〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アンドレイ・タルコフスキーの映画『 惑星ソラリス 』を哲学的に考える

 

       

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監督 : アンドレイ・タルコフスキー

公開 : 1972 年              

出演 : ドナタス・バニオニス       ( クリス・ケルヴィン / 心理学者 )

   : ナタリヤ・ボンダルチュク     ( ハリー / クリスの元妻 )

   : ユーリー・ヤルヴェト       ( スナウト )

   : アナトーリー・ソロニーツィン   ( サルトリウス )

   : ソス・サルキシャン        ( ギバリャン )

   : ニコライ・グリニコ        ( ニック・ケルヴィン / クリスの父 )

   : タマラ・オゴロドニコヴァ     ( アンナ / クリスの母 )

 



  1. SFセットの舞台劇・・・

 

惑星ソラリス 』の165分という長い上映時間は、観る人によっては退屈だと感じる人もいるかもしれませんね。というのもこの作品は、彼の特徴である映像美よりは、物理的に限られたSFセットの中で繰り広げられる "対話劇" がメインになっているものだからです。もちろんその事情は、限られた予算の中で作りこまれるSFセットには物理的限界があるからでしょうが、逆に言うと、限られたセットの中では、登場人物の対話や遣り取りによって話を進行させる事が主な手段になるという訳です。つまり、この形式は固定されたセットで登場人物達の遣り取りによって話が進行される "舞台劇" に限りなく近い ( 極端に言うなら、室内劇のSF版といえるでしょう )。

 

前半では、ソラリスの謎について、延々と対話や遣り取りが繰り広げられます。

 

「 何か異常なことが起こっているようですが・・・」by クリス

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「 結論を急いではいかん。ここは宇宙だ。」by スナウト

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私は頭が変になったようです。by 物質化された見知らぬ人間を見て驚くクリス

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この舞台劇がタルコフスキー的映像表現で味付けされると独自の世界観を持ったSF映画になるという所なのですが、あくまでも対話劇である事を念頭に入れれば、この映画は惑星ソラリスの海の謎に迫るものというよりは、その海を媒介にした人間関係にこそ重点を置くもの である事に注意すべきです。

 


 

 2. 人間関係という"秘密"を写し出すソラリスの海

 

この人間関係を楽しまずに、人間の記憶の一部を物質化するソラリスの海に "知的生命体としての秘密" があるのではないかとSF的詮索ばかりしていては、この映画を退屈なものにしてしまうでしょう。これはこの映画の結論にもなりますが、唯一、"秘密" があるとすれば、"人間関係それ自体"です。ソラリスの海とは、その "人間関係" を写し出す "鏡" であり、人と人を結びつけるものは "愛" という事になるのです、タルコフスキー的には・・・。

 

「 もしかすると我々は人類愛を実現するためにここにいるのかも 」by クリス

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  3. 個別的な愛と普遍的な愛

 

しかしタルコフスキーは飛躍しすぎているといえるでしょう。個別的な愛 ( 男と女のロマンスなど ) の延長上に普遍的な人類愛を持ってくるのは、単純すぎる考えです。事実は、個別の人間関係という特殊なものが奇妙で複雑であるがゆえに "普遍的な愛" の概念を持ち込まない限り、救いようがない ものなのだと考えるべきではないでしょうか。

 

つまり人類愛という考え方自体は、人間関係における個別的な愛の延長上にあるものではなく、人間関係というそこでは主体が絡めとられるどうしようもない袋小路を避けるために出現する幻想 だといえるのです。特に、男と女の関係はロマンスという意味での愛だけでは到底乗り越えられない複雑なものです。お互いに相手に何かを求めようとするロマンスの欲望には限度がないのであり、それは相手の存在を踏み越えていく・・・。そんな二人が一緒に生きていくには、ロマンスとは別の愛が必要になる、つまり二人の間で互いを燃やし尽くすロマンスは瞬間的なものだが、相手を"人間という普遍的存在"として見る冷静な愛は一緒に長く生きていく事を可能にするといえるでしょう。

 

よくある話ですが、普遍的愛で知られる著名人たちの家族は、日常生活では彼らは普遍的愛とは程遠い存在だったと発言しますね、喧嘩や冷たい振舞いなどを挙げて。ジョン・レノンオノ・ヨーコについて語る息子のショーン・レノンや、タルコフスキーを非難する妹の発言で示されるように・・・。

 

彼らは身近にいるからこそ知りえる著名人の素顔を暴露する事によって一片の真実を語っているつもりなのかもしれませんが、重要な事を見落としているといえるでしょう。彼らは普遍的愛と日常生活というダブルスタンダードの落差の中にいると思われる著名人の振舞いを理解出来ないのですが、残念ながらそれはダブルスタンダードではないのです。というのも先に述べたように、普遍的愛は、まさに当事者が深く関わる人間関係の袋小路から出現したという意味で、日常生活から連続する幻想なのであって、そこには身近な家族ですら気付かない、当事者の日常に裏づけされた彼らにしか分からない "秘密" があるといえるのです。



 4. クリスの動揺・・・

 

この映画においても主人公の心理学者クリスの振舞いは、人類愛どころか、亡き妻との関係が清算出来ていなかった事を示しています。

 

「 愛している?」「 何を言うんだハリー。当り前だろ 」by 妻を出現させたクリスの思い

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亡き妻ハリーの突然の出現 ( もちろんソラリスの海の作用による ) に動揺したクリスは、何とハリーを小型ロケットに閉じ込めて始末してしまう・・・。ロケット噴射の際の炎によってクリスは火傷してしまうが、そこまでしなければならなかったのか ( 笑 )。

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「 彼女のイメージが物質化したものさ 」by スナウト

クリスはスナウトとの会話によってハリーがソラリスの海によって物質化されたものである事を確信します。

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私は動揺して間違ったことをしたby 妻をロケットで始末して後悔するクリス

とはいえ、彼女はクリスのイメージの物質化に過ぎないのでまた現れるのですが。

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 5. クリスとハリー

 

再び現れたハリーは常にクリスと一緒にいようとします、片時も彼から離れたくないという感じで。彼の方もかつての負い目 ( 昔、彼女を自殺させてしまった事 ) を振り払うがごとく彼女への思いを強めていくのですが・・・。しかしハリーは自分が本物のハリーでない事に気付いていて彼に彼女の死の真相を聞きだします。

 

「 私がどこから来たのかあなた知っているくせに 」by 物質化されたハリー

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私は全く別の人間なのby 物質化されたハリー

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彼女はすでに息絶え腕に注射の跡があったby クリス

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今は愛しているby クリス

ここではSFというよりは恋愛ものの要素がかなり強くなっていますね。

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君たちは何のためにソラリスにやって来た?by サルトリウス

そんな彼らにサルトリウスは苛立ちを隠しません。まあ当然でしょう ( 笑 )。

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「 生き返るのを待つ 」by 自殺したハリーが生き返るのをそばで待つクリス

ハリーは衝動的に液体窒素を飲んで自殺を試みます。でも元はイメージなので前のロケットの時と同様、死ぬ事はありません。そんな情緒不安定な彼女にクリスとスナウトは人間らしさを感じていく・・・。

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〈 自殺したハリーが蘇生するシーン 〉 performed by ハリー

ハリーが身体をビクンビクンと震わせながら蘇生するシーンはSF的な感じに引き戻してくれます。この長回しの名演技をするナタリヤ・ボンダルチュクは、当時20歳前だというのにかなり大人っぽい雰囲気を醸し出しています。

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 6. 過去に退行するクリス・・・

 

やがてクリスは体調を崩し、寝込んでしまいます。そこで彼の見る夢が彼の精神的危機を象徴しているといえるでしょう。彼の夢には、まず亡き妻のハリーが出てくるのですが、この妻が彼の母へと切り替わるのです。亡き妻への思いに固着していた彼の精神は、妻への思いを清算してしまう前に、さらに過去にさかのぼり、母への思いに囚われてしまいます。映画では強く示されるわけではないので解釈しにくいかもしれませんが、この夢から彼の精神的崩壊は始まっているといえます。

 

ハリーはもういないby 夢から覚めたクリス

夢から覚めたクリスは、ハリーがもういない事を聞きますが、残念な事に彼の精神的退行は治まったわけではありません。それはここからラストの場面において示されるでしょう。

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「 いまだ見ぬ新しい奇跡を待つのだ 」by クリス

ソラリスの海との交信を期待するクリスは、自分を危険に晒す可能性を考慮する事なく奇跡を待つという・・・。ここにおいて彼は今の自分の危険より、過去の思い出に浸る享楽を優先させてしまっている のです。

 

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その結末がこの場面です。

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やはりクリスは地球に戻らずソラリスに残る事を選択したのです。そこでクリスが期待した奇跡が起きます、つまりクリスのイメージした父親との再会を果たすのです・・・。しかし、これは奇跡でも何でもないでしょう。それどころか実際の父親ではなく、彼のイメージ上の父親である事 ( それはハリーや母親にも共通する事ですが ) は大いに問題がある事なのです。というのも彼は実際の妻や父親と上手く付き合えなかった過去 ( 彼はもっと甘えたかったといえます ) をやり直す事で、自分の孤独を解消するという享楽を選んでいる だけだからです。

 

ここには人類への普遍的愛が描かれているどころか、クリスという個人の享楽に浸る姿が示されているという意味で、自分の理想 ( 人類愛に触れたりしているが ) を裏切る映像を作るタルコフスキーの恐るべき作家性が垣間見れるのです。

 



〈 関連記事 〉

 

 

 

 

堤 幸彦の映画 『イニシエーション・ラブ』 を哲学的に考える

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監督:堤幸彦

公開:2015    

脚本:井上テテ

原作:乾くるみ    

 

出演:前田敦子  ( 成岡繭子 )

   松田翔太  ( 鈴木辰也 )   

   森田甘路  ( 鈴木夕樹 )   

   木村文乃  ( 石丸美弥子 )

   三浦貴大  ( 海藤 )     

   前野朋哉  ( 梵ちゃん )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『イニシエーション・ラブ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

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  1.   ラブストーリー+ミステリー?

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a.   この映画、ジャンル的には "ラブストーリーミステリー" と言うことが出来るでしょう。そこに付け加えるならば、堤 幸彦ならではのコメディー的要素もあるといえますね。ここでは、そのコメディー的要素ゆえに、この映画をB級娯楽映画として片づけてしまうのではなく、哲学的考察をする為の題材として機能させてみる事にします。さて、"ラブストーリーミステリー" という結びつきはそう簡単に成し遂げられるものではありません。なぜでしょう。まず、ラブストーリーの決定的特徴は、観る人に感情移入させる事です。

 

b.   そのためにはラブストーリーの展開されている画面が、"全てだと信じ込まれ素直に" 受け止められなければなりませんそのストーリーに何か別の意図があるのではないかと疑いの目を持ってしまうと、もう感情移入出来ないその時点でラブストーリーは成り立たなくなるつまり観る人は、ラブストーリー以外の要素をいつの間にか見つけようとしている訳ですね。

 

c.   その意味で、この映画はネタばらしのラスト5分前まで、ラブストーリーを成立させている所が上手いのです ( もちろん厳密に言うなら、最後のネタばらしのためのミステリー的伏線は張られているのですが )。そしてラスト5分において、ラブストーリーをミステリーに変貌させてしまうのです・・・。

 

d.   しかし、最後まで見ると、あの単純なオチ ( それどころか、あんなものはオチではないと思う人もいるでしょう ) で、よくここまで映画を作ったなあと変に感心するばかりですが、そこらへんは堤幸彦的なノリなんでしょうね。

 

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  2.   ラブストーリーからミステリーへ ?

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a.   具体的に言うなら、ラストの場面ですが、繭子 ( 前田敦子 ) の前でそれまで出会う事のなかった "2人のたっくん" が鉢合わせしてしまう事によって、私達は繭子が "たっくん" と呼んでいた彼氏が2人いたというオチに気付かされます。映画の構成としては、A-sideとB-sideがあり、私達はA-sideで太っていた鈴木夕樹 ( 夕の漢字がカタカナの夕に見えるからたっくん ) がB-sideで痩せてかっこよくなるという "同一人物" の話だろうと騙されていた訳です。B-sideの "たっくん" を演じていた松田翔太は鈴木夕樹がやせてかっこよくなった訳ではなく、全く別人の"たっくん"つまり鈴木辰也だったという事なのでした。

 

b.   このラストで、ほとんどの人は繭子を二股をかけていたとして非難する気にはならないはずです。というのもラブストーリーであれば、繭子の振舞いは倫理的に問題があるという事で非難されるでしょうが、私達はもうそんな事を気にしていないこの時点で私達はラブストーリーではなく、"オチ" によってこの映画の構成を客観的に捉えなおそうとするミステリー映画の観客になっているのです

 

c.   そうはいっても、この映画のキャッチコピーは "最後の5分 全てが覆る。あなたは必ず2回観る" となっているくらいだから、初めからこれはミステリー映画だと言い切っていいんじゃないのと考える人もいるかもしれません。しかし事はそう単純ではありません。それはタイトルの〈イニシエーションラブ〉という言葉にも関わるものだからです。そして、この映画は堤幸彦の思惑やコメディー的ノリ以上の "何か" を含んでいて、それは十分に哲学的考察の対象になるものです。

 

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  3.   ラブストーリーの中に潜むミステリー

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a.   最初の方で、恋愛映画は感情移入のため、素直に受容れられるものだと言いましたが、それは実際の恋愛でもそうでしょう。恋愛は人を本気にさせる・・・。そして、それが最初の恋愛であればなおさらそうなのであり、映画の中で石丸美弥子 ( 木村文乃 )が言うように、相手をこの人しかいないというように "絶対的なもの" として思い込んでしまうのです。この "絶対的なもの" こそ最初の恋愛 ( あるいは恋愛の最初期 ) にしか存在せず、それ以降は失われていく "相手への純粋な信用" といえるのです。

 

b.   というのも人は、好きになった人が自分の思い通りにならないものである事を次第に思い知らされるからですいいかえると、"絶対的なもの" という対象が自分の中だけの "強力な理想" に過ぎないが故に、現実の相手の振舞いがどのようなものであれ、それは "理想" には及ばないという事ですそれどころか、それは "理想" を壊しかねない、 "不安" のもとになりかねない"あの人は今頃何をしているのだろう"、"浮気をしているのではないか" という具合に。

 

c.   このように恋愛においては、"絶対的なものという理想に向ける情熱" と、"現実の相手に向ける疑惑" という相反するものが同居していますこれは最初に言ったように恋愛とミステリーの組み合わせであるとも言えます。もう少し細かく言うなら、恋愛とミステリーは別々の領域なのではなく、恋愛の中には、その要素のひとつとしてミステリーが秘かに忍び込んでいるのです。相手への盲目的な熱情と相手への覚めた疑惑という相反するもの同士が螺旋的に結びつき、相手の事が愛おしいと同時に不安も覚えるという経験こそが恋愛の特徴だといえるでしょう。

 

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  4.   恋愛の通過儀礼

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a.   その意味で〈イニシエーション・ラブ〉というタイトルについて考えてみます。これを訳すと〈 恋愛の通過儀礼 〉という事になるのでしょうが、人が成長する過程で経験する儀礼のひとつとしての〈 恋愛 〉であるとしましょう。そしてこの映画で象徴的に示されているのは、〈 恋愛 〉とは決して甘美なものではなく、それどころか自分の思い通りにはならない苦いものであるという事です。だからこそそれは、人を立ち止まらせ悩ます重要な経験となるのです。

 

b.   この映画に即して言うなら、恋愛における "絶対的なもの" という理想 ( ただ一人の人を思い続けること ) が、現実ではそうではないという事です。それは相手からの裏切りであると同時に、その相手が自分の思い通りのものではないという冷酷な現実 ( その相手もその人なりの考え方や自立性がある ) をも意味します

 

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  5.   恋愛の通過儀礼から恋愛の真理の開示へ

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a.   以上の〈 恋愛の通過儀礼 〉を踏まえた上で、鈴木夕樹、鈴木辰也、成岡繭子、の3人の状況について考えてみましょう。この3人の状況は〈 恋愛の通過儀礼 〉における変化の移行を示していると分析できるのです。

 

b.   鈴木夕樹は、〈 通過儀礼 の最初期、つまり "絶対的なもの" への盲目的な服従 ( ただしラストの5分前までですが ) にあります。鈴木辰也は〈 通過儀礼 の中間期、つまり、辰也も石丸美弥子と浮気しながらも繭子が自分の事を好きなままでいると信じ込んでいるという意味 ( 繭子が浮気しているとは夢にも思わない ) で"絶対的なもの"の影響が残っています。繭子が自分の思い通りのものでないという現実には未だ至っていないという訳です ( 逆説的な事ですが、辰也が美弥子との浮気中に繭子に苛立ってしまうのは、繭子がこんな女だから全く・・・という感じで思った通りのものに他ならないと辰也が信じていたからです )。

 

c.   それに対して、繭子は途中で、辰也が自分の理想ではない現実に気付いたという意味で〈 通過儀礼 の最終期にいるのです。そして、その時に繭子が現実に選択した行動こそ、もう1人のたっくんこと、鈴木夕樹との浮気なのでした。この繭子の行動の興味深いところは、相手に対して "絶対的なもの" を求めるのではなく、自分が相手にとって "絶対的なもの" となるように相手に仕向ける、つまり、相手に惚れさせるという事ですこれは女性における恋愛の真理の一面を開示しているといえるでしょう。それ故に、この映画はラブストーリーから始まり、ラストのオチでミステリーに変貌すると共に、恋愛の真理をも開示しているという意味で考察に値するのです。

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   もちろんこれは、映画の背景である1980年代にカセットテープが流行していた事を暗に示しているのと同時に、同じにテープにA-sideという表面とB-sideという裏面の2つがある事が、"たっくん" という同じ愛称に関わる男が2人いる事の比喩になっているという訳ですね。

 

 

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記憶に残したいへヴィメタル【 トニー・マーティン時代のブラック・サバス 】

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             左から トニー・マーティン ( Vo ) とトニー・アイオミ ( G )

 

BURRN! 誌の2016年7月号でも "トニー・マーティン再び !?" の記事がありましたが、トニー・マーティン時代のブラックサバスのアルバムの再発が企画されているとの事 ( それらのほとんどが廃盤となっているため )。

今年の1月に故コージー・パウエルの追悼式典で再会したトニー・アイオミとトニー・マーティンは、それらの再発盤に付け加える新曲作業の予定が近いうちにあるという。

 

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ジーでもディオでもなく、トニー・マーティン・・・

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   オジー・オズボーンロニー・ジェイムズ・ディオといった強烈な個性を持つシンガーに比べて地味 ( 外見やライブパフォーマンスなど ) なトニー・マーティン。

                      

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         画像はサバス在籍時の30代の頃・・・髪も多いです。

 

                        

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それが60才近い今の風貌・・・変わってしまうものです。それだけ年月が経過したという事ですね。

 

 

   伸びやかに歌い上げる彼の正統派的歌唱法は、様式美的アルバム作りを行ったサバスに上手くマッチするものでした。ロニー・ジェイムス・ディオ在籍時のサバス ( "ヘブン&ヘル"、"モブ・ルールス" ) を第1期様式美時代とするならば、トニー・マーティン在籍時は第2期様式美時代とする事が出来るのでしょうが、第2期においては、第1期以上に様式美を極めたといえます。ただし、これはトニー・マーティンがディオより優れているという訳ではなく、ディオにはない哀愁のある彼の歌声 ( 彼はディオのような純粋なHMシンガーというよりはハードロックシンガーと言う方が適切でしょう、彼のその後の経歴を見ても・・・) が様式美の世界観により寄与していたという事ですね。ディオがこれでもかといわんばかりにグイグイと攻める力強い歌声なら、トニー・マーティンの歌声は聴く者に内面的に沈潜させ深く味合わせる渋みがあるといえるでしょうか。そんな彼の在籍時の4枚の傑作アルバムのジャケット。

 

エターナル・アイドル 』1987年

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ヘッドレス・クロス 』1989年

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ティー 』1990年

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クロス・パーパシス 』1994年

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■   どれも素晴らしいですが、個人的には 『 クロス・パーパシス 』、次に 『 エターナル・アイドル 』が好きです、あくまでもジャケットだけ見た場合 (笑)。では内容的にはどうでしょう?どのアルバムからも強力な曲をピックアップする事が出来るけど ( ぶっちゃけ、この4枚のアルバム全部好きだ )。

 

例えば 『 エターナル・アイドル 』オープニングナンバーである "The Shining"

                 

 

       "Hard Life to Love" from『 エターナル・アイドル 』

      

 

        "Lost Forever"  from『 エターナル・アイドル 』

      

 

        "Headless Cross" from『 ヘッドレス・クロス 』

      

 

         "The Law Maker" fromティール 』、名曲。

      

 

           "Valhalla" fromティール 』

      

 

          "Heaven In Black" fromティール 』

        

 

        "I Witness" from『 クロス・パーパシス 』

前作『 TYR 』での荘厳な様式美の雰囲気とは変わって、トニー・アイオミの強烈なリフマスターっぷりが炸裂しているアルバム。堪らんな。

      

 

    "The Hand That Rocks The Cradles" from『 クロス・パーパシス 』

      

 

        "What's The Use" from『 クロス・パーパシス 』

      

 

   こんな具合で、どれも名曲揃いですが、強いてアルバムをひとつ選ぶとすれば、ティール 』でしょうか。これはアルバム全体が北欧神話をモチーフとした構成で優れたコンセプトアルバムであり、奥行きのある音作りと相俟って、サバス様式美の頂点をなすものだといえるでしょう。

 

   そしてトニー・マーティン時代のライブ映像 ( Live in Moscow 1989 )!      

 

■   昔からの曲でほとんど構成されているため、トニー・マーティン時代の曲は"Headless Cross (00:00~)"、"When Death Calls(29:23~)" くらいしかないが、それでもディオ時代の曲、"Neon Knights(06:23~)"、"Die Young(46:13~)" などを聴くとディオと同じく歌い上げるタイプの彼にあっていると思いますね。聴き応えがあります。

 

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僕を楽しませてくれた音楽のアルバムジャケット〈メガデス〉

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2016年5月21日、へヴィメタルバンドメガデスの元ドラマーのニック・メンザがLAのクラブBaked Potatoで演奏中に心臓発作で倒れ亡くなりました。享年51才。早過ぎですね。御冥福をお祈りします。

 

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ニック・メンザ在籍のメガデス黄金時代

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f:id:mythink:20160530210142j:plain その彼がメガデスに在籍していた黄金期のラインナップ。手数の多いドラミングでメガデスを支えました。

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左からマーティ・フリードマン(g)、デイヴ・ムステイン(vo&g)、ニック・メンザ(dr)、デイヴ・エルフソン(b)。この4人の編成時代が最強だと多くの人が認めるでしょう。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain その黄金期の4枚の傑作アルバムのジャケット。曲を聴かずに判断するのはやめましょう(笑)。優れた楽曲揃いです。メンツ的にも、リーダーのデイヴ・ムステインが個性的というか性格に少々難ありというくらいで、いたって普通のバンドです。

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〈 ラスト・イン・ピース 〉

     " Holy Wars・・・The Punishment Due "

     

 

     " Hanger 18 "

     

 

〈 破滅へのカウントダウン 〉

     " Skin O' My Teeth "

     

     

     " Symphony Of Desruction "

     

 

〈 ユースネイジア 〉

     "Reckoning Day"

     

 

     " I Thought I Knew All "

     

 

〈 クリプティック・ライティングス 〉

               " Trust "

     

     

          " Almost Honest "

              

 

       " The Disintegrator "

              

     " She-Wolf "

      

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain ここに挙げた4枚のアルバムの特徴は、スラッシュメタルからより普遍的なハードロック・へヴィメタルへの変化に尽きると言えるでしょう。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain スラッシュメタルという事でいえば、1990年の〈ラスト・イン・ピース〉で既に完成されていました。今でもメタルの愛好者の間では評価の高いアルバムです。ここからメガデスは、ミドルテンポやメロディに特徴のある楽曲を増やしていきます。メタルファンだけでなく、より一般的な聴衆へのアピールを強めていったといえます。それが〈破滅へのカウントダウン〉、〈ユースネイジア〉です(ジャケットのアートワークは相変わらず異様な雰囲気ですが)。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain そして1997年の〈クリプティック・ライティングス〉において、一般的なものへの路線は頂点を迎えました。ミドルテンポ・メロディのある楽曲とメタルの曲("The Disintegrators" や "She-Wolf"など)がバランスよく配置されメタルファンでなくても十分に楽しめる内容になっています。その意味で、メタルファンの間で人気のある〈ラスト・イン・ピース〉などの純粋なメタルには及び腰になるかもしれない人にも、この〈クリプティック・ライティングス〉はぜひオススメ出来ますね(ジャケットのアートワーク的にも、笑)。

 

 

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ドン・シーゲルの映画『 アルカトラズからの脱出 』を哲学的に考える

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公開:1979             監督:ドン・シーゲル  

原作:J・キャンベル・ブルース   脚本:リチャード・タークル

出演:クリント・イーストウッド   ( フランク・モリス )

  :パトリック・マクグーハン   ( 所長 )

  :ポール・ベンジャミン     ( イングリッシュ )

  :ロバーツ・ブロッサム     ( ドク )

  :ラリー・ハンキン       ( チャーリー・バッツ )

  :フレッド・ウォード      ( ジョン・アングリン )

  :ジャック・チボー       ( クラレンス・アングリン )

  :ブルース・M・フィッシャー   ( ウルフ )

  :フランク・ロンジオ      ( リトマス )

  :ダニー・グローヴァー     ( 囚人 )

 

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  1.   脱獄映画の王道的作品

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a.   これは脱獄映画の王道と言ってもいいでしょう。まあ実際に脱獄に成功した人達の実話化なので当然かもしれないですけど。それにしても当時40代後半のクリント・イーストウッドの佇まいが渋すぎる。派手なアクションも、印象的な音楽もなく、ひたすら脱獄への道程が描写される地味な映画ですが、イーストウッドの存在感だけでも観る者を引きつける事が出来ているといえるでしょう。

 

b.   冒頭からアルカトラズ刑務所の象徴である所長とモリス ( クリント・イーストウッド ) の対立構造が、この物語の明確な軸として描かれていますそこに他の囚人とのエピソードが差し込まれ、脱獄の準備と脱獄シーンの緊張感ある描写が続く後半へと話が進んでいきます。

 

c.   脱獄映画についての解説では、どうしても脱獄のシーンやそのための小道具ばかりに注目が集まってしまいがちですが、所長とモリスの対立構造という脚本上の明確な構成によって、この映画の面白みが増している事にも注意すべきでしょう。

 

 d.   モリスが入所するなり、一方的に偉そうにしゃべり続ける所長。

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e.   でも黙って聞いているだけのモリスじゃない。この時、所長が自分の机から離れて鳥かご ( もちろん、この鳥かごと中の鳥は、刑務所と中の囚人たちの比喩となっている ) をいじりながらじゃべり続ける間に、モリスは身体をすっと机の方に寄せ、2個ある爪切りの内、1個を手に入れてしまうのでした。これは部屋の壁を掘るための重要なアイテムになります。

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f.   所長の囚人への嫌がらせ。絵が得意なドクが描いた自らの肖像画を見つけた所長。ドクが絵を描く自由を取り上げてしまいます。彼はショックの余り、自分の指を斧で切断してしまう・・・。少しグロテスクなシーンです。

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g.   この件で、所長に皮肉を言うモリス。かましてます。

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h.   もうひとつ所長の嫌なエピソード。モリスたちが食事するテーブルに置かれたドクが好きな菊の花。そこに近づいた所長は菊の花を握りつぶす。それに激高したリトマスは所長に掴みかかるが心臓発作で倒れてしまう。そこで所長のセリフ "もう脱獄もできんな"。嫌な奴を演じきっています。

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i.   脱獄する直前に別れを確認するモリスとイングリッシュ。いつものように雑誌と本を配りに来たイングリッシュ。雑誌を渡し、"またな" といって立ち去ろうとするイングリッシュにモリスは言います "さよならさ、坊や"。手を差出すモリスに、脱獄する事を悟ったイングリッシュはそれ以上何も聞かずに握手して言い返します "あばよ"。味わい深いシーンです。

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j.   脱獄に成功したモリスたち。起こしに来た看守は、モリス本人ではなく、張りぼての頭部がそこにあるのを見て驚く。ここに至る脱獄のための描写シーンは実際に映画を見て頂いて味わってもらうのがいいでしょう。サスペンスタッチの緊迫感溢れるシーンの連続は観る人を飽きさせずに最後まで引っ張ってくれます。

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  2.   "脱獄"についての哲学的考察 

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a.   さて、ここで "脱獄" について哲学的に考えて見ましょう。というのも映画の結末では明確にならない事、3人が途中で死なずに海を泳ぎきったのかどうか ( 実際にもどうなったか分からない ) が、"脱獄" について考えさせるきっかけとなるからです。3人が海を泳ぎきったかどうかという事に人々の好奇心が集まるという事態 は、詰まるところ、それは "脱獄" が哲学的にいかなる意味を持つのか を考える契機である事を意味しますただし、それは "脱獄の成功" が誰にとっての事であるかを考える必要がありますね。もちろん、この場合、 "脱獄の成功" とは好奇心を持つ私達に対してのみだという事は言うまでもありません。

 

b.   なぜなら3人が生き残った事が分かっているのなら、その時点で捜索する警察側に3人の動向が抑えられている事になり、捕まる可能性が強いと言えるからです。つまり、当事者3人にとっては自分らの生存が不明な方が "捕まらない可能性" が高いという意味で、"脱獄" は成功しているといえるのです

 

c.   しかし、それはあくまで "捕まらない" という意味であって "生きている" という意味ではありません逆に言うと、"死んでいたら捕まりようがない" という事になるのですが、それは3人が望んだ結末ではないでしょう最も望ましい結末は、"生きていながら捕まらない" という事なのですが、そのためには逆説的な事に "命を賭けること" ( 死ぬ可能性 ) を最初に選択しなければならなかったのです。

 

d.   なので3人にとっては脱獄する事は、生きるか死ぬかのどちらかに命を賭けて身を委ねる行為以外の何物でもないという意味で、刑務所を脱出した時点で成功したといえるのです。この点からすると、脱獄の準備が遅れて刑務所を脱出出来なかった4人目の仲間、バッツは命を賭ける事が出来なかったと言えるでしょう。

 

e.   では、3人が死なずに海を泳ぎきったのかという事に興味を抱く私達自身については、どう考えるべきなのでしょう。精神分析的に言うなら、それは脱獄という行為をただ一度きりのものではなく、永遠のものとして象徴化しようとする欲望だといえるでしょう ( なので私達の中では3人は生きているという事になる )刑務所が強固であればあるほど、そこに開いた "脱獄という穴" は私達の欲望を呼び寄せ、自らの周囲を縁取らせつつ、"穴自体" を強力なものにしようとするのですそして、私達は自分が絡み取られたこの世界からの代理的脱出としての脱獄ロマンを紡ぎ出し、満足を得ようとする訳です。

 

 

f.   この象徴化を示すものとして以下の記事を参照する事が出来るでしょう。

 

「ザ・ロック」と呼ばれた絶海の孤島で難攻不落の刑務所「アルカトラズ」から生きて脱獄したかもしれない3人の男 - GIGAZINE

 

実際に彼らが途中で死んでいたとしても、私達の間では彼らを生かそうとする欲望がある事を示す記事だといえますね。

 

 

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 〈 関連記事 〉

 

ジャック・ベッケルの脱獄映画

 

 

 

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ジャック・ベッケルの映画『 穴 』( 1960 )を哲学的に考える

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監督ジャック・ベッケル

公開1960 年   

原作ジョゼ・ジョヴァンニ

 

出演マルク・ミシェル      ( ガスパール )

  フィリップ・ルロワ     ( マニュ )

  ジャン・ケロディ      ( ロラン )

  ミシェル・コンスタン    ( ジョー )

  レイモン・ムーニエ     ( ボスラン )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 穴 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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  1.  『 穴 』 は果たして "脱獄劇" なのか?

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a.   ジャック・ベッケルの遺作。この作品は単なる娯楽的な脱獄劇ではないと言えるでしょう。脱獄をテーマにしつつも、その裏側で蠢く人間心理を露にしているのです。ただし、その様子は映画のラストまで秘かに蓄積され、ラストにおいて圧倒的な描写によって爆発します。

 

b.   この映画が単なる脱獄劇でない事を示す分岐点は、以下のシーンでしょう。5人の仲間は部屋の床に穴を掘り続け、地下の下水道脈に通じるのですが、マニュとガスパールの2人はそこから刑務所外のマンホールへと到達する事に成功します・・・。

 

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c.   ここで2人は脱獄の成功という誘惑に負け、仲間を置いて2人だけで逃げる選択肢も可能なのですが、そうせずに仲間の所に戻ります。脱獄に成功したにも関わらず、そこから引き返すというこの場面によって、"単なる脱獄という行為" から "脱獄にまつわる人間心理劇" へと移行していく事が示されているのです。

 

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  2.  異端分子ガスパール

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a.   この後のラストの伏線として、脱獄をしないと決めたジョーの話があります。

 

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b.  もう後は、全員で脱獄するのみという時になって、ジョーはここに残る事を伝えます。理由は病気の祖母に警察の捜索が及ぶ事を心配しての事ですが、誰も特に反対する事なく受容れます。このシーンは後のガスパールへの疑惑とは対照的なものとして描かれているのです。ジョーの決断に対して誰も"裏切りではないのか"という疑惑を向ける事はありません。この事は、もとから仲間だった4人の連帯意識が変わりない事を示しているのと同時に、後から仲間に加わったガスパール1人が異端分子である事を後のシーンでハッキリさせる為の予兆として機能しています。

 

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  3.  仲間を裏切る事の出来ない人の良いガスパール・・・

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a.   ガスパールは急遽、所長に呼び出され、妻が訴えを取り下げる旨を聞きます ( ガスパールは夫婦喧嘩の際、誤って妻を負傷させた事で訴えられていた )。

 

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b.   脱獄前に、こんな話を聞いてもガスパールは当然、素直に喜べるはずもありません。脱獄をやめる事は仲間への裏切りになるからです。さて注意すべきは、ガスパールは所長の話を真面目に受け取り、悩み始めてしまった 事です。所長の話が本当かどうか疑う事をしませんここに彼の人の良さが出ています。彼は所長が自分の人の良さを利用しようとしている事に気付かないのです ( 彼自身、自分の人柄に安住しているタイプです。それが周囲にどのように受取られるか、あるいはどう利用されるかという事には無頓着だといえます )。

 

c.   そう、所長は彼の人柄の良さを利用している のです。ここでは妻の訴えの取り下げが本当かどうかは問題ではありません。仮にそれが所長による嘘であり、ガスパールが信用しないとしても ( いや、彼は信用するでしょう )、人の良い彼はこのやりとりを仲間に話すしかないのです。そうするとこの時点で彼の話を聞いた仲間は、真実がどうであれ、ガスパールと所長の話し合いという事実自体が、"裏切り" の符丁である としてガスパールを怪しむ事になるという訳です人の良い彼は脱獄をやめないと言うのですが・・・。

 

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d.   やはり仲間は彼を信用しないようです。

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e.   ガスパールは自虐的になって落ち込む・・・。

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   4.  脱獄の失敗、そして4人と1人・・・

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a.   5人がいよいよ脱獄しようとする夜、見回りが様子を見に来て立ち去るのを見張り役のジョーがガラスの破片を張り付けた歯ブラシで確認します。ドアの覗き穴から歯ブラシを出して通路の様子を見るという訳ですね。有名な小道具です。この歯ブラシを反対方向に向けた時、そこには看守達がズラリと勢ぞろいしているというこれまた有名なシーンによって一気にラストシーンに流れ込みます。ガスパールはそれまでの落ち着いた役柄から豹変して "違う!俺じゃない" と叫びます。それと同時にマニュはガスパールに飛びかかり首を執拗に絞めようとしつつも、なだれ込んできた看守たちによって引き離されるのです。このシーンはそれまで蓄積していたガスパールへの疑念が一気に噴出し、脱獄という目的がとうに吹き飛んだ混乱を示しています

 

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b.   4人は看守たちに取り押さえられ、服を脱がされ通路の壁に手をついて立たされます。1人 部屋の中に立ち尽くすガスパールは現れた所長の指示に促された看守によって独居房に向かわされます。部屋を出る時、ロランと顔が合うのですが、その時のロランのセリフが印象的です、 "哀れだな"

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c.   このロランのセリフをどう理解すべきでしょう? 俺たちを裏切った挙句に自分も所長に裏切られるとはなという意味でしょうか。そうすると相変わらずガスパールは裏切り者と見られているという事になりますが、そのセリフを発するのがロランではなく、マニュであればその通りでしょう。それに対してロランはガスパールが所長に利用されていた事を理解した上で ( 所長が現れてガスパールを独居房へ連れて行くよう指示したのを見ていたでしょうから )、ガスパールの存在自体に対して "哀れだな" と言っていると解釈すべきでしょう。

 

d.   ある意味、ガスパールのような人間にとっては、裏切り者の烙印を押されるより、自分の存在を哀れまれる方がキツイかもしれません。なぜなら裏切り者と言われるだけなら、前のシーンで叫んだように自分の誠実さでもって "違う" と言い返す事が出来る。しかし、誠実であるはずの自分の存在自体が哀れまれるのなら、もはやガスパールは言い返す事すら出来ない、つまりガスパールは自分の存在に向き合うしかないという重荷を背負う事になるのです

 

e.   このようなガスパールの異質性は、"脱獄" という元々の4人の行動目標を宙吊りにしてしまうものとして機能しています。もちろん、それは所長の思惑によってなされるものであるのですが、4人の脱獄という目標への一直線のベクトルが、異質な1人の存在によって呼び起こされる仲間内での心理的疑惑によって壊れてしまうという意味で成功している といえるでしょう。なのでガスパールが4人の部屋に送り込まれた時点で、"脱獄"それ自体は既に失敗していたと考えられます。故にこの作品は単なる "脱獄劇" ではなく、"脱獄にまつわる心理劇" であったと解釈できるのです。

 

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〈 関連記事 〉

 

 クリント・イーストウッド主演の脱獄映画。

 

 

 

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ジョン・カサヴェテスの映画『 こわれゆく女 』を哲学的に考える

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監督 ジョン・カサヴェテス

公開 : 1974

出演 ピーター・フォーク     ( ニック・ロンゲッティ )

   ジーナ・ローランズ     ( メイベル・ロンゲッティ )

   : キャサリン・カサヴェテス  ( マーガレット・ロンゲッティ )

 

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 1.   日常を映画に昇華させるカサヴェテスf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 最もありふれたものだが最も取り扱うのが難しい映画のテーマが "日常" でしょうそれが夫婦であるならなおさら …… 。この "夫婦という日常" をカサヴェテスは映画に見事に昇華してしまった。"夫婦" とは身内である以前に本来他人同士である男と女であるが故に、"問題" が常につきまとうものである事をカサヴェテスは率直に示しています

 

人生とは、そして結婚とは、結局は女と男の闘いなんだ。それは途切れることなく続く、愛すべき闘いだ。男と女は根本的に異なっているんだよ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain  そしてこの "日常" は映画の中だけの虚構ではないつまり "日常" は映画の中に回収されない "強力な現実" であるが故に日常についてのこの映画もまた日常に結びついたひとつの "現実" であるとカサヴェテスは言っています

 

( 『 こわれゆく女 』について ) 僕はこれを映画とは思わない。これはまさに ……、家庭の謎、継母、それに ……、僕らはみんな、同時に愛し合い、憎み合う、この狂った世の中に生きているという事実に結びついているんだと感じる。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter 

 

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 2.   A WOMAN UNDER THE INFLUENCE f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 結婚した事のある男なら以下のシーンは落ち着いて観る気分にはならないでしょう誰であれこんな経験はあるでしょうからニックの帰りを一人で待つメイベル子供たちは義母の元に預けているしかし水道工事員であるニックは急な仕事で帰る事が出来ない

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 恐る恐る電話するニックメイベルは落ち込む

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f:id:mythink:20210212192015j:plain こんな具合に、"日常" が深く掘り下げられ描写されていくそしてこの "日常" の中の "狂気" を体現しているのがニックの妻であるメイベルです彼女は常に興奮し落ち着きがないのですがカサヴェテスはこれを他人そして社会との関係においてそれらの影響と圧力を受けながらもそこでしか生きていると感じられない女性の特徴として描き出している のです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) 他人との相互作用によって、他人との一種の競合に加わることによってだけ、メイベルは生きていると感じることができる。ここで強調されているのは、女性であると同時に社会でもある。社会が振るう、メイベルへの圧力と影響力だ。

 

よし、本当に何かを言うために映画を作るぞと思った ……。凄まじい試練を体験した、ほとんどの時間孤独だった一人の女についての映画だ。それに彼女は男の気まぐれ、親分風、無知、不安、裏切りに従属している。それがこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の主題だった。

 

女たちは人生で常に裏切られている。裏切られた彼女たちは孤独、不安、男の仕事への嫉妬、そして僕らの社会で評価されていない身分 - 母親であること、夫に献身的な何者かであることに苦しむ。女が男の影響下にあるべきだなんて一体何で言えるんだ?

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain ある意味でメイブルは自分以外の他者に関わり過ぎているといえますその他者を愛したり ( 彼女の子供たち )嫌ったり ( ニックの母親 )楽しませたり ( ニックの労働者仲間達 )そして共に居続けようとして ( ニック・・・)他者の中で生きようとしているのですこれは何を意味しているのでしょう孤独を紛らわすため仮にそうだとしてもメイブルはそれが上手く出来ずに狂気の度合いを強めていく……。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain それは 彼女が "自分自身" に関わろうとして耐え切れずに壊れていく過程 だといえますこの点において女性の内面には自分自身では制御する事の出来ない獰猛な何かがある女性はそれを避けるために外部の他者に向かうのではないでしょうか

 

女性は孤独で、自分たちの愛に囚われていると思う。女性は囚われている。何かにのめり込むと、すっかりのめり込んでしまい、それが拷問になる。

 

夫を愛しながら、結婚してしばらく経つ女性はすべて、自分の感情をどこに向けていいか分からず、そのせいで狂気に陥るんだと僕は確信している。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし結局の所カサヴェテスも言うようにその外部からも揺さぶられてしまうために不安定な存在になってしまうのですこの映画の原題 "A WOMAN UNDER THE INFULUENCE" まさにその事を言い表していますそれに対して "こわれゆく女" という邦題は悪くはないのですがそれだとどうしてもメイブルの狂気の過程ばかりを観る人に読み取らせてしまう ( とはいえ "何かの影響下にある女" という直訳では商業的に難しい・・・)カサヴェテスはそうしたものを越えた二人の絆を描き出そうとしている事を忘れるべきではないでしょう

 

ジーナはこの登場人物とこの登場人物の背後に隠れている女性について、かなりじっくり考えている。彼女は自分の演じている人物を下品に演じたり、戯画的に演じたりしないように心がけているんだ。彼女はメイベルを「 犠牲者 」や「 変人 」にしたくないんだ。

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 3.   男と女、二人でいる事f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 女性は自分の "外部" 内面に沈み込みそうな自分を引っ張り出してくれる "" を求めているあるいはカサヴェテスの言葉でいえば女性は男が尽くしてくれるのを望んでいるという事になるでしょう

 

女性は1人の男性 - 魅力的な王子様が献身的に尽くしてくれるのを望んでる。おとぎ話じゃなくて、それが女性の望んでることなんだよ。女性にとって、子供を生むのと同じくらい本質的なことなんだ。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし女性の "理想" とする " " は現実にはほとんどいない理想に照らし合わせてこの男ではないと思う限り、"" と一緒にいる事は難しいはずですなぜならそんな理想は "日常" の中にはないからです大切なのは "日常" の中で時にすれ違い時にぶつかり合う "" と一緒にいたいと思えるかどうかですそう思える時男が不器用で少々がさつでも男が自分と一緒にいたいと思っているかどうかも分かるはずです互いにそう思っている男と女は一緒にいる事の幸せを掴んでいるといえるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain ニックとメイブルは紆余曲折を経た上で互いの事をそのように再確認しています言葉には出さないけど一緒にいたいという思いを抱きながらそれはロマンチックなものではなくあらゆる困難や感情が渦巻く日常生活の中においてしか維持されないものですそこには二人で一緒にいる事の意味がつまり本来他人同士である男と女が一緒にいる事を互いに選択しているという奇跡があるその経験は男であれ女であれ一人でいる者が決して辿りつけない出来事なのです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) ニックとメイベルはあらゆる問題を抱えている。問題は山ほどある。それでも他人といるより二人で一緒にいるときの方が快適だった。彼らが二人きりでいれば、これほどお互いに好きで尊敬し合っている二人がいるかどうか分からないくらいだ。

 

僕が思うに …… 今日の男女の間には根元的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の中で、根元的な敵意ではなく、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain なので病院から帰ってきて気を使うぎこちないメイブルに対してニックがいつものように振舞えと言って、"日常" を再開した時それは単に以前の生活に意味無く戻ったのではなく、"日常" こそ二人が一緒にいる事を再確認するものとして "新しい日常" になっていると解釈できるでしょうそこにロマンティックな言葉はないがカサヴェテスはそんな瞬間的なものより永遠の男女関係を描き出したのです

 

人生に影響を与えるのは、男と女の相互関係だけだ。確かに現代は政治的な衰退と混乱の時代だ ― でも、そんなものは面白くない。持ってる情報ですべてが決まる知的なことだからね。男女の関係は人間の本能に永遠に具わったものだ。幻想じゃなくてね。

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