似してたこともありましたね。( HYDE )"

 

   "People Are People"  "Somebody"  "Master and Servant" などの名曲揃いの傑作アルバム ( 1984年発表 )。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン ( ドイツのインダストリアル・ノイズミュージックの実験的バンド ) に影響を受けたマーティン・ゴアが前作から持ち込んだインダストリアル的志向性によって、重厚かつ金属的残響感が色濃く打ち出されている。そのような音作りによって醸し出される無機的な空気感がデカダンス ( 頽廃 ) を生み出しています。ある意味で、この作品はHYDEが自分のデカダンスの始まりと評したデヴィッド・シルヴィアンの『 Brilliant Trees 』以上にデカダンスが支配しているといえます。

 

   ここで『 Some Great Reward 』以上に評価が高く、彼らの最高傑作と呼ばれる『 Violator 』について触れておくべきでしょう。

        

 Vioraterby  Depeche Mode

 

  この作品は、確かにデカダンスに彩られているのですが、インダストリアル的方向性を打ち出していた『 Some Great Reward 』や『 Black Celebration 』と違って、強烈なデカダンスの効果を生み出していた金属感のある音処理は、影を潜めています。

ヴォーカルの音までが金属的に処理されていた『 Some Great Reward 』や『 Black Celebration 』に対して、『 Violator 』ではヴォーカルの有機性を生かすべく、金属感は取り除かれ、空間性は保てれているものの、音を前面に出すような作りになっています ( ちなみにリマスター盤では、音の粒立ちがはっきりしすぎてこの味わいは損なわれている )。これは、それまでの際限なく繰り広げられるデカダンスの波に、抑制を加え、コントロールする事で内面の世界観を作り出すことに成功しているという事です。つまり、たんなるデカダンスから、それをデペッシュ・モードの美学へと昇華させたわけですね。アルバムジャケットのアートワークである一輪の花が、それを象徴しています。この内面世界を構築するために採られる装飾を削ぎ落としたアプローチは、デヴィッド・シルヴィアンの『 Secrets of the beehive 』とも共通するものである事も付け加えておきましょう。

 

   デヴィッド・シルヴィアンの『 Secrets of the beehive 』やデペッシュ・モードの『 Violator 』に近い L'arc の曲といえば、彼らの世界観が壮大に表現された "forbidden lover" でしょう。戦争に巻きこまれている "女性?" が、かつての忘れられない恋人へ思いを募らせながらも、どうにもならない状況の中で神の名を叫ぶというストーリーのこの壮大な曲はライブでこそ、その真価を発揮するといえますね。

                          

 "forbidden lover" by L'arc~en~Ciel

 

    3. David Sylvian『 Brilliant Trees 』の所でも紹介しましたが、この曲のストーリーは明らかにデヴィッド・シルヴィアンの "Forbidden Colours" に影響されていますね。坂本龍一が作曲した大島渚の映画『 戦場のメリークリスマス 』のテーマソングに、デヴィッドが詞を乗せて作ったこの曲のタイトルが三島由紀夫の "禁色 ( 言うまでもなく、同性愛についての作品 )" の英語版に由来する事、そしてこの映画で同性愛的感情が描かれている事を考えると、"forbidden lover" における "恋人関係" がいかなるものかは容易に推測できます。しかし、HYDEが "Forbidden Colours" に影響されているとはいえ、それは同性愛的なものからというよりは、デヴィッドの曲作りを含めた "美意識" からだという方が適切でしょう。

 

"Forbidden Colours" by Sylvian&Sakamoto

 

         

6.   オフコース『We are』

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"音楽を作り始めた頃は僕はハードコアや、ゴシックロックにハマってたから、ラルクを始めて、すごくキャッチーな曲がメンバーから出てきた時に、どういう詩 を書いていいかさっぱりわからなかったんです。『何を言ってええんやろうな?』ってすごい迷って試行錯誤して詩を書いた時に、開いた引き出しがオフコース で。オフコースの曲って、実は都会的なクールな感じで、歌詞もすごく抽象的だと思います。言葉もかなり選んでいるし。そういうところで、『あ、こういう表現の仕方があるな』って。 ( HYDE )"

 

   HYDEが手がける詞は、美しく繊細であり、ほとんど詩人だなと思わせる曲がいくつかありますね、特にL'arcの "虹"  "花葬"  "forbidden lover"、ソロの "evergreen"  "shallow sleep" など。これらの詞を考える上で、小田和正を参考にしていたというのは興味深いですね。確かに小田和正の曲には、楽曲の中に埋もれてしまわない詞の力強さがあります。

        

 "時に愛は" by オフコース

" 時に愛は力つきて 崩れ落ちてゆくようにみえても~"  この詩的な言葉遣い・・・。 

 

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【 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン〈 2 〉】

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  ◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 1. の続きという事で。

 

 

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 1. 花森安治の『暮らしの手帖』の表紙デザインⅡ

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   1948年から1969年の約20年間で、100号を迎えた『暮らしの手帖』は、それまでの100号を1世紀と位置付ける事によって ( 100号であって100年じゃないけど・・・。初心に返るという意味を込めているとはいえ強引な気もしますが、花森安治らしいという所でしょう〈笑〉)、次からを101号で始めるのではなく、2世紀1号からで・・・という事にしちゃったようですね。判型もB5判からA4変形判になりました。

 

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   2世紀~で特徴的なのは、特に25号以降ですが、女性のアップの顔が増えていく事ですね。『暮らしの手帖』のメインターゲットである女性をより意識している事が現れていますね。

 

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   花森安治による最後の表紙である53号のデザインは、生前「自分が病気になった時に使いなさい」とスタッフに渡されていたものでした。

 

 

2. 手仕事へのこだわり、手仕事への考察

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   そんな花森が自分が使う文房具にこだわりを持っていた事はよく知られていますね。鉛筆、定規、ハサミなどは机の上の定位置に置かれていなければならず、それらを管理するスタッフは鉛筆の芯も折れないように丸く整えたりするという気の使いようだったらしいです。それだけにファーバー・カステルの鉛筆 ( ゴッホムンク、クレーも使っていた ) やシェーファーのインクを花森が高く評価したのも頷けますね。

                                       

                                       【花森の作業用文房具】

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   そこには自分の手で使用し満足を与えてくれる道具に対する愛着があります。道具を使用し自分の手を動かす事から何かを生み出す喜びがあります。道具を使用し自分の手を動かす者はその事を誰よりも知っているといえるでしょう。

 

   花森の生前の最後のエッセイ『 人間の手について ( 1978年 ) 』を読むと、手仕事の大切さを説いているのが分かりますね。このエッセイは、鉛筆を削るのにナイフを使わせずに鉛筆削り器を子供たちに使用させる小学校の教育方針を批判しながら、手仕事の経験を通じて本当の教育の在り方について考えるべきだという提案をしています。

 

   もちろん時代が変わった現在では、学校教育に対する花森の主張がそのまま通用する訳ではありませんが、それでも彼の手仕事に対する考察は興味深いものがありますので少し長めに抜粋しておきますね。

 

"  人間は、道具をつかう動物だ、といわれています。ここで、はっきりしておきたいのは、人間は、道具につかわれる動物ではない、ということです。

 道具をつかうのは、人間の手です。あるいは、人間の目や、耳や、鼻といった感覚です。こういった感覚は、訓練をすればするほど、鋭くなっていきます。

 たとえば、昔、海軍の水兵たちは、暗闇でものを見る訓練を、そうとう痛烈にやらされたということです。その結果、本来なら見えないはずのものが、水兵たちは見ることができた、いいます。

 この話は、レーダーのなかった日本軍の苦しいあまりの一策だった、といわれています。しかし、もしも、レーダーがこわれたとき、そういう訓練ができているのと、いないのとでは、たいへんな違いがおこります。鉛筆削り器にしても、こわれることはよくあります。一度こわれたら、新しいのを買うまで、だれも鉛筆を削ることができないのでしょうか。そんなバカげたことは、ありますまい。

 人間の手のわざを、封じないようにしたいというのは、つまりは、人間の持っているいろんな感覚を、マヒさせてしまわないように、ひいては、自分の身のまわり、人と人とのつながり、世の中のこと、そういったことにも、なにが美しいのか、なにがみにくいのか、という美意識をつちかっていくことになるからです。"

 

"  人間の手わざは、みんな自分でなにかを作り出す喜びというものに、つながっています。ところが、いくらよくできた鉛筆削り器でも、それを使って鉛筆を削ったとき、なにかを作り出したというよろこびがあるでしょうか。

 鉛筆の芯がまるくなったから、鉛筆の芯が折れたから、新しい鉛筆をおろさなばならないから、そういったときに、まるでビジネスのように、鉛筆削り器を使っています。料理ひとつ作るにしても、じぶんの手で材料を洗い、切り、煮炊きし、味をつけて、ひとつの料理に仕上げていく、そこにこそ、じぶんで作り出すというよろこびがあるのです。"

  

 

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〈このブログ内の関連記事〉

 

 ◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 1. 

 

 

 

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僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの『 メランコリア 』

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公開:2011年      監督:ラース・フォン・トリアー

出演:キルスティン・ダンスト    ・・・ ジャスティ

  :シャルロット・ゲンズブール  ・・・ クレア〈ジャスティンの姉〉

  :キーファー・サザーランド   ・・・ ジョン〈クレアの夫〉

  :キャメロン・スパー      ・・・ レオ〈クレアの息子〉

  :アレクサンダー・スカルスガルド・・・ マイケル〈ジャスティンの夫〉

  :ジョン・ハート        ・・・ デクスター〈ジャスティンの父親〉

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 メランコリア 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1.  惑星ソラリス〉へのオマージュ

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a.   この映画がアンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』へのオマージュである事はよく言われるところです。宇宙探査ステーションのプロメテウスの図書室に飾られてあったブリューゲルの "雪中の狩人" が『 メランコリア 』にも登場するという具合に。

     

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              雪中の狩人 by ブリューゲル

              

 

 b.   ただし、この絵画は『 惑星ソラリス 』においては故郷を感じさせる北方的なものの役割しか果たしていない。もちろん北方的だからといってもブリューゲルソ連 ( 懐かしい国名!惑星ソラリスが撮影された当時はロシアではなくソ連でしたからね ) の画家ではない事は言うまでもないですね。絵が描かれた当時はソ連もなかったのだから(笑)。では『 メランコリア 』が『 惑星ソラリス 』へのオマージュであるからには、どのような関係性があるのでしょう。それについては後で考えていく事にしますね。

 

 

2.  メランコリア〉におけるドイツ的なもの

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a.   それよりも、ラース・フォン・トリアーの芸術的なものへの接近という意味ではドイツ的なものがこの映画において影響を与えているのは明らかでしょう。タイトルの『 メランコリア 』からはアルブレヒト・デューラーの "メランコリア" が容易に指摘されているし、サウンドトラックはリヒャルト・ワーグナーの "トリスタンとイゾルデ"なのですから。

                         

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          メランコリアby アルブレヒト・デューラー

           

 

b.   そしてトリアーの例の悪名高い "ナチスへの傾倒とヒトラーへの共感発言" を聞くと、それが冗談に過ぎないとしても、そのような考えが生まれる土壌がこの映画を作り上げる過程で形成されていたのは疑いようがないでしょう。問題なのはドイツ的なものの影響を受けている事を認める彼の中では、彼を魅了する "ドイツの美的なもの" というカテゴリーがナチス反ユダヤ主義と切り離して論じるられると素朴に考えられている事です

トリアーは反ユダヤ主義には組しないという旨の発言をしていましたが、ナチスに言及するのであれば、そのような切り離しが不可能である事は、哲学者のジャン・フランソワ・リオタールやフィリップ・ラクー・ラバルトのナチスについての批判的説明以降では明らかなはずです。

 

c.   彼はあるインタビューの中で、マルセル・プルーストの "失われた時を求めて" を引き合いにしながらワーグナーの "トリスタンとイゾルデ" の偉大さに言及しています ( プルーストワーグナーの愛好家である事は有名ですね ) が、もちろん彼はワーグナーの中に反ユダヤ主義の要素がある事やヒトラーワーグナーを好んでいた事を知らないはずはないでしょう。

にも関わらず、〈切り離し〉が可能であるかのように彼は振舞っているのです。また、彼はインタビューの中で、ナチスの急降下爆撃機のシュトゥーカ ( Stuka ) について軍事マニアのように語りだし、ナチスのデザインの驚異に言及する事によってインタビュアーを困惑させてしまう程です ( にも関わらずインタビュアーは芸術的側面の観点からトリアーの映画に関して公平であろうとして苦心している )。

 

d.   ただし、だからといってワーグナーの音楽やトリアーの映画が全く駄目だという事にはならないでしょう。というのもナチス的要素だけで彼らの芸術を全て説明する事は出来ないからです。注意すべきは、そのような要素がどれ程作用しているかを見逃すべきではないという事でしょう。

 

 

3.  メランコリア 』における惑星が暗示するもの

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a.   以上のことを踏まえた上で、『 惑星ソラリス 』と『 メランコリア 』の関係性について考えてみましょう。このブログでも以前書いたように、『 惑星ソラリス 』とはソラリスの海の秘密について迫るSF映画なのではなく、そこに登場する人物達の人間関係がソラリスの海によって鏡のように写し出されるという人間の精神についての映画なのですつまりソラリスの海とは、人間の関係性の象徴となっている訳ですだから、そこでは人間関係を楽しむしかない。そういう理解をしないと長いだけの退屈な映画になってしまう。

 

b.   では『 メランコリア 』における地球に接近するこの惑星は、どのような役割を果たしているのでしょう。それはソラリスにおける海の役割と同様、人間関係の象徴として機能しているのでしょうか。もちろん、そういう側面もありますが、それ以上に、惑星メランコリアはトリアーの恐るべき概念を暗示しているといえるのです。

 

c.   よく指摘されるようにトリアーが鬱病の頃、セラピストから鬱病患者はある緊急な状況下においては、普通の人よりも冷静になる事があるのを聞いたという話がありますが、これを単なる鬱病患者の特徴に過ぎない話として片付けるべきでしょうか。たしかに『 メランコリア 』の第1部でキルスティン・ダンスト演じるジャスティンは結婚式において鬱病的な行動によって式を台無しにしたものの、惑星メランコリアが迫ってくるという切迫した状況下の第2部において、シャルロット・ゲンズブール演じる姉のクレアがうろたえるのと対照的に悟りきったかのように冷静に振舞います ( 1 )。しかし、これを鬱病患者の行動パターンの変化を描いたとしか読み取らないのであれば、トリアーの恐るべき本質を見逃してしまう事になります。

 

 

4.   鬱病患者の述べる真理・・・

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a.   ではトリアーは何を示そうとしたのでしょうか。鬱病患者だから戯言を述べている事を彼は示しているのではないのですそれどころか、彼は鬱病患者だからこそ振舞える冷静な言動の中に真理の一面を示そうとしているのです・・・。

 

b.   ここには、精神的に病んでいる者が音楽や映画に没頭する事によって回復するなどという自己療法的なセラピーなど吹き飛ばしてしまう恐ろしさがあります。精神的に病む者だけが、まさに病気であるからこそ述べる事が出来る "哲学的真理" があるのですフロイトラカンが参照したドイツの官僚だったダニエル・パウルシュレーバーがその例です。

 

c.   では映画の中で示される真理とは何でしょう。それについて考えるために以下の会話の場面を参照しましょう。

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d.   ジャスティンはクレアとの会話の中で、冷静に「地上の生命は邪悪だ」と言い放ちます。この発言はトリアーの作家性を考えると、思われる以上に過激なのです。というのも "地上の生命" と言う時、普通は娯楽的ストーリー ( ハリウッドのSF映画など ) の進行上必要な、象徴的生命 ( 人間以外の生命も含めた ) という設定なのでしょうが、トリアーの場合、"人間以外の何物でもない事" をオブラートに包んだ言い方だといえるからですそもそもトリアーの映画自体が人間の存在の闇を描いたものに他ならない。なので、ジャスティンの発言を言い直すと「人間は邪悪だ」「滅んでも嘆く必要はない」という事になるでしょう。

 

 

5.   トリアーの映画の本質としての〈 崩壊 〉

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a.   たしかに、人間の存在が悪だというのは、哲学的真理の一面を示していて詳細に考えなければならない問題ですが、ここから早急にトリアーの人間不信や人間嫌いを結論とするのは単純すぎます。「人間は邪悪だ」という発言の過激性にこだわり過ぎて、トリアーの映画の本質を見逃すべきではないでしょう。

 

b.   そうではなく、この発言を可能にしているものこそ、トリアーの映画の哲学的本質だと考えるべきなのです。ではその本質とは何か。それこそ地球に迫る惑星メランコリアが人間の存在に及ぼす作用、つまり "崩壊" です。惑星メランコリアとは "崩壊" の作用を暗示しているのであり、トリアーの映画の本質とは物事 ( 人間関係を含む ) が崩壊していく様を描くことにあると言えるでしょう。そして崩壊の様子を最も具現化するのが人間という存在であり、それを追及する事こそがトリアーの映画の秘密なのです。

 

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( 1 )

■   ジャスティンの振舞いが冷静になる兆候として、野外でのジャスティンを演じるキルスティン・ダンストのヌードシーンがありますが、これは単なる話題作りというよりはタルコフスキーの『 惑星ソラリス 』へのオマージュを示すひとつの例といえるでしょう。

 

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  惑星ソラリス 』においても、ハリーを演じるナタリヤ・ボンダルチュクの有名な半裸シーンがありますが、トリアーの映画マニアぶりが出ていますね。そうでなければ、キルスティン・ダンストのヌードシーンは果たして必要だったのかと思えますから(笑)。

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このブログ内の関連記事

 

■   惑星ソラリス 』については当ブログの記事を参照。

 

 ■   メランコリア 』と同じく終末論的映画という事であればタル・ベーラの『 ニーチェの馬 』を挙げておかなければならないでしょう。

 

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僕を哲学的に考えさせる映画:アンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』

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公開:1972                 監督:アンドレイ・タルコフスキー

出演:ドナタス・バニオニス    ・・・ クリス・ケルヴィン〈心理学者〉

  :ナタリヤ・ボンダルチュク  ・・・ ハリー〈クリスの元妻〉

  :ユーリー・ヤルヴェト    ・・・ スナウト

  :アナトーリー・ソロニーツィン・・・ サルトリウス

  :ソス・サルキシャン     ・・・ ギバリャン

  :ニコライ・グリニコ     ・・・ ニック・ケルヴィン〈クリスの父〉

  :タマラ・オゴロドニコヴァ  ・・・ アンナ〈クリスの母〉

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 惑星ソラリス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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1.    SFセットの舞台劇・・・

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a. 惑星ソラリス 』の165分という長い上映時間は、観る人によっては退屈だと感じる人もいるかもしれませんね。というのもこの作品は、彼の特徴である映像美よりは、物理的に限られたSFセットの中で繰り広げられる "対話劇" がメインになっているものだからです。

 

b.   もちろんその事情は、限られた予算の中で作りこまれるSFセットには物理的限界があるからでしょうが、逆に言うと、限られたセットの中では、登場人物の対話や遣り取りによって話を進行させる事が主な手段になるという訳ですつまり、この形式は固定されたセットで登場人物達の遣り取りによって話が進行される "舞台劇" に限りなく近い ( 極端に言うなら、室内劇のSF版といえるでしょう )

 

 

c.   前半では、ソラリスの謎について、延々と対話や遣り取りが繰り広げられます。

 

「何か異常なことが起こっているようですが・・・」by クリス

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「結論を急いではいかん。ここは宇宙だ。」by スナウト

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「私は頭が変になったようです。」by 物質化された見知らぬ人間を見て驚くクリス

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d.   この舞台劇がタルコフスキー的映像表現で味付けされると独自の世界観を持ったSF映画になるという所なのですが、あくまでも対話劇である事を念頭に入れれば、この映画は惑星ソラリスの海の謎に迫るものというよりは、その海を媒介にした人間関係にこそ重点を置くものである事に注意すべきです。

 

 

2.   人間関係という"秘密"を写し出すソラリスの海

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a.   この人間関係を楽しまずに、人間の記憶の一部を物質化するソラリスの海に "知的生命体としての秘密" があるのではないかとSF的詮索ばかりしていては、この映画を退屈なものにしてしまうでしょう。

 

b.   これはこの映画の結論にもなりますが、唯一、"秘密" があるとすれば、"人間関係それ自体"ですソラリスの海とは、その"人間関係"を写し出す "鏡" であり、人と人を結びつけるものは "愛" という事になるのですタルコフスキー的には・・・

 

「もしかすると我々は人類愛を実現するためにここにいるのかも」by クリス

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3.   個別的な愛と普遍的な愛

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a.   しかしタルコフスキーは飛躍しすぎているといえるでしょう。個別的な愛 ( 男と女のロマンスなど ) の延長上に普遍的な人類愛を持ってくるのは、単純すぎる考えです。事実は、個別の人間関係という特殊なものが奇妙で複雑であるがゆえに"普遍的な愛"の概念を持ち込まない限り、救いようがないものなのだと考えるべきではないでしょうか

 

b.    つまり人類愛という考え方自体は、人間関係における個別的な愛の延長上にあるものではなく、人間関係というそこでは主体が絡めとられるどうしようもない袋小路を避けるために出現する幻想だといえるのです。特に、男と女の関係はロマンスという意味での愛だけでは到底乗り越えられない複雑なものです。お互いに相手に何かを求めようとするロマンスの欲望には限度がないのであり、それは相手の存在を踏み越えていく・・・。そんな二人が一緒に生きていくには、ロマンスとは別の愛が必要になる、つまり二人の間で互いを燃やし尽くすロマンスは瞬間的なものだが、相手を"人間という普遍的存在"として見る冷静な愛は一緒に長く生きていく事を可能にするといえるでしょう。

 

c.   よくある話ですが、普遍的愛で知られる著名人たちの家族は、日常生活では彼らは普遍的愛とは程遠い存在だったと発言しますね、喧嘩や冷たい振舞いなどを挙げて。ジョン・レノンオノ・ヨーコについて語る息子のショーン・レノンや、タルコフスキーを非難する妹の発言で示されるように・・・。

 

d.   彼らは身近にいるからこそ知りえる著名人の素顔を暴露する事によって一片の真実を語っているつもりなのかもしれませんが、重要な事を見落としているといえるでしょう。彼らは普遍的愛と日常生活というダブルスタンダードの落差の中にいると思われる著名人の振舞いを理解出来ないのですが、残念ながらそれはダブルスタンダードではないのです。というのも先に述べたように、普遍的愛は、まさに当事者が深く関わる人間関係の袋小路から出現したという意味で、日常生活から連続する幻想なのであって、そこには身近な家族ですら気付かない、当事者の日常に裏づけされた彼らにしか分からない "秘密" があるといえるのです

 

 

4.   クリスの動揺・・・

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   この映画においても主人公の心理学者クリスの振舞いは、人類愛どころか、亡き妻との関係が清算出来ていなかった事を示しています。

 

「愛している?」「何を言うんだハリー。当り前だろ」by 妻を出現させたクリスの思い

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   亡き妻ハリーの突然の出現 ( もちろんソラリスの海の作用による ) に動揺したクリスは、何とハリーを小型ロケットに閉じ込めて始末してしまう・・・。ロケット噴射の際の炎によってクリスは火傷してしまうが、そこまでしなければならなかったのか (笑)。

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「彼女のイメージが物質化したものさ」by スナウト

   クリスはスナウトとの会話によってハリーがソラリスの海によって物質化されたものである事を確信します。

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「私は動揺して間違ったことをした」by 妻をロケットで始末して後悔するクリス

   とはいえ、彼女はクリスのイメージの物質化に過ぎないのでまた現れるのですが。

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5.   クリスとハリー

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   再び現れたハリーは常にクリスと一緒にいようとします、片時も彼から離れたくないという感じで。彼の方もかつての負い目(昔、彼女を自殺させてしまった事)を振り払うがごとく彼女への思いを強めていくのですが・・・。

しかしハリーは自分が本物のハリーでない事に気付いていて彼に彼女の死の真相を聞きだします。

 

「私がどこから来たのかあなた知っているくせに」by 物質化されたハリー

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「私は全く別の人間なの」by 物質化されたハリー

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「彼女はすでに息絶え腕に注射の跡があった」by クリス

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「今は愛している」by クリス

   ここではSFというよりは恋愛ものの要素がかなり強くなっていますね。

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「君たちは何のためにソラリスにやって来た?」by サルトリウス

   そんな彼らにサルトリウスは苛立ちを隠しません。まあ当然でしょう(笑)。

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「生き返るのを待つ」by 自殺したハリーが生き返るのをそばで待つクリス

   ハリーは衝動的に液体窒素を飲んで自殺を試みます。でも元はイメージなので前のロケットの時と同様、死ぬ事はありません。そんな情緒不安定な彼女にクリスとスナウトは人間らしさを感じていく・・・。

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自殺したハリーが蘇生するシーン performed by ハリー

   ハリーが身体をビクンビクンと震わせながら蘇生するシーンはSF的な感じに引き戻してくれます。この長回しの名演技をするナタリヤ・ボンダルチュクは、当時20歳前だというのにかなり大人っぽい雰囲気を醸し出しています。

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6.   過去に退行するクリス・・・

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a.   やがてクリスは体調を崩し、寝込んでしまいます。そこで彼の見る夢が彼の精神的危機を象徴しているといえるでしょう。彼の夢には、まず亡き妻のハリーが出てくるのですが、この妻が彼の母へと切り替わるのです。亡き妻への思いに固着していた彼の精神は、妻への思いを清算してしまう前に、さらに過去にさかのぼり、母への思いに囚われてしまいます。映画では強く示されるわけではないので解釈しにくいかもしれませんが、この夢から彼の精神的崩壊は始まっているといえます。

 

「ハリーはもういない」by 夢から覚めたクリス

b.   夢から覚めたクリスは、ハリーがもういない事を聞きますが、残念な事に彼の精神的退行は治まったわけではありません。それはここからラストの場面において示されるでしょう。

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「いまだ見ぬ新しい奇跡を待つのだ」by クリス

c.   ソラリスの海との交信を期待するクリスは、自分を危険に晒す可能性を考慮する事なく奇跡を待つという・・・。ここにおいて彼は今の自分の危険より、過去の思い出に浸る享楽を優先させてしまっているのです。

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その結末がこの場面です。

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e.   やはりクリスは地球に戻らずソラリスに残る事を選択したのです。そこでクリスが期待した奇跡が起きます、つまりクリスのイメージした父親との再会を果たすのです・・・。しかし、これは奇跡でも何でもないでしょう。それどころか実際の父親ではなく、彼のイメージ上の父親である事 ( それはハリーや母親にも共通する事ですが ) は大いに問題がある事なのです。というのも彼は実際の妻や父親と上手く付き合えなかった過去 ( 彼はもっと甘えたかったといえます ) をやり直す事で、自分の孤独を解消するという享楽を選んでいるだけだからです。

 

f.   ここには人類への普遍的愛が描かれているどころか、クリスという個人の享楽に浸る姿が示されているという意味で、自分の理想 ( 人類愛に触れたりしているが ) を裏切る映像を作るタルコフスキーの恐るべき作家性が垣間見れるのです。

 

 

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